DISERD extra chapter*陽炎 --
夢か、現 か、幻か。
陰ろふ記憶は曖昧で。
春の雪を見ると思い出す。
あの、陽炎を。
◇ ◇ ◇
春告げ鳥がさえずる中、村に舞うのは六花だった。
今目の前に降っているこれは、季節はずれの白雪。
いつもは淡い花弁が春風と共に踊るというのに。
「この時期に雪が降るとは珍しいな」
一人心地の呟きに、鈴を転がしたような声が頷く。
「そうですね。昨日は暖かかったのですが」
苦笑した親友 ユウは空を見上げる。
縁側に腰を下ろし、私たちは春の静寂に息をつく。
白い吐息は霞色の空へ飛び立ち、止め処なく降り注ぐ粉雪に溶け込んでいった。
任務もない。修行もない。
そんな久しぶりの静けさに、肩の力を抜いて落ち着いていた。
その時。
ふいに、悲鳴が静寂を切り裂く。
「何事でしょうか?」
「わからない。随分……騒がしいな」
私はユウと目配せをすると、揃って表へと足を運ぶ。
人混みを掻き分け中央に出た私は、己の目を疑った。
「ショウゴさん!?」
「やぁ……久しぶり……」
力ない声を絞り出し、ショウゴさんは傷だらけの右手を挙げる。
「元気だったぁ~?」
微笑むショウゴさんに、私は言葉を詰まらせた。
裂傷で赤黒く染まった顔で、何故そんな笑顔を見せられるのだろうか。
紺色の着物は無惨に裂かれ、背負っている相方のソウエンは、目を瞑ったままぴくりとも動かない。
こんなショウゴさん、見たことがない。
声を出すことも、目を逸らすことも叶わない私の横を、籠 を抱えたユウが通り過ぎた。
顔色一つ変えず、ユウは初診を行う。
「ショウゴさんは家に。マツザワさん、ソウエンを神社へお連れしてください」
「あ、あぁ……わかった」
届くか否かのくぐもった声で応じ、ショウゴさんからソウエンを預かる。
守り神のソウエンたちに重さはない。女の私でも軽々持ち上げることができる。
しかし抱き上げたソウエンは、ぐったりしているせいか、刀数本分の重さを感じた。
「ソウ……ごめん……」
僅かに顔を歪め、ショウゴさんはソウエンの白い前髪を撫でる。
「本当にごめんな……」
掠れた声が聞こえたのは私だけだろう。
私から顔を背けると、ショウゴさんは身を翻した。
村人がユウとショウゴさんに道を開ける。
二人の背を見送った後、私は神社へ向かった。
村を取り囲む断崖を両断するかのように、一本の石段が鳥居へと伸びている。
私はただ黙々とそれを登っていた。
腕の中で眠るソウエンに視線を落とす。
普段でさえ蒼白の顔は、降りしきる雪と同じ色。
だらりと垂れ下がった腕からは、全く生気を感じられない。
身体の至る所には抉れたような痕があり、乾いた黒い血がこびり付いていた。
一体、二人に何があったというのだろうか。
季節はずれの粉雪に、傷だらけのショウゴさんとソウエン。
何か、嫌な予感がする。
それが何かはわからない。
だが、この奇っ怪な春は、まだ始まったばかりのような気がした。
最後の一段を踏みしめ、朱色の鳥居をくぐる。
境内に足を踏み入れると、周囲の空気ががらりと変わった。
雪が降っているのだから、当然村は冷気に満ちている。
しかし、境内の中は澄み切った春の暖かさだった。粉雪も、神木である桜を避けるようにして舞っている。
私は神木の下で足を止めると、低く呟いた。
我らの同胞[ を守り給え。その命[ を御光[ で包み給え。
片膝を付き、抱えるソウエンを天に差し出す。
ふわりとソウエンの体躯が宙に浮き、眩い閃光に包まれた。
仄かな白光はソウエンの姿と共に霞んでいく。
神木は守り神たちの親と言って過言でない。
いつからこの地に神木があるのか。それは初代族長直系の家系であっても、知る者はいなかった。
代々伝えられているのは、守り神は神木から生まれたということ。
そして、初代族長直系の血を引く者のみが、神木に彼らを封印できるということ。
ソウエンは親元である神木に封印しなければならないほど弱っていると、ユウは判断したのだ。
もし使い手であるショウゴさんの意識が途切れてしまっていたら、ソウエンは命を落としたかもしれない。
守り神とて不死身ではない。深手を負えば死に至る。
そこまで考えて、私は身震いをした。
未だスイカを降ろせていない私は、その重さを知らない。
守り神を生かすも殺すも使い手次第だ。
私にその重責を背負えるのだろうか。守り神の長である水龍様の命を。
「私は……」
身を翻し、石で囲まれた池を覗き込む。
今の私には、母さまも兄さまも、赤子の頃から時を共にした幼馴染みもいない。
落ち込んでいた時に背中を押してくれたショウゴさんも、今は。
「誰かに頼ってばかりじゃ……」
どれほど時が過ぎようとも、水龍様を降ろせることはないだろう。
強く、なりたい。
そう誓ったのは五年前。
果たして強くなれたのだろうか。私は、友を、村を守ることができるのだろうか。
瞳に満身創痍のショウゴさんが浮かび上がる。
不安と恐怖が四肢を絡め取った。
「いや……だ……」
ソウエンの肌の冷たさは、まだ両手に残っている。
ショウゴさんは任務で遠征していた。
ほんの数日前は、共に道場で竹刀を交えていたのに。
揺らぐ心境を代弁しているかのように、池に舞い降りた粉雪が波紋をつくる。
一つ一つの波紋が干渉し、より大きな波紋へと広がっていった。
「この、雪が……」
示すものは。
取るに足らない不安の夢か。幻の恐怖か。
それとも……
現[ の、先触れか。
収まらない警鐘が、己の不安を掻き立てる。
その不安を振り切るように、強く頭[ を振った。
私の予想は当たった例しがない。
きっと今回もただの思い過ごしだ。
そんな甘い考えで胸をなで下ろし、私は石段を降りていった。
◇ ◇ ◇
季節はずれの降雪から数日後。父さまの元へ燕隠密の一人が訪れた。
外部での諜報活動を生業とする種族で、彼らはスワロウ族の親族だ。
彼らの来訪は、決まって訃報が届く。
その訃報は、任務の幕開けを意味した。
父さまの部屋で、黒装束を着た男が口を開いた。
「正体不明の賊に襲われ、ロサリドへ輸送中の燕商隊が被害を受けました」
「それは真[ か」
「は。少なくとも三人は犠牲に」
淡々と語られる話に、悪寒が背筋を駆け抜けた。
燕商隊、それを束ねるのはワツキの大商人である親方さんだ。
そこには、彼がいるのだ。
五年前に村を出て行った幼馴染みが。
「商隊はスワロウ族から護衛派遣を所望されております」
「承知した。直ちに準備を整えよ」
隠密に頷いた父さまは、私の顔を見てそう言った。
「私が赴くのですか」
「ショウゴは今出れぬ。敵はかなりの強者と見る。お主が適任だろう」
それに、と父さまは小声で付け足す。
「商隊にはアキラもおるかもしれん」
脳裏に浮かんでいたとは言え、いざ父さまの言葉で突きつけられると、手に汗が滲んだ。
嫌な予感が、していた。
失うのはもう懲り懲りだ。
今は己が傷つくより、失う方が余程怖い。
失わないために、仲間を守るために、日々修行を重ねてきたのだから。
失いたくないものは、己の力で守り通せ
兄さまの教えを心で繰り返し、私は面[ を上げた。
「承知致しました」
◇ ◇ ◇
やはり、あの日の粉雪は先触れだったのだ。
拭い去れない不安を抱え、大地を蹴る。
「アキラ……」
どうか、無事で。
「死んでいたら、許さない」
時は、待たない。
故に、走るのだ。
季節は移ろう。時と共に。
必ず訪れる真の春を迎えるために、私は走る。
この日もまた、粉雪が舞い踊っていた。
陰ろふ記憶は曖昧で。
春の雪を見ると思い出す。
あの、陽炎を。
◇ ◇ ◇
春告げ鳥がさえずる中、村に舞うのは六花だった。
今目の前に降っているこれは、季節はずれの白雪。
いつもは淡い花弁が春風と共に踊るというのに。
「この時期に雪が降るとは珍しいな」
一人心地の呟きに、鈴を転がしたような声が頷く。
「そうですね。昨日は暖かかったのですが」
苦笑した親友
縁側に腰を下ろし、私たちは春の静寂に息をつく。
白い吐息は霞色の空へ飛び立ち、止め処なく降り注ぐ粉雪に溶け込んでいった。
任務もない。修行もない。
そんな久しぶりの静けさに、肩の力を抜いて落ち着いていた。
その時。
ふいに、悲鳴が静寂を切り裂く。
「何事でしょうか?」
「わからない。随分……騒がしいな」
私はユウと目配せをすると、揃って表へと足を運ぶ。
人混みを掻き分け中央に出た私は、己の目を疑った。
「ショウゴさん!?」
「やぁ……久しぶり……」
力ない声を絞り出し、ショウゴさんは傷だらけの右手を挙げる。
「元気だったぁ~?」
微笑むショウゴさんに、私は言葉を詰まらせた。
裂傷で赤黒く染まった顔で、何故そんな笑顔を見せられるのだろうか。
紺色の着物は無惨に裂かれ、背負っている相方のソウエンは、目を瞑ったままぴくりとも動かない。
こんなショウゴさん、見たことがない。
声を出すことも、目を逸らすことも叶わない私の横を、
顔色一つ変えず、ユウは初診を行う。
「ショウゴさんは家に。マツザワさん、ソウエンを神社へお連れしてください」
「あ、あぁ……わかった」
届くか否かのくぐもった声で応じ、ショウゴさんからソウエンを預かる。
守り神のソウエンたちに重さはない。女の私でも軽々持ち上げることができる。
しかし抱き上げたソウエンは、ぐったりしているせいか、刀数本分の重さを感じた。
「ソウ……ごめん……」
僅かに顔を歪め、ショウゴさんはソウエンの白い前髪を撫でる。
「本当にごめんな……」
掠れた声が聞こえたのは私だけだろう。
私から顔を背けると、ショウゴさんは身を翻した。
村人がユウとショウゴさんに道を開ける。
二人の背を見送った後、私は神社へ向かった。
村を取り囲む断崖を両断するかのように、一本の石段が鳥居へと伸びている。
私はただ黙々とそれを登っていた。
腕の中で眠るソウエンに視線を落とす。
普段でさえ蒼白の顔は、降りしきる雪と同じ色。
だらりと垂れ下がった腕からは、全く生気を感じられない。
身体の至る所には抉れたような痕があり、乾いた黒い血がこびり付いていた。
一体、二人に何があったというのだろうか。
季節はずれの粉雪に、傷だらけのショウゴさんとソウエン。
何か、嫌な予感がする。
それが何かはわからない。
だが、この奇っ怪な春は、まだ始まったばかりのような気がした。
最後の一段を踏みしめ、朱色の鳥居をくぐる。
境内に足を踏み入れると、周囲の空気ががらりと変わった。
雪が降っているのだから、当然村は冷気に満ちている。
しかし、境内の中は澄み切った春の暖かさだった。粉雪も、神木である桜を避けるようにして舞っている。
私は神木の下で足を止めると、低く呟いた。
片膝を付き、抱えるソウエンを天に差し出す。
ふわりとソウエンの体躯が宙に浮き、眩い閃光に包まれた。
仄かな白光はソウエンの姿と共に霞んでいく。
神木は守り神たちの親と言って過言でない。
いつからこの地に神木があるのか。それは初代族長直系の家系であっても、知る者はいなかった。
代々伝えられているのは、守り神は神木から生まれたということ。
そして、初代族長直系の血を引く者のみが、神木に彼らを封印できるということ。
ソウエンは親元である神木に封印しなければならないほど弱っていると、ユウは判断したのだ。
もし使い手であるショウゴさんの意識が途切れてしまっていたら、ソウエンは命を落としたかもしれない。
守り神とて不死身ではない。深手を負えば死に至る。
