一つ深呼吸をして、黒装束を身に纏った男は眼前に佇む
襖を開ける。
畳の間に悠然と腰を下ろしているのは、一族の長。
「よく、来てくれた」
威厳のこもった声音に、思わず背筋が伸びる。
跪座[をすると、男は両の拳を畳につけた。
「お久しぶりッス、族長」
腰から身体を折り、深々と頭を下げる。
頭に巻かれた太く黒い鉢巻きが、畳にひれ伏した。
◇ ◇ ◇
轟音が大地を揺るがす。
輝く氷の破片が、大気を漂っていた。
「聖霊って、イヒッ! なかなかしぶとい、ヒヒヒッ!」
「スニィ、しっかりしろ!」
アレノスが生み出した風に、氷の盾ごと吹き飛ばされたスニィを、ディオウが呼ぶ。
『わ……私は、平気です。ヴァルトさんは……?』
「スニィ殿のお陰で、私もタカト殿も無事だ」
タカトを抱きかかえたまま答え、マツザワは上空で赤い両翼を羽ばたかせている敵を見据えた。
長い爪は赤黒く、一本のみの足には鋭利な爪が五つ付いている。
彼女の記憶が正しければ、アレノスの正体は。
「ハーピーか……」
人面を持つという怪鳥。
だがハーピーならば、人を襲うことはしない。
マツザワの呟きを聞き取ったスニィが、首を横に振る。
『違います。ハーピーを土台にしているとは思いますが、あれはハーピーじゃない……!』
「土台だと? どういう意味だ」
上空を旋回するアレノスを警戒しながら、ディオウが問う。
『ホルマウンテンに出現したアレノスは、ホルベアが土台です。アレノスは、自然の生命ではないのです……!』
「聖霊、ボクラのコト、知りすぎだね。消去、消去、ヒヒヒッ!」
不愉快な笑い声が耳に届くと同時に、スニィの頬を冷たい風が撫でた。
「スニィ、避けろ!」
アレノスの異変に気づいたディオウが怒鳴るが、時既に遅し。
爆風を伴い、風の爪が大地を抉った。
マツザワの頬に生暖かい雫がかかる。驚いて頬をそっと触れた指先が、鮮やかな朱に染まった。
「スニィ殿
!?」
振り返った先には、宙を舞うスニィの体躯。
にやりと
嗤[ったアレノスは、容赦なく次の攻撃を叩き込む。
「聖霊、消去! イヒヒ、ウィンド・クロウ!」
エメラルドグリーンの印と共に、鋭利な風刃が聖霊を切り裂こうと牙を剥く。
「くそ、あの化け物魔法詠唱ができるのか!」
舌打ちしたディオウが飛翔するが、聖獣といえども風に勝ることはできない。
無防備なスニィを、風刃が捉えんとした時。
キキキキィーン!
鳴り響いたのは、高い金属音。
風が止み、徐々に視界が晴れていく。
「これ以上、貴様の好きにはさせん!」
スニィとタカトを背にし、マツザワは水華の
鋒[を敵に定める。
「ディオウ殿、二人を安全圏へ!」
「お前一人では苦戦するぞ!」
聖霊であるスニィすら、赤子同然に蹴散らしたのだ。近接を得意とする刀技のみで、太刀打ちできるとは思えない。
「このまま二人を守りながらの戦闘は危険です。ディオウ殿、二人を頼みます」
彼女の言う通り、この状況が続けば、全滅もあり得る。
今は、動けない二人を逃がすことが先決だ。
「無理は、するな」
眉間に
皺[を刻み、ディオウは低く唸った。
二人をディオウの背に乗せながら、マツザワが頷く。
「敵が一体とは限らない。ディオウ殿もお気をつけて」
「ああ」
ぴしりと尾を一振りすると、ディオウは大地を蹴った。
白目まで深紅に染まった
眼[が、獲物を見定めるようにぎょろぎょろと
蠢[く。
「イヒヒッ、逃がすと思ってるの?」
飛び立ったディオウを追おうとしたアレノスに、細かい斬撃が突き刺さった。
突如両翼を駆け抜けた痛みに、瞳を見開く。
「ヒヒ
!?」
「……
雹[の舞。貴様の相手は、私だ」
正眼に据えられた水華は、陽の光を受け白い煌めきを放っていた。
◇ ◇ ◇
「調べごとッスか……」
族長の家を後にしたカツナリは、一人心地で呟いた。
本家に召還されるのは久方振りだ。
いつもの如く、相方を連れてワツキに訪れたわけだが。
「せんぱーい、遊んでないで行くッスよー」
青年と
