第1記 はじまり
土砂降りの雨の中、少年は当てもなく疾走していた。
時折水溜りを踏みつけるが、跳ね返る泥水などまるで気にも止めず、ただ走り続ける。
服や髪が張り付いた肌から、雨滴が体温を奪っていく。
それでも、抑えきれない痛みと哀しみを抱いた少年は、身体から湧き上がる熱に顔を歪めた。
目頭が、喉が、胸が、焼けるように熱い。
眼前に崖が広がっていることを見とめて、足を止める。下は底が見えない渓谷だ。
切り立つ岩壁を切り裂くように、豪水が渓谷へと落ちている。周りの木々を打つ雨音は、その豪快な滝の音に掻き消されていた。
血が滲むほど唇を噛みしめて、ずぶ濡れの顔を天へ向ける。
「どうして……!」
何故だ。わからない。
そんなことは、知らない。そんなことは、覚えていない。
淡い微笑みを浮かべる老人に、そう叫んだ己を思い起こし、俯 いて嗚咽を漏らす。
なんて自分勝手なのだろうか。
「わかんねぇよ、じっちゃん……」
老人は、微笑を浮かべたまま息を引き取った。
彼は幸せだったのだろうか。
「わかんねぇ、おれには、わかんないよ」
言葉を絞り出す唇を、水が濡らしていく。それは雨滴なのか、それとも別の雫なのか。
ごめんなさい。謝るから、だから、置いて逝かないで。
己の声だけが耳に反響し、寂しさが胸の奥から全身へと染み渡っていく。
どんなに叫び続けても、無情な天は、ただ雨を降らせるだけだ。
例え、それが天からの悼[ みだとしても。
「雨なんて……大っ嫌いだ……っ!」
肩を震わせて、振り仰いだ空を睨みつける。
憤怒と、哀愁と、後悔を。
荒れ狂う感情を綯[ い交ぜにした慟哭が、天高く木霊した。
◇ ◇ ◇
此処は、ディザード大陸東南に位置する麓町[ 、エンプロイ。時は、夕刻。
人がごった返す街道を、脇目も振らずに駆け抜けていく青年がいる。
雲に隠れようとしている斜陽が、青年のさらさらとした金髪を茜色に染めていた。
透き通った蒼色の瞳が見据えるのは、命を繋ぐ重要な物[ が用意されている店だ。
〝Flytelia[ 〟と書かれた赤い旗が風に靡[ いている。
その真横をすり抜け、開けっ放しの入り口を跨[ いだ。
「スチリディーさん!」
「何だと!? 三日もかかるのか!?」
「へ……?」
店主に投げたはずの呼びかけは、客人の怒号によって掻き消された。
一体どういうことだ。
それを問いたいのは山々であるが、同じ問いかけを青年とは別の意図で、客人が店主に問い詰めている。
真円のレンズをはめ込んだ老眼鏡のつるをいじりながら、店主スチリディーは困ったように首を傾げた。
「三日経たないと、専属フレイテジアが来ないのだよ」
「それはつまり、貴公では直せないということか?」
「それだけ派手に壊れているとねぇ、アズウェル君がおらんと」
「おれならここにいるけど」
自分の名前を上げられ、青年はつい口を挟んでしまった。
ボロボロに壊れた浮遊二輪車、フレイトを見て、心中で何も見なかったことにすればよかったと後悔したが、既に時遅し。嬉々とした表情を浮かべて、店主が青年を振り返った。
「おお! これはいいところに、アズウェル君! グットタイミングじゃよ」
「おれ、今日仕事日じゃねぇんだけど……」
「ほっほっほ。アズウェル君が今日顔を出したということは、これがお目当てじゃろう?」
スチリディーは背後の棚から、整然と並んでいる引き出しの内の一つを選び、鍵を開ける。
そこから取り出された〝命を繋ぐ重要な物〟という名の封筒に入った週給を見て、アズウェルはやられたとばかりに顔を顰[ めた。
「スチリディーさん、最初っからおれに連休くれるつもりなんてなかっただろ……」
「ほっほっほ。そんなことはないよ、アズウェル君。休んでも構わないが、給料は週末にならないと入らないから、連休明けに渡すよと言っただけじゃよ」
ご機嫌の店主と、がくりと両肩を竦[ める乱入者を、暫く無言で眺めていた客人の女が、痺れを切らして口を割った。
「すまないが、私は急いでいるのだが。貴様は誰だ」
「え、おれ? おれは……っと、お……?」
あからさまに不信感を剥[ き出しにした女の声に振り向いて、アズウェルは目を瞬[ かせた。
漆黒の長髪を一つに結わえている女は、腰に剣[ を携えている。シンプルだが上品さを帯びている創りからして、恐らく刀という代物だろう。
それだけでも彼女が何者なのかという謎には十分過ぎる証拠だが、アズウェルは刀ではなく上着に縫いつけられた燕の紋章に目がいっていた。
「この刺繍……見たことあるぞ、おまえ、スワロウ族?」
「だったらどうしたというんだ。私は、貴様が何者か尋ねたのだが」
「え……あ、わっりぃ! スワロウ族なんて、じっちゃんが死んでから見てなかったもんだから、つい……おれはアズウェル・クランスティ。ここに稼ぎに来ている者で、一応店員」
「そんなに警戒しなくても大丈夫じゃよ。さっき話した専属フレイテジアのアズウェル君じゃ。人柄と腕は保証する」
訝[ しげにアズウェルを眺めていた女は、店主の言葉を聞いて幾分表情を和らげた。
「そうか、睨みつけてすまなかった。私はマツザワ・コネクティード。マツザワと呼んでくれ。今日[ はマスターの依頼でこちらにお邪魔している」
丁寧に一礼すると、マツザワはアズウェルに右手を差し出した。
スワロウ族の挨拶は、握手から始まる。幼い頃も似たような経験があったアズウェルは、迷うことなく彼女の手を握った。
「よろしく!」
「あぁ、よろしく」
「ほっほっほ。自己紹介も済んだところで、アズウェル君、この封筒が欲しいなら、それをちょちょいのちょいっと直しておくれ」
給料袋をひらつかせて、ほけほけと笑う店主に、アズウェルは額を抑えて唸った。
「ホント、相変わらずだよな、スチリディーさん。おれ今日スパナ以外工具持ってきてねぇから、ちょっと借りるぜ」
「おい、待て」
棚からドライバーを取り出したアズウェルを、マツザワは困惑した表情で制止する。
「なんだよ、マツザワ? さっさと直して欲しいんだろ?」
「確かに、そうだ。明日の正午が引渡し時間なので、それまでには直していただかないとこちらも困る。だが……」
今度はスチリディーの方を見て、腕を組む。
「スチリディー殿、本当に直せないのか? このフレイトは貴公が作ったと伺っているが?」
その言葉に、スチリディーとアズウェルは顔を見合わせ、一拍後にアズウェルが盛大に吹き出した。
「ふは、スチリディーさんが、作った! マジで? それで何、初期不良で大破したのか? これ」
「い、いや……数年も前に特別に作っていただいた思い出の品だとマスターは言っていたらしいが……。一体何がそんなにおかしいのだ?」
瞳に涙を浮かべ、両手で腹を抱えて笑っているアズウェルを、マツザワは怪訝そうに見つめている。
対してスチリディーは、「そんな覚えはないのだがねぇ」と微笑みながら、安楽椅子に腰掛けて入れ立ての珈琲を啜[ っていた。
アズウェルが了解さえすれば、店主は給料袋を人質に寛[ ぎ始める。後は時間が経てば客人を捌[ けるのだから、この仕事は辞められない。
それが例え……
「スチリディーさん、フレイテジアじゃねぇもん。免許ねぇし、触れば壊れるぞ」
「何だって!?」
天性のメカ音痴だったとしても、有能な助手がいるのだから、何も困らないのだ。
フレイトを創ったり修理したり、改造したりするには、フレイテジアの免許が必要だが、スチリディーもアズウェルもそんな高額なものは持っていない。そもそも、技術なら職人並のアズウェルに比べ、スチリディーはアズウェル曰く〝ただの腹黒狸爺[ 〟なのだから。
はて、と老眼鏡越しに客人を見据える店主は、不敵に口元を緩ませた。
アズウェルから闇医者ならぬ闇職人宣言をされたマツザワは、目を見開いて呆然としている。
スワロウ族という〝万[ の頼み〟を生業としている彼女らは、例外なくとても生真面目だ。加えて、依頼主であるマスターの命[ は絶対。つまるところ、彼女は今〝マスターの命を優先して邪道に足を入れる〟か、〝正道を選びマスターを欺[ くか〟の二択に板挟みされている状態というわけだ。
これだから、真面目過ぎるのは身を滅ぼす。何事も適当が一番がモットーのスチリディーは、今回も適当に楽しむつもりだ。
「一体誰からの依頼だね? マツザワ君。わしらに話しても、それは問題なかろう?」
「えっと……あ、はい、すみません! その、私は族長を介して引き受けたので、マスターの名までは……。マスターのご希望で、引渡しまで匿名とのことで……」
我に返ったマツザワは混乱している様子で、申し訳なさそうに頭を掻く。
「まぁ、大方そんな面倒なことしてくるのは、ルーティングだろうけど……なっと!」
フレイトの側面カバーを外すと、アズウェルは車体の中を覗き込んだ。
彼女の事情がどうであれ、どう転んでもスチリディーには直せないのだから、待っていても仕方がない。早くしないと夕立までに給料袋を手に入れられなくなる。
「ルーティング……?」
「そうそう、スチリディーさんの商売敵で、あいつ確かクロウ族でしょ? スチリディーさん」
「そうじゃのぅ。そんなことを言ってたような気がするねぇ。ほっほっほ、愉快な男じゃわい」
不吉な単語を耳にしたマツザワが、顔を翳[ らせた。
「クロウ族……!」
嫌な予感がする。
クロウ族は、スワロウ族とは対立した種族だ。天敵とも言っても過言ではない。
何故、族長はこの依頼を引き受けたのだろうか。
答えが自分の中で見つからないマツザワは、そのまま拳を握り締めて押し黙る。
マツザワの表情の変化を横目で見て取り、アズウェルはフレイトから取り外した小さな粒を、水を張ったバケツに放り投げた。
その粒が内部の歯車に引っかかり、エンジンが動かなくなっていたのだ。外装まで派手に大破しているところを見ると、自然に壊れたとは言えなさそうだが。
まったく厄介な事に首を突っ込んでしまった。帰ったらどやされるだろう。
そんなことを考えながら、背後で作業を眺めているマツザワに問う。
「マツザワは今晩泊まるところ決めたのか?」
「いや……まだ、考えてはいないが」
「んじゃ、おれんち来いよ。ちょっと話したいこともあるしさ」
「それは有り難い申し出だが……しかし、急にお邪魔しては……」
「まぁ、どやされるのはおれだけだから、気にすんなよ」
笑顔でそう言うと、解体したフレイトを袋に詰め込んでいく。
此処で直すのは簡単だが、そしたら夕立に間に合わない。何より、彼女に伝えるべきことがある。
考えあぐねているマツザワを尻目に、のんびりと読書を楽しんでいる店主に手の平を突き出した。
「スチリディーさん、持って帰って直してくるから、おれの食費出して!」
「おやおや、お急ぎかい」
「もうじき夕立が降るんだ。ディオウも待たせてるし、そろそろ行かないと肉屋が閉まる」
「雨が降るのかね。それは……仕方ないかのぅ……」
言いながら、給料袋から札束を半分抜き取る。
「うぇ!? ちょ、スチリディーさん!?」
声を上げる愛助手を黙殺して、抜き取った札束を机の中に仕舞い込み、厚さが半分に減った封筒を差し出した。
「お疲れさん、アズウェル君」
それはもう、とても眩しい笑顔であった。
受け取りながら、アズウェルは大きく嘆息する。
「抜かなくてもいいじゃんか……」
「ほっほっほ。残りは、ちゃんと明日直してきたらじゃ」
飄々[ と嘯[ くスチリディーは、やはりどす黒狸爺だった。
「はいはい、わかりましたぁー」
何を言おうが、下手したら更に手取りが減るだけなのだから、無駄な足掻[ きだ。
諦めたアズウェルは、床に散乱した工具を片付け始めた。
それを満足そうに笑みを浮かべて眺めていたスチリディーが、腕組みをしたまま考え込んでいるマツザワの肩に、ぽん、と手を置く。
驚いて振り向いた彼女に、声をひそめて囁[ いた。
「行ってやっておくれ。アズウェルは今村で一人じゃからの」
「一人……? それは、どういう……」
マツザワが問い返しに、スチリディーは微笑みを浮かべて頷[ く。
任務のことですら、わからないことだらけだというのに、その笑顔がより一層マツザワの思考を混乱させた。
何を考えているのか、全くわからない。
ただ何となく、断るべきではないと彼女は感じたのだ。
ちらりとアズウェルの方へ視線を向けると、アズウェルは工具箱を棚に戻していた。片付けが終了したようだ。
「よーし……って、やっべぇ、こんな時間じゃん! 急がねぇと。マツザワ、決めた?」
重いフレイトが入った袋を軽々と担ぎ上げて、アズウェルが二人を顧みる。
「あぁ。それを持ち帰ると言うなら、すまないがお邪魔させていただくよ」
「おっし、じゃぁ、悪いけどマツザワ、肉屋まで走るぞ!」
そう言うと、アズウェルはスチリディーに手を上げて走り出した。
「じゃぁね、スチリディーさん! おれの食費使うなよ!」
「ほっほっほ、気をつけてのぅ、アズウェル君、ディオウ君によろしくな」
「え、ちょっと、待って……アズウェル!」
一瞬目が点になったマツザワは、慌てて彼の後を追った。
「では、明日、宜しく頼む。失礼する!」
去り際出入口の手前で丁寧に一礼し、すぐに駈け出した彼女を見て、スチリディーはのんびりと手を振る。
既にその先には誰もいない。
「楽しそうじゃのぅ」
一人呟くと、店の扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
街から少し離れた林の中で、白く長い尾が不機嫌そうに一振りされる。
真っ白な獣が、草むらに身体を隠すようにして寝そべっていた。
「……遅い」
呟かれた低い声の持ち主は、交差させた前足の上に顎[ を乗せ、気怠[ そうに半眼で街の方を眺めている。
長い牙[ が生えている口元から、苛立一色に染まった溜息が漏れた。
「スコールがあるから急いでくれとおれを叩き起しておいて、一体何をやってるんだ」
どうせまた、店主に弄[ ばれているのだろうが。
生活費を手に入れなければ飯抜きだからといって、あの腹黒狸爺に主[ が頭を下げなければいけないというのは、非常に気に食わない。
その上、すぐに戻ってこないなど、予想は付くがやはり気に食わないのだ。
「……濡れたって、おれは知らないからな」
ぶっきらぼうに吐き捨てて、獣は再び尾をぴしりと振った。
不貞寝してやる。
そう心に決め込んで、金色の瞳を瞼で覆い隠す。
西に傾いていた日差しは、完全に入道雲の中に姿を眩[ ませていた。
時折水溜りを踏みつけるが、跳ね返る泥水などまるで気にも止めず、ただ走り続ける。
服や髪が張り付いた肌から、雨滴が体温を奪っていく。
それでも、抑えきれない痛みと哀しみを抱いた少年は、身体から湧き上がる熱に顔を歪めた。
目頭が、喉が、胸が、焼けるように熱い。
眼前に崖が広がっていることを見とめて、足を止める。下は底が見えない渓谷だ。
切り立つ岩壁を切り裂くように、豪水が渓谷へと落ちている。周りの木々を打つ雨音は、その豪快な滝の音に掻き消されていた。
血が滲むほど唇を噛みしめて、ずぶ濡れの顔を天へ向ける。
「どうして……!」
何故だ。わからない。
そんなことは、知らない。そんなことは、覚えていない。
淡い微笑みを浮かべる老人に、そう叫んだ己を思い起こし、
なんて自分勝手なのだろうか。
「わかんねぇよ、じっちゃん……」
老人は、微笑を浮かべたまま息を引き取った。
彼は幸せだったのだろうか。
「わかんねぇ、おれには、わかんないよ」
言葉を絞り出す唇を、水が濡らしていく。それは雨滴なのか、それとも別の雫なのか。
ごめんなさい。謝るから、だから、置いて逝かないで。
己の声だけが耳に反響し、寂しさが胸の奥から全身へと染み渡っていく。
どんなに叫び続けても、無情な天は、ただ雨を降らせるだけだ。
例え、それが天からの
「雨なんて……大っ嫌いだ……っ!」
肩を震わせて、振り仰いだ空を睨みつける。
憤怒と、哀愁と、後悔を。
荒れ狂う感情を
◇ ◇ ◇
此処は、ディザード大陸東南に位置する
人がごった返す街道を、脇目も振らずに駆け抜けていく青年がいる。
雲に隠れようとしている斜陽が、青年のさらさらとした金髪を茜色に染めていた。
透き通った蒼色の瞳が見据えるのは、命を繋ぐ重要な
〝
その真横をすり抜け、開けっ放しの入り口を
「スチリディーさん!」
「何だと!? 三日もかかるのか!?」
「へ……?」
店主に投げたはずの呼びかけは、客人の怒号によって掻き消された。
一体どういうことだ。
それを問いたいのは山々であるが、同じ問いかけを青年とは別の意図で、客人が店主に問い詰めている。
真円のレンズをはめ込んだ老眼鏡のつるをいじりながら、店主スチリディーは困ったように首を傾げた。
「三日経たないと、専属フレイテジアが来ないのだよ」
「それはつまり、貴公では直せないということか?」
「それだけ派手に壊れているとねぇ、アズウェル君がおらんと」
「おれならここにいるけど」
自分の名前を上げられ、青年はつい口を挟んでしまった。
ボロボロに壊れた浮遊二輪車、フレイトを見て、心中で何も見なかったことにすればよかったと後悔したが、既に時遅し。嬉々とした表情を浮かべて、店主が青年を振り返った。
「おお! これはいいところに、アズウェル君! グットタイミングじゃよ」
「おれ、今日仕事日じゃねぇんだけど……」
「ほっほっほ。アズウェル君が今日顔を出したということは、これがお目当てじゃろう?」
スチリディーは背後の棚から、整然と並んでいる引き出しの内の一つを選び、鍵を開ける。
そこから取り出された〝命を繋ぐ重要な物〟という名の封筒に入った週給を見て、アズウェルはやられたとばかりに顔を
「スチリディーさん、最初っからおれに連休くれるつもりなんてなかっただろ……」
「ほっほっほ。そんなことはないよ、アズウェル君。休んでも構わないが、給料は週末にならないと入らないから、連休明けに渡すよと言っただけじゃよ」
ご機嫌の店主と、がくりと両肩を
「すまないが、私は急いでいるのだが。貴様は誰だ」
「え、おれ? おれは……っと、お……?」
あからさまに不信感を
漆黒の長髪を一つに結わえている女は、腰に
それだけでも彼女が何者なのかという謎には十分過ぎる証拠だが、アズウェルは刀ではなく上着に縫いつけられた燕の紋章に目がいっていた。
「この刺繍……見たことあるぞ、おまえ、スワロウ族?」
「だったらどうしたというんだ。私は、貴様が何者か尋ねたのだが」
「え……あ、わっりぃ! スワロウ族なんて、じっちゃんが死んでから見てなかったもんだから、つい……おれはアズウェル・クランスティ。ここに稼ぎに来ている者で、一応店員」
「そんなに警戒しなくても大丈夫じゃよ。さっき話した専属フレイテジアのアズウェル君じゃ。人柄と腕は保証する」
「そうか、睨みつけてすまなかった。私はマツザワ・コネクティード。マツザワと呼んでくれ。
丁寧に一礼すると、マツザワはアズウェルに右手を差し出した。
スワロウ族の挨拶は、握手から始まる。幼い頃も似たような経験があったアズウェルは、迷うことなく彼女の手を握った。
「よろしく!」
「あぁ、よろしく」
「ほっほっほ。自己紹介も済んだところで、アズウェル君、この封筒が欲しいなら、それをちょちょいのちょいっと直しておくれ」
給料袋をひらつかせて、ほけほけと笑う店主に、アズウェルは額を抑えて唸った。
「ホント、相変わらずだよな、スチリディーさん。おれ今日スパナ以外工具持ってきてねぇから、ちょっと借りるぜ」
「おい、待て」
棚からドライバーを取り出したアズウェルを、マツザワは困惑した表情で制止する。
「なんだよ、マツザワ? さっさと直して欲しいんだろ?」
「確かに、そうだ。明日の正午が引渡し時間なので、それまでには直していただかないとこちらも困る。だが……」
今度はスチリディーの方を見て、腕を組む。
「スチリディー殿、本当に直せないのか? このフレイトは貴公が作ったと伺っているが?」
その言葉に、スチリディーとアズウェルは顔を見合わせ、一拍後にアズウェルが盛大に吹き出した。
「ふは、スチリディーさんが、作った! マジで? それで何、初期不良で大破したのか? これ」
「い、いや……数年も前に特別に作っていただいた思い出の品だとマスターは言っていたらしいが……。一体何がそんなにおかしいのだ?」
瞳に涙を浮かべ、両手で腹を抱えて笑っているアズウェルを、マツザワは怪訝そうに見つめている。
対してスチリディーは、「そんな覚えはないのだがねぇ」と微笑みながら、安楽椅子に腰掛けて入れ立ての珈琲を
アズウェルが了解さえすれば、店主は給料袋を人質に
それが例え……
「スチリディーさん、フレイテジアじゃねぇもん。免許ねぇし、触れば壊れるぞ」
「何だって!?」
天性のメカ音痴だったとしても、有能な助手がいるのだから、何も困らないのだ。
フレイトを創ったり修理したり、改造したりするには、フレイテジアの免許が必要だが、スチリディーもアズウェルもそんな高額なものは持っていない。そもそも、技術なら職人並のアズウェルに比べ、スチリディーはアズウェル曰く〝ただの腹黒
はて、と老眼鏡越しに客人を見据える店主は、不敵に口元を緩ませた。
アズウェルから闇医者ならぬ闇職人宣言をされたマツザワは、目を見開いて呆然としている。
スワロウ族という〝
これだから、真面目過ぎるのは身を滅ぼす。何事も適当が一番がモットーのスチリディーは、今回も適当に楽しむつもりだ。
「一体誰からの依頼だね? マツザワ君。わしらに話しても、それは問題なかろう?」
「えっと……あ、はい、すみません! その、私は族長を介して引き受けたので、マスターの名までは……。マスターのご希望で、引渡しまで匿名とのことで……」
我に返ったマツザワは混乱している様子で、申し訳なさそうに頭を掻く。
「まぁ、大方そんな面倒なことしてくるのは、ルーティングだろうけど……なっと!」
フレイトの側面カバーを外すと、アズウェルは車体の中を覗き込んだ。
彼女の事情がどうであれ、どう転んでもスチリディーには直せないのだから、待っていても仕方がない。早くしないと夕立までに給料袋を手に入れられなくなる。
「ルーティング……?」
「そうそう、スチリディーさんの商売敵で、あいつ確かクロウ族でしょ? スチリディーさん」
「そうじゃのぅ。そんなことを言ってたような気がするねぇ。ほっほっほ、愉快な男じゃわい」
不吉な単語を耳にしたマツザワが、顔を
「クロウ族……!」
嫌な予感がする。
クロウ族は、スワロウ族とは対立した種族だ。天敵とも言っても過言ではない。
何故、族長はこの依頼を引き受けたのだろうか。
答えが自分の中で見つからないマツザワは、そのまま拳を握り締めて押し黙る。
マツザワの表情の変化を横目で見て取り、アズウェルはフレイトから取り外した小さな粒を、水を張ったバケツに放り投げた。
その粒が内部の歯車に引っかかり、エンジンが動かなくなっていたのだ。外装まで派手に大破しているところを見ると、自然に壊れたとは言えなさそうだが。
まったく厄介な事に首を突っ込んでしまった。帰ったらどやされるだろう。
そんなことを考えながら、背後で作業を眺めているマツザワに問う。
「マツザワは今晩泊まるところ決めたのか?」
「いや……まだ、考えてはいないが」
「んじゃ、おれんち来いよ。ちょっと話したいこともあるしさ」
「それは有り難い申し出だが……しかし、急にお邪魔しては……」
「まぁ、どやされるのはおれだけだから、気にすんなよ」
笑顔でそう言うと、解体したフレイトを袋に詰め込んでいく。
此処で直すのは簡単だが、そしたら夕立に間に合わない。何より、彼女に伝えるべきことがある。
考えあぐねているマツザワを尻目に、のんびりと読書を楽しんでいる店主に手の平を突き出した。
「スチリディーさん、持って帰って直してくるから、おれの食費出して!」
「おやおや、お急ぎかい」
「もうじき夕立が降るんだ。ディオウも待たせてるし、そろそろ行かないと肉屋が閉まる」
「雨が降るのかね。それは……仕方ないかのぅ……」
言いながら、給料袋から札束を半分抜き取る。
「うぇ!? ちょ、スチリディーさん!?」
声を上げる愛助手を黙殺して、抜き取った札束を机の中に仕舞い込み、厚さが半分に減った封筒を差し出した。
「お疲れさん、アズウェル君」
それはもう、とても眩しい笑顔であった。
受け取りながら、アズウェルは大きく嘆息する。
「抜かなくてもいいじゃんか……」
「ほっほっほ。残りは、ちゃんと明日直してきたらじゃ」
「はいはい、わかりましたぁー」
何を言おうが、下手したら更に手取りが減るだけなのだから、無駄な
諦めたアズウェルは、床に散乱した工具を片付け始めた。
それを満足そうに笑みを浮かべて眺めていたスチリディーが、腕組みをしたまま考え込んでいるマツザワの肩に、ぽん、と手を置く。
驚いて振り向いた彼女に、声をひそめて
「行ってやっておくれ。アズウェルは今村で一人じゃからの」
「一人……? それは、どういう……」
マツザワが問い返しに、スチリディーは微笑みを浮かべて
任務のことですら、わからないことだらけだというのに、その笑顔がより一層マツザワの思考を混乱させた。
何を考えているのか、全くわからない。
ただ何となく、断るべきではないと彼女は感じたのだ。
ちらりとアズウェルの方へ視線を向けると、アズウェルは工具箱を棚に戻していた。片付けが終了したようだ。
「よーし……って、やっべぇ、こんな時間じゃん! 急がねぇと。マツザワ、決めた?」
重いフレイトが入った袋を軽々と担ぎ上げて、アズウェルが二人を顧みる。
「あぁ。それを持ち帰ると言うなら、すまないがお邪魔させていただくよ」
「おっし、じゃぁ、悪いけどマツザワ、肉屋まで走るぞ!」
そう言うと、アズウェルはスチリディーに手を上げて走り出した。
「じゃぁね、スチリディーさん! おれの食費使うなよ!」
「ほっほっほ、気をつけてのぅ、アズウェル君、ディオウ君によろしくな」
「え、ちょっと、待って……アズウェル!」
一瞬目が点になったマツザワは、慌てて彼の後を追った。
「では、明日、宜しく頼む。失礼する!」
去り際出入口の手前で丁寧に一礼し、すぐに駈け出した彼女を見て、スチリディーはのんびりと手を振る。
既にその先には誰もいない。
「楽しそうじゃのぅ」
一人呟くと、店の扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
街から少し離れた林の中で、白く長い尾が不機嫌そうに一振りされる。
真っ白な獣が、草むらに身体を隠すようにして寝そべっていた。
「……遅い」
呟かれた低い声の持ち主は、交差させた前足の上に
長い
「スコールがあるから急いでくれとおれを叩き起しておいて、一体何をやってるんだ」