そこまで考えて、私は身震いをした。
未だスイカを降ろせていない私は、その重さを知らない。
守り神を生かすも殺すも使い手次第だ。
私にその重責を背負えるのだろうか。守り神の長である水龍様の命を。
「私は……」
身を翻し、石で囲まれた池を覗き込む。
今の私には、母さまも兄さまも、赤子の頃から時を共にした幼馴染みもいない。
落ち込んでいた時に背中を押してくれたショウゴさんも、今は。
「誰かに頼ってばかりじゃ……」
どれほど時が過ぎようとも、水龍様を降ろせることはないだろう。
強く、なりたい。
そう誓ったのは五年前。
果たして強くなれたのだろうか。私は、友を、村を守ることができるのだろうか。
瞳に満身創痍のショウゴさんが浮かび上がる。
不安と恐怖が四肢を絡め取った。
「いや……だ……」
ソウエンの肌の冷たさは、まだ両手に残っている。
ショウゴさんは任務で遠征していた。
ほんの数日前は、共に道場で竹刀を交えていたのに。
揺らぐ心境を代弁しているかのように、池に舞い降りた粉雪が波紋をつくる。
一つ一つの波紋が干渉し、より大きな波紋へと広がっていった。
「この、雪が……」
示すものは。
取るに足らない不安の夢か。幻の恐怖か。
それとも……
収まらない警鐘が、己の不安を掻き立てる。
その不安を振り切るように、強く
私の予想は当たった例しがない。
きっと今回もただの思い過ごしだ。
そんな甘い考えで胸をなで下ろし、私は石段を降りていった。
◇ ◇ ◇
季節はずれの降雪から数日後。父さまの元へ燕隠密の一人が訪れた。
外部での諜報活動を生業とする種族で、彼らはスワロウ族の親族だ。
彼らの来訪は、決まって訃報が届く。
その訃報は、任務の幕開けを意味した。
父さまの部屋で、黒装束を着た男が口を開いた。
「正体不明の賊に襲われ、ロサリドへ輸送中の燕商隊が被害を受けました」
「それは
「は。少なくとも三人は犠牲に」
淡々と語られる話に、悪寒が背筋を駆け抜けた。
燕商隊、それを束ねるのはワツキの大商人である親方さんだ。
そこには、彼がいるのだ。
五年前に村を出て行った幼馴染みが。
「商隊はスワロウ族から護衛派遣を所望されております」
「承知した。直ちに準備を整えよ」
隠密に頷いた父さまは、私の顔を見てそう言った。
「私が赴くのですか」
「ショウゴは今出れぬ。敵はかなりの強者と見る。お主が適任だろう」
それに、と父さまは小声で付け足す。
「商隊にはアキラもおるかもしれん」
脳裏に浮かんでいたとは言え、いざ父さまの言葉で突きつけられると、手に汗が滲んだ。
嫌な予感が、していた。
失うのはもう懲り懲りだ。
今は己が傷つくより、失う方が余程怖い。
失わないために、仲間を守るために、日々修行を重ねてきたのだから。
兄さまの教えを心で繰り返し、私は
「承知致しました」
◇ ◇ ◇
やはり、あの日の粉雪は先触れだったのだ。
拭い去れない不安を抱え、大地を蹴る。
「アキラ……」
どうか、無事で。
「死んでいたら、許さない」
時は、待たない。
故に、走るのだ。
季節は移ろう。時と共に。
必ず訪れる真の春を迎えるために、私は走る。
この日もまた、粉雪が舞い踊っていた。
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DISERD extra chapter*陽炎 --
「ねぇ、かあさま。あめはどうしてふるの?」
「それはね。神さまが涙もろいからよ」
「なみだ、もろい……?」
「嬉しいときでも悲しいときでも、神さまはすぐに泣いちゃうの」
だから、お空からは雫が落ちてくるのよ
遠い昔の記憶。
雨が神さまの涙というならば。
雪は ……
◇ ◇ ◇
ここはロサリドの宿屋。
眼前の扉の向こうには、今回の任務を共にする仲間が待っているらしい。
これからが本番だ。
呼吸を整え、軽く扉を叩く。
返答は、ない。
部屋を空けているのだろうか。それとも聞こえなかったのだろうか。
もう一度強くノックしようとした時、勢いよく扉が 飛んだ。
「どぁっ!!」
「な……!?」
咄嗟に横に避けたから良かった。
そのまま立っていたら、確実に巻き込まれていただろう。
扉ごとふっ飛んできた男は、頭に黒い布を巻いた丸刈りの青年。
その黒い布には見覚えがあった。
「か……カツナリさん?」
「あ?」
飛び起きてたカツナリさんは、ずれた黒い布を巻き直しながら、顔を上げた。
「お? お松さんじゃねぇッスか。ウーッス!」
微笑んで片手を挙げたカツナリさんに、私も笑顔で応える。
「お久しぶりです。カツナリさんがいるということは……」
「まちちゃ~ん!」
甲高い声と共に鈍い音が響く。
「いっ……!」
額を思いっきり蹴られたカツナリさんは、どさりと大の字に倒れた。
「先輩、いい加減俺の頭を蹴鞠代わりにすんのやめてもらえないッスか!?」
「はげぴょんがヤヨイの通り道にいるからいけないの」
カツナリさんの胸板にちょこんと腰を下ろした少女、ヤヨイさんは、何食わぬ顔でそう言う。
少女といっても見た目だけで、実年齢は二十代後半なのだが。
「だから禿げじゃなくて坊主ッス!」
「ぼーずもはげぴょんも同じなのー」
「違げぇッス!」
随分、久しぶりの顔ぶれだ。
仲間とは彼らのことだったのか。
二人も燕隠密の人間で、何かとお世話になっていたりする。
初任務の際も、ヤヨイさんに導かれ、カツナリさんに手を貸していただいたのだ。
「ちょぉっと見ない間に、まちちゃん美人になったのねー」
抗議するカツナリさんを黙殺して、ヤヨイさんは満面の笑みを浮かべた。
「どうも、お久しぶりです、ヤヨイさん」
「久しぶり~なのねっ」
「せんぱ~い。どいて欲しいんスけど……」
カツナリさんが低く唸る。
「あ、わかったなの~」
それ応じ、ヤヨイさんは座布団代わりにしていたカツナリさんから降りた。
あのヤヨイさんがカツナリさんに応えるなんて珍しい。
そう思った矢先。
「まちちゃん来たから中で話そー! はげぴょんも中に入って、なの!」
ヤヨイさんは、起きあがったばかりのカツナリさんを部屋の中へと蹴り飛ばした。
その小さな体躯からとは思えないほどの力で。
「ごぁっ!?」
いつ見てもあの蹴りは痛そうだと思う。
蹴られるのは何故かカツナリさんだけだが。
「先輩、俺は自分で中に入れるッス!」
「はげぴょん、とろいから」
「この、チビおん……あだっ!」
再び額を蹴られたカツナリさんは、窓際のベッドの上で再度大の字を取ることになった。
ヤヨイさんの蹴りも恐れ入るが、カツナリさんの石頭も相当だろう。あれだけの轟音がしても、傷一つ付かないのだから。
それにしても、懐かしい。最初見た時は物陰に隠れるほど恐ろしかったが、今は懐かしさの方が上回る。
慣れというものは怖いと思う、本当に。
「よしっ、これでみんな揃った、なのっ! あ、はげぴょん、扉直しといてなのね」
「俺のせいじゃねぇーっての……」
「お返事はー?」
「う、ウーッス……」
木造の宿屋に、木槌の音が鳴り響く。
不服そうに目を据わらせ、カツナリさんが先刻吹き飛んだ扉を修繕していた。
「では親方さんたちは既に……」
「そうなの。本家にお知らせに行ったたかちゃんと、ひおりちゃんが親方さん率いる囮商隊に付いてるの」
「親方さんが囮など……危険ではないですか?」
「大丈夫っ! たかちゃんはすっごい強いから!」
ヤヨイさんの話によると、親方さんら商隊の半分は、既にジェルゼンに向けて発ったそうだ。
先遣隊として出発した商隊は囮役。
私たちが護衛することになる残りの商隊が本命ということらしい。
囮役を立ててまで護衛するもの。
それは商隊ではなく、ジェルゼンに届ける品物。
鉄鋼というのは当然表向きだ。
本命は、ロサリド南部で発掘された千年前を記す古文書。
古代文字で書かれているため、ジェルゼンにいるスワロウ族お抱えの考古学者に届けることになったのだ。
遺跡からロサリドに来る際に襲撃を受けたことから、敵の狙いはほぼ間違いなく古文書だという。
ロサリドから南には集落がなく物流は皆無に近い。それ故、盗賊が狙う地域ではないからだ。
「ヤヨイたちは一日遅れて、あしたの早朝出発するの。向かいのお部屋取ってあるから、まちちゃんはそこで寝てねー」
「わかりました」
「んじゃ、俺はちょっくら街回って来るッス。木槌返さねぇといけねぇッスから」
木槌で右肩を叩きながら、カツナリさんは部屋を出て行った。
あの木槌はどこで借りてきたのだろうか。
カツナリさんのことだから、恐らく近くのフレイト店辺りから強奪してきたのだろう。以前窓を割った時も、近辺の店を脅していたような気がする。
本当に懐かしいな。
正直、またこの三人で任務をすることになるとは思わなかった。
自然と頬が緩み、瞳の奥に記憶が甦る。
初めて会った時は、カツナリさんの道場破りだった。兄さまの腕を聞いたカツナリさんが、真剣勝負を挑みに来たのだ。
あの頃からヤヨイさんの身長も変わっていない。
くすりと笑みがこぼれた。
「まちちゃん、どうしたのー?」
気がつくとヤヨイさんが私の顔を覗き込んでいた。
「何かおもしろーいことあったの?」
「いえ、何でもありません。そろそろ、私も失礼します」
「あいっ! またあしたー、なのー」
「はい。また、明日」
部屋の窓からは朱色の斜陽が差し込んでいた。
◇ ◇ ◇
早朝。
まだ朝日も出ていない頃、突如扉が開かれた。
「お、おはようございます、ヤヨイさん」
先程鍵を開けたのだから、開かれたことには驚かない。
しかし、息が上がっているヤヨイさんには、驚愕の色を隠せなかった。
「あの、何か……」
佇むヤヨイさんは、目を見開いて微動だにしない。
「ヤヨイ、さん……?」
「……ううん、何でもない、の。外で待ってるの」
目を伏せて左右に首を振ると、ヤヨイさんは身を翻す。
その背中には、いつもの明るさが見えなかった。
何かあったのだろうか。
ベッドの枕元に置いてある水華を手に取り、急いでヤヨイさんの後を追った。
宿を出ると、外には商隊の人たちが荷車の点検をしていた。
「おはようございます、マツザワさん」
「お久し振りですねぇ~。元気でしたか?」
「おはようございます。はい、私は元気で過ごしています」
すれ違う度にかけられる声に応じながら、私は二つの影を探した。
目に留まったのは、藍色の髪を二つに結った少女。
街道の奥を見据える少女の隣に、たくましい長躯の青年はいなかった。
「あの、ヤヨイさん、カツナリさんは……?」
「はげぴょんは多分、戻ってこないの」
「それはどういう……」
私の疑問には答えず、ヤヨイさんは数歩歩いて立ち止まる。
「これ」
足下にあるものを指差してすとんとしゃがみ込み、それを拾い上げる。
ヤヨイさんが拾い上げたもの。
それは 漆黒の、布。
「これは……」
カツナリさん愛用の。
まさか。
頭[ を振り、脳裏に浮かんだ状況を瞬時に否定する。
そんなはずはない。
カツナリさんの実力は私自身がよく知っている。
兄さまと対等に渡り合う実力なのだから。
万が一にも、それだけは。
しかしヤヨイさんの一言が、否としたものを肯定する。
「……かっちゃんはまだ半人前なの」
ヤヨイさんがカツナリさんを名で呼んだのは、あの時だけではなかったか。
あの時、瀕死の重傷を負って倒れたカツナリさんを、ヤヨイさんはそう呼んだ。
かっちゃんは半人前だから怪我するのっ!
