DISERD extra chapter*陽炎 --
立ち止まってはいけない。
振り返ってはいけない。
前に、進まなければ。
何があろうと、前へ、前へ。
◇ ◇ ◇
目の前は雪の壁。
後ろも右も底の見えない谷間。
残された道はただ一つ。
私は、敵が逃げたと思われる唯一の道、赤褐色の断崖を見上げた。
水華を支えにして跳躍すれば、登れないことはない。
躊躇している暇 はないのだ。
頬を濡らした水滴を拭い、水華の柄を握り締める。
「逃がす、ものか……!」
このままでは終われない。
強く、強く、大地を蹴った。
山頂まであと僅か、というところまで来ていたのだ。
断崖といえども、数歩跳躍すれば平地が見えた。
純白の絨毯に模様を描くかのように、所々青緑の草花が顔を覗かせている。
そんな平地に一際目立つ一軒家。赤い土で塗り固められた壁には亀裂が入り、今にも崩れそうな状態だ。
「これは、確か……」
この山を所有している者の家。
記憶通りなら、ここは隠密の頭領が管轄しているはずだ。
そっと扉に手を当てる。
中から微かに音が伝わってきた。
誰か、いるのだろうか。
静かに扉を押し開けると、耳に残っている声がした。
「はい、ユーラ様。本隊は私[ 自身が手を下し、先程」
一つは先刻対峙した敵の声。
それに驚いたわけではない。
もう一つは。
『ご苦労だったねぇ~。ヒオリ』
忘れるはずもない。
この声は、下弦の乱で聞いた、鴉[ の。
「貴様が裏で糸を引いていたのか!」
勢いよく扉を開け放し、女と会話する漆黒の鴉に鋒[ を向ける。
『ヒオリ、詰めが甘いわ~。ほら、まだキヨミの娘が生きてるじゃな~い』
「ネビセ……! 貴様っ!!」
斬り込んだ刃は鴉を裂くはずだった。
しかし、湾曲した大刀に阻まれる。
速さを纏った二本の衝突は、高い金属音と共に火花を生んだ。
「ユーラ様には指一本触れさせん!」
「く……! 貴様、何をしたかわかっているのか!? 我が一族を、裏切ったのだぞ!?」
「黙れ。主[ のような浅慮な者に、ユーラ様の崇高なるお考えなど理解できぬじゃろう!」
重い。
弾き返される。
二歩退き、間合いを開く。
「貴様、名をヒオリと言ったな? 貴様が護衛派遣された先遣隊はどうした!?」
「あれは囮部隊。邪魔者は消去するのみよ」
「何だと!?」
ヒオリが懐から黒い短冊を取り出す。
あれは本家以外の人間が扱う符術の呪具。
「焔舞[ !」
瞬時にして小屋が炎に包まれた。
だが、炎に躊躇している余裕はない。
再び大刀が降りかかってきた。
太刀音が響く。
「ここで主も終いじゃ」
『ヒオリ、あんたももういいわ。その小娘と一緒に死んじゃって』
「何だと? ネビセ、貴様っ……!」
「ユーラ様のお言葉、心得た」
あり得ない。
命令だろうと、己の命をこうも簡単に手放すというのか。
その疑念に答えるかのように、剣戟の最中、ヒオリは無表情で呟いた。
「これで、一族の安泰が約束される」
「それはどういう意味だ?」
突き出された凶刃を、水華の白刃で受け止める。
「答えろ!!」
「そのような鈍刀[ を振り回している主などに、本当に我ら一族を託せるとでも思うのか?」
言葉に、反応が鈍る。
一瞬の隙を、ヒオリは逃さなかった。
私のみぞおちに蹴りを入れ、大刀で水華を薙ぎ払う。
「ぐ……!」
カシャンという音が、私の劣勢を伝えた。
「あの有能だったリュウジ様を追い出し、名すら与えられていないのに水華を手に取り、その弱さでよく今日[ まで生き延びたもんじゃ」
そろそろと身体を動かし、水華に手を伸ばす。
「主が手に取れば、一族一の名刀水華も鈍刀に様変わりするのだ!」
水華に指先が触れた時、大刀が腕を落とさんと振り下ろされた。
間に、合わない……!