どうせまた、店主に
生活費を手に入れなければ飯抜きだからといって、あの腹黒狸爺に
その上、すぐに戻ってこないなど、予想は付くがやはり気に食わないのだ。
「……濡れたって、おれは知らないからな」
ぶっきらぼうに吐き捨てて、獣は再び尾をぴしりと振った。
不貞寝してやる。
そう心に決め込んで、金色の瞳を瞼で覆い隠す。
西に傾いていた日差しは、完全に入道雲の中に姿を
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第2記 ディオウの勘
若者二人が慌しく通りを駆けていく。
「やっべー、やっべぇって! ちょっと、すんません、急いでるんです!」
入り乱れる人を掻き分けて進むアズウェルに、後ろからマツザワが疑問を投げる。
「そんなに濡れるのが嫌なのか?」
「シャワーは好きだけど、雨は大っ嫌いなんだよ」
首だけマツザワに向けて、アズウェルは顔を顰[ めた。
雨は、トラウマだ。
「どれくらい嫌なのかっていうとな、木陰で休んでいたら、いきなり服と背中の間に蛇が落ちてきたくらい嫌なんだ!」
これもアズウェルにとっては体験談だった。
しかし、そんなシチュエーションに遭遇したことのないマツザワは、具体的だが何処かずれているような気がする喩[ えに、目を瞬[ かせている。
確かに、そんなことは想像するだけでも御免蒙[ りたいところだが。
結局のところ彼女に伝わったのは、とにかく嫌いなのだということだけだった。
街を出ると、アズウェルは街道ではなく林の中に入っていく。
「お、おい。どこに行くんだ?」
マツザワに呼び止められて、アズウェルは振り返る。
「どこって家だよ。おれの家、山の中にあるんだ。ディオウに乗ってかねぇと夜が明けちまう」
「ディオウ? ライド・ビーストか。だが、二人も乗れるのか? ライド・ビーストは普通一人乗りだぞ」
「乗れる乗れる。ディオウなら三人くらい余裕だぜ。ま、見りゃわかるさ」
得意げに答えるアズウェルに、釈然としない気分でマツザワは頷[ いた。
「そ、そうか……なら大丈夫だな」
果たして、三人も騎乗可能なライド・ビーストなどいたのだろうか。
ライド・ビーストとは、その名の通り移動用の獣だ。大地を駆けるもの、空を翔けるもの、様々であるが、速さが売りのライド・ビーストは基本的に一人乗り。
三人乗りなど、任務で大陸中を駆け巡っているマツザワでも聞いたことすらもなかった。
アズウェルは左肩にフレイトの袋を担ぎながら、右手で草むらを掻き分けている。
「おーい、ディオーウ! 戻ってきだぞー」
アズウェルが呼びかけに応じて、純白の獣が姿を現した。
「ったく……遅いぞ、アズウェル。もう雨が降るぞ」
待ちくたびれて不貞寝をしていたディオウは、眠そうに欠伸[ をした。
「わりぃな。スチリディーさんのとこで色々あってさ」
「また余計なことに首を突っ込んだのか」
「あはは。ま、そーいうコトで」
「いい加減学習したらどうだ。どうせあの店主に厄介事を頼まれてきたのだろう」
呆れているディオウの言葉を軽く流しながら、アズウェルはマツザワに手招きする。
「まぁまぁ……今日家に泊まりに来る奴ができたんだ。マツザワー! そんなとこに突っ立ってないでこっちに来いよ」
「あ、あぁ」
マツザワの声は上ずっていた。
百聞は一見にしかず。確かに三人はゆうに乗れるだろう。だが。
瞠目しているマツザワの瞳には、全身を純白の毛で包まれ、黄金の瞳を三つ持つ獣 伝説の聖獣ギアディスが映っていた。
何故ギアディスが此処にいるのか。
そもそもギアディスは、千年以上前にリウォード王と共に姿を消した幻の獣。もう、語られるだけの架空の存在となっていたはずなのに。
「……信じられない」
「マツザワー! 何してんだよ。早く乗れって!」
アズウェルの催促によって、彼女の思考は掻き消される。
「ほ……本当にギアディスに乗るのか!?」
そんな罰当たりなことができるわけがない。
平然としているアズウェルが、マツザワには別の世界の住人に思えた。
「ぎあ……でぃす?」
一方アズウェルは、初めて聞く言葉に小首を傾げる。
常識外れの反応に、マツザワは思わず頭を抱えた。文字通り絶句する。
そんな彼女に代って、ディオウがアズウェルの問いに答えた。
「ギアディスとはおれのことだ。おれの俗名」
「そんなの初めて聞いたぞ」
「別にお前が知らなくてもいいことだ。それより、雨が降るんだろ? 急がなくていいのか?」
「そうだ! とにかく早く乗ってくれ、マツザワ!」
どうしたものかと立ち尽くしていたマツザワは、意を決して一歩足を進める。
次の瞬間、アズウェルは驚きのあまり目を見開いた。
「お、おまえ何してんだよ?」
「ギアディス、いや……ディオウ様。私のような者が騎乗してもよろしいのでしょうか?」
マツザワは深々と頭を下げ、ディオウの前に膝をついていた。
「ディオウ様……? なんでディオウなんかに様付けしてるんだ? マツザワ一体どうし 」
「別に改まる必要はない。アズウェルがいいと言うのだ。構わん。乗れ」
アズウェルの声はディオウの声によって遮られる。その声は静かで威厳のある声だった。
「承知いたしました」
再度頭を下げ、マツザワはディオウに騎乗する。
先程まで硬直していたマツザワと入れ替わるように、今度はアズウェルが動けなくなっていた。
「一体どうしたんだよ? なんかディオウ、いつもと違くね……?」
思わず口を衝[ いて出た言葉に、ディオウは反応しない。
困惑の表情を隠せないアズウェルを見て、マツザワが申し訳なさそうに言った。
「すまない。困らせてしまったようだな……」
「気にすることはない。アズウェル、何をしている? 早くお前も乗れ。雨が嫌なんじゃなかったのか?」
ディオウがなかなか乗ろうとしない飼い主を促す。
その言葉を聞いて、アズウェルは漸[ く我に返った。
「あ! いっけね!!」
アズウェルが飛び乗ると同時に、ディオウは飛翔した。
「急げディオウ! 雨雲に追いつかれる!!」
アズウェルたちの後方で雷鳴が轟く。積乱雲が背後まで迫っていた。
「あのなぁ! 元はと言えばお前が余計なことに首を突っ込んだりしたからこうなったんだろ!?」
ディオウは叫びながら更にスピードを上げた。
「わ! バカ落ちる!」
「しっかり掴まっていろ!」
ディオウは追い風を味方にし、凄まじい速度で空を翔る。
無茶苦茶だ。雨雲と競争するなど、常識外れもいいところだ。
そんなことを思って、マツザワは考え直す。
聖獣が出てくる時点で既に理解の域を超えてた。いや、闇職人を公言したところからかもしれない。最初から無茶苦茶だったのだ。
それにしても、こんな状況でよく会話していられるものだ。
アズウェルとディオウはまだ言い争いをしている。もはや会話ではなく、怒号の応酬になっているが。
マツザワは思わずくすっと笑みを零[ した。
大自然と聖獣。はてさて、軍配はどちらに上がるのか。
「よっしゃ! 村に着いた!」
ディオウは少しずつスピードを落としながら村の上空を横断する。村は気持ち悪いほど静まり返っていた。
嵐の前の静けさだろうか。
だが、静寂とは違う〝静けさ〟を感じ、マツザワは思わず身震いをした。
全く灯りのついていない家々。止まった水車。枯れた噴水。
この村は、死んでいる。
直感だ。だが、間違ってはいないだろう。
アズウェルは今村で一人じゃからの
スチリディーの言葉が、急激に重さを増した。
不自然なことに、各家々の庭に雑草は見当たらない。人の住む気配こそしないが、家自体も荒廃しているものは一つもない。
一体、この村で何が起きたのか。或[ いは、起きているのか。
「んとねー。そのことはおれも結構考えたんだけど、わかんねぇんだよな。ま、そのうちわかるさ」
「あ、アズウェル?」
その言葉は、あまりにタイミングが良すぎた。マツザワが、無意識に声として外に出していたのかと錯覚するほどに。
アズウェルの背中を見つめて、静かに訊[ く。
「やはり……何か意味があるのか?」
「え? 意味? 何のこと? おれなんか言ったか?」
その答えにマツザワは自分の耳を疑った。
「さっきそのうちわかるって……」
「おれそんなこと言った覚えねぇけど?」
互いに相手の言葉に驚いて、口をつぐむ。
廃村の上空を翔ける一行の耳に届くのは、風を切る音だけとなった。村は沈黙を守っている。
点在する家々が背後に遠ざかり、目の前には大樹の森が見えてきた。
ディオウは速度を落とさずに、枝と枝の間を器用に縫っていく。
アズウェルとマツザワは、その逞[ しい背にしがみつきながら、先刻の噛み合わない会話に内心で首を傾げていた。
「着いたぞ」
困惑する二人の思考を止めたのは、ディオウの短い一言だった。
「……お! サンキュー、ディオウ!」
ディオウから降りると、アズウェルは一目散に家の中へと駆け込む。
アズウェルが家に入るのを待っていたかのように、雨がどっと降り出した。
「ふ~、ギリギリセ~フ。二人とも早くはいらねぇと濡れるぞ~」
「あぁ、わかった」
アズウェルに応じて、マツザワはディオウから降りた。
そのまま彼女の故郷に定められている掟通り、再び叩頭しようとするが、ディオウが制止する。
「そんなことをする必要はない。服が汚れるぞ」
「ですが、ディオウ様……」
「敬語も様付けもしなくていい。今は千年前とは違う。おれはただの獣。アズウェルのペットだ」
言ってから、己の情け無さにディオウは思わず自嘲した。
普段アズウェルにペット扱いされれば、反論するというのに、自分で言っていては救えない。
しかしマツザワは〝ペット〟よりも〝千年前〟という単語に釘付けになっていた。
「千年前……やはりあなた様は……」
ディオウは静かに首を横に振る。
「それ以上今は言うな。アズウェルの友というなら、おれの友だ。そういうことにしておけ」
「……承知した。では……ディオウ殿、一つ聞いてもよろしいか?」
「構わん。何だ?」
マツザワは気になっていたことをディオウにぶつける。
「何故、貴殿が人と……アズウェルとこんな山奥にひっそり暮らしているのか。それとあのアズウェルの発言は一体……」
くすりと笑うと、意地悪そうな表情でディオウが返す。
「それだと質問は二つだぞ?」
「え、あ……す、すみません」
慌てて頭を下げるマツザワを一瞥して、ディオウは空を仰いだ。
「まぁ、気にするな。……さて、おれが何故アズウェルといるか、か」
通り雨は慌しく過ぎ去り、雲の隙間から星影が降り注いでいた。
ディオウは静かに語り出す。
「アズウェルと会ったのは今から十二年前だ。その時おれはアズウェルにただならぬ気配を感じたんだ。まぁ訳もなく惹かれたと言う方が、むしろ正しいのかもしれないな。だが、お前も感じただろう? 他と違う感じを」
マツザワはディオウの言葉に無言で頷く。
聖獣を知らないということを除いても、アズウェルは纏[ う空気が他の若者とは異なっていた。
「千年前を……彷彿とさせる何かを、おれはその時肌で感じたんだ」
「それは、まさか……」
「具体的にどうとは言い表せないが……恐らくアズウェルは何らかの形で王と関わっているだろう。まぁおれの憶測でしかないがな。それと、あの不可解な発言はおれにもわからない。あんなことはこの十二年間なかったからな」
「そ、そうですか」
「ただ……」
ディオウは一息ついて言葉を繋げる。
「あれは、旅立ちの合図だと思う」
「旅立ちの合図……? 一体何の?」
ディオウは遠い彼方を見つめる。
「アズウェルの……いや、それはまたこの次にしよう」
「またこの次って……」
「お前も既に巻き込まれているからな。おれと話した時点で」
いや、正確には アズウェルと出会った時点かもしれない。
それは、マツザワだけでなく、ディオウ自身にも言えることだった。
「巻き込まれてるって……一体どういう……」
「どうって、お前はいずれアズウェルと共に旅をするからだ」
「私には私のやるべきことがあるのだ。いずれと……そう言われても……」
ディオウの的はずれな答えに、マツザワは困ったように首を振る。
「じきにわかる」
「ギアディスが予知できるとは聞かないが?」
ディオウは口元に不敵な笑みを浮かべ、はっきりと言い放った。
「おれの勘だ」
「やっべー、やっべぇって! ちょっと、すんません、急いでるんです!」
入り乱れる人を掻き分けて進むアズウェルに、後ろからマツザワが疑問を投げる。
「そんなに濡れるのが嫌なのか?」
「シャワーは好きだけど、雨は大っ嫌いなんだよ」
首だけマツザワに向けて、アズウェルは顔を
雨は、トラウマだ。
「どれくらい嫌なのかっていうとな、木陰で休んでいたら、いきなり服と背中の間に蛇が落ちてきたくらい嫌なんだ!」
これもアズウェルにとっては体験談だった。
しかし、そんなシチュエーションに遭遇したことのないマツザワは、具体的だが何処かずれているような気がする
確かに、そんなことは想像するだけでも
結局のところ彼女に伝わったのは、とにかく嫌いなのだということだけだった。
街を出ると、アズウェルは街道ではなく林の中に入っていく。
「お、おい。どこに行くんだ?」
マツザワに呼び止められて、アズウェルは振り返る。
「どこって家だよ。おれの家、山の中にあるんだ。ディオウに乗ってかねぇと夜が明けちまう」
「ディオウ? ライド・ビーストか。だが、二人も乗れるのか? ライド・ビーストは普通一人乗りだぞ」
「乗れる乗れる。ディオウなら三人くらい余裕だぜ。ま、見りゃわかるさ」
得意げに答えるアズウェルに、釈然としない気分でマツザワは
「そ、そうか……なら大丈夫だな」
果たして、三人も騎乗可能なライド・ビーストなどいたのだろうか。
ライド・ビーストとは、その名の通り移動用の獣だ。大地を駆けるもの、空を翔けるもの、様々であるが、速さが売りのライド・ビーストは基本的に一人乗り。
三人乗りなど、任務で大陸中を駆け巡っているマツザワでも聞いたことすらもなかった。
アズウェルは左肩にフレイトの袋を担ぎながら、右手で草むらを掻き分けている。
「おーい、ディオーウ! 戻ってきだぞー」
アズウェルが呼びかけに応じて、純白の獣が姿を現した。
「ったく……遅いぞ、アズウェル。もう雨が降るぞ」
待ちくたびれて不貞寝をしていたディオウは、眠そうに
「わりぃな。スチリディーさんのとこで色々あってさ」
「また余計なことに首を突っ込んだのか」
「あはは。ま、そーいうコトで」
「いい加減学習したらどうだ。どうせあの店主に厄介事を頼まれてきたのだろう」
呆れているディオウの言葉を軽く流しながら、アズウェルはマツザワに手招きする。
「まぁまぁ……今日家に泊まりに来る奴ができたんだ。マツザワー! そんなとこに突っ立ってないでこっちに来いよ」
「あ、あぁ」
マツザワの声は上ずっていた。
百聞は一見にしかず。確かに三人はゆうに乗れるだろう。だが。
瞠目しているマツザワの瞳には、全身を純白の毛で包まれ、黄金の瞳を三つ持つ獣
何故ギアディスが此処にいるのか。
そもそもギアディスは、千年以上前にリウォード王と共に姿を消した幻の獣。もう、語られるだけの架空の存在となっていたはずなのに。
「……信じられない」
「マツザワー! 何してんだよ。早く乗れって!」
アズウェルの催促によって、彼女の思考は掻き消される。
「ほ……本当にギアディスに乗るのか!?」
そんな罰当たりなことができるわけがない。
平然としているアズウェルが、マツザワには別の世界の住人に思えた。
「ぎあ……でぃす?」
一方アズウェルは、初めて聞く言葉に小首を傾げる。
常識外れの反応に、マツザワは思わず頭を抱えた。文字通り絶句する。
そんな彼女に代って、ディオウがアズウェルの問いに答えた。
「ギアディスとはおれのことだ。おれの俗名」
「そんなの初めて聞いたぞ」
「別にお前が知らなくてもいいことだ。それより、雨が降るんだろ? 急がなくていいのか?」
「そうだ! とにかく早く乗ってくれ、マツザワ!」
どうしたものかと立ち尽くしていたマツザワは、意を決して一歩足を進める。
次の瞬間、アズウェルは驚きのあまり目を見開いた。
「お、おまえ何してんだよ?」
「ギアディス、いや……ディオウ様。私のような者が騎乗してもよろしいのでしょうか?」
マツザワは深々と頭を下げ、ディオウの前に膝をついていた。
「ディオウ様……? なんでディオウなんかに様付けしてるんだ? マツザワ一体どうし
「別に改まる必要はない。アズウェルがいいと言うのだ。構わん。乗れ」
アズウェルの声はディオウの声によって遮られる。その声は静かで威厳のある声だった。
「承知いたしました」
再度頭を下げ、マツザワはディオウに騎乗する。
先程まで硬直していたマツザワと入れ替わるように、今度はアズウェルが動けなくなっていた。
「一体どうしたんだよ? なんかディオウ、いつもと違くね……?」
思わず口を
困惑の表情を隠せないアズウェルを見て、マツザワが申し訳なさそうに言った。
「すまない。困らせてしまったようだな……」
「気にすることはない。アズウェル、何をしている? 早くお前も乗れ。雨が嫌なんじゃなかったのか?」
ディオウがなかなか乗ろうとしない飼い主を促す。
その言葉を聞いて、アズウェルは
「あ! いっけね!!」
アズウェルが飛び乗ると同時に、ディオウは飛翔した。
「急げディオウ! 雨雲に追いつかれる!!」
アズウェルたちの後方で雷鳴が轟く。積乱雲が背後まで迫っていた。
「あのなぁ! 元はと言えばお前が余計なことに首を突っ込んだりしたからこうなったんだろ!?」
ディオウは叫びながら更にスピードを上げた。
「わ! バカ落ちる!」
「しっかり掴まっていろ!」
ディオウは追い風を味方にし、凄まじい速度で空を翔る。
無茶苦茶だ。雨雲と競争するなど、常識外れもいいところだ。
そんなことを思って、マツザワは考え直す。
聖獣が出てくる時点で既に理解の域を超えてた。いや、闇職人を公言したところからかもしれない。最初から無茶苦茶だったのだ。
それにしても、こんな状況でよく会話していられるものだ。
アズウェルとディオウはまだ言い争いをしている。もはや会話ではなく、怒号の応酬になっているが。
マツザワは思わずくすっと笑みを
大自然と聖獣。はてさて、軍配はどちらに上がるのか。
「よっしゃ! 村に着いた!」
ディオウは少しずつスピードを落としながら村の上空を横断する。村は気持ち悪いほど静まり返っていた。
嵐の前の静けさだろうか。
だが、静寂とは違う〝静けさ〟を感じ、マツザワは思わず身震いをした。
全く灯りのついていない家々。止まった水車。枯れた噴水。
この村は、死んでいる。
直感だ。だが、間違ってはいないだろう。
スチリディーの言葉が、急激に重さを増した。
不自然なことに、各家々の庭に雑草は見当たらない。人の住む気配こそしないが、家自体も荒廃しているものは一つもない。
一体、この村で何が起きたのか。
「んとねー。そのことはおれも結構考えたんだけど、わかんねぇんだよな。ま、そのうちわかるさ」
「あ、アズウェル?」
その言葉は、あまりにタイミングが良すぎた。マツザワが、無意識に声として外に出していたのかと錯覚するほどに。
アズウェルの背中を見つめて、静かに
「やはり……何か意味があるのか?」
「え? 意味? 何のこと? おれなんか言ったか?」
その答えにマツザワは自分の耳を疑った。
「さっきそのうちわかるって……」
「おれそんなこと言った覚えねぇけど?」
互いに相手の言葉に驚いて、口をつぐむ。
廃村の上空を翔ける一行の耳に届くのは、風を切る音だけとなった。村は沈黙を守っている。
点在する家々が背後に遠ざかり、目の前には大樹の森が見えてきた。
ディオウは速度を落とさずに、枝と枝の間を器用に縫っていく。
アズウェルとマツザワは、その
「着いたぞ」
困惑する二人の思考を止めたのは、ディオウの短い一言だった。
「……お! サンキュー、ディオウ!」
ディオウから降りると、アズウェルは一目散に家の中へと駆け込む。
アズウェルが家に入るのを待っていたかのように、雨がどっと降り出した。
「ふ~、ギリギリセ~フ。二人とも早くはいらねぇと濡れるぞ~」
「あぁ、わかった」
アズウェルに応じて、マツザワはディオウから降りた。
そのまま彼女の故郷に定められている掟通り、再び叩頭しようとするが、ディオウが制止する。
「そんなことをする必要はない。服が汚れるぞ」
「ですが、ディオウ様……」
「敬語も様付けもしなくていい。今は千年前とは違う。おれはただの獣。アズウェルのペットだ」
言ってから、己の情け無さにディオウは思わず自嘲した。
普段アズウェルにペット扱いされれば、反論するというのに、自分で言っていては救えない。
しかしマツザワは〝ペット〟よりも〝千年前〟という単語に釘付けになっていた。
「千年前……やはりあなた様は……」
ディオウは静かに首を横に振る。
「それ以上今は言うな。アズウェルの友というなら、おれの友だ。そういうことにしておけ」
「……承知した。では……ディオウ殿、一つ聞いてもよろしいか?」
「構わん。何だ?」
マツザワは気になっていたことをディオウにぶつける。
「何故、貴殿が人と……アズウェルとこんな山奥にひっそり暮らしているのか。それとあのアズウェルの発言は一体……」
くすりと笑うと、意地悪そうな表情でディオウが返す。
「それだと質問は二つだぞ?」
「え、あ……す、すみません」
慌てて頭を下げるマツザワを一瞥して、ディオウは空を仰いだ。
「まぁ、気にするな。……さて、おれが何故アズウェルといるか、か」
通り雨は慌しく過ぎ去り、雲の隙間から星影が降り注いでいた。
ディオウは静かに語り出す。
「アズウェルと会ったのは今から十二年前だ。その時おれはアズウェルにただならぬ気配を感じたんだ。まぁ訳もなく惹かれたと言う方が、むしろ正しいのかもしれないな。だが、お前も感じただろう? 他と違う感じを」
マツザワはディオウの言葉に無言で頷く。
聖獣を知らないということを除いても、アズウェルは
「千年前を……彷彿とさせる何かを、おれはその時肌で感じたんだ」
「それは、まさか……」
「具体的にどうとは言い表せないが……恐らくアズウェルは何らかの形で王と関わっているだろう。まぁおれの憶測でしかないがな。それと、あの不可解な発言はおれにもわからない。あんなことはこの十二年間なかったからな」
「そ、そうですか」
「ただ……」
ディオウは一息ついて言葉を繋げる。
「あれは、旅立ちの合図だと思う」
「旅立ちの合図……? 一体何の?」
ディオウは遠い彼方を見つめる。
「アズウェルの……いや、それはまたこの次にしよう」
「またこの次って……」
「お前も既に巻き込まれているからな。おれと話した時点で」
いや、正確には
それは、マツザワだけでなく、ディオウ自身にも言えることだった。
「巻き込まれてるって……一体どういう……」
「どうって、お前はいずれアズウェルと共に旅をするからだ」
「私には私のやるべきことがあるのだ。いずれと……そう言われても……」
ディオウの的はずれな答えに、マツザワは困ったように首を振る。
「じきにわかる」
「ギアディスが予知できるとは聞かないが?」
ディオウは口元に不敵な笑みを浮かべ、はっきりと言い放った。
「おれの勘だ」
第3記 廃村外れの屋根の下
外で会話をしていたマツザワとディオウは、時折アズウェルが不安そうに窓から様子を見ているのを察して、石造りの小屋に入ることにした。
部屋には、机、椅子、ベッドといった最低限の家具と、古い台所が見える。発光鉱石ユースをガラス瓶に入れたランプが、天井から部屋を照らしていた。
「あ~もう。だから早く入れって言ったのに。二人ともびしょ濡れじゃん」
アズウェルは二人に呆れながらタオルを渡す。
「二人して一体何話してたんだ?」
流石に、アズウェルが何者なのか尋ねていたなどとは、本人を前にしてはとても言えまい。
マツザワが必死に言い訳を考えている横で、「自己紹介していただけ」とディオウがさらりと流す。
だが、返って逆効果のようだった。
「あのなぁ、自己紹介なんて家ん中でやりゃぁいいだろ。雨に打たれながらやるだなんて、マツザワが風邪引いたらどうするんだよ」
「フ……スワロウ族はお前ほどなよくはないぞ? おれ様の美しさを全て語ろうと思えば、それこそ丸一日かかるな。家に入ってからはうるさい家政婦がいるから、ろくに話もできんだろう」
「あーはいはい。要するに、マツザワはディオウのくっだらねぇ自己自慢を聞かされていたわけだな。で、誰がなよいだって?」
徐々に険悪さを増していく二人を見て、マツザワは呆然と佇んでいる。
彼らにとっては日課の一部なのだが、今日初めて二人に出会ったマツザワがそんなことを知るはずもない。
自分の問いかけが発端で遅くなったのだから、ディオウをどうにかしてフォローしなければ、と気持ちが焦る。
「あ、アズウェル、ディオウ殿は……」
「なよいが不満か? 雨ごときでおれを叩き起こしたのはお前だろう。そのくせ、このおれ様の話がくだらないだと? そんなことないな、素晴らしい話だっただろう、なぁマツザワ?」
「え、えぇ……まぁ」
同意を求められて咄嗟にマツザワが頷くが、アズウェルは不愉快そうに顔を顰[ めた。
「くっだんねぇに決まってんだろ! あんなの聞かされたら気が狂うぜ。雨ごときって……おまえは背中に蛇が張り付いても平気なのかよ?」
「何だと!? もういっぺん言ってみろ! おれ様は蛇などには動じない、お前がなよいだけだろう!」
「くっだんねぇに決まってるだろ! あんなの聞かされたら気が狂うぜ! なんだよ、この無神経!」
前半部分は、完璧なまでの再現だ。アズウェルは声色から表情まで見事に再生したが、聞き捨てならない後半部分は、更に熱を帯びていた。
そろそろ取っ組み合いにでもなりそうな雰囲気だ。
マツザワは、舌戦を固唾を飲んで見守る。
そうこうしている内に、矛先が彼女へと向けられた。
「マツザワ!!」
二人が同時に彼女を呼ぶ。
「え、な、何だ?」
「何だ? じゃねぇだろ。だから、おれとディオウどっちが正しいかってこと! 蛇が背中に張り付いたら、気持ち悪いに決まってるよな?」
「何言ってるんだ。そんなのは鍛錬していれば、どうってことないだろう?」
論点が、違う。先刻まで繰り広げていた舌戦の中心は、ディオウの自己紹介がくだらないか否かではなかったのか。
マツザワが返答に困っていると、場違いな高い声が家に響く。
「まぁ~たそんなバカげたことやってるのね! いつまでやってんのよ、あんたたち!!」
突然の怒声に三人は飛び上がった。