不安と焦りが胸に広がっていく。
「だから……」
掠れた呟きの、その続き。
ヤヨイさんが何を言ったのか、私には聞こえなかった。
静かになびく黒き布に、粉雪が降り注いでいた。
「それはね。神さまが涙もろいからよ」
「なみだ、もろい……?」
「嬉しいときでも悲しいときでも、神さまはすぐに泣いちゃうの」
遠い昔の記憶。
雨が神さまの涙というならば。
雪は
◇ ◇ ◇
ここはロサリドの宿屋。
眼前の扉の向こうには、今回の任務を共にする仲間が待っているらしい。
これからが本番だ。
呼吸を整え、軽く扉を叩く。
返答は、ない。
部屋を空けているのだろうか。それとも聞こえなかったのだろうか。
もう一度強くノックしようとした時、勢いよく扉が
「どぁっ!!」
「な……!?」
咄嗟に横に避けたから良かった。
そのまま立っていたら、確実に巻き込まれていただろう。
扉ごとふっ飛んできた男は、頭に黒い布を巻いた丸刈りの青年。
その黒い布には見覚えがあった。
「か……カツナリさん?」
「あ?」
飛び起きてたカツナリさんは、ずれた黒い布を巻き直しながら、顔を上げた。
「お? お松さんじゃねぇッスか。ウーッス!」
微笑んで片手を挙げたカツナリさんに、私も笑顔で応える。
「お久しぶりです。カツナリさんがいるということは……」
「まちちゃ~ん!」
甲高い声と共に鈍い音が響く。
「いっ……!」
額を思いっきり蹴られたカツナリさんは、どさりと大の字に倒れた。
「先輩、いい加減俺の頭を蹴鞠代わりにすんのやめてもらえないッスか!?」
「はげぴょんがヤヨイの通り道にいるからいけないの」
カツナリさんの胸板にちょこんと腰を下ろした少女、ヤヨイさんは、何食わぬ顔でそう言う。
少女といっても見た目だけで、実年齢は二十代後半なのだが。
「だから禿げじゃなくて坊主ッス!」
「ぼーずもはげぴょんも同じなのー」
「違げぇッス!」
随分、久しぶりの顔ぶれだ。
仲間とは彼らのことだったのか。
二人も燕隠密の人間で、何かとお世話になっていたりする。
初任務の際も、ヤヨイさんに導かれ、カツナリさんに手を貸していただいたのだ。
「ちょぉっと見ない間に、まちちゃん美人になったのねー」
抗議するカツナリさんを黙殺して、ヤヨイさんは満面の笑みを浮かべた。
「どうも、お久しぶりです、ヤヨイさん」
「久しぶり~なのねっ」
「せんぱ~い。どいて欲しいんスけど……」
カツナリさんが低く唸る。
「あ、わかったなの~」
それ応じ、ヤヨイさんは座布団代わりにしていたカツナリさんから降りた。
あのヤヨイさんがカツナリさんに応えるなんて珍しい。
そう思った矢先。
「まちちゃん来たから中で話そー! はげぴょんも中に入って、なの!」
ヤヨイさんは、起きあがったばかりのカツナリさんを部屋の中へと蹴り飛ばした。
その小さな体躯からとは思えないほどの力で。
「ごぁっ!?」
いつ見てもあの蹴りは痛そうだと思う。
蹴られるのは何故かカツナリさんだけだが。
「先輩、俺は自分で中に入れるッス!」
「はげぴょん、とろいから」
「この、チビおん……あだっ!」
再び額を蹴られたカツナリさんは、窓際のベッドの上で再度大の字を取ることになった。
ヤヨイさんの蹴りも恐れ入るが、カツナリさんの石頭も相当だろう。あれだけの轟音がしても、傷一つ付かないのだから。
それにしても、懐かしい。最初見た時は物陰に隠れるほど恐ろしかったが、今は懐かしさの方が上回る。
慣れというものは怖いと思う、本当に。
「よしっ、これでみんな揃った、なのっ! あ、はげぴょん、扉直しといてなのね」
「俺のせいじゃねぇーっての……」
「お返事はー?」
「う、ウーッス……」
木造の宿屋に、木槌の音が鳴り響く。
不服そうに目を据わらせ、カツナリさんが先刻吹き飛んだ扉を修繕していた。
「では親方さんたちは既に……」
「そうなの。本家にお知らせに行ったたかちゃんと、ひおりちゃんが親方さん率いる囮商隊に付いてるの」
「親方さんが囮など……危険ではないですか?」
「大丈夫っ! たかちゃんはすっごい強いから!」
ヤヨイさんの話によると、親方さんら商隊の半分は、既にジェルゼンに向けて発ったそうだ。
先遣隊として出発した商隊は囮役。
私たちが護衛することになる残りの商隊が本命ということらしい。
囮役を立ててまで護衛するもの。
それは商隊ではなく、ジェルゼンに届ける品物。
鉄鋼というのは当然表向きだ。
本命は、ロサリド南部で発掘された千年前を記す古文書。
古代文字で書かれているため、ジェルゼンにいるスワロウ族お抱えの考古学者に届けることになったのだ。
遺跡からロサリドに来る際に襲撃を受けたことから、敵の狙いはほぼ間違いなく古文書だという。
ロサリドから南には集落がなく物流は皆無に近い。それ故、盗賊が狙う地域ではないからだ。
「ヤヨイたちは一日遅れて、あしたの早朝出発するの。向かいのお部屋取ってあるから、まちちゃんはそこで寝てねー」
「わかりました」
「んじゃ、俺はちょっくら街回って来るッス。木槌返さねぇといけねぇッスから」
木槌で右肩を叩きながら、カツナリさんは部屋を出て行った。
あの木槌はどこで借りてきたのだろうか。
カツナリさんのことだから、恐らく近くのフレイト店辺りから強奪してきたのだろう。以前窓を割った時も、近辺の店を脅していたような気がする。
本当に懐かしいな。
正直、またこの三人で任務をすることになるとは思わなかった。
自然と頬が緩み、瞳の奥に記憶が甦る。
初めて会った時は、カツナリさんの道場破りだった。兄さまの腕を聞いたカツナリさんが、真剣勝負を挑みに来たのだ。
あの頃からヤヨイさんの身長も変わっていない。
くすりと笑みがこぼれた。
「まちちゃん、どうしたのー?」
気がつくとヤヨイさんが私の顔を覗き込んでいた。
「何かおもしろーいことあったの?」
「いえ、何でもありません。そろそろ、私も失礼します」
「あいっ! またあしたー、なのー」
「はい。また、明日」
部屋の窓からは朱色の斜陽が差し込んでいた。
◇ ◇ ◇
早朝。
まだ朝日も出ていない頃、突如扉が開かれた。
「お、おはようございます、ヤヨイさん」
先程鍵を開けたのだから、開かれたことには驚かない。
しかし、息が上がっているヤヨイさんには、驚愕の色を隠せなかった。
「あの、何か……」
佇むヤヨイさんは、目を見開いて微動だにしない。
「ヤヨイ、さん……?」
「……ううん、何でもない、の。外で待ってるの」
目を伏せて左右に首を振ると、ヤヨイさんは身を翻す。
その背中には、いつもの明るさが見えなかった。
何かあったのだろうか。
ベッドの枕元に置いてある水華を手に取り、急いでヤヨイさんの後を追った。
宿を出ると、外には商隊の人たちが荷車の点検をしていた。
「おはようございます、マツザワさん」
「お久し振りですねぇ~。元気でしたか?」
「おはようございます。はい、私は元気で過ごしています」
すれ違う度にかけられる声に応じながら、私は二つの影を探した。
目に留まったのは、藍色の髪を二つに結った少女。
街道の奥を見据える少女の隣に、たくましい長躯の青年はいなかった。
「あの、ヤヨイさん、カツナリさんは……?」
「はげぴょんは多分、戻ってこないの」
「それはどういう……」
私の疑問には答えず、ヤヨイさんは数歩歩いて立ち止まる。
「これ」
足下にあるものを指差してすとんとしゃがみ込み、それを拾い上げる。
ヤヨイさんが拾い上げたもの。
それは
「これは……」
カツナリさん愛用の。
まさか。
そんなはずはない。
カツナリさんの実力は私自身がよく知っている。
兄さまと対等に渡り合う実力なのだから。
万が一にも、それだけは。
しかしヤヨイさんの一言が、否としたものを肯定する。
「……かっちゃんはまだ半人前なの」
ヤヨイさんがカツナリさんを名で呼んだのは、あの時だけではなかったか。
あの時、瀕死の重傷を負って倒れたカツナリさんを、ヤヨイさんはそう呼んだ。
不安と焦りが胸に広がっていく。
「だから……」
掠れた呟きの、その続き。
ヤヨイさんが何を言ったのか、私には聞こえなかった。
静かになびく黒き布に、粉雪が降り注いでいた。
DISERD extra chapter*陽炎 --
左手は断崖の壁。右手は霧が立ち込む渓谷。
一歩踏み出す度に、湿気を帯びた赤褐色の土がふわりと舞い上がる。
彼らは山頂から吹き抜ける風の刃に掬い取られ、渓谷の底へと落ちていくのだ。
みしみしと軋んだ音を立てて、荷車がゆっくりと、しかし確実に山頂を目指していた。
この山を越えれば、ジェルゼンは目と鼻の先。
極寒の寒さと、目に見えぬ敵との恐怖に耐えながらの旅路は、決して楽なものではなかった。
◇ ◇ ◇
「行くの」
「しかし、まだカツナリさんが来ていません!」
「まちちゃん、ヤヨイたちの任務は何?」
「それは……」
確実に古文書をジェルゼンに届けること。
即ち。
「商隊を護衛し、ジェルゼンまで送り届けること、です」
「そうよ。予定は変えられないの。ヤヨイたちは任務を遂行するだけなの」
例え、非情な決断であろうと。
例え、己の意志に反していようと。