蹴鞠[で遊んでいた少女に呼びかけると、返事の代わりに痛みが返ってきた。
「いっ
!? だから先輩、俺の頭は蹴鞠じゃねーッス!」
「はげぴょん、こーちゃんからちゃんと聞いてきたの?」
「禿じゃねぇッス、坊主ッス
!!」
蹴られた頭をさすりながら、カツナリは反論する。
しかし、彼女はそんな叫びを黙殺し、蹴鞠相手をしてくれていた青年、アキラに微笑みかけた。
「まちちゃんなら大丈夫、なの。あきちゃんは休むのが大事、なの!」
「せやけど、村全体で何や動いとりまっせ? そないにでかい任務なんやろか……」
誰に聞こうとも、返ってくる答えは休めの二文字。
己だけ取り残されているような気がして、アキラは落ち着かなかった。
彼にとって、起きていられる時間は日中の三時間足らず。だが、その僅かな時間でさえ、村の緊迫感を感じ取るには充分過ぎる長さだった。
「やぁな予感がするんや……ミズナはホンマに三番任務なんやろか……」
「あきちゃん」
直感的に危機を感じているアキラに、一族ぐるみで零番任務を隠していることがばれるのは、もはや時間の問題だ。
もし零番任務と知れば、無理にでも彼女らの後を追うだろう。
「あのね、信じてあげるのも大切なの。あきちゃんはまちちゃんのこと信じてないの?」
「そないなわけあらへん。ミズナの強さは、わい自身よう知っとります」
「だったら」
「せやけど」
ヤヨイの台詞を遮って、アキラは足元に視線を落とす。
「わいは、わいだけ何もできへん。何度呼びかけても、ゲンチョウの声も聞こえへんのや。ホンマに寝てばっかでええんやろか」
好きで寝ているわけではない。
目覚めた時に、己の無力さを嫌でも味わうのだ。
もっと己が強かったなら、こんな歯がゆい思いはしなかったのに。
「アキラ、ゲンチョウから声が聞こえねぇってことは、休めってことッスよ」
「それは……」
「昔リュウジもクエンの声が聞こえなくなった時があったんス。任務先で大怪我して、入院してろって医者に言われてるのに、なーんども病院抜け出してたんスよ。したらクエンの声が聞こえなくなって」
肩を竦めたカツナリは、やれやれと言わんばかりに苦笑する。
「クエンがいなくても、アキラの初任務ついてく言って」
「それで、くーちゃんがいきなり出てきて、りゅーちゃん殴ったの。『いい加減休みやがれ、馬鹿!』って」
最後のオチを相方に取られたカツナリは、些か不服そうに顔を
顰[めた。
しかし、そんなことを彼女が気にするはずもなく。
ヤヨイは驚きで絶句しているアキラに告げる。
「ゲンチョウもあきちゃんにちゃんと身体治してほしいの。まちちゃんも、ヤヨイも、こーちゃんも、みーんなそう思ってるの」
「あのー、先輩、俺もッスよ」
再びカツナリの言葉を黙殺し、ヤヨイは蹴鞠をアキラに渡した。
「約束、なの。まちちゃんと、ヤヨイが帰ってきたら、一緒に蹴鞠やるの」
「わいが……ミズナと……?」
「まちちゃんにはヤヨイが言っておくの。約束、いい?」
約束。
その言霊は、何よりも守り抜くべきもの。
一緒に……成人式挙げるって約束したじゃんか……
窮地で呟かれた切なる想い。
それに応えるためには。
「……約束、もろときますわ。わいはヤヨイはんとミズナが戻ってくる前に」
「うん、元気になってて、なの」
「おおきに」
一番大切な約束。アキラにとっての生きる意味。
それを守り抜くためにも、今は我慢して。
微笑みを浮かべ、アキラはヤヨイと指切りをする。
「絶対、約束なの!」
「わかっとりまっせ」
和やかな雰囲気の中で、一人だけ除外されているカツナリが、地を這うような声を上げた。
「先輩、俺は……」
「はげぴょん、任務行くの!」
「……う、ウーッス」
予想通りの反応にがくりと両肩を落とし、溜息をつく。
「カツナリはんも、帰還待っとりまっせ」
「お心遣いどーもッス」
背中によじ登ってきたヤヨイを片手で支えながら、苦笑をアキラに向け、カツナリは身を翻す。
アキラは〝待つ意味〟を与えてくれた二人の背が見えなくなるまで、その場を動かなかった。