声の主は小さな生き物だ。淡いエメラルドグリーンの小動物は、翼のような耳を羽ばたかせ、宙から三人を見下ろしている。
「とぅ……トゥルーメンズ?」
マツザワは、声の主に恐る恐る尋ねた。
「そうよ。あなたお客様ね? あたしラキィ。よろしくね、お姉さん。で、ディオウ、誰がうるさい家政婦ですって!?」
言葉を失ったマツザワは、頭上を旋回しながら説教をするラキィに目を奪われていた。
アズウェル家は、非常識の塊だ。
密猟すれば裁かれるという、貴重な“配達屋”。体内に磁石を持ち、有能な頭脳を備えたトゥルーメンズは、ディザード大陸における小包配達屋だ。
それが、あろうことか人の言葉を延々と羅列し、飼い主である青年と伝説の聖獣を叱りつけている。
本来、郵便配達を生業としている種族からの斡旋[ でなければ、トゥルーメンズを手元に置くことは許されない。何故ならば、トゥルーメンズは高位魔術を操るエルフたちと深い関係にあったからだ。彼らを敵に回せば、街一つ易々と潰れてしまうだろう。
「まさか……この村に人がいないのは……」
「あら、そんなことないわよ、お姉さん。あたしは森のお偉いさんの頼みでここに派遣されたから。だから、そんな心配そうな顔をしないで」
紅い瞳をくりくりさせて、ラキィは疑念を呟いたマツザワに微笑みかける。
彼女の後ろでは、がくりと項垂れて濡れた床を拭くアズウェルとディオウの姿があった。
まるで子供扱いだ。
「ちぇっ……なんで、おれまでディオウが濡らした床を……」
「聖獣のおれ様が、床拭きなど……」
マツザワは目を瞬[ かせて、感心したように呟いた。
「あの二人を黙らせてしまった……」
「放っておくとどちらかが降参するまでやるからね。あたしが言葉覚えたのも、うるさい二人を黙らせるためよ。アズウェル! 早くご飯作って! ディオウ! その泥まみれの足をちゃんと洗ってきなさい!」
ラキィの下した命令に、アズウェルはげんなりした顔つきで腰を上げた。
「あいあい、わかったよ。マツザワ~、適当に椅子にでも座ってて」
「え、あぁ」
返事はしたものの、マツザワは既にラキィに勧められて椅子に座っていた。
それを見とめたアズウェルは、大きく嘆息し、持っていた雑巾をディオウの顔に投げつけた。
「おい、アズウェル、何すんだ!」
前足で器用に雑巾を払い落としたディオウが、批難の声を上げたが、すかさずラキィの雷が落ちる。
「まだそんな汚い格好で座り込んでいるの!? 早く言われたことをしなさい!」
「ったく……おれが走ったから飯が食えるんだろう……」
「何か言った!?」
「いや……何も……」
そう否定しつつも、ディオウは低い声で文句を連ねながら、小屋を出て行った。
「まったく、男ときたら言わないとやることしないんだから。嫌になるわ」
「大変だったようだな」
「大変だったじゃなくて大変なのよ。フェルスったらこの二人の面倒見るようにって無理矢理言葉覚えさせたのよ。毎日毎日、フェルスが知ってる限りの言葉を次から次へと……!」
さも嫌そうにラキィが毒づく。
「フェルス……?」
「この村の村長で長老だった人。あたしをこの家に放り込んだ鬼」
「そんで、おれを拾った人でおれの育て親。はい、これ飲んで待ってて。もうじきできるから」
アズウェルはマツザワに紅茶の入ったマグカップを渡す。
「あぁ、ありがとう」
「これ、紅茶な。マツザワは知らねぇかもな」
「紅茶……名は、聞いたことがあるが……」
マグカップを両手で持ったまま、中身と睨めっこをしているマツザワを見て、アズウェルの表情が切なさを帯びる。
似ている。昔、この村に来ていた人に。
もう決して会うことのできない人の面影が、マツザワに垣間見えた。
あの人は……あの人たちは、もう 。
「アズウェル、私の顔に何か付いているのか?」
「え?」
訝[ しげな面差しで見上げてくるマツザワに、しどろもどろに答える。
「い、いや……別に! く、黒髪は珍しいから、ちょっと見とれてただけだよ」
何故こんなに動揺しているのだろうか。
その瞳が似ていたからか。その黒髪が似ていたからか。
「そんなに珍しいものなのか? 金髪の方がよっぽど珍しいと思うが……」
「え、あ、いや……その……こ、この辺じゃあまり見かけないからっ!」
アズウェルは、慌てて顔の前で両手を振る。
そんなアズウェルを面白くなさそうに眺めているのが、水浴びをして戻ってきたディオウだ。
据[ わった両眼、への字に曲がった口元、ゆらゆらと揺れている長い尾。全身で不快感を顕[ にしている。
「ディオウ、大人気ないわね。ちょっと彼女のことを思い出しただけでしょ」
「あの女は既に死んでいるんだぞ」
耳元で囁[ いたラキィに、ディオウは吐き捨てるように呟いた。
「でも、彼女本当にそっくりなんだから、いいじゃない? ちょっとくらい。ディオウも懐かしいなら、素直にそう認めたら?」
「おれは、あの女は苦手だった。特に、あの女がいつも連れてくる女が大嫌いだった」
「あら、そう~? アズウェルとちょっと仲が良かっただけでしょ? ほんっと、大人気ないわね」
呆れ返るラキィを一瞥し、尾でドアノブを掴んで玄関の扉を閉める。
そして、未だに頬を染めて必死で言い訳をしているアズウェルと、首を傾げているマツザワの間にひょっこりと頭を割り込ませた。
「沸騰しているぞ、アズウェル!」
長い尾でアズウェルの背を叩きながら、顎[ で鍋を指す。
「え……? あ、やっべ! すっかり忘れてた!」
くるりと身体を反転させて、アズウェルは台所へと走る。それは僅か数歩の距離であったが、マツザワから引き離すには十分だった。
「……本当に、大人気ないのね……」
ラキィのディオウを見つめる眼差しは、呆れから哀れみに色を変えていた。
きょとんとしているマツザワに、「ちょっと昔村に来た人を思い出したのよ」と耳打ちし、ラキィも台所へ向かった。
「うお! あっぶね。吹き溢れるところだった」
火を止めて、アズウェルはほっと一息つく。
本当にほっとしたのは、鍋ではなく気まずい会話が中断したことだ。あのまま尋問され続けたら、口を割らずにはいられないだろう。
安堵の息を零[ して、アズウェルは額の冷や汗を拭[ った。
「パンも焼けたみたいねー」
「じゃぁ、出すか。危ないから、ラキィ、こっち」
手招きされたラキィは、アズウェルの頭上にちょこんと身体を乗せる。
狭い室内では、ラキィほど小さいと誤って鉄板を押し付けてしまうかもしれないからだ。
それにラキィがパンの出来具合を判断するため、竈[ から取り出す時は、いつもこの定位置につくようにしていた。
黄金[ 色に焼けたパンが、芳ばしい香りを家中に充満させる。
「今日の出来も流石あたしね! お姉さん、お一つどうぞ」
両耳で風を起こして熱を逃がすと、ラキィはマツザワにパンを一つ差し出す。
「ラキィがこれを作ったのか?」
「えぇ、そうよ。パンを焼くのはあたしの日課。あたしの耳ってアズウェルの手先と同じくらい器用なのよ」
トゥルーメンズであるラキィには、前足、つまり手にあたる部分がない。代わりに翼にもなる耳は五本に分かれていて、人の手のように動かすことができた。
「それは凄いな。では、有り難くいただこう」
マツザワはラキィからパンを受け取り、恐る恐る口へ運ぶ。
「……! これがパンというものか! こんなに美味しいものだとは知らなかった」
「マツザワ、パンも食ったこと無かったのか? パンくらいはそこら中にあるだろ?」
「基本、外に出ても米類ばかりを選ぶから、パンというのは見たことはあっても、口にしたことはなかった。修行中の十年間は、精進料理という野菜と米だけしか口にできなかったしな」
マツザワは懐かしそうに故郷のことを語る。
ある程度スワロウ族に関しては知識のあるアズウェルだったが、十年修行は初耳だ。
「十年間……? マジで野菜だけなのか?」
「肉類は魚も含めて全く出ないな。流石に、誕生日くらいはご馳走が並んだが」
それを聞いてアズウェルは額に手を当て、首を振った。
「マジかよ……おれには絶対無理だ。十年間も肉無しなんて、ありえねぇ……」
「あんたには三日と持たないわね」
「お前はその前に修行でバテるんじゃないか?」
「確かに、アズウェルには少々……いや、かなり無理がありそうだな」
アズウェルの言葉に皆賛同するが、あまりにあっさり過ぎて、逆に悔しい。
「おまえら……黙っていれば好き勝手言いやがって。ホントのことだけど」
「はは、自分でも認めているじゃないか」
マツザワの一言が止めとなり、ラキィとディオウが思わず吹き出す。マツザワも二人につられて笑い出した。
何もそこまで笑うことはないだろうに。第一、肉なしなどディオウでも無理に違いない。
いつもなら口を衝[ いて出る文句も、楽しげな三人を眺めていると言う気も失せる。
自然とアズウェルも顔を綻[ ばせた。
これほど明るい食卓は、いつ以来だろうか。
まだフェルスや村の同年代がいた頃のことを思い起こす。
あの頃は、平和で。あの頃は、〝家族〟がいて。あの頃は、あの人たちが遊びに来て。
ふと、ラキィとディオウを見ると、二人は穏やかな笑みを浮かべてアズウェルを見つめていた。
村人が消えてから、ずっと喧嘩ばかりしていたけれど。
それでも、一人にしないでくれた〝本当の家族〟が、此処にいた。
「……ごめん…………」
照れながら掠れるほど小さく謝って、数年ぶりにこの村で この家で、笑った。
もし声が届いてなくても、きっと伝わっているだろう。
二人の笑顔が、そう言っていた。
部屋には、机、椅子、ベッドといった最低限の家具と、古い台所が見える。発光鉱石ユースをガラス瓶に入れたランプが、天井から部屋を照らしていた。
「あ~もう。だから早く入れって言ったのに。二人ともびしょ濡れじゃん」
アズウェルは二人に呆れながらタオルを渡す。
「二人して一体何話してたんだ?」
流石に、アズウェルが何者なのか尋ねていたなどとは、本人を前にしてはとても言えまい。
マツザワが必死に言い訳を考えている横で、「自己紹介していただけ」とディオウがさらりと流す。
だが、返って逆効果のようだった。
「あのなぁ、自己紹介なんて家ん中でやりゃぁいいだろ。雨に打たれながらやるだなんて、マツザワが風邪引いたらどうするんだよ」
「フ……スワロウ族はお前ほどなよくはないぞ? おれ様の美しさを全て語ろうと思えば、それこそ丸一日かかるな。家に入ってからはうるさい家政婦がいるから、ろくに話もできんだろう」
「あーはいはい。要するに、マツザワはディオウのくっだらねぇ自己自慢を聞かされていたわけだな。で、誰がなよいだって?」
徐々に険悪さを増していく二人を見て、マツザワは呆然と佇んでいる。
彼らにとっては日課の一部なのだが、今日初めて二人に出会ったマツザワがそんなことを知るはずもない。
自分の問いかけが発端で遅くなったのだから、ディオウをどうにかしてフォローしなければ、と気持ちが焦る。
「あ、アズウェル、ディオウ殿は……」
「なよいが不満か? 雨ごときでおれを叩き起こしたのはお前だろう。そのくせ、このおれ様の話がくだらないだと? そんなことないな、素晴らしい話だっただろう、なぁマツザワ?」
「え、えぇ……まぁ」
同意を求められて咄嗟にマツザワが頷くが、アズウェルは不愉快そうに顔を
「くっだんねぇに決まってんだろ! あんなの聞かされたら気が狂うぜ。雨ごときって……おまえは背中に蛇が張り付いても平気なのかよ?」
「何だと!? もういっぺん言ってみろ! おれ様は蛇などには動じない、お前がなよいだけだろう!」
「くっだんねぇに決まってるだろ! あんなの聞かされたら気が狂うぜ! なんだよ、この無神経!」
前半部分は、完璧なまでの再現だ。アズウェルは声色から表情まで見事に再生したが、聞き捨てならない後半部分は、更に熱を帯びていた。
そろそろ取っ組み合いにでもなりそうな雰囲気だ。
マツザワは、舌戦を固唾を飲んで見守る。
そうこうしている内に、矛先が彼女へと向けられた。
「マツザワ!!」
二人が同時に彼女を呼ぶ。
「え、な、何だ?」
「何だ? じゃねぇだろ。だから、おれとディオウどっちが正しいかってこと! 蛇が背中に張り付いたら、気持ち悪いに決まってるよな?」
「何言ってるんだ。そんなのは鍛錬していれば、どうってことないだろう?」
論点が、違う。先刻まで繰り広げていた舌戦の中心は、ディオウの自己紹介がくだらないか否かではなかったのか。
マツザワが返答に困っていると、場違いな高い声が家に響く。
「まぁ~たそんなバカげたことやってるのね! いつまでやってんのよ、あんたたち!!」
突然の怒声に三人は飛び上がった。
声の主は小さな生き物だ。淡いエメラルドグリーンの小動物は、翼のような耳を羽ばたかせ、宙から三人を見下ろしている。
「とぅ……トゥルーメンズ?」
マツザワは、声の主に恐る恐る尋ねた。
「そうよ。あなたお客様ね? あたしラキィ。よろしくね、お姉さん。で、ディオウ、誰がうるさい家政婦ですって!?」
言葉を失ったマツザワは、頭上を旋回しながら説教をするラキィに目を奪われていた。
アズウェル家は、非常識の塊だ。
密猟すれば裁かれるという、貴重な“配達屋”。体内に磁石を持ち、有能な頭脳を備えたトゥルーメンズは、ディザード大陸における小包配達屋だ。
それが、あろうことか人の言葉を延々と羅列し、飼い主である青年と伝説の聖獣を叱りつけている。
本来、郵便配達を生業としている種族からの
「まさか……この村に人がいないのは……」
「あら、そんなことないわよ、お姉さん。あたしは森のお偉いさんの頼みでここに派遣されたから。だから、そんな心配そうな顔をしないで」
紅い瞳をくりくりさせて、ラキィは疑念を呟いたマツザワに微笑みかける。
彼女の後ろでは、がくりと項垂れて濡れた床を拭くアズウェルとディオウの姿があった。
まるで子供扱いだ。
「ちぇっ……なんで、おれまでディオウが濡らした床を……」
「聖獣のおれ様が、床拭きなど……」
マツザワは目を
「あの二人を黙らせてしまった……」
「放っておくとどちらかが降参するまでやるからね。あたしが言葉覚えたのも、うるさい二人を黙らせるためよ。アズウェル! 早くご飯作って! ディオウ! その泥まみれの足をちゃんと洗ってきなさい!」
ラキィの下した命令に、アズウェルはげんなりした顔つきで腰を上げた。
「あいあい、わかったよ。マツザワ~、適当に椅子にでも座ってて」
「え、あぁ」
返事はしたものの、マツザワは既にラキィに勧められて椅子に座っていた。
それを見とめたアズウェルは、大きく嘆息し、持っていた雑巾をディオウの顔に投げつけた。
「おい、アズウェル、何すんだ!」
前足で器用に雑巾を払い落としたディオウが、批難の声を上げたが、すかさずラキィの雷が落ちる。
「まだそんな汚い格好で座り込んでいるの!? 早く言われたことをしなさい!」
「ったく……おれが走ったから飯が食えるんだろう……」
「何か言った!?」
「いや……何も……」
そう否定しつつも、ディオウは低い声で文句を連ねながら、小屋を出て行った。
「まったく、男ときたら言わないとやることしないんだから。嫌になるわ」
「大変だったようだな」
「大変だったじゃなくて大変なのよ。フェルスったらこの二人の面倒見るようにって無理矢理言葉覚えさせたのよ。毎日毎日、フェルスが知ってる限りの言葉を次から次へと……!」
さも嫌そうにラキィが毒づく。
「フェルス……?」
「この村の村長で長老だった人。あたしをこの家に放り込んだ鬼」
「そんで、おれを拾った人でおれの育て親。はい、これ飲んで待ってて。もうじきできるから」
アズウェルはマツザワに紅茶の入ったマグカップを渡す。
「あぁ、ありがとう」
「これ、紅茶な。マツザワは知らねぇかもな」
「紅茶……名は、聞いたことがあるが……」
マグカップを両手で持ったまま、中身と睨めっこをしているマツザワを見て、アズウェルの表情が切なさを帯びる。
似ている。昔、この村に来ていた人に。
もう決して会うことのできない人の面影が、マツザワに垣間見えた。
あの人は……あの人たちは、もう
「アズウェル、私の顔に何か付いているのか?」
「え?」
「い、いや……別に! く、黒髪は珍しいから、ちょっと見とれてただけだよ」
何故こんなに動揺しているのだろうか。
その瞳が似ていたからか。その黒髪が似ていたからか。
「そんなに珍しいものなのか? 金髪の方がよっぽど珍しいと思うが……」
「え、あ、いや……その……こ、この辺じゃあまり見かけないからっ!」
アズウェルは、慌てて顔の前で両手を振る。
そんなアズウェルを面白くなさそうに眺めているのが、水浴びをして戻ってきたディオウだ。
「ディオウ、大人気ないわね。ちょっと彼女のことを思い出しただけでしょ」
「あの女は既に死んでいるんだぞ」
耳元で
「でも、彼女本当にそっくりなんだから、いいじゃない? ちょっとくらい。ディオウも懐かしいなら、素直にそう認めたら?」
「おれは、あの女は苦手だった。特に、あの女がいつも連れてくる女が大嫌いだった」
「あら、そう~? アズウェルとちょっと仲が良かっただけでしょ? ほんっと、大人気ないわね」
呆れ返るラキィを一瞥し、尾でドアノブを掴んで玄関の扉を閉める。
そして、未だに頬を染めて必死で言い訳をしているアズウェルと、首を傾げているマツザワの間にひょっこりと頭を割り込ませた。
「沸騰しているぞ、アズウェル!」
長い尾でアズウェルの背を叩きながら、
「え……? あ、やっべ! すっかり忘れてた!」
くるりと身体を反転させて、アズウェルは台所へと走る。それは僅か数歩の距離であったが、マツザワから引き離すには十分だった。
「……本当に、大人気ないのね……」
ラキィのディオウを見つめる眼差しは、呆れから哀れみに色を変えていた。
きょとんとしているマツザワに、「ちょっと昔村に来た人を思い出したのよ」と耳打ちし、ラキィも台所へ向かった。
「うお! あっぶね。吹き溢れるところだった」
火を止めて、アズウェルはほっと一息つく。
本当にほっとしたのは、鍋ではなく気まずい会話が中断したことだ。あのまま尋問され続けたら、口を割らずにはいられないだろう。
安堵の息を
「パンも焼けたみたいねー」
「じゃぁ、出すか。危ないから、ラキィ、こっち」
手招きされたラキィは、アズウェルの頭上にちょこんと身体を乗せる。
狭い室内では、ラキィほど小さいと誤って鉄板を押し付けてしまうかもしれないからだ。
それにラキィがパンの出来具合を判断するため、
「今日の出来も流石あたしね! お姉さん、お一つどうぞ」
両耳で風を起こして熱を逃がすと、ラキィはマツザワにパンを一つ差し出す。
「ラキィがこれを作ったのか?」
「えぇ、そうよ。パンを焼くのはあたしの日課。あたしの耳ってアズウェルの手先と同じくらい器用なのよ」
トゥルーメンズであるラキィには、前足、つまり手にあたる部分がない。代わりに翼にもなる耳は五本に分かれていて、人の手のように動かすことができた。
「それは凄いな。では、有り難くいただこう」
マツザワはラキィからパンを受け取り、恐る恐る口へ運ぶ。
「……! これがパンというものか! こんなに美味しいものだとは知らなかった」
「マツザワ、パンも食ったこと無かったのか? パンくらいはそこら中にあるだろ?」
「基本、外に出ても米類ばかりを選ぶから、パンというのは見たことはあっても、口にしたことはなかった。修行中の十年間は、精進料理という野菜と米だけしか口にできなかったしな」
マツザワは懐かしそうに故郷のことを語る。
ある程度スワロウ族に関しては知識のあるアズウェルだったが、十年修行は初耳だ。
「十年間……? マジで野菜だけなのか?」
「肉類は魚も含めて全く出ないな。流石に、誕生日くらいはご馳走が並んだが」
それを聞いてアズウェルは額に手を当て、首を振った。
「マジかよ……おれには絶対無理だ。十年間も肉無しなんて、ありえねぇ……」
「あんたには三日と持たないわね」
「お前はその前に修行でバテるんじゃないか?」
「確かに、アズウェルには少々……いや、かなり無理がありそうだな」
アズウェルの言葉に皆賛同するが、あまりにあっさり過ぎて、逆に悔しい。
「おまえら……黙っていれば好き勝手言いやがって。ホントのことだけど」
「はは、自分でも認めているじゃないか」
マツザワの一言が止めとなり、ラキィとディオウが思わず吹き出す。マツザワも二人につられて笑い出した。
何もそこまで笑うことはないだろうに。第一、肉なしなどディオウでも無理に違いない。
いつもなら口を
自然とアズウェルも顔を
これほど明るい食卓は、いつ以来だろうか。
まだフェルスや村の同年代がいた頃のことを思い起こす。
あの頃は、平和で。あの頃は、〝家族〟がいて。あの頃は、あの人たちが遊びに来て。
ふと、ラキィとディオウを見ると、二人は穏やかな笑みを浮かべてアズウェルを見つめていた。
村人が消えてから、ずっと喧嘩ばかりしていたけれど。
それでも、一人にしないでくれた〝本当の家族〟が、此処にいた。
「……ごめん…………」
照れながら掠れるほど小さく謝って、数年ぶりにこの村で
もし声が届いてなくても、きっと伝わっているだろう。
二人の笑顔が、そう言っていた。
第4記 鴉の笑い声
最後の紅茶を飲み終えると、マツザワがにっこりと微笑んだ。
「美味しかった。こんな賑やかな食事は久々だ」
「マツザワの家は食事静かなのか?」
アズウェルがリンゴをかじりながら問う。
「いや、食事は普段一人で取るので。祝典などの時は皆で取るが……」
そこまで言って、マツザワは目を伏せた。
マツザワも、アズウェルと同じようにかつて〝何か〟が故郷であったのだろう。
アズウェルは思い出したように話題を変えた。
「あ! やっべ、肝心なことを忘れてた! 実は、マツザワをうちに呼んだのには訳があって……」
言い出すタイミングを探っていただけで、片時も忘れなどはしていなかったのだが、彼女の翳[ った表情がアズウェルを突き動かした。
もう、黙っている場合ではない。もし、手遅れになってしまえば、取り返しがつかない。
アズウェルは席から離れると、組み立てたフレイトを持ってきた。
「さっきディオウとマツザワが外で話している間に直しちゃったんだけどさ」
「随分と早いな。ありがとう」
アズウェルの手早さに少し驚きつつも、マツザワは再び笑みを浮かべて礼を言う。
「いや、これくらい大したこと無いよ。それよりも、おれが話したいのはこっち」
アズウェルはポケットから小さな粒を取り出して、机に乗せた。
それを見たマツザワの表情が強張る。
「これ何だかわかるか? フレイトのエンジンコア部分に入っててさ。スチリディーさんの前で話したら大事[ になる思って、おまえをうちに呼んだんだけど……」
マツザワは絶句していた。ディオウが眉をひそめる。
「アズウェル、お前、それは……」
「うん、これってあれだよね。死者の種[ 」
「そうね、間違いないわ」
ラキィが険しい顔つきで頷く。
ガラスの粒には、鴉[ を象[ ったクロウ族の紋章が描かれていた。
凍りついたままの表情で、マツザワは呆然と言葉を吐き出す。
「これは……クロウ族が……宣戦布告するときに、使うものだ……」
「やっぱりな」
本当に、面倒な事に首を突っ込んでしまった。
だが、後悔はしていない。スワロウ族と知った時から、こうなることはきっと必然だったのだ。
「あんた、何で今まで黙っていたのよ!」
「言い出すタイミングが見つからなかったんだよ……」
「お前って奴は……! マツザワ、これは誰のフレイトだ?」
ディオウが眉間に皺[ を寄せながら、マツザワに訊[ く。
「フレイトは、マスターのだ。名前も、知らない。私にフレイトを預けたのは、我が種族の族長だ……」
「なら族長は宣戦布告されたことは、当然知っているだろうな」
マツザワが苦渋を滲ませた眼差しで死者の種[ を凝視する。
「すまない……! 私は完全に……アズウェルたちを巻き込んでしまった……!」
震える拳を机に叩きつけ、マツザワは顔をくしゃりと歪めた。
「別にそんなこと謝る必要ないぞ。元々おれが乱入したんだし。見つけたときにおまえにこれを押し付けて逃げることだってできたんだぜ?」
「その通りだ。非は全てアズウェルにある」
ディオウがきっぱりと言い放つ。
アズウェルは「そんな言い方ないだろ」と不服そうにディオウを睨んだ。
「これは……そんな簡単な問題じゃない。恐らく私たちはずっとクロウ族に監視されていただろう。アズウェルたちも、スチリディー殿も敵[ と見なされたはずだ」
「スチリディーさんも!? だって、おれは報せてないぞ、スチリディーさんには!」
「無駄だ、アズウェル。お前は考えが甘い。奴らは関わりを持てば全て排除にかかるだろう。情報はどこから漏れるかわからないからな」
「ルーティングが……そんなこと……」
しないと言い切れない自分に、腹が立つ。
仮にも同じエンプロイで働くフレイテジアだというのに。
ガシャン、と食器が机の上で飛び跳ねた。マツザワが抑えきれない怒りを再び机にぶつけたのだ。
「く……何故気がつかなかったんだ! 何故、何故族長は私にこの任務を託したんだ!? 宣戦布告だとわかっていて、それを任務と見なすなど族長の……父上のやり方ではないっ!!」
「マツザワ、落ちつ 」
「マツザワ、アズウェル、そしてラキィ。おれが今から言うことをよく聞け」
アズウェルの言葉を遮断するように、ディオウが言葉を紡ぐ。
「いいか、クロウ族に敵とされた場合、それは排除、即ち死を意味する。その対象は敵と見なされた者の一族、更には親しい者まで含まれるんだ」
完膚[ なきまでの、完全抹殺。
クロウ族はディザード一の人口を誇り、更に戦[ のプロと言われる強者揃い。
彼らに狙われるということは、命の刻限が定まったことに等しい。
ディオウの語る言葉にアズウェルは背筋をひたりとしたものが伝うのを感じた。
思っていた以上に、事態は深刻だ。
「唯一の幸運はおれが空を飛べたこと。おれがあの時、執拗[ に早く乗れと促したのは、近くに殺気を感じたからだ。奴らは気配を消していたから、おまえたちは気付かなかったのだろう。おれが飛翔したことで刺客は振り払えたが、あの時点でおれの存在を上部に報告されたと見て間違いない。アズウェルがフォアロ族ということも漏れているかもしれない。だとしたら、奴らはどんな手を使ってでもおれたちを消しに来るだろうな」
「ディオウ殿はわかるが……何故アズウェルまで……!」
悲痛な表情でディオウを顧みたマツザワの顔からは、血の気が引いていた。
「フォアロ族を知らないか。おれの第三の目である千里眼はもちろん、アズウェルの予知能力が奴らにとっては邪魔だからだ」
それを聞いてマツザワは、今度はアズウェルを見る。