例え、仲間を 見捨てる結果になろうと。
それが、極秘任務。
普段行う任務とは勝手が違うのだ。
理解しているつもりでは、いた。
だが、あくまで〝つもり〟に過ぎなかったということだ。
「……わかり、ました」
実際に突きつけられた現実を受け入れるには、時間を要した。
しかし、そんな時間は与えられるはずもなく。
「マツザワさん、護衛の人数は揃いましたか?」
私たちは背負わなければならない。
「はい、これで全員です」
その、仲間の命も。
◇ ◇ ◇
カツナリさん……
「無事、だろうか……」
生きて、いるだろうか……。
いや、カツナリさんならきっと。
兄さまと引き分けたことは、夢でも幻でもなく、私自身この目で見たことなのだから。
深く大気を吸い込み、大丈夫だと心で呟きながら、静かに息を吐き出す。
そんなことは気休め程度にしかならない。
わかっている、というのに。
無駄な動作を、私はただただ繰り返していた。
そうしていなければ、負の念に押し潰されそうで。
「マツザワさん、具合でも悪いのですか?」
「い、いえ。そういうわけでは……」
「なら良いのですが。顔色があまり良くないので」
申し訳なさそうに首を傾げる商人を見て、ちくりと胸に痛みが生じた。
この人たちは知らないのだ。
何を運んでいるか。
何が起きているか。
これから、何が待ち受けているのか。
親方さんら一部の商人と、私たち護衛しか知らない極秘任務。
何一つ知らされず、運ぶ駒として扱われる人々。
そう、任務の駒。
その響きが、胸の奥に暗い負の念を生む。
「無理はなさらないでくださいね」
にっこりと微笑みを浮かべた顔が、微かに幼馴染の彼に被った。
無邪気さが、とても眩しくて。
「はい」
護らなければいけない。
何としてでも。己の命を賭 してでも。
そして、知られてはいけないのだ。
この、任務の ……
「まちちゃん、上!」
己の耳に届いたのは、ヤヨイさんの声か、轟音か。
どちらが早いか判断する間もなく、私は左手、断崖の上を見上げた。
視線の先には赤褐色の岩盤を剥き出しにした高い、壁。
遙か上空から、地響きを伴う轟音が押し寄せてきた。
何か、来る。
「まちちゃん、荷車を押さえて!」
言われるがままに、荷車の右手に回る。
ヤヨイさんは二、三歩壁を跳躍すると、左手を上に突き出した。
懐から黒い短冊を取りだし、投げると共に、その音に向かって声を張り上げる。
「火橋[ !」
ヤヨイさんの左手を軸として、私たちの真上に深紅の橋が架かった。
その橋の上を通過するのは白い波。
凄まじい轟音と共に断崖を滑り降りてきたのは、真っ白な雪の塊だった。
「雪崩か……!」
炎に照らし出され、淡い桃色の影ができる。
火橋で大半が蒸気と化したものの、両端には滝のように雪が落ちてきた。
「皆、火橋の下へ! 急げ!!」
大声を張り上げても、届くか否か。
各々が身の危険を感じ、火橋の下へと足を運ぶ。
しかし、それを阻むかのような揺れる大地に足を取られ、一人、また一人と地べたにひざまずいた。
「あ、あぶな…… !」
身が震えるほどの地鳴りを携えて、雪の化け物は無表情に商隊の半分をえぐり取った。
「まちちゃん、まちちゃん!」
「……っ……! や、ヤヨイさん……」
気を失っていたのだろうか。
起き上がって周囲を見渡すと、つい先程踏みしめていたはずの大地が、ごっそりと消えていた。
あそこにいた商隊の人は……
「く……!」
ヤヨイさんに言われた通り、荷車を揺れから押さえるので精一杯だった。
スイカを降ろせれば。
襲いかかる雪の大群など、一振りで氷漬けにできるものを。
まだ、私は無力だ。
水華の鞘を強く握り締め、目眩を気力で振り払い、立ち上がる。
「まちちゃん」
「はい?」
声の主を顧みると、腰ほどの高さから、私を真っ直ぐに見据えているヤヨイさんの姿があった。
「何か……」
「これから先は何があっても、真っ先に守るのは自分にして、なの」
「な、何を言うんですか。商隊を護るのが我々の務めだと……」
ヤヨイさんは頭[ を一つ振り、私の言葉を遮る。
「ヤヨイも、自分を真っ先に守るから。約束、なの」
答えない 否、答えられない私に念を押し、ヤヨイさんは上空を仰いだ。
場にそぐわない生暖かい風を纏い、黒い影が降ってきた。
「あの出で立ちは!」
峡谷に金属音が木霊する。
二振りの小刀を眼前で交差させ、ヤヨイさんは三日月のように湾曲した大刀を受け止めていた。
「まさか、内部に敵がいたというのか!?」
黒装束で身を包んだ女は、身丈ほどある大刀を軽々と振り上げる。
華奢な体躯からとは思えないほどの力で、女はヤヨイさんを吹き飛ばした。
「ヤヨイさん!」
駆け出そうとした私の目の前に、女が立ちはだかる。
近くで見れば、確かだ。
女はヤヨイさんと全く同じ服装をしていた。
「やはり貴様は……隠密の……!」
しかし驚いている暇はなかった。
鋭利な手裏剣が雨のように降ってくる。
飛び退くと同時に、水華を抜く。
振り向きざまに後方に斬り込むと、高い金属音が響いた。
「何故、貴様がここに!? ……親方さんたちはどうし」
「一族のために、去[ ね」
「 っ!?」
瞬間、手元で閃光が迸る。
赤い砂利を巻き上げ、爆音が大地を揺るがす。
断崖に叩きつけられ、衝撃で全身に激痛が走った。
「ぐ……っ!」
視界は真っ白。
耳鳴りが響いて五感が鈍る。
遠くの方で、不吉な音が聞こえた気がした。
「まちちゃん!」
ヤヨイさんの声が私を呼ぶのと、身体が宙に浮くのはほぼ同時。
蹴り飛ばされた私は、突如現れた純白の壁を呆然と見上げた。
「ヤヨイさん……? ヤヨイさん!?」
目の前にあるそれは、つい先ほど商隊を襲ったものと同じ。
だが、その大きさは先刻の比ではなかった。
商隊を丸ごと飲み込むほどの巨大な白き化け物。
人は、自然の力には遠く及ばない。
一瞬にして全てを飲み込んだ雪崩は、私にその力を悠々と見せつける。
ヤヨイさんはさっき何と言った。
これから先は何があっても、真っ先に守るのは自分にして、なの
その自分が差すものは、私。
己自身を真っ先に守れと。
ヤヨイも、自分を真っ先に守るから。約束、なの
だから、ヤヨイさんも ……
「ばかだ……私は……!」
傍らに横たわる水華の刀身。
愚かで救いようのない使い手の顔を映して。
這うように身体を引きずり、無言の相方を握り締める。
白刃は手の平に食い込み、朱の糸が冷たい大地に流れ落ちた。
痛みなど、感じない。
感じるのは、やり場のない自分への苛立ち。
ヤヨイさんは、己自身を指す時「自分」とは言わない。
必ず、名だけで言霊にする。
己自身で名を呼ぶ時は、より強固な言霊になるから。
「あの時に、言った〝自分〟は……」
これから先は何があっても、真っ先に守るのは自分にして、なの。ヤヨイも、自分を真っ先に守るから
初任務の時に言われた、言霊。
同じ台詞のはずなのに、記憶は曖昧で。
どうしようもなく、己に落胆する。
「繋がっていたのに……!」
気付いた時には、手は届かない。
そう、言霊は繋がっていて。
約束、なの。まちちゃん、ちゃんと守るから
忘れていた、陽炎の言霊。
一歩踏み出す度に、湿気を帯びた赤褐色の土がふわりと舞い上がる。
彼らは山頂から吹き抜ける風の刃に掬い取られ、渓谷の底へと落ちていくのだ。
みしみしと軋んだ音を立てて、荷車がゆっくりと、しかし確実に山頂を目指していた。
この山を越えれば、ジェルゼンは目と鼻の先。
極寒の寒さと、目に見えぬ敵との恐怖に耐えながらの旅路は、決して楽なものではなかった。
◇ ◇ ◇
「行くの」
「しかし、まだカツナリさんが来ていません!」
「まちちゃん、ヤヨイたちの任務は何?」
「それは……」
確実に古文書をジェルゼンに届けること。
即ち。
「商隊を護衛し、ジェルゼンまで送り届けること、です」
「そうよ。予定は変えられないの。ヤヨイたちは任務を遂行するだけなの」
例え、非情な決断であろうと。
例え、己の意志に反していようと。
例え、仲間を
それが、極秘任務。
普段行う任務とは勝手が違うのだ。
理解しているつもりでは、いた。
だが、あくまで〝つもり〟に過ぎなかったということだ。
「……わかり、ました」
実際に突きつけられた現実を受け入れるには、時間を要した。
しかし、そんな時間は与えられるはずもなく。
「マツザワさん、護衛の人数は揃いましたか?」
私たちは背負わなければならない。
「はい、これで全員です」
その、仲間の命も。
◇ ◇ ◇
カツナリさん……
「無事、だろうか……」
生きて、いるだろうか……。
いや、カツナリさんならきっと。
兄さまと引き分けたことは、夢でも幻でもなく、私自身この目で見たことなのだから。
深く大気を吸い込み、大丈夫だと心で呟きながら、静かに息を吐き出す。
そんなことは気休め程度にしかならない。
わかっている、というのに。
無駄な動作を、私はただただ繰り返していた。
そうしていなければ、負の念に押し潰されそうで。
「マツザワさん、具合でも悪いのですか?」
「い、いえ。そういうわけでは……」
「なら良いのですが。顔色があまり良くないので」
申し訳なさそうに首を傾げる商人を見て、ちくりと胸に痛みが生じた。