『貴様、仮にもこの水華に鈍[ などとよく吐けたものだな』
場にそぐわない凛とした声音が、大刀の動きを止める。
「主は……主は……!?」
『私に名を訊くとは大それたことを』
「な、何故貴女が……!」
眼前に立つ優美な女性。
全身を澄んだ空色の布で包み、白藍の髪をなびかせる。
金色 の角を輝かせ、透き通る耳はひれのような形状。
間違いない。
このお方は守り神の長[ 、水龍様。
『使い手よ、自惚れるな。貴様を認めたわけではない。私は私の名を保つために舞い降りた』
「力及ばず……申し訳ないです……!」
『戯け。謝辞の言葉なんぞ聞きたくもない。無駄口を叩く暇があるのなら、早く水華を手に取るのだ』
「は、はい……!」
力が入らない四肢を叱咤して、水華を握る。
よろめきながらも、敵の瞳は真っ直ぐ見据えた。
「往生際の悪い女め……!」
『それは、貴様だ』
横一線に振り切った水華は、刀とは思えないほど軽かった。
先刻押し返された大刀を易々と弾く。
『他愛のない……』
頭[ を一つ振ると、スイカ様は姿を消した。
「す、スイカ様!?」
「何故だ!? 何故主がぁああああ!!」
半狂乱になったヒオリが大刀を振り上げる。
『終わりだわ~……』
少し物足りなそうに鴉が呟くと、ヒオリの大刀が砕け散った。
あの一振りで、片はついていたのだ。
「く、主など、ここで死ぬのだ!!」
「待て、ヒオリ!」
「焔舞、焔舞、焔舞!!」
瞬間、ヒオリの身体が赤い閃光で包まれる。
爆音が轟き、小屋は深紅の炎で覆われた。
先程より勢力を増した炎たちは、中にいる者を飲み込もうと、盛んに息巻く。
「く……出口がっ」
爆発の衝撃で壁に叩きつけられた私は、立ち上がるのがやっとだった。
一歩、前に足を出す。
しかし膝は折れ、無様に頬を床に打ち付けた。
「くそ……!」
私を見下ろすように、鴉が窓際から飛んでくる。
「貴様、ヒオリに何を吹き込んだ……!」
ヒオリという名は聞いたことがある。
誇り高く、一族のことを重んじる人だ、と。
『あ~? この任務を抹消してくれたら、あんたたちスワロウ族にこれ以上攻撃はしないって言ったわぁ。随分すんなり信じたわよ、あの子。お陰でかなり楽だったわ。そんな約束、こちらが守ると思っているのかしらねぇ~?』
「外道が……!!」
『ふふふ。あんたがキヨミの娘だっていうなら、生き延びてみせるんだねぇ~、小娘』
にぃっと嗤った鴉は、窓を突き破り、炎の海から姿を消した。
猛る業火が急激に小屋を蝕んでいく。
ここから、出なければ。
腕が、手が、指先が、外を求め、あてもなく彷徨う。
生き延びなければ。生きて、帰らなければ。
ヤヨイさんの想いを無駄にするわけにはいかない。
ヤヨイ、さん……
ごめんなさい、私は、私は、こんなにも無力で。
もし水龍様が現れなかったら、負けていた。
もっと強くならなければいけない。ここを出て、強く。
動けと念じてみるが、身体は眠ったように動かなかった。
四肢は鉄のように重く、休めと要求してくる。
瞼が下がり、徐々に視界が狭まっていった。
もう、動けない……。
最後まであがいていた左手が、力なく床にひれ伏した。
「ここで、死ぬのかな……」
ずっとずっと、修行してきたから、少しは追いつけたかなって思っていたのに。
まだ私は、あの頃のミズナのまま。アキラを傷つけた、弱いミズナのままで。
ごめん、ごめんね、アキラ。
ごめんなさい、兄さま。
霞む視界を見つめながら、目を細めた。
山吹色に照らし出される水華が眩しい。
どうして水龍様は助けてくれたのだろう。