「未来予知が出来るのか!?」
「あ、あぁ……それがおれの、フォアロ族の特徴なんだ」
普段は、雨を避けるための天気予知にしか使わない、無駄な才能。
先がわかるからといって、抗[ うことができない運命[ もあるのだと、アズウェルは知っていた。
「頼む……! 私の村のことを予知してくれ!! 村は……皆は無事なのか!?」
マツザワがアズウェルの両肩を掴んで懇願する。
今、村は、或[ いはこの先、故郷は無事なのか。
そう訴えてくる彼女の瞳を見て、アズウェルはかつての自分を重ねた。
先が怖くて怖くて。一人になるのが、暗闇に突き落とされるように恐ろしくて。
「待て、アズウェル! おれの話はまだ終わっていないぞ!!」
すかさず、ディオウが止める。が、時既に遅し。アズウェルは予知能力を起動していた。
孤独と絶望が、アズウェルの脳裏を支配する。次々と破壊される家々、崩れ落ちる人々が映像として瞳に浮かんだ。
「アズウェル! やめろっ! 正気を失うぞ!!」
ディオウの怒鳴り声に、アズウェルは我に返る。
「お、おれ……」
アズウェルに歩み寄ると、ディオウは怒りを爆発させる。その剣幕にマツザワは驚愕し、言葉を失う。
「馬鹿っ! あのまま予知を続けていたらブッ倒れてたぞ!? 五年前のことを忘れたのか!? あの日から一週間お前は意識不明で寝たきりだったんだぞ!? いいか、お前にはやることがあるんだ。今すぐ支度しろ!」
立て続けにまくし立てるディオウに、アズウェルは硬直していた。
「し……支度って……何を……」
「この村を出る支度よ! あんた、彼女とディオウの話聞いてたでしょ? スチリディーさんが殺されてもいいわけ!?」
今まで黙っていたラキィも、呆然としているアズウェルを叱咤する。
「そういうことだ。おまえが首を突っ込んじまったんだ。その分の責任は取れ。早くしねぇとエンプロイが燃えるぞ!」
燃える。もう一つの故郷が、業火に包まれる。
アズウェルはぎりっと下唇を噛んだ。
「すぐ準備する! ラキィ手伝って!!」
「もちろんよ!」
アズウェル、ラキィは扉を開け放ち、家を飛び出す。彼らの支度とは、この村、住み慣れたエルジアに別れを告げることだった。
二人が出て行った玄関を見つめたまま、マツザワが口を開く。
「すまない……。そんな、リスクのあるものだとは……思わなくて……」
上品さと威厳さを兼ね備えているはずの彼女が、今はただの若い娘にディオウは見えた。
彼女の揺れる瞳からは、怯えが見え隠れしている。
「そんなことは気にするな。それよりも、マツザワ、お前も早く支度しろ。おれたちはスチリディーを含む全てのエンプロイに住む人間を、このエルジアに連れてくる。ここは山に囲まれているし、簡単には見つからない。お前は急いで村へ帰るんだ」
「だが! アズウェルたちを置いていくなど……!」
ディオウは目を細めると、呆れたように溜息をついた。
「あのなぁ、おれたちがそんなにヤワに見えるか? さっさと帰って族長に伝えろ。この戦は思わぬ味方が付いたことによって勝てる、とな」
「だが、それでも危険過ぎる! 奴らの冷酷さを知っているだろう!? 一体どこに勝機が……!」
「ったく、本当にお前は質問が多いな。ついでに心配性過ぎだ。まったく、次期族長が聞いて呆れるな」
「な、何故それを……」
「十年もの修行っていうのでピンときた。まぁ、頑固さは合格だな」
一度言葉を区切ると、表情を引き締めて尾を一振りする。
「いいか? お前が任務を任されたのは、村から遠ざけるためだ。おれの勘だと、今回クロウ族は本気でスワロウ族を潰しに来る。勝てる自信のある戦なら、わざわざ次期族長であるお前を遠ざけたりしないだろう?」
ディザード大陸を牛耳ろうとしているクロウ族は、力がある種族を嫌っていた。
スワロウ族もその一つ。だが、過去の戦を彼らは〝腕試し〟と称し、大軍で襲来することはなかった。
本気で潰す準備が整ったということなのだろうか。
数年に一度襲来するクロウ族を、今までスワロウ族は何とか退けてきたが、本気で消しに来るとなれば話は別だ。
ただでさえ、クロウ族の人口はスワロウ族の十倍以上。刀技[ しか持たないスワロウ族にとっては絶望的だ。
「奴らの中には、闇術師[ っつー外道もいるしな。あれが出てくれば、相当厳しいだろう」
その闇は、全ての光、命を喰らい尽くす。
闇魔術[ には、例え世界最高峰の刀技を持つスワロウ族でも、到底太刀打ちできない。
族長は、一族の滅びを避けるために、次期族長である娘を遥か東の地へと赴かせたのだ。
「私は……また、守られているのか」
悔しい。何故いつも、そうやって自分に隠すのだろうか。
かけがえのないものを一度失ってから、強くありたいと願って、腕を磨いたつもりでいたというのに。
まだ、認めてもらえないのだろうか。
「早く行け。疑問は帰ってから、直接族長にブチ撒[ ければいい」
「……わかった。私は何としてでも、今日中に村に辿り着く!」
マツザワは決意を込めた言葉を、ディオウに、そして自分自身に言い放った。
既に時刻は、深夜の一時を回っている。
「それでいい。おれたちも全員避難させたらすぐ向かう。ラキィがいれば何とか行き着けるだろう」
無言でマツザワは頷いた。
ディオウがフレイトを尾で叩き、視線を玄関へ向ける。
「アズウェルが直したフレイトに乗っていけ」
「恩に着る!」
フレイトに跨[ ると同時に、マツザワはアクセルを踏み込む。
深夜の森にエンジン音が響き渡った。
数分後、村を駆け回ってきたアズウェルとラキィが、息を切らしながら戻ってきた。
「準備完了……っと……」
「ディオウ、お姉さんは?」
「今さっき出て行ったところだ。アズウェルが直したフレイトで帰れと言った」
アズウェルがメンテナンスを施したフレイトならば、余程乱暴に扱わない限り壊れることはないだろう。
玄関の外に広がる闇を見据えて、アズウェルは彼女が無事に着くことを祈った。
「暗い中、ちゃんと辿り着ければいいけど……」
「あいつなら大丈夫だろう。スワロウ族はどんな場所にいても、自分の村への道はわかるらしい」
「そっか、なら安心だな。おれたちも行こう!」
アズウェルの声にディオウ、ラキィが頷く。
二人を背に乗せたディオウが、エルジアの大地を蹴って飛び立った。
◇ ◇ ◇
既に、エンプロイは真っ赤に染まっていた。
至るところから火の手が上がり、多くのクロウ族の兵士が徘徊している。
罵声と悲鳴が次々にアズウェルの耳朶[ を貫いた。
「くっそ……! 遅かったのか!?」
「アズウェル、スチリディーの店が先だ!」
ディオウに促され、アズウェルたちはスチリディーの店、フライテリアへと急ぐ。
フライテリアの付近は妙に静かだった。火の手もまだ、上がっていない。
不気味な静寂に心を掻き乱されながら、開いたままの入り口から店中へ飛び込む。
「スチリディーさん! スチリディーさん!!」
「アズウェル君、来てはだめだ!」
クロウ族に囲まれたスチリディーは、両手を上げて棚に背中を押し付けている。
喉元には、剣[ の鋒[ が向けられていた。
「てめぇら、スチリディーさんから離れろっ!!」
迷うことなく兵士たちを目がけて突進する。
「殺[ れ。後ろの白い獣もだ」
「了解しました。ルーティング様」
スチリディーに向けられていた白羽の刃[ が、一斉にアズウェルに牙を剥[ く。
死角は、何処にもない。
刃は完全にアズウェルを捕らえる。
「アズウェル君!!」
「アズウェル!!」
「やめて !!」
「身の程を知るがいい……!」
悲鳴と嘲笑[ う声が、フライテリアに響いた。
「美味しかった。こんな賑やかな食事は久々だ」
「マツザワの家は食事静かなのか?」
アズウェルがリンゴをかじりながら問う。
「いや、食事は普段一人で取るので。祝典などの時は皆で取るが……」
そこまで言って、マツザワは目を伏せた。
マツザワも、アズウェルと同じようにかつて〝何か〟が故郷であったのだろう。
アズウェルは思い出したように話題を変えた。
「あ! やっべ、肝心なことを忘れてた! 実は、マツザワをうちに呼んだのには訳があって……」
言い出すタイミングを探っていただけで、片時も忘れなどはしていなかったのだが、彼女の
もう、黙っている場合ではない。もし、手遅れになってしまえば、取り返しがつかない。
アズウェルは席から離れると、組み立てたフレイトを持ってきた。
「さっきディオウとマツザワが外で話している間に直しちゃったんだけどさ」
「随分と早いな。ありがとう」
アズウェルの手早さに少し驚きつつも、マツザワは再び笑みを浮かべて礼を言う。
「いや、これくらい大したこと無いよ。それよりも、おれが話したいのはこっち」
アズウェルはポケットから小さな粒を取り出して、机に乗せた。
それを見たマツザワの表情が強張る。
「これ何だかわかるか? フレイトのエンジンコア部分に入っててさ。スチリディーさんの前で話したら
マツザワは絶句していた。ディオウが眉をひそめる。
「アズウェル、お前、それは……」
「うん、これってあれだよね。
「そうね、間違いないわ」
ラキィが険しい顔つきで頷く。
ガラスの粒には、
凍りついたままの表情で、マツザワは呆然と言葉を吐き出す。
「これは……クロウ族が……宣戦布告するときに、使うものだ……」
「やっぱりな」
本当に、面倒な事に首を突っ込んでしまった。
だが、後悔はしていない。スワロウ族と知った時から、こうなることはきっと必然だったのだ。
「あんた、何で今まで黙っていたのよ!」
「言い出すタイミングが見つからなかったんだよ……」
「お前って奴は……! マツザワ、これは誰のフレイトだ?」
ディオウが眉間に
「フレイトは、マスターのだ。名前も、知らない。私にフレイトを預けたのは、我が種族の族長だ……」
「なら族長は宣戦布告されたことは、当然知っているだろうな」
マツザワが苦渋を滲ませた眼差しで
「すまない……! 私は完全に……アズウェルたちを巻き込んでしまった……!」
震える拳を机に叩きつけ、マツザワは顔をくしゃりと歪めた。
「別にそんなこと謝る必要ないぞ。元々おれが乱入したんだし。見つけたときにおまえにこれを押し付けて逃げることだってできたんだぜ?」
「その通りだ。非は全てアズウェルにある」
ディオウがきっぱりと言い放つ。
アズウェルは「そんな言い方ないだろ」と不服そうにディオウを睨んだ。
「これは……そんな簡単な問題じゃない。恐らく私たちはずっとクロウ族に監視されていただろう。アズウェルたちも、スチリディー殿も
「スチリディーさんも!? だって、おれは報せてないぞ、スチリディーさんには!」
「無駄だ、アズウェル。お前は考えが甘い。奴らは関わりを持てば全て排除にかかるだろう。情報はどこから漏れるかわからないからな」
「ルーティングが……そんなこと……」
しないと言い切れない自分に、腹が立つ。
仮にも同じエンプロイで働くフレイテジアだというのに。
ガシャン、と食器が机の上で飛び跳ねた。マツザワが抑えきれない怒りを再び机にぶつけたのだ。
「く……何故気がつかなかったんだ! 何故、何故族長は私にこの任務を託したんだ!? 宣戦布告だとわかっていて、それを任務と見なすなど族長の……父上のやり方ではないっ!!」
「マツザワ、落ちつ
「マツザワ、アズウェル、そしてラキィ。おれが今から言うことをよく聞け」
アズウェルの言葉を遮断するように、ディオウが言葉を紡ぐ。
「いいか、クロウ族に敵とされた場合、それは排除、即ち死を意味する。その対象は敵と見なされた者の一族、更には親しい者まで含まれるんだ」
クロウ族はディザード一の人口を誇り、更に
彼らに狙われるということは、命の刻限が定まったことに等しい。
ディオウの語る言葉にアズウェルは背筋をひたりとしたものが伝うのを感じた。
思っていた以上に、事態は深刻だ。
「唯一の幸運はおれが空を飛べたこと。おれがあの時、
「ディオウ殿はわかるが……何故アズウェルまで……!」
悲痛な表情でディオウを顧みたマツザワの顔からは、血の気が引いていた。
「フォアロ族を知らないか。おれの第三の目である千里眼はもちろん、アズウェルの予知能力が奴らにとっては邪魔だからだ」
それを聞いてマツザワは、今度はアズウェルを見る。
「未来予知が出来るのか!?」
「あ、あぁ……それがおれの、フォアロ族の特徴なんだ」
普段は、雨を避けるための天気予知にしか使わない、無駄な才能。
先がわかるからといって、
「頼む……! 私の村のことを予知してくれ!! 村は……皆は無事なのか!?」
マツザワがアズウェルの両肩を掴んで懇願する。
今、村は、
そう訴えてくる彼女の瞳を見て、アズウェルはかつての自分を重ねた。
先が怖くて怖くて。一人になるのが、暗闇に突き落とされるように恐ろしくて。
「待て、アズウェル! おれの話はまだ終わっていないぞ!!」
すかさず、ディオウが止める。が、時既に遅し。アズウェルは予知能力を起動していた。
孤独と絶望が、アズウェルの脳裏を支配する。次々と破壊される家々、崩れ落ちる人々が映像として瞳に浮かんだ。
「アズウェル! やめろっ! 正気を失うぞ!!」
ディオウの怒鳴り声に、アズウェルは我に返る。
「お、おれ……」
アズウェルに歩み寄ると、ディオウは怒りを爆発させる。その剣幕にマツザワは驚愕し、言葉を失う。
「馬鹿っ! あのまま予知を続けていたらブッ倒れてたぞ!? 五年前のことを忘れたのか!? あの日から一週間お前は意識不明で寝たきりだったんだぞ!? いいか、お前にはやることがあるんだ。今すぐ支度しろ!」
立て続けにまくし立てるディオウに、アズウェルは硬直していた。
「し……支度って……何を……」
「この村を出る支度よ! あんた、彼女とディオウの話聞いてたでしょ? スチリディーさんが殺されてもいいわけ!?」
今まで黙っていたラキィも、呆然としているアズウェルを叱咤する。
「そういうことだ。おまえが首を突っ込んじまったんだ。その分の責任は取れ。早くしねぇとエンプロイが燃えるぞ!」
燃える。もう一つの故郷が、業火に包まれる。
アズウェルはぎりっと下唇を噛んだ。
「すぐ準備する! ラキィ手伝って!!」
「もちろんよ!」
アズウェル、ラキィは扉を開け放ち、家を飛び出す。彼らの支度とは、この村、住み慣れたエルジアに別れを告げることだった。
二人が出て行った玄関を見つめたまま、マツザワが口を開く。
「すまない……。そんな、リスクのあるものだとは……思わなくて……」
上品さと威厳さを兼ね備えているはずの彼女が、今はただの若い娘にディオウは見えた。
彼女の揺れる瞳からは、怯えが見え隠れしている。
「そんなことは気にするな。それよりも、マツザワ、お前も早く支度しろ。おれたちはスチリディーを含む全てのエンプロイに住む人間を、このエルジアに連れてくる。ここは山に囲まれているし、簡単には見つからない。お前は急いで村へ帰るんだ」
「だが! アズウェルたちを置いていくなど……!」
ディオウは目を細めると、呆れたように溜息をついた。
「あのなぁ、おれたちがそんなにヤワに見えるか? さっさと帰って族長に伝えろ。この戦は思わぬ味方が付いたことによって勝てる、とな」
「だが、それでも危険過ぎる! 奴らの冷酷さを知っているだろう!? 一体どこに勝機が……!」
「ったく、本当にお前は質問が多いな。ついでに心配性過ぎだ。まったく、次期族長が聞いて呆れるな」
「な、何故それを……」
「十年もの修行っていうのでピンときた。まぁ、頑固さは合格だな」
一度言葉を区切ると、表情を引き締めて尾を一振りする。
「いいか? お前が任務を任されたのは、村から遠ざけるためだ。おれの勘だと、今回クロウ族は本気でスワロウ族を潰しに来る。勝てる自信のある戦なら、わざわざ次期族長であるお前を遠ざけたりしないだろう?」
ディザード大陸を牛耳ろうとしているクロウ族は、力がある種族を嫌っていた。
スワロウ族もその一つ。だが、過去の戦を彼らは〝腕試し〟と称し、大軍で襲来することはなかった。
本気で潰す準備が整ったということなのだろうか。
数年に一度襲来するクロウ族を、今までスワロウ族は何とか退けてきたが、本気で消しに来るとなれば話は別だ。
ただでさえ、クロウ族の人口はスワロウ族の十倍以上。
「奴らの中には、
その闇は、全ての光、命を喰らい尽くす。
族長は、一族の滅びを避けるために、次期族長である娘を遥か東の地へと赴かせたのだ。
「私は……また、守られているのか」
悔しい。何故いつも、そうやって自分に隠すのだろうか。
かけがえのないものを一度失ってから、強くありたいと願って、腕を磨いたつもりでいたというのに。
まだ、認めてもらえないのだろうか。
「早く行け。疑問は帰ってから、直接族長にブチ
「……わかった。私は何としてでも、今日中に村に辿り着く!」
マツザワは決意を込めた言葉を、ディオウに、そして自分自身に言い放った。
既に時刻は、深夜の一時を回っている。
「それでいい。おれたちも全員避難させたらすぐ向かう。ラキィがいれば何とか行き着けるだろう」
無言でマツザワは頷いた。
ディオウがフレイトを尾で叩き、視線を玄関へ向ける。
「アズウェルが直したフレイトに乗っていけ」
「恩に着る!」
フレイトに
深夜の森にエンジン音が響き渡った。
数分後、村を駆け回ってきたアズウェルとラキィが、息を切らしながら戻ってきた。
「準備完了……っと……」
「ディオウ、お姉さんは?」
「今さっき出て行ったところだ。アズウェルが直したフレイトで帰れと言った」
アズウェルがメンテナンスを施したフレイトならば、余程乱暴に扱わない限り壊れることはないだろう。
玄関の外に広がる闇を見据えて、アズウェルは彼女が無事に着くことを祈った。
「暗い中、ちゃんと辿り着ければいいけど……」
「あいつなら大丈夫だろう。スワロウ族はどんな場所にいても、自分の村への道はわかるらしい」
「そっか、なら安心だな。おれたちも行こう!」
アズウェルの声にディオウ、ラキィが頷く。
二人を背に乗せたディオウが、エルジアの大地を蹴って飛び立った。
◇ ◇ ◇
既に、エンプロイは真っ赤に染まっていた。
至るところから火の手が上がり、多くのクロウ族の兵士が徘徊している。
罵声と悲鳴が次々にアズウェルの
「くっそ……! 遅かったのか!?」
「アズウェル、スチリディーの店が先だ!」
ディオウに促され、アズウェルたちはスチリディーの店、フライテリアへと急ぐ。
フライテリアの付近は妙に静かだった。火の手もまだ、上がっていない。
不気味な静寂に心を掻き乱されながら、開いたままの入り口から店中へ飛び込む。
「スチリディーさん! スチリディーさん!!」
「アズウェル君、来てはだめだ!」
クロウ族に囲まれたスチリディーは、両手を上げて棚に背中を押し付けている。
喉元には、
「てめぇら、スチリディーさんから離れろっ!!」
迷うことなく兵士たちを目がけて突進する。
「
「了解しました。ルーティング様」
スチリディーに向けられていた白羽の
死角は、何処にもない。
刃は完全にアズウェルを捕らえる。
「アズウェル君!!」
「アズウェル!!」
「やめて
「身の程を知るがいい……!」
悲鳴と
第5記 アズウェルVSルーティング
死角は、ない。退く時間[ も、ない。
襲ってくる刃は三本。それらの狙いはただ一つ、アズウェルだ。
「アズウェル!」
名前を呼ぶと同時に、ディオウは駆け出す。スチリディーも彼の名を呼び、ラキィが悲鳴を上げる。
「身の程を知るがいい……!」
間に合わない。
その場にいる誰もがそう思った時。
高い金属音が、ルーティングの嘲笑を両断する。
刃[ はアズウェルに喰らいついた かのように見えた。
アズウェルは崩れない。小刻みに震えているのは、兵士たちの腕だった。
三本の刃[ は、ある一点で止められていた。
「貴様、何をした?」
ルーティングが驚愕し、眉根を寄せる。
「狙われてるってのはわかってんだ。飛び込んでいくならてめぇらの動きを予測することくらいしてるさ」
三本の刃からアズウェルを守っていたもの。それは、アズウェルがフレイト稼業の相棒であるスパナだ。
「舐めんなよ……!」
スパナを勢いよく左下に振り下ろし、右に駆け抜ける。
剣先が僅かにアズウェルから離れた。その時だ。
がん、と鈍い音が鳴る。
前足で兵士二人の頭を踏み倒したディオウが、残る一人に鋭利な眼光を向けた。
「ひっ……! この、猛獣が……!」
「どこ見てんだよ!」
ディオウに斬りかかろうとした兵士に、アズウェルがスパナを投げる。
スパナは回転しながら、アズウェルの声に顧みた兵士の額を強打した。
気絶した二人を足蹴にしているディオウを飛び越え、アズウェルは頭を抑えてよろめく兵士の鳩尾[ に、痛烈な肘鉄を打ち込む。
糸が切れられた操り人形のように倒れた兵士を見て、ルーティングは眉間に皺[ を刻み込んだ。
「貴様ら……黙って見ていれば、随分好き放題暴れてくれたようだな……!」
「助けにも入らなかったくせに、よく言うぜ」
ルーティングを冷ややかに一瞥しながら、吐き捨てる。
抱き寄せたスチリディーをディオウの背に預けると、形相を一変させ、アズウェルは狼のような鋭い視線で再度黒幕を睨み返した。
「おれは……! おまえたちクロウ族を、絶対に許さねぇ!」
拾い上げたスパナを握り締める右手に、青筋が浮かぶ。
「貴様ごときに何ができる……!?」
剣を抜くやいなや、ルーティングがアズウェルとディオウに斬り込んだ。
ディオウが後ろに飛び退き、アズウェルは体を右に撚[ る。
漆黒の剣[ は、一瞬前まで彼らがいた空間を切り裂いた。
「ディオウ、こいつの相手はおれがする! スチリディーさんと街の人を頼む!」
「な……!? 無茶を言うな! そいつは相当の手練だぞ!」
アズウェルはルーティングの斬撃を避[ けながら、ディオウに怒鳴り返す。
「大丈夫だって! こいつはおれがブッ倒す! 早く行けっつってるだろ!! 早く、早くスチリディーさんを連れてけ!!」
「だが……!」
「ディオウ、あんたまでこっちに残ったら、誰が遭遇する兵士を倒すのよ!?」
「ディオウ君……」
「っち……わかった」
ラキィとスチリディーに怯えた眼差しを向けられ、ディオウは仕方なく踵[ を返した。
肩越しにちらりとアズウェルを見やる。
「アズウェル、無茶はするなよ……!」
器用にスパナで応戦するアズウェルに呟いて、ディオウは店から飛び出した。ラキィが後に続く。
「く……! 余計な真似を!」
焦りを覚えたルーティングが、一振りに力を込こめる。
スパナを伝って、アズウェルの右腕に衝撃が駆け抜けた。
「 っ!」
気力で黒剣を振り払い、一旦間合いを取ったアズウェルは、予知能力を発動した。
恵まれた運動神経を備えているアズウェルでも、流石に剣客の動きはそう易々とは見切れない。
怒りに任せて剣を振り回していたルーティングが、徐々に冷静さを取り戻す。
比例して、一撃一撃が重みを増していく。
一太刀受け止める度に、アズウェルの右手はびりびりと痺[ れた。
ほんの僅かに力が緩むと、ルーティングの剣がアズウェルのスパナを跳ね飛ばす。
黒剣が、その先にある喉元に喰らいつかんと迫り来る。
アズウェルは咄嗟に両膝を折り、突きを回避すると同時に倒立する。そのままの速度で、ルーティングの顎[ を思いっきり蹴り上げた。
「がっ……!」
「これ以上スチリディーさんの店で暴れるわけにはいかねぇんだ。ってことで吹っ飛んでもらう!」
倒立したまま、揃えた両足でルーティングの胸元を蹴り飛ばす。
防ぐ間も与えられなかったルーティングは、店の外まで吹き飛ばされた。
「小僧っ!」
街道から起き上がると、鬼のような形相でアズウェルを睨みつける。
「許さねぇって言ったろ!!」
突進してきたアズウェルを右にかわし、ルーティングは背後へ回る。
「首を切り落としてやるぞっ!」
「くそ……!」
予測しているというのに、ルーティングの動きが僅差で勝った。
アズウェルは体を捻って刃[ から逃れようとするが、完全には叶わない。刃はアズウェルの左肩を斬りつける。
「ぐ……っ!」
ぐらりとアズウェルの体勢が崩れかかった。
一瞬の猶予も与えない。すかさず心臓を狙う突きを放つ。
「うお!」
間一髪のところで仰[ け反り、紙一重でアズウェルは命を繋ぐ。
一瞬の判断が、優れている。
アズウェルが一筋縄では落とせないと判断し、ルーティングは無防備な足を払った。
「な!?」
バランスを失ったアズウェルが、石造りの街道に後頭部を強打する。
「 !!」
頭に激痛が弾けた。
視界が歪む。息が不規則になる。
微かな光が金属のそれとわかり、アズウェルは必死に己の身体に訴えた。
動け。動け。動いてくれ。
どんなに念じても、身体は言う事を聞かない。
動けないアズウェルに、ルーティングの剣が真っ直ぐ振り下ろされる。
「終わりだ……!!」
アズウェルは反射的に目を瞑[ った。
◇ ◇ ◇
びくり、とディオウは体を硬直させた。
「ディオウ? どうしたのよ?」
ラキィが不審そうに問う。
だが、ディオウはそれには答えず、街道の奥を見つめた。
「何? ……何もないわよ?」
ラキィの言う通り、ディオウの見つめる先には何もない。揺らめく炎に照らし出される街道が続いているだけだ。
「……今、何か聞こえなかったか?」
「はぁ!? 何も聞こえないわよ! 空耳でしょ! ぼっとしてないでよね! 早くみんなを避難させなきゃいけないのよ!?」
「そうか……悪い」
ディオウは背後をちらりと振り返る。
胸騒ぎがする。アズウェルは無事なのだろうか。
「早く! 早く!!」
「わかったって!」
催促されるがままに、ディオウは再び走り出した。
◇ ◇ ◇
「どこに……消えた……!?」
ルーティングの黒剣は、街道に突き刺さっている。
冷たい殺気を背後に感じて、首筋を汗が伝った。
「何を焦ってんだ、おまえは。悪いが、これ以上おまえに付き合ってるわけにはいかねぇ」
その声からは、氷のような冷たさを感じる。
アズウェルはルーティングのうなじを掴むと、全体重を掛ける。
急激に接近する地面に、ルーティングは抗うこともできない。
声も出せず、手も動かせない状況で、耳元で囁かれた言葉が一層彼を戦慄させた。
「少しおねんねしてろ、レジア」
驚愕に両眼を見開いた刹那、ルーティングは意識を手放した。
ぐらりとアズウェルの身体が傾[ ぐ。
ルーティングの横に倒れ込んだアズウェルの瞳は、既に瞼[ で覆われていた。
◇ ◇ ◇
総勢数十名といったところだろうか。
店を構えているだけで、周辺の村々から稼ぎに来ている者が多いエンプロイにとっては、夜中だったのが幸いした。
「これで全員か?」
ディオウが街の民を見渡して尋ねる。
「はい。これで全員です」