この人たちは知らないのだ。
何を運んでいるか。
何が起きているか。
これから、何が待ち受けているのか。
親方さんら一部の商人と、私たち護衛しか知らない極秘任務。
何一つ知らされず、運ぶ駒として扱われる人々。
そう、任務の駒。
その響きが、胸の奥に暗い負の念を生む。
「無理はなさらないでくださいね」
にっこりと微笑みを浮かべた顔が、微かに幼馴染の彼に被った。
無邪気さが、とても眩しくて。
「はい」
護らなければいけない。
何としてでも。己の命を
そして、知られてはいけないのだ。
この、任務の
「まちちゃん、上!」
己の耳に届いたのは、ヤヨイさんの声か、轟音か。
どちらが早いか判断する間もなく、私は左手、断崖の上を見上げた。
視線の先には赤褐色の岩盤を剥き出しにした高い、壁。
遙か上空から、地響きを伴う轟音が押し寄せてきた。
何か、来る。
「まちちゃん、荷車を押さえて!」
言われるがままに、荷車の右手に回る。
ヤヨイさんは二、三歩壁を跳躍すると、左手を上に突き出した。
懐から黒い短冊を取りだし、投げると共に、その音に向かって声を張り上げる。
「
ヤヨイさんの左手を軸として、私たちの真上に深紅の橋が架かった。
その橋の上を通過するのは白い波。
凄まじい轟音と共に断崖を滑り降りてきたのは、真っ白な雪の塊だった。
「雪崩か……!」
炎に照らし出され、淡い桃色の影ができる。
火橋で大半が蒸気と化したものの、両端には滝のように雪が落ちてきた。
「皆、火橋の下へ! 急げ!!」
大声を張り上げても、届くか否か。
各々が身の危険を感じ、火橋の下へと足を運ぶ。
しかし、それを阻むかのような揺れる大地に足を取られ、一人、また一人と地べたにひざまずいた。
「あ、あぶな……
身が震えるほどの地鳴りを携えて、雪の化け物は無表情に商隊の半分をえぐり取った。
「まちちゃん、まちちゃん!」
「……っ……! や、ヤヨイさん……」
気を失っていたのだろうか。
起き上がって周囲を見渡すと、つい先程踏みしめていたはずの大地が、ごっそりと消えていた。
あそこにいた商隊の人は……
「く……!」
ヤヨイさんに言われた通り、荷車を揺れから押さえるので精一杯だった。
スイカを降ろせれば。
襲いかかる雪の大群など、一振りで氷漬けにできるものを。
まだ、私は無力だ。
水華の鞘を強く握り締め、目眩を気力で振り払い、立ち上がる。
「まちちゃん」
「はい?」
声の主を顧みると、腰ほどの高さから、私を真っ直ぐに見据えているヤヨイさんの姿があった。
「何か……」
「これから先は何があっても、真っ先に守るのは自分にして、なの」
「な、何を言うんですか。商隊を護るのが我々の務めだと……」
ヤヨイさんは
「ヤヨイも、自分を真っ先に守るから。約束、なの」
答えない
場にそぐわない生暖かい風を纏い、黒い影が降ってきた。
「あの出で立ちは!」
峡谷に金属音が木霊する。
二振りの小刀を眼前で交差させ、ヤヨイさんは三日月のように湾曲した大刀を受け止めていた。
「まさか、内部に敵がいたというのか!?」
黒装束で身を包んだ女は、身丈ほどある大刀を軽々と振り上げる。
華奢な体躯からとは思えないほどの力で、女はヤヨイさんを吹き飛ばした。
「ヤヨイさん!」
駆け出そうとした私の目の前に、女が立ちはだかる。
近くで見れば、確かだ。
女はヤヨイさんと全く同じ服装をしていた。
「やはり貴様は……隠密の……!」
しかし驚いている暇はなかった。
鋭利な手裏剣が雨のように降ってくる。
飛び退くと同時に、水華を抜く。
振り向きざまに後方に斬り込むと、高い金属音が響いた。
「何故、貴様がここに!? ……親方さんたちはどうし」
「一族のために、
「
瞬間、手元で閃光が迸る。
赤い砂利を巻き上げ、爆音が大地を揺るがす。
断崖に叩きつけられ、衝撃で全身に激痛が走った。
「ぐ……っ!」
視界は真っ白。
耳鳴りが響いて五感が鈍る。
遠くの方で、不吉な音が聞こえた気がした。
「まちちゃん!」
ヤヨイさんの声が私を呼ぶのと、身体が宙に浮くのはほぼ同時。
蹴り飛ばされた私は、突如現れた純白の壁を呆然と見上げた。
「ヤヨイさん……? ヤヨイさん!?」
目の前にあるそれは、つい先ほど商隊を襲ったものと同じ。
だが、その大きさは先刻の比ではなかった。
商隊を丸ごと飲み込むほどの巨大な白き化け物。
人は、自然の力には遠く及ばない。
一瞬にして全てを飲み込んだ雪崩は、私にその力を悠々と見せつける。
ヤヨイさんはさっき何と言った。
その自分が差すものは、私。
己自身を真っ先に守れと。
だから、ヤヨイさんも
「ばかだ……私は……!」
傍らに横たわる水華の刀身。
愚かで救いようのない使い手の顔を映して。
這うように身体を引きずり、無言の相方を握り締める。
白刃は手の平に食い込み、朱の糸が冷たい大地に流れ落ちた。
痛みなど、感じない。
感じるのは、やり場のない自分への苛立ち。
ヤヨイさんは、己自身を指す時「自分」とは言わない。
必ず、名だけで言霊にする。
己自身で名を呼ぶ時は、より強固な言霊になるから。
「あの時に、言った〝自分〟は……」
初任務の時に言われた、言霊。
同じ台詞のはずなのに、記憶は曖昧で。
どうしようもなく、己に落胆する。
「繋がっていたのに……!」
気付いた時には、手は届かない。
そう、言霊は繋がっていて。
忘れていた、陽炎の言霊。
DISERD extra chapter*陽炎 --
立ち止まってはいけない。
振り返ってはいけない。
前に、進まなければ。
何があろうと、前へ、前へ。
◇ ◇ ◇
目の前は雪の壁。
後ろも右も底の見えない谷間。
残された道はただ一つ。
私は、敵が逃げたと思われる唯一の道、赤褐色の断崖を見上げた。
水華を支えにして跳躍すれば、登れないことはない。
躊躇している暇[ はないのだ。
頬を濡らした水滴を拭い、水華の柄を握り締める。
「逃がす、ものか……!」
このままでは終われない。
強く、強く、大地を蹴った。
山頂まであと僅か、というところまで来ていたのだ。
断崖といえども、数歩跳躍すれば平地が見えた。
純白の絨毯に模様を描くかのように、所々青緑の草花が顔を覗かせている。
そんな平地に一際目立つ一軒家。赤い土で塗り固められた壁には亀裂が入り、今にも崩れそうな状態だ。
「これは、確か……」
この山を所有している者の家。
記憶通りなら、ここは隠密の頭領が管轄しているはずだ。
そっと扉に手を当てる。
中から微かに音が伝わってきた。
誰か、いるのだろうか。
静かに扉を押し開けると、耳に残っている声がした。
「はい、ユーラ様。本隊は私[ 自身が手を下し、先程」
一つは先刻対峙した敵の声。
それに驚いたわけではない。
もう一つは。
『ご苦労だったねぇ~。ヒオリ』
忘れるはずもない。
この声は、下弦の乱で聞いた、鴉[ の。
「貴様が裏で糸を引いていたのか!」
勢いよく扉を開け放し、女と会話する漆黒の鴉に鋒[ を向ける。
『ヒオリ、詰めが甘いわ~。ほら、まだキヨミの娘が生きてるじゃな~い』
「ネビセ……! 貴様っ!!」
斬り込んだ刃は鴉を裂くはずだった。
しかし、湾曲した大刀に阻まれる。
速さを纏った二本の衝突は、高い金属音と共に火花を生んだ。
「ユーラ様には指一本触れさせん!」
「く……! 貴様、何をしたかわかっているのか!? 我が一族を、裏切ったのだぞ!?」
「黙れ。主[ のような浅慮な者に、ユーラ様の崇高なるお考えなど理解できぬじゃろう!」
重い。
弾き返される。
二歩退き、間合いを開く。
「貴様、名をヒオリと言ったな? 貴様が護衛派遣された先遣隊はどうした!?」
「あれは囮部隊。邪魔者は消去するのみよ」
「何だと!?」
ヒオリが懐から黒い短冊を取り出す。
あれは本家以外の人間が扱う符術の呪具。
「焔舞[ !」
瞬時にして小屋が炎に包まれた。
だが、炎に躊躇している余裕はない。
再び大刀が降りかかってきた。
太刀音が響く。
「ここで主も終いじゃ」
『ヒオリ、あんたももういいわ。その小娘と一緒に死んじゃって』
「何だと? ネビセ、貴様っ……!」
「ユーラ様のお言葉、心得た」
あり得ない。
命令だろうと、己の命をこうも簡単に手放すというのか。
その疑念に答えるかのように、剣戟の最中、ヒオリは無表情で呟いた。
「これで、一族の安泰が約束される」
「それはどういう意味だ?」
突き出された凶刃を、水華の白刃で受け止める。
「答えろ!!」
「そのような鈍刀[ を振り回している主などに、本当に我ら一族を託せるとでも思うのか?」
言葉に、反応が鈍る。
一瞬の隙を、ヒオリは逃さなかった。
私のみぞおちに蹴りを入れ、大刀で水華を薙ぎ払う。
「ぐ……!」
カシャンという音が、私の劣勢を伝えた。
「あの有能だったリュウジ様を追い出し、名すら与えられていないのに水華を手に取り、その弱さでよく今日[ まで生き延びたもんじゃ」
そろそろと身体を動かし、水華に手を伸ばす。
「主が手に取れば、一族一の名刀水華も鈍刀に様変わりするのだ!」
水華に指先が触れた時、大刀が腕を落とさんと振り下ろされた。
間に、合わない……!