何度呼びかけても、あれから彼女の声は聞こえない。
龍は、本当に気まぐれ。
ねぇ、母さま。
母さまはどうして ……
水面[ に波紋を描く雫たち。
薄れゆく意識の中で、木霊するものは。
雫の調べ。
振り返ってはいけない。
前に、進まなければ。
何があろうと、前へ、前へ。
◇ ◇ ◇
目の前は雪の壁。
後ろも右も底の見えない谷間。
残された道はただ一つ。
私は、敵が逃げたと思われる唯一の道、赤褐色の断崖を見上げた。
水華を支えにして跳躍すれば、登れないことはない。
躊躇している
頬を濡らした水滴を拭い、水華の柄を握り締める。
「逃がす、ものか……!」
このままでは終われない。
強く、強く、大地を蹴った。
山頂まであと僅か、というところまで来ていたのだ。
断崖といえども、数歩跳躍すれば平地が見えた。
純白の絨毯に模様を描くかのように、所々青緑の草花が顔を覗かせている。
そんな平地に一際目立つ一軒家。赤い土で塗り固められた壁には亀裂が入り、今にも崩れそうな状態だ。
「これは、確か……」
この山を所有している者の家。
記憶通りなら、ここは隠密の頭領が管轄しているはずだ。
そっと扉に手を当てる。
中から微かに音が伝わってきた。
誰か、いるのだろうか。
静かに扉を押し開けると、耳に残っている声がした。
「はい、ユーラ様。本隊は
一つは先刻対峙した敵の声。
それに驚いたわけではない。
もう一つは。
『ご苦労だったねぇ~。ヒオリ』
忘れるはずもない。
この声は、下弦の乱で聞いた、
「貴様が裏で糸を引いていたのか!」
勢いよく扉を開け放し、女と会話する漆黒の鴉に
『ヒオリ、詰めが甘いわ~。ほら、まだキヨミの娘が生きてるじゃな~い』
「ネビセ……! 貴様っ!!」
斬り込んだ刃は鴉を裂くはずだった。
しかし、湾曲した大刀に阻まれる。
速さを纏った二本の衝突は、高い金属音と共に火花を生んだ。
「ユーラ様には指一本触れさせん!」
「く……! 貴様、何をしたかわかっているのか!? 我が一族を、裏切ったのだぞ!?」
「黙れ。
重い。
弾き返される。
二歩退き、間合いを開く。
「貴様、名をヒオリと言ったな? 貴様が護衛派遣された先遣隊はどうした!?」
「あれは囮部隊。邪魔者は消去するのみよ」
「何だと!?」
ヒオリが懐から黒い短冊を取り出す。
あれは本家以外の人間が扱う符術の呪具。
「
瞬時にして小屋が炎に包まれた。
だが、炎に躊躇している余裕はない。
再び大刀が降りかかってきた。
太刀音が響く。
「ここで主も終いじゃ」
『ヒオリ、あんたももういいわ。その小娘と一緒に死んじゃって』
「何だと? ネビセ、貴様っ……!」
「ユーラ様のお言葉、心得た」
あり得ない。
命令だろうと、己の命をこうも簡単に手放すというのか。
その疑念に答えるかのように、剣戟の最中、ヒオリは無表情で呟いた。
「これで、一族の安泰が約束される」
「それはどういう意味だ?」
突き出された凶刃を、水華の白刃で受け止める。
「答えろ!!」
「そのような
言葉に、反応が鈍る。
一瞬の隙を、ヒオリは逃さなかった。
私のみぞおちに蹴りを入れ、大刀で水華を薙ぎ払う。
「ぐ……!」
カシャンという音が、私の劣勢を伝えた。
「あの有能だったリュウジ様を追い出し、名すら与えられていないのに水華を手に取り、その弱さでよく
そろそろと身体を動かし、水華に手を伸ばす。
「主が手に取れば、一族一の名刀水華も鈍刀に様変わりするのだ!」
水華に指先が触れた時、大刀が腕を落とさんと振り下ろされた。
間に、合わない……!