民の中の一人が答えた。
「こっちもオッケーよ」
ラキィの後ろにはライド・ビーストたちがいた。エンプロイのライド・ビースト店の者たちだ。
「しばらくここで待っていてくれ。スチリディー、任せたぞ」
「あぁ。本当に助かったよ、ディオウ君、ラキィ君。早くアズウェル君のところへ行ってやっておくれ」
こくんと頷き、ディオウは身を翻す。その時、おずおずと若い男がディオウを呼び止めた。
「あ……あの……聖獣殿!」
「何だ?」
「お、おれたちはこれから……どうしたらいいんですか? 店も家も皆燃やされてしまいました……! もう、生きていく道など……」
男の顔が、哀しみに歪んだ。
「壊されようが、燃やされようが、また、造ればいい。命があることが一番だ。仮住居はおれが保証するから、余計な心配をするな」
ディオウの言葉を聞いて、些[ か安心したのか、男の表情が仄かに和らぐ。
その時、住民たちが悲鳴を上げた。
「ディオウ、追っ手が来たわ!」
「そいつらはおれの獲物だ」
ラキィの言葉にそう返すと、ディオウは最前線に躍り出た。
「何だ!? この野獣は!?」
「おい、こいつ化け物だ!! 目が、目が三つもあるぞ!?」
「殺せ! その獣を殺すんだ!!」
口々に叫ぶクロウ族の台詞に、ディオウが眉根を寄せて唸った。
「このおれ様を知らない奴がいるだと……!? 貴様ら潜りだな」
アズウェルのことはとりあえず棚の上に上げて、ディオウは溜息をつく。
斬りかかってきた兵士をつまらなそうに前足で殴りつけ、不快だと言わんばかりに長い尾をゆらゆらと揺らす。
「ぐぁああああ!」
当然、ただの打撃ではない。鋭利な爪付きだ。殴られた兵士は痛みのあまり、のたうち回っている。
次々と倒されていく同胞を見て、一人が叫ぶ。
「て、撤退だ!! 全員撤退! 負傷者も連れて行け! 急げ! 化物から逃げるんだ!!」
「何だ。もう終わりか」
結局、ディオウは一歩も動かず、お座り状態で前足を振るっていただけだった。
「こんな下等兵士ばかりでおれたちを消しにくるとは……随分と舐められたもんだな」
文句を並べているディオウに呆れたラキィが、ぺしぺしと耳で彼の頭を叩[ く。
「あんた死にたいわけ? まったく、そんな文句言ってる暇はないわ。急いでアズウェルのところへ戻りましょ」
「……そうだな」
ラキィを頭に乗せたディオウは、再び紅炎で包まれている街の中へと駆け込んだ。
襲ってくる刃は三本。それらの狙いはただ一つ、アズウェルだ。
「アズウェル!」
名前を呼ぶと同時に、ディオウは駆け出す。スチリディーも彼の名を呼び、ラキィが悲鳴を上げる。
「身の程を知るがいい……!」
間に合わない。
その場にいる誰もがそう思った時。
高い金属音が、ルーティングの嘲笑を両断する。
アズウェルは崩れない。小刻みに震えているのは、兵士たちの腕だった。
三本の
「貴様、何をした?」
ルーティングが驚愕し、眉根を寄せる。
「狙われてるってのはわかってんだ。飛び込んでいくならてめぇらの動きを予測することくらいしてるさ」
三本の刃からアズウェルを守っていたもの。それは、アズウェルがフレイト稼業の相棒であるスパナだ。
「舐めんなよ……!」
スパナを勢いよく左下に振り下ろし、右に駆け抜ける。
剣先が僅かにアズウェルから離れた。その時だ。
がん、と鈍い音が鳴る。
前足で兵士二人の頭を踏み倒したディオウが、残る一人に鋭利な眼光を向けた。
「ひっ……! この、猛獣が……!」
「どこ見てんだよ!」
ディオウに斬りかかろうとした兵士に、アズウェルがスパナを投げる。
スパナは回転しながら、アズウェルの声に顧みた兵士の額を強打した。
気絶した二人を足蹴にしているディオウを飛び越え、アズウェルは頭を抑えてよろめく兵士の
糸が切れられた操り人形のように倒れた兵士を見て、ルーティングは眉間に
「貴様ら……黙って見ていれば、随分好き放題暴れてくれたようだな……!」
「助けにも入らなかったくせに、よく言うぜ」
ルーティングを冷ややかに一瞥しながら、吐き捨てる。
抱き寄せたスチリディーをディオウの背に預けると、形相を一変させ、アズウェルは狼のような鋭い視線で再度黒幕を睨み返した。
「おれは……! おまえたちクロウ族を、絶対に許さねぇ!」
拾い上げたスパナを握り締める右手に、青筋が浮かぶ。
「貴様ごときに何ができる……!?」
剣を抜くやいなや、ルーティングがアズウェルとディオウに斬り込んだ。
ディオウが後ろに飛び退き、アズウェルは体を右に
漆黒の
「ディオウ、こいつの相手はおれがする! スチリディーさんと街の人を頼む!」
「な……!? 無茶を言うな! そいつは相当の手練だぞ!」
アズウェルはルーティングの斬撃を
「大丈夫だって! こいつはおれがブッ倒す! 早く行けっつってるだろ!! 早く、早くスチリディーさんを連れてけ!!」
「だが……!」
「ディオウ、あんたまでこっちに残ったら、誰が遭遇する兵士を倒すのよ!?」
「ディオウ君……」
「っち……わかった」
ラキィとスチリディーに怯えた眼差しを向けられ、ディオウは仕方なく
肩越しにちらりとアズウェルを見やる。
「アズウェル、無茶はするなよ……!」
器用にスパナで応戦するアズウェルに呟いて、ディオウは店から飛び出した。ラキィが後に続く。
「く……! 余計な真似を!」
焦りを覚えたルーティングが、一振りに力を込こめる。
スパナを伝って、アズウェルの右腕に衝撃が駆け抜けた。
「
気力で黒剣を振り払い、一旦間合いを取ったアズウェルは、予知能力を発動した。
恵まれた運動神経を備えているアズウェルでも、流石に剣客の動きはそう易々とは見切れない。
怒りに任せて剣を振り回していたルーティングが、徐々に冷静さを取り戻す。
比例して、一撃一撃が重みを増していく。
一太刀受け止める度に、アズウェルの右手はびりびりと
ほんの僅かに力が緩むと、ルーティングの剣がアズウェルのスパナを跳ね飛ばす。
黒剣が、その先にある喉元に喰らいつかんと迫り来る。
アズウェルは咄嗟に両膝を折り、突きを回避すると同時に倒立する。そのままの速度で、ルーティングの
「がっ……!」
「これ以上スチリディーさんの店で暴れるわけにはいかねぇんだ。ってことで吹っ飛んでもらう!」
倒立したまま、揃えた両足でルーティングの胸元を蹴り飛ばす。
防ぐ間も与えられなかったルーティングは、店の外まで吹き飛ばされた。
「小僧っ!」
街道から起き上がると、鬼のような形相でアズウェルを睨みつける。
「許さねぇって言ったろ!!」
突進してきたアズウェルを右にかわし、ルーティングは背後へ回る。
「首を切り落としてやるぞっ!」
「くそ……!」
予測しているというのに、ルーティングの動きが僅差で勝った。
アズウェルは体を捻って
「ぐ……っ!」
ぐらりとアズウェルの体勢が崩れかかった。
一瞬の猶予も与えない。すかさず心臓を狙う突きを放つ。
「うお!」
間一髪のところで
一瞬の判断が、優れている。
アズウェルが一筋縄では落とせないと判断し、ルーティングは無防備な足を払った。
「な!?」
バランスを失ったアズウェルが、石造りの街道に後頭部を強打する。
「
頭に激痛が弾けた。
視界が歪む。息が不規則になる。
微かな光が金属のそれとわかり、アズウェルは必死に己の身体に訴えた。
動け。動け。動いてくれ。
どんなに念じても、身体は言う事を聞かない。
動けないアズウェルに、ルーティングの剣が真っ直ぐ振り下ろされる。
「終わりだ……!!」
アズウェルは反射的に目を
◇ ◇ ◇
びくり、とディオウは体を硬直させた。
「ディオウ? どうしたのよ?」
ラキィが不審そうに問う。
だが、ディオウはそれには答えず、街道の奥を見つめた。
「何? ……何もないわよ?」
ラキィの言う通り、ディオウの見つめる先には何もない。揺らめく炎に照らし出される街道が続いているだけだ。
「……今、何か聞こえなかったか?」
「はぁ!? 何も聞こえないわよ! 空耳でしょ! ぼっとしてないでよね! 早くみんなを避難させなきゃいけないのよ!?」
「そうか……悪い」
ディオウは背後をちらりと振り返る。
胸騒ぎがする。アズウェルは無事なのだろうか。
「早く! 早く!!」
「わかったって!」
催促されるがままに、ディオウは再び走り出した。
◇ ◇ ◇
「どこに……消えた……!?」
ルーティングの黒剣は、街道に突き刺さっている。
冷たい殺気を背後に感じて、首筋を汗が伝った。
「何を焦ってんだ、おまえは。悪いが、これ以上おまえに付き合ってるわけにはいかねぇ」
その声からは、氷のような冷たさを感じる。
アズウェルはルーティングのうなじを掴むと、全体重を掛ける。
急激に接近する地面に、ルーティングは抗うこともできない。
声も出せず、手も動かせない状況で、耳元で囁かれた言葉が一層彼を戦慄させた。
「少しおねんねしてろ、レジア」
驚愕に両眼を見開いた刹那、ルーティングは意識を手放した。
ぐらりとアズウェルの身体が
ルーティングの横に倒れ込んだアズウェルの瞳は、既に
◇ ◇ ◇
総勢数十名といったところだろうか。
店を構えているだけで、周辺の村々から稼ぎに来ている者が多いエンプロイにとっては、夜中だったのが幸いした。
「これで全員か?」
ディオウが街の民を見渡して尋ねる。
「はい。これで全員です」
民の中の一人が答えた。
「こっちもオッケーよ」
ラキィの後ろにはライド・ビーストたちがいた。エンプロイのライド・ビースト店の者たちだ。
「しばらくここで待っていてくれ。スチリディー、任せたぞ」
「あぁ。本当に助かったよ、ディオウ君、ラキィ君。早くアズウェル君のところへ行ってやっておくれ」
こくんと頷き、ディオウは身を翻す。その時、おずおずと若い男がディオウを呼び止めた。
「あ……あの……聖獣殿!」
「何だ?」
「お、おれたちはこれから……どうしたらいいんですか? 店も家も皆燃やされてしまいました……! もう、生きていく道など……」
男の顔が、哀しみに歪んだ。
「壊されようが、燃やされようが、また、造ればいい。命があることが一番だ。仮住居はおれが保証するから、余計な心配をするな」
ディオウの言葉を聞いて、
その時、住民たちが悲鳴を上げた。
「ディオウ、追っ手が来たわ!」
「そいつらはおれの獲物だ」
ラキィの言葉にそう返すと、ディオウは最前線に躍り出た。
「何だ!? この野獣は!?」
「おい、こいつ化け物だ!! 目が、目が三つもあるぞ!?」
「殺せ! その獣を殺すんだ!!」
口々に叫ぶクロウ族の台詞に、ディオウが眉根を寄せて唸った。
「このおれ様を知らない奴がいるだと……!? 貴様ら潜りだな」
アズウェルのことはとりあえず棚の上に上げて、ディオウは溜息をつく。
斬りかかってきた兵士をつまらなそうに前足で殴りつけ、不快だと言わんばかりに長い尾をゆらゆらと揺らす。
「ぐぁああああ!」
当然、ただの打撃ではない。鋭利な爪付きだ。殴られた兵士は痛みのあまり、のたうち回っている。
次々と倒されていく同胞を見て、一人が叫ぶ。
「て、撤退だ!! 全員撤退! 負傷者も連れて行け! 急げ! 化物から逃げるんだ!!」
「何だ。もう終わりか」
結局、ディオウは一歩も動かず、お座り状態で前足を振るっていただけだった。
「こんな下等兵士ばかりでおれたちを消しにくるとは……随分と舐められたもんだな」
文句を並べているディオウに呆れたラキィが、ぺしぺしと耳で彼の頭を
「あんた死にたいわけ? まったく、そんな文句言ってる暇はないわ。急いでアズウェルのところへ戻りましょ」
「……そうだな」
ラキィを頭に乗せたディオウは、再び紅炎で包まれている街の中へと駆け込んだ。
第6記 火の元を探せ!
街道の真ん中に男が二人倒れていた。
左目を眼帯で覆った黒髪の男と、まだ幼さが残る金髪の青年。
その二人を照らすかのように、眩い炎が家々を侵食している。
青年の瞼が、微かに揺れる。
「ん……」
ぼんやりと目を開けると、紅い光が差し込んできた。
まだ夜のはずなのに、妙に明るいと彼は疑問を抱く。
頭を打ったのだろうか。
思考が朧気で、すぐに思い出すことができない。
「えーっと……おれの名前は……アズウェル。うん、それでここは……」
アズウェルはゆっくりと身体を起こすと、辺りを見渡す。
割れた窓ガラス、燃え上がる家々、道に突き刺さった剣[ 。うつ伏せに倒れているルーティングを見て、アズウェルは漸[ く思い出した。
「あ、そうか。おれこいつとやり合ってって……あれ? 何でこいつ倒れてるんだ?」
順を追って、エンプロイに来てからのことを思い出す。
スチリディーを救い出すために兵士らを蹴散らし、ディオウたちを追い出してルーティングとサシで勝負をしていた。
「んで、だんだん予測してもこいつの動きについていけなくって……」
不意をつかれて頭を強打し、振り下ろされる剣に目を瞑ったのだ。
その後は ……
「……ありゃ?」
記憶を手繰り寄せても、その先が思い出せない。
困惑したアズウェルは頭を掻[ いた。
「どうしてその後のこと思い出せねぇんだ? う~ん……」
再度辺りを見渡す。
割れた窓ガラス、燃え上がる家々、道に突き刺さった剣、うつ伏せに倒れているルーティング。
自身の身体を見下ろしても、乱闘中に斬りつけられた左肩以外目立つ傷もない。
「おっもい出せねぇ……。おっかしいなぁ」
とりあえず確実なことは、自分は生きていて、ルーティングが倒れているという事実のみ。
溜息混じりにアズウェルが頭を抱えた時だ。
「アズウェル! 大丈夫か!?」
「ちょっと、あんた肩怪我してるじゃない!」
声の方向へ顔を向けると、ラキィを頭に乗せたディオウが向かってくるのがわかった。
ゆらりと立ち上がって、駆けつけた家族に笑ってみせる。
「ちょっとかすっただけだよ。大したこと無いって。血も止まってるみたいだし」
そう言ってはみたものの、貧血気味で目眩がしていた。
無理に作られたアズウェルの笑顔が、二人の心配を余計に煽る。
「本当に大丈夫なのか?」
ディオウが心配そうに訊[ く。無言で見上げてくるラキィの瞳も、微[ かに揺らいでいた。
二人の反応に、決まりが悪そうに頬を人差し指で掻きながら、アズウェルは話題を変えた。
「だから、大丈夫だって。それより、みんな避難させたか?」
「……あぁ。兵士も撤退させた」
無理をするなと言ったのに。
内心毒づきながら、ディオウは街の住民たちは皆無事であることを伝える。
「よかった。後はこの火だな」
一瞬ほっとした表情を浮かべると、アズウェルはすぐに表情を引き締めた。
家々を呑み込まんとする炎たちは、時折吹き抜ける風によって一層勢いを増している。
「あいつとやり合ってたときは、この辺りはまだ燃えていなかったのに……」
「もうほぼ街中に火の手が上がっているな」
「どうやって消そうかしら……」
ラキィが二人に問いかけた時、ルーティングが呻[ き声を上げた。
ディオウが唸[ り声を上げ、ラキィが警戒するように姿勢を低くする。
身構える二人と意識を取り戻したルーディングを、アズウェルはぼやっと見つめていた。
「ぐ……」
ルーティングが顔を歪めながら起き上がる。額の中央から顔を縦断するように、赤いものが流れ落ちた。
ちらりと一瞥したアズウェルは呆然としている。意識を失う直前に感じた雰囲気とはまるで別人のようだ。
「貴様、憶えていないのか」
問いかけた言葉に、アズウェルの顔が僅かに強張る。
「何の話だ」
敵意を剥[ き出しにした怒りの眼差しをディオウから受けても、ルーティングは表情一つ変えずにアズウェルを横目で見つめていた。
返事がないということは、肯定だろう。表情からも明らかだ。
押し黙るアズウェルにこれ以上を尋ねても、何も得られない。無駄な問答だ。
「おい、何か言ったらどうだ」
アズウェルの追求を諦めたルーティングは、苛立を募らせるディオウを視界から外して立ち上がる。
「野獣には関係の無いことだ」
「何だと、貴様……!」
「小僧、何故街が燃えている?」
ディオウの怒声を掻き消したその言葉に、三人は一様に目を見開いた。
「おま、何故って……」
「寝ぼけたこと言ってんじゃないわよ! あんたたちが燃やしたんでしょ!?」
「随分間抜けな戯言だな……! おれとラキィは兵士が火を放つのをこの目で見てきたぞ!」
ルーティングは訝[ しげに眉根を寄せ、腕を組む。
「俺たちではない。俺たちの目的はスチリディーを連行し、スワロウ族の女をおびき出すことだけだ。時間に余裕はなかった。貴様らに説明している時間すらもな。邪魔者は寝かせておけ。それが主[ の命令だ」
「アズウェルやスチリディーに剣[ を向けてた貴様の言い分なぞ、信用するに値しない。今更逃げようなどと随分都合がいいもんだな」
「ふん、単細胞の野獣の頭では理解できないだろうな」
「生意気な糞餓鬼だな。今の状況を理解できないほど貴様は低脳か」
ルーティングの剣[ を背に、ディオウが眼光を更に鋭くする。
傍観者を決め込んでいるアズウェルとラキィは、顔を見合わせて肩を竦[ めた。
「現に街を破壊し、街の民を殺そうとしていたのはクロウ族の兵士だ。言い逃れをしようったって、無駄な抵抗だぞ」
「俺が連れてきた部下は、その店の中で気絶している奴らだけだ。他に連れてきてはいない上に、そんなことを命令された覚えもない」
「あくまでシラを切る気か」
「俺は野獣と会話している覚えはない。トゥルーメンズ、街に火を放ったのはクロウ族の腕章を身につけた者たちだろう?」
「餓鬼が……! 今すぐ喉に喰らいついてやろうか」
飛びかかろうとディオウが体勢を低めた時、呆れ返ったラキィが両耳で彼の瞳を抑えた。
「ラキィ、何をする!」
「ディオウ、あんた話がややこしくなるから、いい加減黙って」
「敵の言葉を信用するつもりか!?」
「下らないことにいちいち反論してたら街が燃え尽きちゃうのよ? 喧嘩は火を消してからにしなさい!」
批難の声を上げたディオウに、ラキィはぴしゃりと言い放つ。
「おれも、そうした方がいいと思う」
「む……」
飼い主のアズウェルが賛同して、いよいよ立つ瀬のなくなったディオウは、長い尾を一振りして座り込んだ。
大人しくなったディオウに大きな溜息をついて、ラキィはルーティングを見据える。
「ルーティング、あんたが言う通り、あたしたちを追ってきた兵士はみんな腕章をつけていたわ。そこに寝てるあんたの部下や、あんたはつけてないわね。一体どういうことなの?」
「やはりそういう事か。はっきりした。少なくとも俺の主の傘下ではない」
それだけ言うと、ルーティングは店の中に入り、気絶している兵士たちを見下ろした。
幸い、スチリディーの店はまだ燃えていない。
「そういうことって、どういうことだよ?」
アズウェルの問いかけをルーティングは黙殺する。
代わりに動かない彼らの襟首[ を掴み上げ、軽く頬を叩[ いて声を張り上げた。
「起きろ!」
「っ! ……あ、ルーティング様。一体どうしたのですか?」
「奴らがこの街に火を放ったらしい」
頭を押さえながら身体を起こした兵士たちは、その一言で顔色を変える。
「本当ですか!?」
「急いで火の元を見つけなければ大変なことに……!」
「しかし我らには……」
「わかっている」
身を翻し、ルーティングはアズウェルたちの方を向く。その表情にアズウェルはぎょとした。
ルーティングは頬を引きつらせながらアズウェルに呼びかけた 否、怒鳴った。
「おい! 小僧!!」
「な、なんだよ……」
よりにもよって、アズウェルに頭を下げるなどプライドが許さない。
だが、全ては主のため。
苦虫を噛み潰したような顔でルーティングは言葉を吐き出す。
「ここは……一時、休戦だ。お前も街をこれ以上燃やしたくはないだろう」
こくんとアズウェルは頷く。
「だったら、これから俺の言うことに従え」
「へ……?」
「この火は」
「ただの火じゃない。魔術の火だな」
ルーティングが言おうとしたことを、暫く静観していたディオウが横から言う。
当然ルーティングに睨まれたが、ディオウは構わず続けた。
「術には術を使わないと消えないわけだ。だが、術者には他の術者の印[ 、つまり魔術の根元は見えない」
「……そういうことだ。お前らが俺たちの言うことを聞けばこの街の火は消える」
「それはともかく、何であんたたちが火を消す必要があるわけ?」
ラキィが瞳を半眼にして問う。
「この火は家をただ燃やすだけじゃない。恐らく結界を成しているはずだ」
「つまりここから出られないということ?」
「そうだ。だから言うことを聞けと言っているんだ」
ルーティングはラキィに答えながら、道に刺さった剣を抜き取った。
こてんと首を傾げて、アズウェルがディオウに確認する。
「んと……おれたちに協力しろって言ってんかな?」
「いや、あいつらがおれたちの消火活動に協力するんだ」
「誰がそんなことを言った。お前らが大人しく言うことを聞けばいい話だろう」
間髪入れずに言い回しを訂正するディオウと、それにすかさず切り返すルーティングに、ラキィがいたずらな微笑を浮かべる。
「なぁんで素直に協力してくれって言えないのかしら?」
「それは男のプライドに反する」
異口同音に、返答が重なる。
「……真似をするな」
「俺の台詞だ」
互いに火花を散らして睨み合う。
「とにかく、今はそんなことをしている場合じゃねぇんだろ?」
アズウェルが口を挟むと、二人は睨み合いを中断してそれぞれの味方の方を向く。
「今は奴らの術が必要だ。利用しろ」
「今は奴らの視力が必要だ。構わず使え」
アズウェルとラキィは二人の口振りに肩を震わせながら頷く。
一方兵士たちは、背筋をぴんと伸ばしてルーティングに敬礼していた。
「了解[ !」
ルーティングからアズウェルたちの前に移動し、兵士たちが整列する。
「ご協力宜しくお願い致します!」
兵士のリーダーらしき人物がそう言うと、今度はアズウェルたちに敬礼する。
「宜しくお願い致します!!」
「あら、兵士は素直なのね」
ラキィが面白そうに言った。
ルーティングはその言葉には耳を貸さないで、言いたいことを言う。その声は明らかに「不本意だ」と主張していた。
「この火はただの火じゃない。それはさっきギアディスが言った通りだ。術の火は火の元を消さなければ消えることはない。逆に言えば火の元だけを消せばいい。そのために、この印を探せ」
上着の内ポケットから一枚の紙を出し、アズウェルたちに示す。
描かれていたものは、クロウ族の紋章である、鴉[ だ。
「これはクロウ族が魔術を使うときに必ず印[ すものだ。この印に水の魔術を当てればいい」
「水の魔術って……普通の水じゃダメなのか?」
アズウェルの問いにルーティングは馬鹿にしたように言う。
「さっきギアディスが言っていただろう。術には術を持ってじゃないと効果がない。水系魔法は俺を含めて兵士たち全員が会得している。これから三グループに分かれて消火活動を行うんだ」
「おれたちをバラバラにすると言うことか?」
ディオウが眉根を寄せて問う。
「その方が効率がいい」
「へぇ~。ま、いいんじゃない? 消火手伝ってくれるって言うならそうしてもらおうよ」
「そうね、この際、敵、味方って言っている場合じゃないわ」
ラキィはアズウェルに賛成する。
「……だが、力を分散させておれたちを一掃するとも考えられるぞ」
ディオウは未だ警戒している。
「俺たちはそんなアンフェアなことはしない。それにさっきも言っただろう。今ここからは誰一人出られないんだ」
「さっき街の民を避難させた時は出られたぞ」
ディオウがルーティングを睥睨する。
「それは、まだ術者がいたからだろう。今外に出ることは不可能だ」
ルーティングは冷たい眼差しをディオウに送った。
納得できないディオウは、ラキィをアズウェルに押しやると、凄まじい勢いで街道を駆けていく。
それから程なくして、顔を顰[ めて戻ってきた。
「……出れない。空からもダメだった」
「俺の言った通りだろう?」
ディオウはそれでもまだ警戒を解こうとしない。
低い姿勢のまま、ルーティングたちを睨みつけている。
「ギアディスがこんなに頑固だとはな。おい、全員武器を置いていけ」
「了解[ 」
先刻抜き取った黒剣を鞘に収めて、ルーティングはディオウの前に放り投げる。
兵士たちも次々とディオウの前に武器を積んでいった。
「これで満足か?」
「ディオウ、もう充分だろ? 早く消火しないと酷くなる一方だぞ」
「わかった……」
飼い主の言葉に、ディオウは仕方なく嘆息した。
アズウェルの手元から飛び上がり、宙を旋回しながらラキィが皆に問いかけた。
「じゃぁ、すぐ行きましょ。グループはどうやって分けるの?」
◇ ◇ ◇
「よりにもよって、おまえと一緒かよぉ~」
アズウェルとルーティングは燃え盛る酒屋の前に立っていた。
「お前がグーチョキパーで決めると言ったんだぞ」
ルーティングの連れてきた兵士は三人。そこで、三人、二人、二人に別れることになったのだ。
「いや、まさかおまえとなるなんてさぁ。さっきまで命懸けて戦ってたんだぜ? 何か違和感というか」
アズウェルは肩を竦[ めて、中に入ろうとする。
「おい、待て。死ぬ気か? 今術をかける」
アズウェルの腕を掴んで引き戻したルーティングが、小声で何かを呟く。
「お、怪我が治っていくぞ。それに熱くねぇ!」
「水系魔法の一つ、アクアスーツだ。火の中にそのまま入るのは自殺行為。その術がかかっていれば、火の中にいても熱くない上に、息もできる。怪我を治したのはついでだ。途中で倒れでもしたら俺が困るからな。行くぞ」
ルーティングはぶっきらぼうに言うと扉を開ける。中は炎の海だった。
「ひゃあ。ここからあの印を探すのか」
「火系魔法は火がつきやすいところで使うのが常識だ。油の側や、木で出来たものとかを探せ」
「ういうい~」
二人が足を踏み入れると、炎が警戒するように道を開けた。
アズウェルはまず台所を探す。案の定、印は台所の酒樽にあった。
「みっけたぞー」
「どこだ?」
「ここ、この酒樽のフタのど真ん中」
指差しながら答えたアズウェルを、ルーティングは自分の背後へ押しやる。
「退[ いてろ。大量の水を被りたくなかったらな」
ルーティングは自分の指を噛み切ると、その血で印の上に更に印を描く。
その印は鴉[ ではなく、星を象[ ったような紋様だった。
「水霊よ、我に力を与え給え。その力を以[ て、邪悪な炎を消し去り給え!」
樽に描いた印と同じものを、ルーティングは宙に描く。
「ウィアード・スプレイ!!」
唱えた直後、酒樽を基軸に水柱が立ち上った。
「うお! すげぇ!」
初めて見る魔術にアズウェルは感動する。そのアズウェルに炎が襲いかかる。
「うぁ!?」
炎はアズウェルの右足をを吊り上げると、勢いよく床に叩きつける。