『貴様、仮にもこの水華に鈍[ などとよく吐けたものだな』
場にそぐわない凛とした声音が、大刀の動きを止める。
「主は……主は……!?」
『私に名を訊くとは大それたことを』
「な、何故貴女が……!」
眼前に立つ優美な女性。
全身を澄んだ空色の布で包み、白藍の髪をなびかせる。
金色 の角を輝かせ、透き通る耳はひれのような形状。
間違いない。
このお方は守り神の長[ 、水龍様。
『使い手よ、自惚れるな。貴様を認めたわけではない。私は私の名を保つために舞い降りた』
「力及ばず……申し訳ないです……!」
『戯け。謝辞の言葉なんぞ聞きたくもない。無駄口を叩く暇があるのなら、早く水華を手に取るのだ』
「は、はい……!」
力が入らない四肢を叱咤して、水華を握る。
よろめきながらも、敵の瞳は真っ直ぐ見据えた。
「往生際の悪い女め……!」
『それは、貴様だ』
横一線に振り切った水華は、刀とは思えないほど軽かった。
先刻押し返された大刀を易々と弾く。
『他愛のない……』
頭[ を一つ振ると、スイカ様は姿を消した。
「す、スイカ様!?」
「何故だ!? 何故主がぁああああ!!」
半狂乱になったヒオリが大刀を振り上げる。
『終わりだわ~……』
少し物足りなそうに鴉が呟くと、ヒオリの大刀が砕け散った。
あの一振りで、片はついていたのだ。
「く、主など、ここで死ぬのだ!!」
「待て、ヒオリ!」
「焔舞、焔舞、焔舞!!」
瞬間、ヒオリの身体が赤い閃光で包まれる。
爆音が轟き、小屋は深紅の炎で覆われた。
先程より勢力を増した炎たちは、中にいる者を飲み込もうと、盛んに息巻く。
「く……出口がっ」
爆発の衝撃で壁に叩きつけられた私は、立ち上がるのがやっとだった。
一歩、前に足を出す。
しかし膝は折れ、無様に頬を床に打ち付けた。
「くそ……!」
私を見下ろすように、鴉が窓際から飛んでくる。
「貴様、ヒオリに何を吹き込んだ……!」
ヒオリという名は聞いたことがある。
誇り高く、一族のことを重んじる人だ、と。
『あ~? この任務を抹消してくれたら、あんたたちスワロウ族にこれ以上攻撃はしないって言ったわぁ。随分すんなり信じたわよ、あの子。お陰でかなり楽だったわ。そんな約束、こちらが守ると思っているのかしらねぇ~?』
「外道が……!!」
『ふふふ。あんたがキヨミの娘だっていうなら、生き延びてみせるんだねぇ~、小娘』
にぃっと嗤った鴉は、窓を突き破り、炎の海から姿を消した。
猛る業火が急激に小屋を蝕んでいく。
ここから、出なければ。
腕が、手が、指先が、外を求め、あてもなく彷徨う。
生き延びなければ。生きて、帰らなければ。
ヤヨイさんの想いを無駄にするわけにはいかない。
ヤヨイ、さん……
ごめんなさい、私は、私は、こんなにも無力で。
もし水龍様が現れなかったら、負けていた。
もっと強くならなければいけない。ここを出て、強く。
動けと念じてみるが、身体は眠ったように動かなかった。
四肢は鉄のように重く、休めと要求してくる。
瞼が下がり、徐々に視界が狭まっていった。
もう、動けない……。
最後まであがいていた左手が、力なく床にひれ伏した。
「ここで、死ぬのかな……」
ずっとずっと、修行してきたから、少しは追いつけたかなって思っていたのに。
まだ私は、あの頃のミズナのまま。アキラを傷つけた、弱いミズナのままで。
ごめん、ごめんね、アキラ。
ごめんなさい、兄さま。
霞む視界を見つめながら、目を細めた。
山吹色に照らし出される水華が眩しい。
どうして水龍様は助けてくれたのだろう。
何度呼びかけても、あれから彼女の声は聞こえない。
龍は、本当に気まぐれ。
ねぇ、母さま。
母さまはどうして ……
水面[ に波紋を描く雫たち。
薄れゆく意識の中で、木霊するものは。
雫の調べ。
振り返ってはいけない。
前に、進まなければ。
何があろうと、前へ、前へ。
◇ ◇ ◇
目の前は雪の壁。
後ろも右も底の見えない谷間。
残された道はただ一つ。
私は、敵が逃げたと思われる唯一の道、赤褐色の断崖を見上げた。
水華を支えにして跳躍すれば、登れないことはない。
躊躇している
頬を濡らした水滴を拭い、水華の柄を握り締める。
「逃がす、ものか……!」
このままでは終われない。
強く、強く、大地を蹴った。
山頂まであと僅か、というところまで来ていたのだ。
断崖といえども、数歩跳躍すれば平地が見えた。
純白の絨毯に模様を描くかのように、所々青緑の草花が顔を覗かせている。
そんな平地に一際目立つ一軒家。赤い土で塗り固められた壁には亀裂が入り、今にも崩れそうな状態だ。
「これは、確か……」
この山を所有している者の家。
記憶通りなら、ここは隠密の頭領が管轄しているはずだ。
そっと扉に手を当てる。
中から微かに音が伝わってきた。
誰か、いるのだろうか。
静かに扉を押し開けると、耳に残っている声がした。
「はい、ユーラ様。本隊は
一つは先刻対峙した敵の声。
それに驚いたわけではない。
もう一つは。
『ご苦労だったねぇ~。ヒオリ』
忘れるはずもない。
この声は、下弦の乱で聞いた、
「貴様が裏で糸を引いていたのか!」
勢いよく扉を開け放し、女と会話する漆黒の鴉に
『ヒオリ、詰めが甘いわ~。ほら、まだキヨミの娘が生きてるじゃな~い』
「ネビセ……! 貴様っ!!」
斬り込んだ刃は鴉を裂くはずだった。
しかし、湾曲した大刀に阻まれる。
速さを纏った二本の衝突は、高い金属音と共に火花を生んだ。
「ユーラ様には指一本触れさせん!」
「く……! 貴様、何をしたかわかっているのか!? 我が一族を、裏切ったのだぞ!?」
「黙れ。
重い。
弾き返される。
二歩退き、間合いを開く。
「貴様、名をヒオリと言ったな? 貴様が護衛派遣された先遣隊はどうした!?」
「あれは囮部隊。邪魔者は消去するのみよ」
「何だと!?」
ヒオリが懐から黒い短冊を取り出す。
あれは本家以外の人間が扱う符術の呪具。
「
瞬時にして小屋が炎に包まれた。
だが、炎に躊躇している余裕はない。
再び大刀が降りかかってきた。
太刀音が響く。
「ここで主も終いじゃ」
『ヒオリ、あんたももういいわ。その小娘と一緒に死んじゃって』
「何だと? ネビセ、貴様っ……!」
「ユーラ様のお言葉、心得た」
あり得ない。
命令だろうと、己の命をこうも簡単に手放すというのか。
その疑念に答えるかのように、剣戟の最中、ヒオリは無表情で呟いた。
「これで、一族の安泰が約束される」
「それはどういう意味だ?」
突き出された凶刃を、水華の白刃で受け止める。
「答えろ!!」
「そのような
言葉に、反応が鈍る。
一瞬の隙を、ヒオリは逃さなかった。
私のみぞおちに蹴りを入れ、大刀で水華を薙ぎ払う。
「ぐ……!」
カシャンという音が、私の劣勢を伝えた。
「あの有能だったリュウジ様を追い出し、名すら与えられていないのに水華を手に取り、その弱さでよく
そろそろと身体を動かし、水華に手を伸ばす。
「主が手に取れば、一族一の名刀水華も鈍刀に様変わりするのだ!」
水華に指先が触れた時、大刀が腕を落とさんと振り下ろされた。
間に、合わない……!