『貴様、仮にもこの水華に
場にそぐわない凛とした声音が、大刀の動きを止める。
「主は……主は……!?」
『私に名を訊くとは大それたことを』
「な、何故貴女が……!」
眼前に立つ優美な女性。
全身を澄んだ空色の布で包み、白藍の髪をなびかせる。
間違いない。
このお方は守り神の
『使い手よ、自惚れるな。貴様を認めたわけではない。私は私の名を保つために舞い降りた』
「力及ばず……申し訳ないです……!」
『戯け。謝辞の言葉なんぞ聞きたくもない。無駄口を叩く暇があるのなら、早く水華を手に取るのだ』
「は、はい……!」
力が入らない四肢を叱咤して、水華を握る。
よろめきながらも、敵の瞳は真っ直ぐ見据えた。
「往生際の悪い女め……!」
『それは、貴様だ』
横一線に振り切った水華は、刀とは思えないほど軽かった。
先刻押し返された大刀を易々と弾く。
『他愛のない……』
「す、スイカ様!?」
「何故だ!? 何故主がぁああああ!!」
半狂乱になったヒオリが大刀を振り上げる。
『終わりだわ~……』
少し物足りなそうに鴉が呟くと、ヒオリの大刀が砕け散った。
あの一振りで、片はついていたのだ。
「く、主など、ここで死ぬのだ!!」
「待て、ヒオリ!」
「焔舞、焔舞、焔舞!!」
瞬間、ヒオリの身体が赤い閃光で包まれる。
爆音が轟き、小屋は深紅の炎で覆われた。
先程より勢力を増した炎たちは、中にいる者を飲み込もうと、盛んに息巻く。
「く……出口がっ」
爆発の衝撃で壁に叩きつけられた私は、立ち上がるのがやっとだった。
一歩、前に足を出す。
しかし膝は折れ、無様に頬を床に打ち付けた。
「くそ……!」
私を見下ろすように、鴉が窓際から飛んでくる。
「貴様、ヒオリに何を吹き込んだ……!」
ヒオリという名は聞いたことがある。
誇り高く、一族のことを重んじる人だ、と。
『あ~? この任務を抹消してくれたら、あんたたちスワロウ族にこれ以上攻撃はしないって言ったわぁ。随分すんなり信じたわよ、あの子。お陰でかなり楽だったわ。そんな約束、こちらが守ると思っているのかしらねぇ~?』
「外道が……!!」
『ふふふ。あんたがキヨミの娘だっていうなら、生き延びてみせるんだねぇ~、小娘』
にぃっと嗤った鴉は、窓を突き破り、炎の海から姿を消した。
猛る業火が急激に小屋を蝕んでいく。
ここから、出なければ。
腕が、手が、指先が、外を求め、あてもなく彷徨う。
生き延びなければ。生きて、帰らなければ。
ヤヨイさんの想いを無駄にするわけにはいかない。
ヤヨイ、さん……
ごめんなさい、私は、私は、こんなにも無力で。
もし水龍様が現れなかったら、負けていた。
もっと強くならなければいけない。ここを出て、強く。
動けと念じてみるが、身体は眠ったように動かなかった。
四肢は鉄のように重く、休めと要求してくる。
瞼が下がり、徐々に視界が狭まっていった。
もう、動けない……。
最後まであがいていた左手が、力なく床にひれ伏した。
「ここで、死ぬのかな……」
ずっとずっと、修行してきたから、少しは追いつけたかなって思っていたのに。
まだ私は、あの頃のミズナのまま。アキラを傷つけた、弱いミズナのままで。
ごめん、ごめんね、アキラ。
ごめんなさい、兄さま。
霞む視界を見つめながら、目を細めた。
山吹色に照らし出される水華が眩しい。
どうして水龍様は助けてくれたのだろう。
何度呼びかけても、あれから彼女の声は聞こえない。
龍は、本当に気まぐれ。
ねぇ、母さま。
母さまはどうして
薄れゆく意識の中で、木霊するものは。
雫の調べ。
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