「ってぇ! この炎おれに触れんのかよ!?」
「馬鹿者……! 小僧、そいつは生き物みたいに動く。なるべく水柱の傍にいろ!」
先刻離れろと言ったのは、一体何処の誰だ。
アズウェルは不服そうにルーティングを一瞥した。
「ところで、この火いつ消えるんだ?」
「これは術者同士の勝負だ。力が尽きた方が負ける」
徐々に炎の勢いが衰えていく。
水蒸気が上がり、アズウェルの視界を真っ白にした。
「み、見えねぇ……」
「ヴェンティレイション!」
ルーティングの詠唱直後に風が吹き抜け、視界がクリアになった。
「おぉ~! ホントおまえすっげぇなぁ。剣術だけじゃなくて魔術も使えるなんてさ」
ひゅう、とアズウェルは口笛を吹いた。
「魔法剣士なんだから当たり前だ」
照れを隠すように、アズウェルから顔を背ける。
「次、行くぞ」
「おう! 次も軽く見つけてやるぜ!」
その嬉しそうな反応に、ルーティングはこめかみを押さえて唸った。
敵だということを理解しているのだろうか。
「どうした?」
「何でもない」
きょとんと己を見つめていたアズウェルの前を、ルーティングは足早に通り過ぎる。
「ちょ、待てよ~」
目線だけ後ろに向けて、後を追ってくるアズウェルを見やる。もうその瞳に敵意はない。
「なぁ、ルーティング、おれにも魔法使えんの?」
この戦に勝機があるとすれば ……
「お前次第だろう」
「え、今なんか言った?」
一人心地で呟いた言葉は、アズウェルには届かなかった。
しかし、そもそも独り言なのだから、当然ルーティングは言い直すつもりもない。
答えないルーティングに頬を膨らませて、アズウェルは小さな炭を蹴り飛ばす。
「返事くらいしてくれたっていーじゃねーかよっ」
「……返事」
「……は……?」
「してやったぞ。何ぼさっとしてるんだ、街が燃え尽きる前に消すのだろう?」
僅かに口元を緩ませて歩いていくルーティングの横に並ぶようにして追いつくと、拳二つほど背が高い彼を怪訝そうに見上げる。
数秒後、一瞬だけ目を見開くと、アズウェルは額を抑えて嘆息したのだった。
「そういうことじゃねーっつーの……」
左目を眼帯で覆った黒髪の男と、まだ幼さが残る金髪の青年。
その二人を照らすかのように、眩い炎が家々を侵食している。
青年の瞼が、微かに揺れる。
「ん……」
ぼんやりと目を開けると、紅い光が差し込んできた。
まだ夜のはずなのに、妙に明るいと彼は疑問を抱く。
頭を打ったのだろうか。
思考が朧気で、すぐに思い出すことができない。
「えーっと……おれの名前は……アズウェル。うん、それでここは……」
アズウェルはゆっくりと身体を起こすと、辺りを見渡す。
割れた窓ガラス、燃え上がる家々、道に突き刺さった
「あ、そうか。おれこいつとやり合ってって……あれ? 何でこいつ倒れてるんだ?」
順を追って、エンプロイに来てからのことを思い出す。
スチリディーを救い出すために兵士らを蹴散らし、ディオウたちを追い出してルーティングとサシで勝負をしていた。
「んで、だんだん予測してもこいつの動きについていけなくって……」
不意をつかれて頭を強打し、振り下ろされる剣に目を瞑ったのだ。
その後は
「……ありゃ?」
記憶を手繰り寄せても、その先が思い出せない。
困惑したアズウェルは頭を
「どうしてその後のこと思い出せねぇんだ? う~ん……」
再度辺りを見渡す。
割れた窓ガラス、燃え上がる家々、道に突き刺さった剣、うつ伏せに倒れているルーティング。
自身の身体を見下ろしても、乱闘中に斬りつけられた左肩以外目立つ傷もない。
「おっもい出せねぇ……。おっかしいなぁ」
とりあえず確実なことは、自分は生きていて、ルーティングが倒れているという事実のみ。
溜息混じりにアズウェルが頭を抱えた時だ。
「アズウェル! 大丈夫か!?」
「ちょっと、あんた肩怪我してるじゃない!」
声の方向へ顔を向けると、ラキィを頭に乗せたディオウが向かってくるのがわかった。
ゆらりと立ち上がって、駆けつけた家族に笑ってみせる。
「ちょっとかすっただけだよ。大したこと無いって。血も止まってるみたいだし」
そう言ってはみたものの、貧血気味で目眩がしていた。
無理に作られたアズウェルの笑顔が、二人の心配を余計に煽る。
「本当に大丈夫なのか?」
ディオウが心配そうに
二人の反応に、決まりが悪そうに頬を人差し指で掻きながら、アズウェルは話題を変えた。
「だから、大丈夫だって。それより、みんな避難させたか?」
「……あぁ。兵士も撤退させた」
無理をするなと言ったのに。
内心毒づきながら、ディオウは街の住民たちは皆無事であることを伝える。
「よかった。後はこの火だな」
一瞬ほっとした表情を浮かべると、アズウェルはすぐに表情を引き締めた。
家々を呑み込まんとする炎たちは、時折吹き抜ける風によって一層勢いを増している。
「あいつとやり合ってたときは、この辺りはまだ燃えていなかったのに……」
「もうほぼ街中に火の手が上がっているな」
「どうやって消そうかしら……」
ラキィが二人に問いかけた時、ルーティングが
ディオウが
身構える二人と意識を取り戻したルーディングを、アズウェルはぼやっと見つめていた。
「ぐ……」
ルーティングが顔を歪めながら起き上がる。額の中央から顔を縦断するように、赤いものが流れ落ちた。
ちらりと一瞥したアズウェルは呆然としている。意識を失う直前に感じた雰囲気とはまるで別人のようだ。
「貴様、憶えていないのか」
問いかけた言葉に、アズウェルの顔が僅かに強張る。
「何の話だ」
敵意を
返事がないということは、肯定だろう。表情からも明らかだ。
押し黙るアズウェルにこれ以上を尋ねても、何も得られない。無駄な問答だ。
「おい、何か言ったらどうだ」
アズウェルの追求を諦めたルーティングは、苛立を募らせるディオウを視界から外して立ち上がる。
「野獣には関係の無いことだ」
「何だと、貴様……!」
「小僧、何故街が燃えている?」
ディオウの怒声を掻き消したその言葉に、三人は一様に目を見開いた。
「おま、何故って……」
「寝ぼけたこと言ってんじゃないわよ! あんたたちが燃やしたんでしょ!?」
「随分間抜けな戯言だな……! おれとラキィは兵士が火を放つのをこの目で見てきたぞ!」
ルーティングは
「俺たちではない。俺たちの目的はスチリディーを連行し、スワロウ族の女をおびき出すことだけだ。時間に余裕はなかった。貴様らに説明している時間すらもな。邪魔者は寝かせておけ。それが
「アズウェルやスチリディーに
「ふん、単細胞の野獣の頭では理解できないだろうな」
「生意気な糞餓鬼だな。今の状況を理解できないほど貴様は低脳か」
ルーティングの
傍観者を決め込んでいるアズウェルとラキィは、顔を見合わせて肩を
「現に街を破壊し、街の民を殺そうとしていたのはクロウ族の兵士だ。言い逃れをしようったって、無駄な抵抗だぞ」
「俺が連れてきた部下は、その店の中で気絶している奴らだけだ。他に連れてきてはいない上に、そんなことを命令された覚えもない」
「あくまでシラを切る気か」
「俺は野獣と会話している覚えはない。トゥルーメンズ、街に火を放ったのはクロウ族の腕章を身につけた者たちだろう?」
「餓鬼が……! 今すぐ喉に喰らいついてやろうか」
飛びかかろうとディオウが体勢を低めた時、呆れ返ったラキィが両耳で彼の瞳を抑えた。
「ラキィ、何をする!」
「ディオウ、あんた話がややこしくなるから、いい加減黙って」
「敵の言葉を信用するつもりか!?」
「下らないことにいちいち反論してたら街が燃え尽きちゃうのよ? 喧嘩は火を消してからにしなさい!」
批難の声を上げたディオウに、ラキィはぴしゃりと言い放つ。
「おれも、そうした方がいいと思う」
「む……」
飼い主のアズウェルが賛同して、いよいよ立つ瀬のなくなったディオウは、長い尾を一振りして座り込んだ。
大人しくなったディオウに大きな溜息をついて、ラキィはルーティングを見据える。
「ルーティング、あんたが言う通り、あたしたちを追ってきた兵士はみんな腕章をつけていたわ。そこに寝てるあんたの部下や、あんたはつけてないわね。一体どういうことなの?」
「やはりそういう事か。はっきりした。少なくとも俺の主の傘下ではない」
それだけ言うと、ルーティングは店の中に入り、気絶している兵士たちを見下ろした。
幸い、スチリディーの店はまだ燃えていない。
「そういうことって、どういうことだよ?」
アズウェルの問いかけをルーティングは黙殺する。
代わりに動かない彼らの
「起きろ!」
「っ! ……あ、ルーティング様。一体どうしたのですか?」
「奴らがこの街に火を放ったらしい」
頭を押さえながら身体を起こした兵士たちは、その一言で顔色を変える。
「本当ですか!?」
「急いで火の元を見つけなければ大変なことに……!」
「しかし我らには……」
「わかっている」
身を翻し、ルーティングはアズウェルたちの方を向く。その表情にアズウェルはぎょとした。
ルーティングは頬を引きつらせながらアズウェルに呼びかけた
「おい! 小僧!!」
「な、なんだよ……」
よりにもよって、アズウェルに頭を下げるなどプライドが許さない。
だが、全ては主のため。
苦虫を噛み潰したような顔でルーティングは言葉を吐き出す。
「ここは……一時、休戦だ。お前も街をこれ以上燃やしたくはないだろう」
こくんとアズウェルは頷く。
「だったら、これから俺の言うことに従え」
「へ……?」
「この火は」
「ただの火じゃない。魔術の火だな」
ルーティングが言おうとしたことを、暫く静観していたディオウが横から言う。
当然ルーティングに睨まれたが、ディオウは構わず続けた。
「術には術を使わないと消えないわけだ。だが、術者には他の術者の
「……そういうことだ。お前らが俺たちの言うことを聞けばこの街の火は消える」
「それはともかく、何であんたたちが火を消す必要があるわけ?」
ラキィが瞳を半眼にして問う。
「この火は家をただ燃やすだけじゃない。恐らく結界を成しているはずだ」
「つまりここから出られないということ?」
「そうだ。だから言うことを聞けと言っているんだ」
ルーティングはラキィに答えながら、道に刺さった剣を抜き取った。
こてんと首を傾げて、アズウェルがディオウに確認する。
「んと……おれたちに協力しろって言ってんかな?」
「いや、あいつらがおれたちの消火活動に協力するんだ」
「誰がそんなことを言った。お前らが大人しく言うことを聞けばいい話だろう」
間髪入れずに言い回しを訂正するディオウと、それにすかさず切り返すルーティングに、ラキィがいたずらな微笑を浮かべる。
「なぁんで素直に協力してくれって言えないのかしら?」
「それは男のプライドに反する」
異口同音に、返答が重なる。
「……真似をするな」
「俺の台詞だ」
互いに火花を散らして睨み合う。
「とにかく、今はそんなことをしている場合じゃねぇんだろ?」
アズウェルが口を挟むと、二人は睨み合いを中断してそれぞれの味方の方を向く。
「今は奴らの術が必要だ。利用しろ」
「今は奴らの視力が必要だ。構わず使え」
アズウェルとラキィは二人の口振りに肩を震わせながら頷く。
一方兵士たちは、背筋をぴんと伸ばしてルーティングに敬礼していた。
「
ルーティングからアズウェルたちの前に移動し、兵士たちが整列する。
「ご協力宜しくお願い致します!」
兵士のリーダーらしき人物がそう言うと、今度はアズウェルたちに敬礼する。
「宜しくお願い致します!!」
「あら、兵士は素直なのね」
ラキィが面白そうに言った。
ルーティングはその言葉には耳を貸さないで、言いたいことを言う。その声は明らかに「不本意だ」と主張していた。
「この火はただの火じゃない。それはさっきギアディスが言った通りだ。術の火は火の元を消さなければ消えることはない。逆に言えば火の元だけを消せばいい。そのために、この印を探せ」
上着の内ポケットから一枚の紙を出し、アズウェルたちに示す。
描かれていたものは、クロウ族の紋章である、
「これはクロウ族が魔術を使うときに必ず
「水の魔術って……普通の水じゃダメなのか?」
アズウェルの問いにルーティングは馬鹿にしたように言う。
「さっきギアディスが言っていただろう。術には術を持ってじゃないと効果がない。水系魔法は俺を含めて兵士たち全員が会得している。これから三グループに分かれて消火活動を行うんだ」
「おれたちをバラバラにすると言うことか?」
ディオウが眉根を寄せて問う。
「その方が効率がいい」
「へぇ~。ま、いいんじゃない? 消火手伝ってくれるって言うならそうしてもらおうよ」
「そうね、この際、敵、味方って言っている場合じゃないわ」
ラキィはアズウェルに賛成する。
「……だが、力を分散させておれたちを一掃するとも考えられるぞ」
ディオウは未だ警戒している。
「俺たちはそんなアンフェアなことはしない。それにさっきも言っただろう。今ここからは誰一人出られないんだ」
「さっき街の民を避難させた時は出られたぞ」
ディオウがルーティングを睥睨する。
「それは、まだ術者がいたからだろう。今外に出ることは不可能だ」
ルーティングは冷たい眼差しをディオウに送った。
納得できないディオウは、ラキィをアズウェルに押しやると、凄まじい勢いで街道を駆けていく。
それから程なくして、顔を
「……出れない。空からもダメだった」
「俺の言った通りだろう?」
ディオウはそれでもまだ警戒を解こうとしない。
低い姿勢のまま、ルーティングたちを睨みつけている。
「ギアディスがこんなに頑固だとはな。おい、全員武器を置いていけ」
「
先刻抜き取った黒剣を鞘に収めて、ルーティングはディオウの前に放り投げる。
兵士たちも次々とディオウの前に武器を積んでいった。
「これで満足か?」
「ディオウ、もう充分だろ? 早く消火しないと酷くなる一方だぞ」
「わかった……」
飼い主の言葉に、ディオウは仕方なく嘆息した。
アズウェルの手元から飛び上がり、宙を旋回しながらラキィが皆に問いかけた。
「じゃぁ、すぐ行きましょ。グループはどうやって分けるの?」
◇ ◇ ◇
「よりにもよって、おまえと一緒かよぉ~」
アズウェルとルーティングは燃え盛る酒屋の前に立っていた。
「お前がグーチョキパーで決めると言ったんだぞ」
ルーティングの連れてきた兵士は三人。そこで、三人、二人、二人に別れることになったのだ。
「いや、まさかおまえとなるなんてさぁ。さっきまで命懸けて戦ってたんだぜ? 何か違和感というか」
アズウェルは肩を
「おい、待て。死ぬ気か? 今術をかける」
アズウェルの腕を掴んで引き戻したルーティングが、小声で何かを呟く。
「お、怪我が治っていくぞ。それに熱くねぇ!」
「水系魔法の一つ、アクアスーツだ。火の中にそのまま入るのは自殺行為。その術がかかっていれば、火の中にいても熱くない上に、息もできる。怪我を治したのはついでだ。途中で倒れでもしたら俺が困るからな。行くぞ」
ルーティングはぶっきらぼうに言うと扉を開ける。中は炎の海だった。
「ひゃあ。ここからあの印を探すのか」
「火系魔法は火がつきやすいところで使うのが常識だ。油の側や、木で出来たものとかを探せ」
「ういうい~」
二人が足を踏み入れると、炎が警戒するように道を開けた。
アズウェルはまず台所を探す。案の定、印は台所の酒樽にあった。
「みっけたぞー」
「どこだ?」
「ここ、この酒樽のフタのど真ん中」
指差しながら答えたアズウェルを、ルーティングは自分の背後へ押しやる。
「
ルーティングは自分の指を噛み切ると、その血で印の上に更に印を描く。
その印は
「水霊よ、我に力を与え給え。その力を
樽に描いた印と同じものを、ルーティングは宙に描く。
「ウィアード・スプレイ!!」
唱えた直後、酒樽を基軸に水柱が立ち上った。
「うお! すげぇ!」
初めて見る魔術にアズウェルは感動する。そのアズウェルに炎が襲いかかる。
「うぁ!?」
炎はアズウェルの右足をを吊り上げると、勢いよく床に叩きつける。
「ってぇ! この炎おれに触れんのかよ!?」
「馬鹿者……! 小僧、そいつは生き物みたいに動く。なるべく水柱の傍にいろ!」
先刻離れろと言ったのは、一体何処の誰だ。
アズウェルは不服そうにルーティングを一瞥した。
「ところで、この火いつ消えるんだ?」
「これは術者同士の勝負だ。力が尽きた方が負ける」
徐々に炎の勢いが衰えていく。
水蒸気が上がり、アズウェルの視界を真っ白にした。
「み、見えねぇ……」
「ヴェンティレイション!」
ルーティングの詠唱直後に風が吹き抜け、視界がクリアになった。
「おぉ~! ホントおまえすっげぇなぁ。剣術だけじゃなくて魔術も使えるなんてさ」
ひゅう、とアズウェルは口笛を吹いた。
「魔法剣士なんだから当たり前だ」
照れを隠すように、アズウェルから顔を背ける。
「次、行くぞ」
「おう! 次も軽く見つけてやるぜ!」
その嬉しそうな反応に、ルーティングはこめかみを押さえて唸った。
敵だということを理解しているのだろうか。
「どうした?」
「何でもない」
きょとんと己を見つめていたアズウェルの前を、ルーティングは足早に通り過ぎる。
「ちょ、待てよ~」
目線だけ後ろに向けて、後を追ってくるアズウェルを見やる。もうその瞳に敵意はない。
「なぁ、ルーティング、おれにも魔法使えんの?」
この戦に勝機があるとすれば
「お前次第だろう」
「え、今なんか言った?」
一人心地で呟いた言葉は、アズウェルには届かなかった。
しかし、そもそも独り言なのだから、当然ルーティングは言い直すつもりもない。
答えないルーティングに頬を膨らませて、アズウェルは小さな炭を蹴り飛ばす。
「返事くらいしてくれたっていーじゃねーかよっ」
「……返事」
「……は……?」
「してやったぞ。何ぼさっとしてるんだ、街が燃え尽きる前に消すのだろう?」
僅かに口元を緩ませて歩いていくルーティングの横に並ぶようにして追いつくと、拳二つほど背が高い彼を怪訝そうに見上げる。
数秒後、一瞬だけ目を見開くと、アズウェルは額を抑えて嘆息したのだった。
「そういうことじゃねーっつーの……」
第7記 謎の少年
「ウィアード・スプレイ!」
最後の炎が水に呑まれていく。
シューっという音を立てて、炎は跡形もなく消えていった。
「よっしゃぁ! これで街から出られるぞぉ!!」
アズウェルは両手でガッツポーズをした。
「ありがとな、ルーティング」
そう言いながら、右手をルーティングに差し出す。
「……何だ? この手は」
「握手だよ。知らねぇの?」
目を瞬[ かせるアズウェルを見て、ルーティングが嘆息する。
「あのな、俺が言いたいのはそういうことではなくてだな……」
「ん~っと。じゃぁ、ごめん」
「何故謝る?」
「おれ、誤解してたから」
アズウェルは消火活動中のことを思い起こした。
「え、じゃぁ……お前、スチリディーさんのこと保護しようとしてたわけ?」
「まぁ、そういうことだな。主[ の命令だ。奴らが宣戦布告付きの任務依頼したらしく、仕方なくこんな夜中に来たんだ。スワロウ族の女を呼び出そうとしたのは、主が話したいことがあると言ったからだ。ウィアード・スプレイ!」
これで十三個目だ。一体いくつ火をつけたのだろうか。
終わりの見えない消火活動に、ルーティングは何度目かわからない溜息をついた。
「ふーん。けど、スチリディーさんとこ前から嫌ってただろ? おれたち殺そうとしたしさ」
「別に俺はスチリディーのことを嫌っていた訳じゃない。ただあいつはフレイテジアのくせに、フレイトが造れないなどとふざけたことをほざくから、気に食わなかっただけだ。過去に殴り倒したくなったことはあるが、殺意を抱いたことは一度もない。本家がスチリディーを消しに来るのは予測できた。とにかく一刻も早くこの街から引き離す必要があったんだ」
次の消化場所を探しながら、ルーティングは続ける。
「お前たちを消そうとしたのは、邪魔をしたからだ」
その言葉に、アズウェルは目を瞠[ る。
「邪魔したから……ってそんだけかよ!?」
「それだけだ。元より、主には気絶だけでいいと言われていたし、俺も当面再起不能にする程度のつもりではあったがな」
「でも、結構マジでおれ死にかけたし、ディオウまで消そうとしたじゃんか」
「あの時手加減をしていたら、スチリディーの行方を追えなくなる。結果的にお前が彼女に依頼の真相を明かしていたからよかったが……。野獣は……ギアディスは、千里眼を持っているだろう? 根に持たれて追いかけられたら堪[ ったもんじゃない」
疲れ切った表情で語るルーティングを、アズウェルは無言で見つめる。
「……」
「……何だ?」
怪訝そうに眉根を寄せたルーティングに、アズウェルが笑いかけた。
「おまえってさぁ、すっげぇわかりやすいっていうか……何か単純だなぁーって」
ぴく、とルーティングが片眉を上げる。
単純。
初級魔法程度ではしゃぎ回るアズウェルにだけは言われたくない言葉だ。
「どういう意味だ」
「だってさぁ。普通ディオウがあんなに切れてたら驚くだろ? 全く動じないし。マツザワから聞いたけど、ディオウって何かすっげぇんだろ? それ殺そうとするとか、命令に忠実過ぎるなぁってさ」
ルーティングの瞳が一瞬揺らいだが、アズウェルはそれに気付かない。
「それに、おまえおれとやり合った時、さっき手抜いたら時間がどうのって言ってたけど、実際は少し手抜いてただろ? 魔法だってホントは使えたんだし」
今度も返答は、ない。
「答えないところを見ると図星?」
「……お前、やはり死にたいか?」
真顔でアズウェルに謝罪されたルーティングは、決まりが悪そうに視線を逸[ らせた。
「あの状況なら誤解しても仕方ないだろう」
「はは、おまえ意外と優しいのな」
そう笑った時、アズウェルの頭に拳が降ってくる。
「 ってぇ~。何するんだよ、いきなり」
「……ふん」
頭を押さえて呻[ くアズウェルを尻目に、ルーティングはさっさと屋敷から出て行く。
「あ、おい、待てよぉ。……お!」
「終わったみたいね」
「やっと、か」
屋敷の外にはラキィとディオウがいた。後ろには兵士たちもいる。皆明るい表情をしているが、疲労の色は隠し切れていない。
ディオウが大きな欠伸[ をする。
その横に、アズウェルはどさりと横に座り込んだ。
「流石に徹夜の消火活動は堪[ えたな。眠くて敵わん」
「おれも……眠いけど、早くマツザワのとこ行かねぇと」
アズウェルはそう言いながら目を擦[ る。
「そうよ、しっかりしないと! 街の人たちだってまだ林にいるのよ?」
「もう一頑張りすっかぁ」
立ち上がったアズウェルが、ふらりとよろける。
「おいおい、大丈夫か?」
「大丈夫……だって……」
言葉も虚しく、アズウェルはディオウの背後に倒れ込んだ。
驚いたディオウが、アズウェルを前足で揺する。
「アズウェル! おい、大丈夫か!?」
「ちょっと、あんたしっかりしなさいよ!」
「う~ん。やっぱ……眠い」
心配するディオウとラキィに、アズウェルは苦笑いを浮かべた。
無言で成り行きを眺めていたルーティングが、おもむろに口を開く。
「情けないな。それでよく俺に勝てたものだ。おい、帰還するぞ。お前ら武器を取ってこい」
「了解[ 」
軽く敬礼して、兵士たちは素早く街道を駆けていった。
視界から部下が消えると、ルーティングは宙に印を描く。
「ケア・ダスト」
アズウェルたちの体が淡い光に包まれた。
「何だ、この青白い光は」
「……馬鹿野獣」
前足でその光を払おうとするディオウに、ぼそりとルーティングが呟いた。
「あぁ!?」
聞こえてはいなかったが、反射的にディオウが声を上げる。
「黙ってじっとしていろ。動くと効果が薄れるぞ」
「ディオウ、おれ眠くなくなってきたぜ」
「何だと?」
動きと止めると、徐々に身体の重さが消えていく。
アズウェルの言ったように、眠気も薄らいでいった。
「……どういうつもりだ?」
敵であるはずのアズウェルたちを治療しても、ルーティングに利益はない。
ディオウが眉根を寄せる。
「別に」
短く答えると、ルーティングはくるりと背を向けた。と、その目が大きく見開かれる。
ルーティングは眼前に佇[ む人物を見て、息を飲んだ。
「あ……主!? 何故、ここへ……!?」
「おはようございます、ルーティング! 消火活動ご苦労さまー」
爽やか声色の少年は、にっこりと微笑を浮かべた。
少年は硬直しているルーティングから離れて、アズウェルたちに歩み寄る。
「あ、みなさん、おはようございます~。ボク、シルード・ウィズダムっていいますっ」
誰もシルードの挨拶には答えない。三人とも目の前の人物をただ見据えている。
これがクロウ族の頭かなのだろうか。
十四、五歳に見えるシルードは、まだ顔に幼さが残っている。肩まで伸ばした栗色の髪を後ろで一つに結っていた。
「あれ? 聞こえなかったのかな。おはようございますって言ったんだけど」
シルードは助けを求めるようにルーティングを振り返った。
主と視線が合ったルーティングは、慌ててそっぽを向く。
「……ルーティング。この人たちに何をしたんですか?」
むっとした表情でルーティングを睨み上げる。
「そいつはおれたちを殺そうとしたんだ。まぁ、アズウェルに負けたがな」
「な……そんなことしたんですか!? あれほど、人を傷つけてはいけないと言ったのに!?」
主に批難されて、ルーティングは言葉を詰まらせる。
アズウェルには真意を伝えたが、ディオウに言い訳しても聞く耳を持たないだろう。
「みなさん、本当に申し訳ありませんでしたっ。彼にはボクがよく言っておきます」
ぺこぺこと何度も頭を下げるシルードに、アズウェルが疑問を投げる。
「おまえがクロウ族の族長?」
「いえ、ボクは違いますよ」
アズウェルが話しかけてくれたことが嬉しかったのか、シルードは満面の笑みで答えた。
「ルーティングはおまえのことを主って言ってるけど……」
「あぁ。彼は確かにボクのこと主って呼んでますね。その辺りはあまり気にしないで下さい。大したこと無いですから」
「ふ~ん」
そういえば、とシルードはアズウェルに言った。
「みなさん、これからスワロウ族の村に行くんですよね?」
「え、うん。まぁ」
「じゃあ、族長さんに伝えてくれますか? 総攻撃は三日後の午前十時より開始いたします、と」
数秒沈黙が流れた。
「へ?」
「え?」
「あ?」
シルードの言葉の意味を理解した三人が、揃って声を上げる。
「だから、総攻撃は 」
「いやいや、わかったけど。何でそんなことわざわざおれたちに言うんだ? 言ったら不利になるんじゃね?」
アズウェルの言葉にラキィも頷[ く。
不審感を顕にして、ディオウは吐き捨てる。