『貴様、仮にもこの水華に
場にそぐわない凛とした声音が、大刀の動きを止める。
「主は……主は……!?」
『私に名を訊くとは大それたことを』
「な、何故貴女が……!」
眼前に立つ優美な女性。
全身を澄んだ空色の布で包み、白藍の髪をなびかせる。
間違いない。
このお方は守り神の
『使い手よ、自惚れるな。貴様を認めたわけではない。私は私の名を保つために舞い降りた』
「力及ばず……申し訳ないです……!」
『戯け。謝辞の言葉なんぞ聞きたくもない。無駄口を叩く暇があるのなら、早く水華を手に取るのだ』
「は、はい……!」
力が入らない四肢を叱咤して、水華を握る。
よろめきながらも、敵の瞳は真っ直ぐ見据えた。
「往生際の悪い女め……!」
『それは、貴様だ』
横一線に振り切った水華は、刀とは思えないほど軽かった。
先刻押し返された大刀を易々と弾く。
『他愛のない……』
「す、スイカ様!?」
「何故だ!? 何故主がぁああああ!!」
半狂乱になったヒオリが大刀を振り上げる。
『終わりだわ~……』
少し物足りなそうに鴉が呟くと、ヒオリの大刀が砕け散った。
あの一振りで、片はついていたのだ。
「く、主など、ここで死ぬのだ!!」
「待て、ヒオリ!」
「焔舞、焔舞、焔舞!!」
瞬間、ヒオリの身体が赤い閃光で包まれる。
爆音が轟き、小屋は深紅の炎で覆われた。
先程より勢力を増した炎たちは、中にいる者を飲み込もうと、盛んに息巻く。
「く……出口がっ」
爆発の衝撃で壁に叩きつけられた私は、立ち上がるのがやっとだった。
一歩、前に足を出す。
しかし膝は折れ、無様に頬を床に打ち付けた。
「くそ……!」
私を見下ろすように、鴉が窓際から飛んでくる。
「貴様、ヒオリに何を吹き込んだ……!」
ヒオリという名は聞いたことがある。
誇り高く、一族のことを重んじる人だ、と。
『あ~? この任務を抹消してくれたら、あんたたちスワロウ族にこれ以上攻撃はしないって言ったわぁ。随分すんなり信じたわよ、あの子。お陰でかなり楽だったわ。そんな約束、こちらが守ると思っているのかしらねぇ~?』
「外道が……!!」
『ふふふ。あんたがキヨミの娘だっていうなら、生き延びてみせるんだねぇ~、小娘』
にぃっと嗤った鴉は、窓を突き破り、炎の海から姿を消した。
猛る業火が急激に小屋を蝕んでいく。
ここから、出なければ。
腕が、手が、指先が、外を求め、あてもなく彷徨う。
生き延びなければ。生きて、帰らなければ。
ヤヨイさんの想いを無駄にするわけにはいかない。
ヤヨイ、さん……
ごめんなさい、私は、私は、こんなにも無力で。
もし水龍様が現れなかったら、負けていた。
もっと強くならなければいけない。ここを出て、強く。
動けと念じてみるが、身体は眠ったように動かなかった。
四肢は鉄のように重く、休めと要求してくる。
瞼が下がり、徐々に視界が狭まっていった。
もう、動けない……。
最後まであがいていた左手が、力なく床にひれ伏した。
「ここで、死ぬのかな……」
ずっとずっと、修行してきたから、少しは追いつけたかなって思っていたのに。
まだ私は、あの頃のミズナのまま。アキラを傷つけた、弱いミズナのままで。
ごめん、ごめんね、アキラ。
ごめんなさい、兄さま。
霞む視界を見つめながら、目を細めた。
山吹色に照らし出される水華が眩しい。
どうして水龍様は助けてくれたのだろう。
何度呼びかけても、あれから彼女の声は聞こえない。
龍は、本当に気まぐれ。
ねぇ、母さま。
母さまはどうして
薄れゆく意識の中で、木霊するものは。
雫の調べ。
DISERD extra chapter*陽炎 -epilogue-
水がせせらぎ、七色のきらめきを放つ。小石と小石の合間に煌めくそれは宝石のようだった。
水は、どこから流れてくるのだろうか。
どこまでも澄み切った道は、始まりも終わりも見えない。ただ私の前を、静かに流れている。
ふと、懐かしい気配に顧みると、そこには会えるはずもない人がいた。
「か、母さま……?」
夢か、幻か。
どちらでも構わない。
会えたことがただ嬉しくて、無意識に駆け出す。
「母さま!」
遠い昔に失ってしまった温もり。
長い黒髪をなびかせる母さまは、そっと両手を差し出す。
その手に乗っている一振りは。
「これ……は……」
蓮を象った鍔[ に漆黒の鞘。
ずっとずっと昔に、母さまが使っていた刀。
顔を上げ、視線を刀から母さまに移す。
微笑みを顔に浮かべ、母さまはゆっくりと頷いた。
いってらっしゃい、ミズナ
◇ ◇ ◇
誰だろう。
誰かが呼んでいる。
「……ん、……ちゃん、まちちゃん!」
「ヤ、ヨイさん……? そ、れ……に……」
「気がついたッスか、お松さん」
「カツナリさん!」
かばりと起こした身体に、痛みが走る。
僅かに顔を歪めると、ヤヨイさんが首を傾けて覗き込んできた。
「無理しちゃダメなの。まちちゃんあのままだったら、真っ黒になってたの」
どうやらここは山頂の平地のようだ。
漆黒の灰と化した小屋を、目を細めて見やる。
「ヤヨイさんが、あの小屋から……」
語尾が掠れた問いに答えたのは、カツナリさんだった。
「違うッスよ。俺らが来た時には、お松さん小屋から出てたッスから。だいたい先輩は俺に助けられて……あだっ!」
「ヤヨイたちと似たような格好してて、髪も真っ黒な人が、まちちゃん助けてくれたの」
ヤヨイさんはカツナリさんの頭を華麗に蹴り飛ばし、例の如く座布団にする。
「俺が焔舞で雪を溶かしたから、先輩、助かったんスよ」
低く唸るカツナリさんを黙殺し、ヤヨイさんは身振り手振りを交えて、私を助けた人物について語っていた。
「見たこと無い人だったの。格好だけはほんとにヤヨイたちに似てたんだけど……。あ、目だけ緑だったの。深い緑だったの」
「俺ら、隠密じゃねぇッスよ。先輩が知らねぇヤツはいねぇッスから」
抵抗を諦めたのか、カツナリさんもヤヨイさんの話に付け加える。
「その方はどこに……」
「もう行っちゃったの。何もしゃべらなかったの」
「俺らの仲間ってことはわかったんスけど、誰だかはさっぱり」
「そう、ですか……」
肩をすくめる二人の様子を見ると、本当に知らない人のようだ。
一体、誰が助けてくれたのだろうか。
烏が出て行った後、業火の中で力尽きて……
意識が途切れる寸前のことを思い出し、慌てて二人の顔を見る。
「そ、それよりも。お二人ともどうしてここに? カツナリさんは今までどこに……」
ごく自然に出た問いを投げかけたのだが、カツナリさんは決まりの悪そうに眉間にしわを寄せた。
「俺はヒオリを介して先遣隊との連絡を取ってたわけッス。出発前夜にもヒオリから呼び出されて、例の遺跡に行ったんスけど……」
「はげぴょん閉じこめられたの」
さも馬鹿にしたように、ヤヨイさんがカツナリさんの頭をぺしぺしと叩く。
「ちょっと油断したんスよ。まさかヒオリが黒幕だとは思わなかったッスから」
「それで、どうやってここまで来たんですか?」
「遺跡に生き埋めにされたんスけど、遺跡の石全部斬って、出たときには夜だったわけッス。それから先輩たちの後を急いで追ったんスが、峡谷の道が崩れてるわ、雪で行き止まりになってるわで」
はぁ、と一つため息をついて言葉を繋げる。
「んで、その邪魔な雪を溶かしたら先輩が出てき……ぐぇっ!」
しかし、最後まで言い切る前に、大地にひれ伏した。
ヤヨイさんに頭を足蹴にされて。
「道は上しかなかったから、断崖を登ってきたの。ほんと、はげぴょん今回役立たずだったのっ」
「……そ、そうだったんですか。商隊の方たちは……?」
「先輩と同じ雪に埋もれてた人は無事ッスよ」
「よかった……」
それでも、初回の雪崩に巻き込まれた人たちは。
自分の情けなさに拳を握り締める。
一番役立たずだったのは、私だ。
私一人では、何もできなかった。
そっと握りしめていた手を開くと、ひとひらの雪が舞い降りた。
「これは……」
「また、雪なの」
「もう春なのによく降るッスねぇ」
降り注ぐこれは、任務中何度も見た、粉雪。
手の中に降り立つと、溶け込むようにしてその姿を消す。
大地に降りた者も、小屋に降りる者も。
そうして舞い降りては、溶け込み……
「雪は……」
掠れた声で呟いた言葉は、自分が思うより大きかったようだ。
相変わらずヤヨイさんの座布団になっているカツナリさんが、目で尋ねてくる。
「何スか? 雪が?」
「雨が、神さまの涙なら……雪は何だろうな、と」
風の中を踊りながら落ちてくる粉雪を見上げ、幼い頃の疑問を呟く。
「雪は、浄化らしいッスよ」
「じょ、浄化……?」
まさかカツナリさんから答えが返ってくるとは思っていなかった。
ヤヨイさんを背に乗せたまま、頬杖をつく。
そして、どこか遠くを見つめるようにカツナリさんは笑った。
「お袋からそう聞いたって、リュウジが言ってたッス」
「兄さまが……」
「一年の終わりに、その年の禍[ を清めるために降る。って言ってたッスよ」
一年の終わり。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。
また、新たな春を迎えるために、年の終わりには雪が降る。
「彼女も浄化されるのだろうか……」
「ひおりちゃんなら、大丈夫なの」
「ヤヨイさん……」
私よりも遙かに長い時を、ヤヨイさんたちは過ごしてきたのだ。
あの、彼女と。
「きっと、大丈夫……なの」
微笑んだヤヨイさんの目尻がきらりと光る。
無言で空を見上げるカツナリさんも、想いは同じなのだろうか。
追悼の雪が、灰となった小屋の上にひらひらと舞い降りていた。
◇ ◇ ◇
あれは三年前の春のこと。
境内の一角にある池の畔で、私は舞いゆく花弁を眺めながら、回想にふけっていた。
多くの課題を残したあの任務は、失敗ではなかった。
本当に古文書を運んでいたのは、本隊でもなければ、もちろん先遣隊でもなく。
たった一人の商人がそれを裏でこなしたのだと。
村に戻った私は父上から聞かされたのだ。
ただ一つだけ、謎のままだったのは。
「結局、わからず終いだったな……」
「なぁに、しけた顔しとるんや?」
突如降ってきた苦手な声に、怒気を含んだ言葉を返す。
「貴様には関係ないことだ」
「えらぃ悩んでるみたいやなぁ? 何や何や、好きな人でもできたんか?」
「阿呆! ふざけたことを抜かすな!」
社の前で刀は抜かない。
一年前に茶化されたことを思い出し、刀ではなく、手刀を叩き込む。
しかし、読まれていたのか、右手はあっさりその男に掴まれた。
「あかんて、おなごがそないに技ぁ出したら。あんさんカルシウムが足りないんとちゃう?」
顔を覗き込むようにして、男は私に目線の高さを合わせてくる。
「たっ……戯け! 離れろ!」
「おー、おー。おっかないわぁ~」
平手をひらりとかわし、ちょうど一年前に帰ってきた幼馴染みは、背後に佇む神木を顧みた。
今年は、もう満開の花が咲いている。
彼の後ろ姿を見つめながら、私は何度も深呼吸を繰り返した。
そんなわけがない。
あの任務で、アキラは古文書を極秘で届けていたのだから。
私たちとは違う道を通って。
全身が早鐘を打つ。
うるさいほどの鼓動が耳に響いた。
でも、あれは……
「どないしたん? 顔真っ赤やでぇ?」
「う、うるさい!!」
「あ~、ホンマ昔っから短気やなぁ」
飄々[ と笑みを浮かべる様は無邪気で。
八年前までの幼い面影を思い出す。
「貴様には、関係、ない」
歯切れなく呟いて、こめかみを押さえる。
こんな阿呆が、あの場所にいるはずがないのだ。
だいたい、ヤヨイさんたちは寡黙な人だったと言っていた。
寡黙という言葉が、この男に当てはまるはずがない。
それなのに、何故だろう。
霧が晴れたような気がするのは。
そして、何故だろう。
「……礼が、言いたかったんだ」
誰にも言わなかったことを、口にしてしまったのは。
「礼?」
「落としかけた命を救ってくれた人に、礼が言いたかったんだ」
でも、気付いたときにはいなくて。
「それで言えなかったから」
「礼なんか言わへんでもええんとちゃう?」
「なっ……」
「せやろ? 目ぇ覚めたときにおらんかったっちゅうことは、別に礼なんかいらんっちゅうことやんか」
珍しく真面目な顔つきで言ったアキラは、舞いゆく花弁を一枚掴む。
「どうしても礼がしたい言うんやったら、生きとればええ」
柔らかく微笑んだ表情は、いつものアキラじゃなくて。
その眼差しは温かく、穏やかで。
「ただ、生きとればええんや。……あんさんも、そう思うやろ?」
黒き髪を風に遊ばせ、アキラは神木を振り返った。
確証は、ない。
でも私は知っている。
あんな表情は初めて見た、と思った。
「初めてじゃ……なかった」
「何や言うたか?」
「いや、何も」
揺らぐ炎の中で。
響く雫の音と共に、朧気に見えたそれは。
穏やかな、深い緑の眼差し。
いらないって言ったけど、それでも。
その笑顔に、小さく呟く。
ありがとう
Fin.