「ふん、どうせ罠に決まっている」
「聖獣さん、嘘じゃないですよー。闇討ちなんて、勝った内に入りませんから。クロウ族はフェアがモットーなんです。ね、ルーティング」
「……あぁ」
同意したものの、ルーティングの内心は穏やかではなかった。
敵に情報を流したと知れば、本家はそれ相応の処罰を下すだろう。
少しは自分の立場を考えて欲しい。
眉間を押さえながら、ルーティングは深々と嘆息した時、兵士たちが武器を携えて戻ってきた。
「主……! おはようございます!」
兵士たちはシルードに敬礼する。
「おはよう、みんな。さて、ボクの用件も彼らに伝えたし、還ろうか」
「了解[ 」
「それじゃぁ、みなさんまた会いましょう!」
シルードは極上の笑顔で手を振る。右腕のシルバーブレスレットが、朝日に照らされて煌[ めいた。
それに応じて、アズウェルも手を振り返す。
「おう! まったなぁ!」
「……はぁ。お前わかってんのか? あいつら敵だぞ、敵」
「わかってるよ。けど、おれシルードたちは何か違う気がする。ルーティングだって根っからの悪じゃないみたいだし。悪いのはこの街に火をつけた奴らだと思うなぁ」
アズウェルは遠ざかっていくシルードたちを目で追った。
街道の終わりでシルードはアズウェルを振り返る。
碧色[ の瞳が穏やかに笑みを浮かべた。
どくん、とアズウェルの鼓動が跳ねる。
おはようございますっ
視界が霞み、耳の奥で懐かしい声が聞こえた気がした。
乱暴に目を擦って、再び顔を上げるが、もう其処に彼らの姿はない。
「あいつ……」
「どうかしたの?」
「……いや……多分気のせいだ」
「アズウェル?」
ラキィの呼びかけには応えずに、アズウェルはシルードたちが消えていった方向をじっと見つめていた。
最後の炎が水に呑まれていく。
シューっという音を立てて、炎は跡形もなく消えていった。
「よっしゃぁ! これで街から出られるぞぉ!!」
アズウェルは両手でガッツポーズをした。
「ありがとな、ルーティング」
そう言いながら、右手をルーティングに差し出す。
「……何だ? この手は」
「握手だよ。知らねぇの?」
目を
「あのな、俺が言いたいのはそういうことではなくてだな……」
「ん~っと。じゃぁ、ごめん」
「何故謝る?」
「おれ、誤解してたから」
アズウェルは消火活動中のことを思い起こした。
「え、じゃぁ……お前、スチリディーさんのこと保護しようとしてたわけ?」
「まぁ、そういうことだな。
これで十三個目だ。一体いくつ火をつけたのだろうか。
終わりの見えない消火活動に、ルーティングは何度目かわからない溜息をついた。
「ふーん。けど、スチリディーさんとこ前から嫌ってただろ? おれたち殺そうとしたしさ」
「別に俺はスチリディーのことを嫌っていた訳じゃない。ただあいつはフレイテジアのくせに、フレイトが造れないなどとふざけたことをほざくから、気に食わなかっただけだ。過去に殴り倒したくなったことはあるが、殺意を抱いたことは一度もない。本家がスチリディーを消しに来るのは予測できた。とにかく一刻も早くこの街から引き離す必要があったんだ」
次の消化場所を探しながら、ルーティングは続ける。
「お前たちを消そうとしたのは、邪魔をしたからだ」
その言葉に、アズウェルは目を
「邪魔したから……ってそんだけかよ!?」
「それだけだ。元より、主には気絶だけでいいと言われていたし、俺も当面再起不能にする程度のつもりではあったがな」
「でも、結構マジでおれ死にかけたし、ディオウまで消そうとしたじゃんか」
「あの時手加減をしていたら、スチリディーの行方を追えなくなる。結果的にお前が彼女に依頼の真相を明かしていたからよかったが……。野獣は……ギアディスは、千里眼を持っているだろう? 根に持たれて追いかけられたら
疲れ切った表情で語るルーティングを、アズウェルは無言で見つめる。
「……」
「……何だ?」
怪訝そうに眉根を寄せたルーティングに、アズウェルが笑いかけた。
「おまえってさぁ、すっげぇわかりやすいっていうか……何か単純だなぁーって」
ぴく、とルーティングが片眉を上げる。
単純。
初級魔法程度ではしゃぎ回るアズウェルにだけは言われたくない言葉だ。
「どういう意味だ」
「だってさぁ。普通ディオウがあんなに切れてたら驚くだろ? 全く動じないし。マツザワから聞いたけど、ディオウって何かすっげぇんだろ? それ殺そうとするとか、命令に忠実過ぎるなぁってさ」
ルーティングの瞳が一瞬揺らいだが、アズウェルはそれに気付かない。
「それに、おまえおれとやり合った時、さっき手抜いたら時間がどうのって言ってたけど、実際は少し手抜いてただろ? 魔法だってホントは使えたんだし」
今度も返答は、ない。
「答えないところを見ると図星?」
「……お前、やはり死にたいか?」
真顔でアズウェルに謝罪されたルーティングは、決まりが悪そうに視線を
「あの状況なら誤解しても仕方ないだろう」
「はは、おまえ意外と優しいのな」
そう笑った時、アズウェルの頭に拳が降ってくる。
「
「……ふん」
頭を押さえて
「あ、おい、待てよぉ。……お!」
「終わったみたいね」
「やっと、か」
屋敷の外にはラキィとディオウがいた。後ろには兵士たちもいる。皆明るい表情をしているが、疲労の色は隠し切れていない。
ディオウが大きな
その横に、アズウェルはどさりと横に座り込んだ。
「流石に徹夜の消火活動は
「おれも……眠いけど、早くマツザワのとこ行かねぇと」
アズウェルはそう言いながら目を
「そうよ、しっかりしないと! 街の人たちだってまだ林にいるのよ?」
「もう一頑張りすっかぁ」
立ち上がったアズウェルが、ふらりとよろける。
「おいおい、大丈夫か?」
「大丈夫……だって……」
言葉も虚しく、アズウェルはディオウの背後に倒れ込んだ。
驚いたディオウが、アズウェルを前足で揺する。
「アズウェル! おい、大丈夫か!?」
「ちょっと、あんたしっかりしなさいよ!」
「う~ん。やっぱ……眠い」
心配するディオウとラキィに、アズウェルは苦笑いを浮かべた。
無言で成り行きを眺めていたルーティングが、おもむろに口を開く。
「情けないな。それでよく俺に勝てたものだ。おい、帰還するぞ。お前ら武器を取ってこい」
「
軽く敬礼して、兵士たちは素早く街道を駆けていった。
視界から部下が消えると、ルーティングは宙に印を描く。
「ケア・ダスト」
アズウェルたちの体が淡い光に包まれた。
「何だ、この青白い光は」
「……馬鹿野獣」
前足でその光を払おうとするディオウに、ぼそりとルーティングが呟いた。
「あぁ!?」
聞こえてはいなかったが、反射的にディオウが声を上げる。
「黙ってじっとしていろ。動くと効果が薄れるぞ」
「ディオウ、おれ眠くなくなってきたぜ」
「何だと?」
動きと止めると、徐々に身体の重さが消えていく。
アズウェルの言ったように、眠気も薄らいでいった。
「……どういうつもりだ?」
敵であるはずのアズウェルたちを治療しても、ルーティングに利益はない。
ディオウが眉根を寄せる。
「別に」
短く答えると、ルーティングはくるりと背を向けた。と、その目が大きく見開かれる。
ルーティングは眼前に
「あ……主!? 何故、ここへ……!?」
「おはようございます、ルーティング! 消火活動ご苦労さまー」
爽やか声色の少年は、にっこりと微笑を浮かべた。
少年は硬直しているルーティングから離れて、アズウェルたちに歩み寄る。
「あ、みなさん、おはようございます~。ボク、シルード・ウィズダムっていいますっ」
誰もシルードの挨拶には答えない。三人とも目の前の人物をただ見据えている。
これがクロウ族の頭かなのだろうか。
十四、五歳に見えるシルードは、まだ顔に幼さが残っている。肩まで伸ばした栗色の髪を後ろで一つに結っていた。
「あれ? 聞こえなかったのかな。おはようございますって言ったんだけど」
シルードは助けを求めるようにルーティングを振り返った。
主と視線が合ったルーティングは、慌ててそっぽを向く。
「……ルーティング。この人たちに何をしたんですか?」
むっとした表情でルーティングを睨み上げる。
「そいつはおれたちを殺そうとしたんだ。まぁ、アズウェルに負けたがな」
「な……そんなことしたんですか!? あれほど、人を傷つけてはいけないと言ったのに!?」
主に批難されて、ルーティングは言葉を詰まらせる。
アズウェルには真意を伝えたが、ディオウに言い訳しても聞く耳を持たないだろう。
「みなさん、本当に申し訳ありませんでしたっ。彼にはボクがよく言っておきます」
ぺこぺこと何度も頭を下げるシルードに、アズウェルが疑問を投げる。
「おまえがクロウ族の族長?」
「いえ、ボクは違いますよ」
アズウェルが話しかけてくれたことが嬉しかったのか、シルードは満面の笑みで答えた。
「ルーティングはおまえのことを主って言ってるけど……」
「あぁ。彼は確かにボクのこと主って呼んでますね。その辺りはあまり気にしないで下さい。大したこと無いですから」
「ふ~ん」
そういえば、とシルードはアズウェルに言った。
「みなさん、これからスワロウ族の村に行くんですよね?」
「え、うん。まぁ」
「じゃあ、族長さんに伝えてくれますか? 総攻撃は三日後の午前十時より開始いたします、と」
数秒沈黙が流れた。
「へ?」
「え?」
「あ?」
シルードの言葉の意味を理解した三人が、揃って声を上げる。
「だから、総攻撃は
「いやいや、わかったけど。何でそんなことわざわざおれたちに言うんだ? 言ったら不利になるんじゃね?」
アズウェルの言葉にラキィも
不審感を顕にして、ディオウは吐き捨てる。
「ふん、どうせ罠に決まっている」
「聖獣さん、嘘じゃないですよー。闇討ちなんて、勝った内に入りませんから。クロウ族はフェアがモットーなんです。ね、ルーティング」
「……あぁ」
同意したものの、ルーティングの内心は穏やかではなかった。
敵に情報を流したと知れば、本家はそれ相応の処罰を下すだろう。
少しは自分の立場を考えて欲しい。
眉間を押さえながら、ルーティングは深々と嘆息した時、兵士たちが武器を携えて戻ってきた。
「主……! おはようございます!」
兵士たちはシルードに敬礼する。
「おはよう、みんな。さて、ボクの用件も彼らに伝えたし、還ろうか」
「
「それじゃぁ、みなさんまた会いましょう!」
シルードは極上の笑顔で手を振る。右腕のシルバーブレスレットが、朝日に照らされて
それに応じて、アズウェルも手を振り返す。
「おう! まったなぁ!」
「……はぁ。お前わかってんのか? あいつら敵だぞ、敵」
「わかってるよ。けど、おれシルードたちは何か違う気がする。ルーティングだって根っからの悪じゃないみたいだし。悪いのはこの街に火をつけた奴らだと思うなぁ」
アズウェルは遠ざかっていくシルードたちを目で追った。
街道の終わりでシルードはアズウェルを振り返る。
どくん、とアズウェルの鼓動が跳ねる。
視界が霞み、耳の奥で懐かしい声が聞こえた気がした。
乱暴に目を擦って、再び顔を上げるが、もう其処に彼らの姿はない。
「あいつ……」
「どうかしたの?」
「……いや……多分気のせいだ」
「アズウェル?」
ラキィの呼びかけには応えずに、アズウェルはシルードたちが消えていった方向をじっと見つめていた。
第8記 決意
「主、一体どういうつもりなんだ? 攻撃時刻を流したなんてことが奴らに知れたら……」
黒い短髪を風に流しながら、左目に眼帯をした男は前を歩く少年を見据える。
どこかで転んだのだろうか。男の額には一本切り傷のような痕があった。
「大丈夫ですよ。絶対にばれっこないですから」
主と呼ばれた少年が振り返って男を見上げる。
「〝ボク〟がここにこうやって来ていることも今は知られていないでしょう。この姿だってあいつらは知りませんから」
「確かにそれはそうだが……」
「ボクがキミに頼んだのも、元はと言えば彼女にそれを教えるためでしょう。この地で様々な種族から信頼を得ているスワロウ族を簡単に消されちゃ困るんです。奴らの企みを阻止するには、負けていただかないと後々面倒なのです」
そう簡単にはいきませんが、と少年は笑った。
「それに、奴らが絡んでいなくとも、この戦にキミは手を貸すつもりだったでしょう?」
「そ……それは……」
言葉を濁らせ、視線を逸[ らせた男を見て、少年は呆れたように溜息をついた。
「ルーティング、今は過去のことをうだうだ言っている時ではないでしょう。さ、早くスワロウ族の村に行って監視していてください。スワロウ族の様子と、到着した彼らのことを」
「……御意」
主の言葉は絶対。
数秒躊躇[ ってから、ルーティングは渋々頷いた。
少年は右手の人差指を立てて、更に続ける。
「定期的に報告してくださいね。それと、今度勝手に暴れたら、ボク本気で怒りますからね」
最後の方は些[ か声が低くなっていた気がしたが、それは単なる脅しではない証拠。
結局弁解などしてはいないが、したところで睨まれるのが目に見えている。
ただ聖獣に誇張表現をされたのは事実であり。
「……肝に、銘じておく」
苦々しげに呟くと、ルーティングは兵士たちを連れて、風と共に姿を消した。
草原に一人佇む少年、シルードは天を仰ぐ。
「待っていますよ、アズウェル」
朝日を浴びたシルードの栗毛が、黄金色[ に輝いていた。
◇ ◇ ◇
どくん、と。
突然アズウェルの心臓が跳ね上がった。
また、だ。
シルードの瞳を見た時と、同じ感覚。
「さて、そろそろ行きましょうか」
「あぁ、そうだな。街の奴らも全員エルジアに連れて来たしな、アズウェル」
ラキィとディオウの声は、アズウェルの耳を素通りする。
彼の耳に響いている音は。
けたたましく主張する己の心音と、耳鳴りに近い高い音。
遠くから聞こえていた高音が、徐々に存在感を増していく。
「ねぇ、アズウェル聞いてる? 眠いの?」
反応のないアズウェルを二人は訝しげに見上げていた。
呼びかけても、アズウェルの瞳は宙を凝視している。
「アズウェル? おい、アズウェルどうかしたのか!?」
ディオウが声を荒げた時、アズウェルの頭の中に言葉にならない悲鳴が迸[ る。
!?
鼓動が、一層激しさを増していく。
エル……アズウェル!!
名を、呼ばれた。
それは、誰の声なのか、アズウェルは知らない。
思考を強制停止させるように、意識を手放した。
「アズウェル! おい、大丈夫か!?」
「……ん?」
瞼を上げると、瞳にディオウとラキィの顔が映った。
「大丈夫なの?」
「え、うん。平気だけど」
それでも二人は「大丈夫か」と聞き続けた。
ラキィがアズウェルの頬や額を耳でぺたぺたと触れる。
アズウェルは怪訝そうに顔を顰[ めた。
「大丈夫だってば、何すんだよラキィ」
「じゃぁ……じゃぁ、何で起き上がらないの?」
「へ?」
どうやらアズウェルはベッドに仰向けになっていたらしい。
ゆっくりと上体を起こすと、見慣れた家具が目に飛び込んできた。
「ここは……」
「おれたちの家だ。出発しようとしたら、お前がいきなりブッ倒れたから連れてきたんだ」
「そっか」
力なく答えるアズウェルを見て、二人は顔を見合わす。
「やっぱり、ディオウの言う通りにした方がいいわね」
「え?」
「アズウェル、お前は少し休んでいろ。おれたち二人で一度マツザワのところに行ってくる」
ディオウの言葉にアズウェルは目を剥[ く。
「な……何言ってんだよ!? おれも行くに決まってるだろ!」
「けど、あんたまた倒れるかもしれないのよ?」
アズウェルは鋭い目付きでラキィを睨みつけた。
「行くったら行くんだ! おれは平気だ、どこも悪くない!」
「アズウェル、わかってるのか? 遊びじゃないんだぞ」
今度はディオウを睨む。
「そんなこと、言われなくてもわかってる!」
アズウェルはベッドから降りると戸棚を漁る。
木箱を一つ取り出し、中から必要なだけ金を財布に移した。
それは、アズウェルが村の面影を維持するための貯金。
誰が、いつ、此処に戻ってきても住めるように。
一度終わらせてしまったエルジアでの続きを、すぐに始められるように。
村をそのまま残しておくために、アズウェルは給料を持ち帰る度に、半分を木箱の中に保管していた。
其処から金を出すということは、この村に見切りを付けるということだ。
無言で自分の行動を見ている二人を振り返ると、怒気を帯びた声で言った。
「とにかく、おれは行く」
二人は反論しようと口を開きかけるが、アズウェルの眼光に気圧されて言葉を飲み込む。
木箱を開けたアズウェルを見れば、彼の意志がどれほどのものかは想像に難くない。
ただでさえ、一度言い出したら誰が何と言おうと聞かないのだ。
いくら正論を並べてもその努力が報われることはないだろう。
アズウェルの暴走を止められるといえば、過去に二人いたが、いずれも今此処にはいない。
くるりと背を向けたアズウェルは、乱暴に扉を蹴り外に出て行った。
二人は深々と嘆息する。
頭を抱えて悩んでいる二人の耳に、外からアズウェルの怒号が突き刺さる。
「行かないならそれでもいい。でもおれは行くからな!」
「ダメだな、もう」
「そうね、フェルスもロウドもいないもの」
がくりと頭[ を垂れた二人は、首を横に振った後、意を決したように顔を上げた。
「仕方ないわ、行きましょう。アズウェルを一人で行かせるのはとぉっても不安だわ」
「まったくだ」
◇ ◇ ◇
真夏の太陽がじりじりと地上を照らす。
その暑さに対抗するかのように、涼しい風が草原を駆け抜けていった。
「スワロウ族の村って……確か、南西だったな」
「ええ、そうね。ここからならさほど遠くはないと思うわ。急いで行けば明日のお昼には着くでしょ」
三人はエンプロイを南に抜け、隣街ロサリドを目指し広大な草原を横断中である。
ロサリドは北と南を繋ぐ大きな街だ。そこにはあらゆる物と情報が行き交う。スワロウ族の村にはラキィも初訪問ということで、まずはロサリドで情報収集することになったのだ。
「しっかし、全然見えてこねぇな、ロサリド」
「あと、百四十七キロはあるわね」
ラキィの言葉を聞いて、ディオウは瞠目する。
「マジか? こんなにのんびり歩いていたら、そこに着くまで何日もかかるぞ」
「エンプロイは辺境だからねぇ~。確かに隣街まで百五十キロ近くって異常よね」
なんて呑気な、とディオウはラキィを一瞥し、無言で歩いているアズウェルに言った。
「アズウェル、飛んで行かねぇと間に合わないぞ」
アズウェルはその声に一瞬足を止めるが、すぐにまた歩き出す。先程よりやや歩調を早めて。
「まだ怒っているのね」
ラキィが残念そうに言う。が。
「……」
「アズウェルゥ~」
ディオウが間抜けな声で名を呼ぶ。が。
「……」
「ねぇ、本当に空飛ばないと間に合わないわ」
ラキィがアズウェルの肩に乗って言う。が。
「……」
アズウェルは肩に乗っているラキィを払い落とし、更に歩調を早める。
「アズウェルゥ~」
再度ディオウが名を呼ぶ。が。
「……」
「相当怒っているわ……」
アズウェルの背を見ると凄まじい怒気が燃え上がっている。
自分だけ置いて行かれるのが余程嫌だったのか、あれからずっと沈黙を守っていた。
「アズウェルゥ~」
ディオウは諦めずに名を呼ぶ。が。
「……」
「アズウェルゥ~、アズウェルってばぁ、なぁアズウェルゥ~」
「………………」
無言、無音、無視。
だが、その程度で諦めるディオウでもない。
「アズウェルゥ~、いい加減口きいてくれよぉ」
尽[ く黙殺されるが、ディオウはアズウェルの黙[ りを破ろうと名を呼び続ける。
「アズウェルゥ~、アズウェルゥ~、アズウェルゥ~、アズウェ」
「うるさい! いい加減にしろっ!」
遂にアズウェルが口を開いた。ディオウはにやりとほくそ笑む。
「やっと口きいてくれたな」
アズウェルはディオウの背に乗ると、その頭を叩きながら怒鳴りつけた。
「気持ち悪い声でおれの名前を呼ぶな!!」
「アズウェルがおれたちを無視するから、ちょっと工夫しただけだ」
ディオウは何とかアズウェルの気を引こうと、わざと高い声で名前を呼び続けていたのだ。
それを間近で聞いていたラキィが、懸命に笑いを堪えて身体を震わせている。
ディオウの言い訳を拳骨で返したアズウェルは、そんなラキィに冷ややかな視線を送った。
「ぅぅ……何も殴ることないのに……」
前足で目頭を器用に押さえたディオウが泣いてみせるが、アズウェルは無反応だ。
「ディオウ、その辺にしとかないとまたアズウェル怒るわよ」
ラキィがぴょんとディオウの頭の上に飛び乗る。
ディオウはラキィの忠告を聞き流し、更に続けた。
「ひどいよなぁ……心配してたっていうのに、おれって不憫だよなぁ……ぅぅ……あぁ、なんて可哀想な聖獣でしょう……」
アズウェルが肩を小刻みに震わせる。
此処もじきに危険地帯だろう。
ラキィがディオウの頭から離れた時。
「いい加減に飛べ っ!!」
怒声と共に、強烈な拳骨がディオウの頭に降ってきた。
「狂暴アズウェル ッ!!」
どす、と鈍い音がディオウの脇腹辺りで生じる。
ディオウの四肢が、砕けた。
踵を落としたアズウェルは、素知らぬ振りをしている。
「今のは……入ったわね……」
溜息をつき、ラキィは酷いと嘆くディオウの後を追った。
ディオウはロサリドに向かってふらふらと飛行中。
アズウェルは未だディオウの頭を叩[ き続けていた。かれこれ、三十分以上経過しているだろうか。
ラキィはそんなディオウを同情の眼差し見つめていた。
怒りを煽った自業自得とも言えるだろうが、心配した結果なのだから確かに不憫だ。
とはいえ、怒りの矛先を向けられたくないラキィは、あえて近づこうともせず、付かず離れずの距離でディオウと並行飛行していた。
「……ごめん」
不意に手を止めたアズウェルが小さく呟いた。
心配してくれたのに。
それは風に消えそうなくらい微かな声だったが、ディオウには届いていた。
どんなに心配されていても、一人でいるのは耐えられない。
もう何もできずに何かを、誰かを失うなんて、心が耐えられない。
ディオウは優しく微笑み、アズウェルにだけ聞こえるように囁[ いた。
「わかっている。耐えられないなら、守ればいい」
小さく頷いてアズウェルはディオウの背に頭を埋[ める。
「動くなら、最後まで足掻けばいい」
アズウェルはディオウの言葉を深く、深く噛みしめた。
目頭が熱くなり、自然と涙が流れる。アズウェルは声を殺して泣いた。
村人が、家族が死ぬとわかっていて助けられなかった、何もできなかった。無力な自分を責めて。
もう、失いたくない。誰も。何も。もう、絶対に失うものか。
アズウェルは自分に強く言い聞かせる。
誰かが泣かなくて済むように。自分みたいな想いをしないで済むように。
その決意は、アズウェルの涙を自然に止めた。
アズウェルは瞳に溜まった涙を拭[ うと、蒼穹を振り仰ぐ。
青く、何処までも青く続いている空。
この下の何処かに、守りたかった人がいる。守りたい人がいる。
陽の光がアズウェルの顔を照らした。蒼の瞳がサファイヤのように煌[ めいた。
「ディオウ、ラキィ」
アズウェルは自分の決意を口にする。必ず、達成するために。
「絶対に、ワツキを守り抜く」
ディオウとラキィは無言でそれを受け止めた。
何も言わない。言葉は不要だった。
他の誰よりもアズウェルの気持ちを。その想いを。
かつて、幼さ故に失った事実だけを伝えられた過去を。
そして、今を ……
知っているから。
黒い短髪を風に流しながら、左目に眼帯をした男は前を歩く少年を見据える。
どこかで転んだのだろうか。男の額には一本切り傷のような痕があった。
「大丈夫ですよ。絶対にばれっこないですから」
主と呼ばれた少年が振り返って男を見上げる。
「〝ボク〟がここにこうやって来ていることも今は知られていないでしょう。この姿だってあいつらは知りませんから」
「確かにそれはそうだが……」
「ボクがキミに頼んだのも、元はと言えば彼女にそれを教えるためでしょう。この地で様々な種族から信頼を得ているスワロウ族を簡単に消されちゃ困るんです。奴らの企みを阻止するには、負けていただかないと後々面倒なのです」
そう簡単にはいきませんが、と少年は笑った。
「それに、奴らが絡んでいなくとも、この戦にキミは手を貸すつもりだったでしょう?」
「そ……それは……」
言葉を濁らせ、視線を
「ルーティング、今は過去のことをうだうだ言っている時ではないでしょう。さ、早くスワロウ族の村に行って監視していてください。スワロウ族の様子と、到着した彼らのことを」
「……御意」
主の言葉は絶対。
数秒
少年は右手の人差指を立てて、更に続ける。
「定期的に報告してくださいね。それと、今度勝手に暴れたら、ボク本気で怒りますからね」
最後の方は
結局弁解などしてはいないが、したところで睨まれるのが目に見えている。
ただ聖獣に誇張表現をされたのは事実であり。
「……肝に、銘じておく」
苦々しげに呟くと、ルーティングは兵士たちを連れて、風と共に姿を消した。
草原に一人佇む少年、シルードは天を仰ぐ。
「待っていますよ、アズウェル」
朝日を浴びたシルードの栗毛が、
◇ ◇ ◇
どくん、と。
突然アズウェルの心臓が跳ね上がった。
また、だ。
シルードの瞳を見た時と、同じ感覚。
「さて、そろそろ行きましょうか」
「あぁ、そうだな。街の奴らも全員エルジアに連れて来たしな、アズウェル」
ラキィとディオウの声は、アズウェルの耳を素通りする。
彼の耳に響いている音は。
けたたましく主張する己の心音と、耳鳴りに近い高い音。
遠くから聞こえていた高音が、徐々に存在感を増していく。
「ねぇ、アズウェル聞いてる? 眠いの?」
反応のないアズウェルを二人は訝しげに見上げていた。
呼びかけても、アズウェルの瞳は宙を凝視している。
「アズウェル? おい、アズウェルどうかしたのか!?」
ディオウが声を荒げた時、アズウェルの頭の中に言葉にならない悲鳴が
鼓動が、一層激しさを増していく。
名を、呼ばれた。
それは、誰の声なのか、アズウェルは知らない。
思考を強制停止させるように、意識を手放した。
「アズウェル! おい、大丈夫か!?」
「……ん?」
瞼を上げると、瞳にディオウとラキィの顔が映った。
「大丈夫なの?」
「え、うん。平気だけど」
それでも二人は「大丈夫か」と聞き続けた。
ラキィがアズウェルの頬や額を耳でぺたぺたと触れる。
アズウェルは怪訝そうに顔を
「大丈夫だってば、何すんだよラキィ」
「じゃぁ……じゃぁ、何で起き上がらないの?」
「へ?」
どうやらアズウェルはベッドに仰向けになっていたらしい。
ゆっくりと上体を起こすと、見慣れた家具が目に飛び込んできた。
「ここは……」