水は、どこから流れてくるのだろうか。
どこまでも澄み切った道は、始まりも終わりも見えない。ただ私の前を、静かに流れている。
ふと、懐かしい気配に顧みると、そこには会えるはずもない人がいた。
「か、母さま……?」
夢か、幻か。
どちらでも構わない。
会えたことがただ嬉しくて、無意識に駆け出す。
「母さま!」
遠い昔に失ってしまった温もり。
長い黒髪をなびかせる母さまは、そっと両手を差し出す。
その手に乗っている一振りは。
「これ……は……」
蓮を象った
ずっとずっと昔に、母さまが使っていた刀。
顔を上げ、視線を刀から母さまに移す。
微笑みを顔に浮かべ、母さまはゆっくりと頷いた。
◇ ◇ ◇
誰だろう。
誰かが呼んでいる。
「……ん、……ちゃん、まちちゃん!」
「ヤ、ヨイさん……? そ、れ……に……」
「気がついたッスか、お松さん」
「カツナリさん!」
かばりと起こした身体に、痛みが走る。
僅かに顔を歪めると、ヤヨイさんが首を傾けて覗き込んできた。
「無理しちゃダメなの。まちちゃんあのままだったら、真っ黒になってたの」
どうやらここは山頂の平地のようだ。
漆黒の灰と化した小屋を、目を細めて見やる。
「ヤヨイさんが、あの小屋から……」
語尾が掠れた問いに答えたのは、カツナリさんだった。
「違うッスよ。俺らが来た時には、お松さん小屋から出てたッスから。だいたい先輩は俺に助けられて……あだっ!」
「ヤヨイたちと似たような格好してて、髪も真っ黒な人が、まちちゃん助けてくれたの」
ヤヨイさんはカツナリさんの頭を華麗に蹴り飛ばし、例の如く座布団にする。
「俺が焔舞で雪を溶かしたから、先輩、助かったんスよ」
低く唸るカツナリさんを黙殺し、ヤヨイさんは身振り手振りを交えて、私を助けた人物について語っていた。
「見たこと無い人だったの。格好だけはほんとにヤヨイたちに似てたんだけど……。あ、目だけ緑だったの。深い緑だったの」
「俺ら、隠密じゃねぇッスよ。先輩が知らねぇヤツはいねぇッスから」
抵抗を諦めたのか、カツナリさんもヤヨイさんの話に付け加える。
「その方はどこに……」
「もう行っちゃったの。何もしゃべらなかったの」
「俺らの仲間ってことはわかったんスけど、誰だかはさっぱり」
「そう、ですか……」
肩をすくめる二人の様子を見ると、本当に知らない人のようだ。
一体、誰が助けてくれたのだろうか。
烏が出て行った後、業火の中で力尽きて……
意識が途切れる寸前のことを思い出し、慌てて二人の顔を見る。
「そ、それよりも。お二人ともどうしてここに? カツナリさんは今までどこに……」
ごく自然に出た問いを投げかけたのだが、カツナリさんは決まりの悪そうに眉間にしわを寄せた。
「俺はヒオリを介して先遣隊との連絡を取ってたわけッス。出発前夜にもヒオリから呼び出されて、例の遺跡に行ったんスけど……」
「はげぴょん閉じこめられたの」
さも馬鹿にしたように、ヤヨイさんがカツナリさんの頭をぺしぺしと叩く。
「ちょっと油断したんスよ。まさかヒオリが黒幕だとは思わなかったッスから」
「それで、どうやってここまで来たんですか?」
「遺跡に生き埋めにされたんスけど、遺跡の石全部斬って、出たときには夜だったわけッス。それから先輩たちの後を急いで追ったんスが、峡谷の道が崩れてるわ、雪で行き止まりになってるわで」
はぁ、と一つため息をついて言葉を繋げる。
「んで、その邪魔な雪を溶かしたら先輩が出てき……ぐぇっ!」
しかし、最後まで言い切る前に、大地にひれ伏した。
ヤヨイさんに頭を足蹴にされて。
「道は上しかなかったから、断崖を登ってきたの。ほんと、はげぴょん今回役立たずだったのっ」
「……そ、そうだったんですか。商隊の方たちは……?」
「先輩と同じ雪に埋もれてた人は無事ッスよ」
「よかった……」
それでも、初回の雪崩に巻き込まれた人たちは。
自分の情けなさに拳を握り締める。
一番役立たずだったのは、私だ。
私一人では、何もできなかった。
そっと握りしめていた手を開くと、ひとひらの雪が舞い降りた。
「これは……」
「また、雪なの」
「もう春なのによく降るッスねぇ」
降り注ぐこれは、任務中何度も見た、粉雪。
手の中に降り立つと、溶け込むようにしてその姿を消す。
大地に降りた者も、小屋に降りる者も。
そうして舞い降りては、溶け込み……
「雪は……」
掠れた声で呟いた言葉は、自分が思うより大きかったようだ。
相変わらずヤヨイさんの座布団になっているカツナリさんが、目で尋ねてくる。
「何スか? 雪が?」
「雨が、神さまの涙なら……雪は何だろうな、と」
風の中を踊りながら落ちてくる粉雪を見上げ、幼い頃の疑問を呟く。
「雪は、浄化らしいッスよ」
「じょ、浄化……?」
まさかカツナリさんから答えが返ってくるとは思っていなかった。
ヤヨイさんを背に乗せたまま、頬杖をつく。
そして、どこか遠くを見つめるようにカツナリさんは笑った。
「お袋からそう聞いたって、リュウジが言ってたッス」
「兄さまが……」
「一年の終わりに、その年の
一年の終わり。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来る。
また、新たな春を迎えるために、年の終わりには雪が降る。
「彼女も浄化されるのだろうか……」
「ひおりちゃんなら、大丈夫なの」
「ヤヨイさん……」
私よりも遙かに長い時を、ヤヨイさんたちは過ごしてきたのだ。
あの、彼女と。
「きっと、大丈夫……なの」
微笑んだヤヨイさんの目尻がきらりと光る。
無言で空を見上げるカツナリさんも、想いは同じなのだろうか。
追悼の雪が、灰となった小屋の上にひらひらと舞い降りていた。
◇ ◇ ◇
あれは三年前の春のこと。
境内の一角にある池の畔で、私は舞いゆく花弁を眺めながら、回想にふけっていた。
多くの課題を残したあの任務は、失敗ではなかった。
本当に古文書を運んでいたのは、本隊でもなければ、もちろん先遣隊でもなく。
たった一人の商人がそれを裏でこなしたのだと。
村に戻った私は父上から聞かされたのだ。
ただ一つだけ、謎のままだったのは。
「結局、わからず終いだったな……」
「なぁに、しけた顔しとるんや?」
突如降ってきた苦手な声に、怒気を含んだ言葉を返す。
「貴様には関係ないことだ」
「えらぃ悩んでるみたいやなぁ? 何や何や、好きな人でもできたんか?」
「阿呆! ふざけたことを抜かすな!」
社の前で刀は抜かない。
一年前に茶化されたことを思い出し、刀ではなく、手刀を叩き込む。
しかし、読まれていたのか、右手はあっさりその男に掴まれた。
「あかんて、おなごがそないに技ぁ出したら。あんさんカルシウムが足りないんとちゃう?」
顔を覗き込むようにして、男は私に目線の高さを合わせてくる。
「たっ……戯け! 離れろ!」
「おー、おー。おっかないわぁ~」
平手をひらりとかわし、ちょうど一年前に帰ってきた幼馴染みは、背後に佇む神木を顧みた。
今年は、もう満開の花が咲いている。
彼の後ろ姿を見つめながら、私は何度も深呼吸を繰り返した。
そんなわけがない。
あの任務で、アキラは古文書を極秘で届けていたのだから。
私たちとは違う道を通って。
全身が早鐘を打つ。
うるさいほどの鼓動が耳に響いた。
でも、あれは……
「どないしたん? 顔真っ赤やでぇ?」
「う、うるさい!!」
「あ~、ホンマ昔っから短気やなぁ」
八年前までの幼い面影を思い出す。
「貴様には、関係、ない」
歯切れなく呟いて、こめかみを押さえる。
こんな阿呆が、あの場所にいるはずがないのだ。
だいたい、ヤヨイさんたちは寡黙な人だったと言っていた。
寡黙という言葉が、この男に当てはまるはずがない。
それなのに、何故だろう。
霧が晴れたような気がするのは。
そして、何故だろう。
「……礼が、言いたかったんだ」
誰にも言わなかったことを、口にしてしまったのは。
「礼?」
「落としかけた命を救ってくれた人に、礼が言いたかったんだ」
でも、気付いたときにはいなくて。
「それで言えなかったから」
「礼なんか言わへんでもええんとちゃう?」
「なっ……」
「せやろ? 目ぇ覚めたときにおらんかったっちゅうことは、別に礼なんかいらんっちゅうことやんか」
珍しく真面目な顔つきで言ったアキラは、舞いゆく花弁を一枚掴む。
「どうしても礼がしたい言うんやったら、生きとればええ」
柔らかく微笑んだ表情は、いつものアキラじゃなくて。
その眼差しは温かく、穏やかで。
「ただ、生きとればええんや。……あんさんも、そう思うやろ?」
黒き髪を風に遊ばせ、アキラは神木を振り返った。
確証は、ない。
でも私は知っている。
あんな表情は初めて見た、と思った。
「初めてじゃ……なかった」
「何や言うたか?」
「いや、何も」
揺らぐ炎の中で。
響く雫の音と共に、朧気に見えたそれは。
穏やかな、深い緑の眼差し。
いらないって言ったけど、それでも。
その笑顔に、小さく呟く。
Fin.