「おれたちの家だ。出発しようとしたら、お前がいきなりブッ倒れたから連れてきたんだ」
「そっか」
力なく答えるアズウェルを見て、二人は顔を見合わす。
「やっぱり、ディオウの言う通りにした方がいいわね」
「え?」
「アズウェル、お前は少し休んでいろ。おれたち二人で一度マツザワのところに行ってくる」
ディオウの言葉にアズウェルは目を
「な……何言ってんだよ!? おれも行くに決まってるだろ!」
「けど、あんたまた倒れるかもしれないのよ?」
アズウェルは鋭い目付きでラキィを睨みつけた。
「行くったら行くんだ! おれは平気だ、どこも悪くない!」
「アズウェル、わかってるのか? 遊びじゃないんだぞ」
今度はディオウを睨む。
「そんなこと、言われなくてもわかってる!」
アズウェルはベッドから降りると戸棚を漁る。
木箱を一つ取り出し、中から必要なだけ金を財布に移した。
それは、アズウェルが村の面影を維持するための貯金。
誰が、いつ、此処に戻ってきても住めるように。
一度終わらせてしまったエルジアでの続きを、すぐに始められるように。
村をそのまま残しておくために、アズウェルは給料を持ち帰る度に、半分を木箱の中に保管していた。
其処から金を出すということは、この村に見切りを付けるということだ。
無言で自分の行動を見ている二人を振り返ると、怒気を帯びた声で言った。
「とにかく、おれは行く」
二人は反論しようと口を開きかけるが、アズウェルの眼光に気圧されて言葉を飲み込む。
木箱を開けたアズウェルを見れば、彼の意志がどれほどのものかは想像に難くない。
ただでさえ、一度言い出したら誰が何と言おうと聞かないのだ。
いくら正論を並べてもその努力が報われることはないだろう。
アズウェルの暴走を止められるといえば、過去に二人いたが、いずれも今此処にはいない。
くるりと背を向けたアズウェルは、乱暴に扉を蹴り外に出て行った。
二人は深々と嘆息する。
頭を抱えて悩んでいる二人の耳に、外からアズウェルの怒号が突き刺さる。
「行かないならそれでもいい。でもおれは行くからな!」
「ダメだな、もう」
「そうね、フェルスもロウドもいないもの」
がくりと
「仕方ないわ、行きましょう。アズウェルを一人で行かせるのはとぉっても不安だわ」
「まったくだ」
◇ ◇ ◇
真夏の太陽がじりじりと地上を照らす。
その暑さに対抗するかのように、涼しい風が草原を駆け抜けていった。
「スワロウ族の村って……確か、南西だったな」
「ええ、そうね。ここからならさほど遠くはないと思うわ。急いで行けば明日のお昼には着くでしょ」
三人はエンプロイを南に抜け、隣街ロサリドを目指し広大な草原を横断中である。
ロサリドは北と南を繋ぐ大きな街だ。そこにはあらゆる物と情報が行き交う。スワロウ族の村にはラキィも初訪問ということで、まずはロサリドで情報収集することになったのだ。
「しっかし、全然見えてこねぇな、ロサリド」
「あと、百四十七キロはあるわね」
ラキィの言葉を聞いて、ディオウは瞠目する。
「マジか? こんなにのんびり歩いていたら、そこに着くまで何日もかかるぞ」
「エンプロイは辺境だからねぇ~。確かに隣街まで百五十キロ近くって異常よね」
なんて呑気な、とディオウはラキィを一瞥し、無言で歩いているアズウェルに言った。
「アズウェル、飛んで行かねぇと間に合わないぞ」
アズウェルはその声に一瞬足を止めるが、すぐにまた歩き出す。先程よりやや歩調を早めて。
「まだ怒っているのね」
ラキィが残念そうに言う。が。
「……」
「アズウェルゥ~」
ディオウが間抜けな声で名を呼ぶ。が。
「……」
「ねぇ、本当に空飛ばないと間に合わないわ」
ラキィがアズウェルの肩に乗って言う。が。
「……」
アズウェルは肩に乗っているラキィを払い落とし、更に歩調を早める。
「アズウェルゥ~」
再度ディオウが名を呼ぶ。が。
「……」
「相当怒っているわ……」
アズウェルの背を見ると凄まじい怒気が燃え上がっている。
自分だけ置いて行かれるのが余程嫌だったのか、あれからずっと沈黙を守っていた。
「アズウェルゥ~」
ディオウは諦めずに名を呼ぶ。が。
「……」
「アズウェルゥ~、アズウェルってばぁ、なぁアズウェルゥ~」
「………………」
無言、無音、無視。
だが、その程度で諦めるディオウでもない。
「アズウェルゥ~、いい加減口きいてくれよぉ」
「アズウェルゥ~、アズウェルゥ~、アズウェルゥ~、アズウェ」
「うるさい! いい加減にしろっ!」
遂にアズウェルが口を開いた。ディオウはにやりとほくそ笑む。
「やっと口きいてくれたな」
アズウェルはディオウの背に乗ると、その頭を叩きながら怒鳴りつけた。
「気持ち悪い声でおれの名前を呼ぶな!!」
「アズウェルがおれたちを無視するから、ちょっと工夫しただけだ」
ディオウは何とかアズウェルの気を引こうと、わざと高い声で名前を呼び続けていたのだ。
それを間近で聞いていたラキィが、懸命に笑いを堪えて身体を震わせている。
ディオウの言い訳を拳骨で返したアズウェルは、そんなラキィに冷ややかな視線を送った。
「ぅぅ……何も殴ることないのに……」
前足で目頭を器用に押さえたディオウが泣いてみせるが、アズウェルは無反応だ。
「ディオウ、その辺にしとかないとまたアズウェル怒るわよ」
ラキィがぴょんとディオウの頭の上に飛び乗る。
ディオウはラキィの忠告を聞き流し、更に続けた。
「ひどいよなぁ……心配してたっていうのに、おれって不憫だよなぁ……ぅぅ……あぁ、なんて可哀想な聖獣でしょう……」
アズウェルが肩を小刻みに震わせる。
此処もじきに危険地帯だろう。
ラキィがディオウの頭から離れた時。
「いい加減に飛べ
怒声と共に、強烈な拳骨がディオウの頭に降ってきた。
「狂暴アズウェル
どす、と鈍い音がディオウの脇腹辺りで生じる。
ディオウの四肢が、砕けた。
踵を落としたアズウェルは、素知らぬ振りをしている。
「今のは……入ったわね……」
溜息をつき、ラキィは酷いと嘆くディオウの後を追った。
ディオウはロサリドに向かってふらふらと飛行中。
アズウェルは未だディオウの頭を
ラキィはそんなディオウを同情の眼差し見つめていた。
怒りを煽った自業自得とも言えるだろうが、心配した結果なのだから確かに不憫だ。
とはいえ、怒りの矛先を向けられたくないラキィは、あえて近づこうともせず、付かず離れずの距離でディオウと並行飛行していた。
「……ごめん」
不意に手を止めたアズウェルが小さく呟いた。
心配してくれたのに。
それは風に消えそうなくらい微かな声だったが、ディオウには届いていた。
どんなに心配されていても、一人でいるのは耐えられない。
もう何もできずに何かを、誰かを失うなんて、心が耐えられない。
ディオウは優しく微笑み、アズウェルにだけ聞こえるように
「わかっている。耐えられないなら、守ればいい」
小さく頷いてアズウェルはディオウの背に頭を
「動くなら、最後まで足掻けばいい」
アズウェルはディオウの言葉を深く、深く噛みしめた。
目頭が熱くなり、自然と涙が流れる。アズウェルは声を殺して泣いた。
村人が、家族が死ぬとわかっていて助けられなかった、何もできなかった。無力な自分を責めて。
もう、失いたくない。誰も。何も。もう、絶対に失うものか。
アズウェルは自分に強く言い聞かせる。
誰かが泣かなくて済むように。自分みたいな想いをしないで済むように。
その決意は、アズウェルの涙を自然に止めた。
アズウェルは瞳に溜まった涙を
青く、何処までも青く続いている空。
この下の何処かに、守りたかった人がいる。守りたい人がいる。
陽の光がアズウェルの顔を照らした。蒼の瞳がサファイヤのように
「ディオウ、ラキィ」
アズウェルは自分の決意を口にする。必ず、達成するために。
「絶対に、ワツキを守り抜く」
ディオウとラキィは無言でそれを受け止めた。
何も言わない。言葉は不要だった。
他の誰よりもアズウェルの気持ちを。その想いを。
かつて、幼さ故に失った事実だけを伝えられた過去を。
そして、今を
知っているから。
第9記 疾走マツザワ
急げ。一刻も早く村に辿り着かなければ。
フレイトのエンジン音が、殺風景な平原に響き渡る。
現在、真昼。太陽が南の空に高く昇っていた。
急げ。早く。急げ。早く。
気持ちだけが、ただ逸[ る。
夏の日差しは女の額から汗を呼び出した。
アズウェルの家を出てからおよそ半日、彼女はフレイトを飛ばし続けている。流石に疲労と睡魔が強襲していた。
彼女は眠気を振り払うために下唇を強く噛み締めた。口の中に鉄の味が広がる。
早く、早く。
焦る気持ちに引かれるようにして、更にアクセルを踏み込んだ時。
がくりとバランスが崩れ、浮遊走行していたフレイトが大地を擦る。
「な……!?」
あまりの揺れに彼女が飛び降りると、フレイトは地面を抉りながら跳ねていき、程なくして停止した。
「く……! 何故動かない!?」
彼女がフレイトのスピードを上げ過ぎたため、エンジンがいかれてしまったのだ。
だが、彼女がそれに気付くはずもない。
「あとわずかで着くというのに!」
がん、と蹴り飛ばし、忌々しげに舌打ちする。
「走っていくしかないか……!」
突如目眩[ が襲い、彼女は片膝をついた。
眠っていない上に、食事も取っていない。凄まじい眠気が彼女の四肢を縛り付ける。
まだ倒れるわけにはいかない。早く、少しでも早く村へ辿り着かなければ。
その気落ちが彼女の体を動かす。
だが、皮肉なことに頭の中はぼんやりと霞[ がかかり、視界も歪む。
ふらりと立ち上がるが、疲労と睡魔が休めと誘惑してくる。彼女は強く頭を振ってその誘惑を払い除[ けた。
眠ってなどいられない。
ぎり、と正面を睨みつけ、彼女は走り出した。まるで風のように、彼女は疾走する。
急げ、急げ。少しでも一歩でも前へ、前へ。
平原が瞬[ く間に後方へと遠のいていく。
代わりに姿を見せたのは、鬱葱[ と茂る竹林だ。
大地を足で蹴る度に、笹の葉がぱりっと音を立てる。
この林を抜ければ、故郷だ。
強風が唸りを上げて女の長い黒髪を靡[ かせた。
深緑の視界が、明るく開けた。竹林が覆い隠していた家々が、数日前と少しも違うことなく佇んでいる。
「着いた……!」
女の足が、自然と速度を上げた。
心中に仕舞い込んでいた怒りと疑念が、沸々と湧き起こる。
この感情を吐き出すまでは、とても休めそうにない。
「お、あれ、マツザワ殿ではないか?」
「本当だ。もの凄い勢いでこっちに来るぞ」
村人が彼女を見つけて呟く。
「な、なんか凄い気迫が……」
ごくり、と村人は唾を飲んだ。
彼女の背後に龍の幻影が垣間見えた。何故かわからないが、彼女は激怒している。
「おい!!」
女の怒号が轟いた。
「は、はいっ!?」
村人はいきなり怒鳴られて上ずった声を上げる。
「族長は今どこにいる!?」
「え、あ、族長様は今、村役場で会議中かと……」
村人が全て言い終わらないうちに、風の如く彼女は駆けていった。
「何であんなに怒っていたんだろう? それにやけに急いでいたような……」
「一体どうしたんだろうな……」
取り残された二人は呆然と呟いた。
◇ ◇ ◇
「いいか、皆に急いで戦の準備をさせたまえ」
「は、承知いたしました」
「しかし、族長。そのような攻撃を受けきれるものなのでしょうか。第一、今マツザワ殿が離村しております」
「あれは、別にいなくてもいいだろう」
刹那、みし、という音と共に会議室の襖[ が吹き飛んだ。
付近にいた者が慌てて飛び退[ く。
「いなくてもいいなどと、勝手なことを言われては困る……!」
襖があったはずの場所には、鬼のような形相をした女が立っていた。
女は抜いた刀の先を族長に向け、厳かに言い放つ。
「次期族長である私が、何故村から遠ざけられなくてはならない? この村は私が守る! たとえ離村することが、父上の命令であろうと、私はクロウ族と戦う!!」
突然現れた我が子に族長は絶句する。
「な……何故、お前が此処に……」
「ディオウ殿とアズウェルに真相を聞き、帰還した」
「ディオウ殿……? アズウェル? 誰だそれは」
女は父に向けた刀を静かに下ろした。
「ディオウ殿は、ギアディスだ」
「な……!?」
その場にいた者全員が、彼女の言葉に息を飲む。
「千里眼を持つディオウ殿、言語能力のあるトゥルーメンズのラキィ殿、そしてその主であり、予知能力を持つアズウェル。以上三名が、我々の味方に付いた。クロウ族の企みを教えてくれたのも彼らだ」
女、マツザワは滔々と語る。
「父上、ディオウ殿からの言伝がある」
「な……何だ?」
マツザワは悠然とディオウの伝言を口にする。
「この戦は勝てる……!」
その言葉を言い切ると、マツザワは昏倒した。
◇ ◇ ◇
「うっ……!」
低い呻き声を上げて、マツザワは目を開いた。
「マツザワさん、気がつかれましたか?」
聞き慣れた声が耳に届く。
「ユウか……?」
ユウと呼ばれた少女は、にっこりと微笑んで頷いた。
少女の名はユウ・リアイリド。彼女は艶[ のある黒髪を肩よりやや短めに切り揃え、〝浴衣〟というスワロウ族独特の服を身に纏[ っていた。
「気分はいかがですか?」
柔らかく、温かい声でユウは尋ねる。
「あぁ、大分いいようだ」
「よかった……」
そう言うとユウは湯飲みに茶を注ぎ、マツザワに差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
ユウは笑顔で応えると、薬草の煎じたものをマツザワに見せる。
天敵の襲来に、マツザワは顔を顰[ めた。
「薬もちゃんと飲まなきゃだめですよ。あ、でも何か食べないと飲めませんね」
ユウはすっと立ち上がると台所に行く。
「別に、薬も食事もいらない……」
その言葉に反してマツザワの腹の虫が鳴いた。
思い起こせば、アズウェル家での夕食が最後だ。
「お腹は素直ですね」
ユウが盆に夕餉[ を乗せて持ってくる。
スワロウ族の食事は、メニューを見れば時刻がすぐにわかった。
「もうそんな時間か……」
マツザワは布団から出て、窓の外を見る。夕日が空を紅く染めていた。
「私はどれくらい倒れていたんだ?」
マツザワが眉を寄せて言った。
「そうですね。だいたい三、四時間くらいでしょうか」
「そうか……」
「さぁ、早く食べてください。冷めてしまいます」
マツザワは無言で頷いて床[ を出ると、座布団の上に腰を下ろした。
夕餉を口に運びながらマツザワは小さく呟く。
「こんなにのんびりしていていいものなのだろうか……」
「大丈夫ですよ。呪[ い師が、クロウ族が攻めてくるまでに二、三日あると仰[ ってましたから」
「二、三日か……」
箸を置き腕組みをすると、口を閉ざして思案する。
すぐに動けないのだから、この際致し方あるまい。
「マツザワさん……?」
「ユウ、あの阿呆[ 男を呼んでくれ」
「阿呆男……」
ユウは思い当たる人物を探しあぐねて、目を瞬[ かせた。
「あの、阿呆商人だ」
「あぁ、彼ですか。わかりました。少々お待ちください」
合点がいったユウは、静かに立ち上がると部屋を出て行く。
「あ、薬はちゃんと飲んでくださいね」
ひょこっと顔を出し、マツザワに念を押す。
「御意……」
「では、呼んできます」
ユウが家から出て行くと、マツザワは薬を睨みつけた。
「貴様だけは、ユウに頼まれても好きにはなれないな……」
できることなら、厄介になりたくない相手ではあるが。状況が状況なだけに、疲労を引きずるわけにもいくまい。
はぁ、と息を吐いて首を振る。
飲まなければ、あの穏やかな治療師に叱られるだろう。普段が温厚だからこそ、怒らせると村で一番恐いのだ。
再び溜息をついて薬を飲み干すが、あまりの不味さに卓上に突っ伏した。
◇ ◇ ◇
「やぁ、マツザワはん久しぶりやなぁ~」
耳障りな声にマツザワは抜刀した。
「来たか……阿呆商人!」
「おぉっと。いきなり何すんねん」
さして驚いた様子も見せずに飛び上がり、男はマツザワの太刀を避ける。そのまま突き出された刀の上に降り立った。実に無駄のない動きだ。
「……」
ひくひくとマツザワの頬が引きつる。
彼女が乱暴に刀を払う。それと同時に飛び上がった男は、空中で一回転して着地した。
「あんさん、さっきまでブッ倒れてたんやろ? そないな危ないモン振り回しとぉないで、休んでいた方がいいんとちゃう?」
「黙れ、阿呆商人」
「阿呆商人……くぅ~素晴らしいわぁ。そないに誉めなくてもええでぇ~。いやぁ照れまんがなぁ~」
堪忍袋の緒が、強烈な断裂音を伴って切れる。
我慢の限界だ。
素早く振り下ろした刀は、算盤[ によって軽々と受け止められた。
木製だというのに、傷一つつかない男の得物が恨めしい。
「ちょっと、マツザワさん、アキラさん。何喧嘩してるんですか!」
遅れて戻ってきたユウが、その様子を見て口を挟む。
ユウの兄でるアキラは、マツザワと同じ齢十九。幼馴染に相当するアキラが、マツザワはこの村 いや、この世界で最も苦手な生き物だった。
「ユウよ~、聞いとくれぇ。マツザワはんったらわいを見るなり、刀で襲ってきたんよぉ~。ひどい話やろぉ~? わいは心配して駆けつけてきたんよ? この仕打ちはあんまりやろぉ~」
実に精悍な顔つきの青年だが、その口調と内容が評価を下げていることを、彼は自覚しているのだろうか。
「黙れ、阿呆商人。何が心配して駆けつけた、だ。私がユウに頼んで呼んでもらっただけの話だろう」
「マツザワはんがわいを呼んでくれたんかぁ~。そら嬉しいわぁ~。何? わいに会いたかったんかぁ?」
アキラの満面の笑みと歓喜に満ち溢れた声が、マツザワの神経を逆撫でする。
「変なことを言うな! お前は今すぐ村から出て行け!!」
「ひどいわぁ~。わいを追い出すんかぁ?」
大声で怒鳴るマツザワに、アキラはわざと涙を浮かべてみた。
「マツザワさん、何もそこまでしなくても……」
そうやってユウの同情を呼んで面白がる態度が、気に入らない。
マツザワは二人の言葉を完全に無視して、大股でユウの家を出て行く。
「ちょい、待てぇな」
アキラがマツザワの腕を掴む。瞬時にマツザワの平手がアキラの頬に炸裂した。
「私に触れるな! 戯け者! さっさとロサリドに行って、客人を連れてこい!!」
「ほぉ。そういうことかいな。客人とは、ちまたで噂の彼らのことやな?」
「ギアディスも共にいる。くれぐれも無礼な行動はするな」
マツザワは背を向けたまま冷然と言う。
「あいな~」
「アキラさん、お気をつけて」
「ほいほ~い」
二人の忠告に何とも気の抜けた返事をして、アキラは村を出て行った。
「よかったです。アキラさんが追い出されなくて」
「あの阿呆はもう少し我が種族である自覚を持つべきだ」
見届けたマツザワは大きな溜息をついた。
何事も起きずに送迎を終えてくれれば良いのだが。
「疲れた……」
よろけたマツザワをユウが抱き留める。
「大丈夫ですか?」
「あぁ、すまない。……ん、どうした?」
淡く微笑んでいるユウに尋ねると、彼女は更に顔を和ませた。
「いえ、何も。マツザワさん、綺麗です」
「何が……」
怪訝そうに尋ねてくるその顔が、仄かに赤みを帯びているのは、きっと夕日のせいだけではないだろうから。
とても綺麗だと、ユウは思った。
「夕日、綺麗ですね」
そう微笑んだ三つ下の幼馴染に頷いて、マツザワも茜色の空を見上げた。
フレイトのエンジン音が、殺風景な平原に響き渡る。
現在、真昼。太陽が南の空に高く昇っていた。
急げ。早く。急げ。早く。
気持ちだけが、ただ
夏の日差しは女の額から汗を呼び出した。
アズウェルの家を出てからおよそ半日、彼女はフレイトを飛ばし続けている。流石に疲労と睡魔が強襲していた。
彼女は眠気を振り払うために下唇を強く噛み締めた。口の中に鉄の味が広がる。
早く、早く。
焦る気持ちに引かれるようにして、更にアクセルを踏み込んだ時。
がくりとバランスが崩れ、浮遊走行していたフレイトが大地を擦る。
「な……!?」
あまりの揺れに彼女が飛び降りると、フレイトは地面を抉りながら跳ねていき、程なくして停止した。
「く……! 何故動かない!?」
彼女がフレイトのスピードを上げ過ぎたため、エンジンがいかれてしまったのだ。
だが、彼女がそれに気付くはずもない。
「あとわずかで着くというのに!」
がん、と蹴り飛ばし、忌々しげに舌打ちする。
「走っていくしかないか……!」
突如
眠っていない上に、食事も取っていない。凄まじい眠気が彼女の四肢を縛り付ける。
まだ倒れるわけにはいかない。早く、少しでも早く村へ辿り着かなければ。
その気落ちが彼女の体を動かす。
だが、皮肉なことに頭の中はぼんやりと
ふらりと立ち上がるが、疲労と睡魔が休めと誘惑してくる。彼女は強く頭を振ってその誘惑を払い
眠ってなどいられない。
ぎり、と正面を睨みつけ、彼女は走り出した。まるで風のように、彼女は疾走する。
急げ、急げ。少しでも一歩でも前へ、前へ。
平原が
代わりに姿を見せたのは、
大地を足で蹴る度に、笹の葉がぱりっと音を立てる。
この林を抜ければ、故郷だ。
強風が唸りを上げて女の長い黒髪を
深緑の視界が、明るく開けた。竹林が覆い隠していた家々が、数日前と少しも違うことなく佇んでいる。
「着いた……!」
女の足が、自然と速度を上げた。
心中に仕舞い込んでいた怒りと疑念が、沸々と湧き起こる。
この感情を吐き出すまでは、とても休めそうにない。
「お、あれ、マツザワ殿ではないか?」
「本当だ。もの凄い勢いでこっちに来るぞ」
村人が彼女を見つけて呟く。
「な、なんか凄い気迫が……」
ごくり、と村人は唾を飲んだ。
彼女の背後に龍の幻影が垣間見えた。何故かわからないが、彼女は激怒している。
「おい!!」
女の怒号が轟いた。
「は、はいっ!?」
村人はいきなり怒鳴られて上ずった声を上げる。
「族長は今どこにいる!?」
「え、あ、族長様は今、村役場で会議中かと……」
村人が全て言い終わらないうちに、風の如く彼女は駆けていった。
「何であんなに怒っていたんだろう? それにやけに急いでいたような……」
「一体どうしたんだろうな……」
取り残された二人は呆然と呟いた。
◇ ◇ ◇
「いいか、皆に急いで戦の準備をさせたまえ」
「は、承知いたしました」
「しかし、族長。そのような攻撃を受けきれるものなのでしょうか。第一、今マツザワ殿が離村しております」
「あれは、別にいなくてもいいだろう」
刹那、みし、という音と共に会議室の
付近にいた者が慌てて飛び
「いなくてもいいなどと、勝手なことを言われては困る……!」
襖があったはずの場所には、鬼のような形相をした女が立っていた。
女は抜いた刀の先を族長に向け、厳かに言い放つ。
「次期族長である私が、何故村から遠ざけられなくてはならない? この村は私が守る! たとえ離村することが、父上の命令であろうと、私はクロウ族と戦う!!」
突然現れた我が子に族長は絶句する。
「な……何故、お前が此処に……」
「ディオウ殿とアズウェルに真相を聞き、帰還した」
「ディオウ殿……? アズウェル? 誰だそれは」
女は父に向けた刀を静かに下ろした。
「ディオウ殿は、ギアディスだ」
「な……!?」
その場にいた者全員が、彼女の言葉に息を飲む。
「千里眼を持つディオウ殿、言語能力のあるトゥルーメンズのラキィ殿、そしてその主であり、予知能力を持つアズウェル。以上三名が、我々の味方に付いた。クロウ族の企みを教えてくれたのも彼らだ」
女、マツザワは滔々と語る。
「父上、ディオウ殿からの言伝がある」
「な……何だ?」
マツザワは悠然とディオウの伝言を口にする。
「この戦は勝てる……!」
その言葉を言い切ると、マツザワは昏倒した。
◇ ◇ ◇
「うっ……!」
低い呻き声を上げて、マツザワは目を開いた。
「マツザワさん、気がつかれましたか?」
聞き慣れた声が耳に届く。
「ユウか……?」
ユウと呼ばれた少女は、にっこりと微笑んで頷いた。
少女の名はユウ・リアイリド。彼女は
「気分はいかがですか?」
柔らかく、温かい声でユウは尋ねる。
「あぁ、大分いいようだ」
「よかった……」
そう言うとユウは湯飲みに茶を注ぎ、マツザワに差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
ユウは笑顔で応えると、薬草の煎じたものをマツザワに見せる。
天敵の襲来に、マツザワは顔を
「薬もちゃんと飲まなきゃだめですよ。あ、でも何か食べないと飲めませんね」
ユウはすっと立ち上がると台所に行く。
「別に、薬も食事もいらない……」
その言葉に反してマツザワの腹の虫が鳴いた。
思い起こせば、アズウェル家での夕食が最後だ。
「お腹は素直ですね」
ユウが盆に
スワロウ族の食事は、メニューを見れば時刻がすぐにわかった。
「もうそんな時間か……」
マツザワは布団から出て、窓の外を見る。夕日が空を紅く染めていた。
「私はどれくらい倒れていたんだ?」
マツザワが眉を寄せて言った。
「そうですね。だいたい三、四時間くらいでしょうか」
「そうか……」
「さぁ、早く食べてください。冷めてしまいます」
マツザワは無言で頷いて
夕餉を口に運びながらマツザワは小さく呟く。
「こんなにのんびりしていていいものなのだろうか……」
「大丈夫ですよ。
「二、三日か……」
箸を置き腕組みをすると、口を閉ざして思案する。
すぐに動けないのだから、この際致し方あるまい。
「マツザワさん……?」
「ユウ、あの
「阿呆男……」
ユウは思い当たる人物を探しあぐねて、目を
「あの、阿呆商人だ」
「あぁ、彼ですか。わかりました。少々お待ちください」
合点がいったユウは、静かに立ち上がると部屋を出て行く。
「あ、薬はちゃんと飲んでくださいね」
ひょこっと顔を出し、マツザワに念を押す。
「御意……」
「では、呼んできます」
ユウが家から出て行くと、マツザワは薬を睨みつけた。
「貴様だけは、ユウに頼まれても好きにはなれないな……」
できることなら、厄介になりたくない相手ではあるが。状況が状況なだけに、疲労を引きずるわけにもいくまい。
はぁ、と息を吐いて首を振る。
飲まなければ、あの穏やかな治療師に叱られるだろう。普段が温厚だからこそ、怒らせると村で一番恐いのだ。
再び溜息をついて薬を飲み干すが、あまりの不味さに卓上に突っ伏した。
◇ ◇ ◇
「やぁ、マツザワはん久しぶりやなぁ~」
耳障りな声にマツザワは抜刀した。
「来たか……阿呆商人!」
「おぉっと。いきなり何すんねん」
さして驚いた様子も見せずに飛び上がり、男はマツザワの太刀を避ける。そのまま突き出された刀の上に降り立った。実に無駄のない動きだ。
「……」
ひくひくとマツザワの頬が引きつる。
彼女が乱暴に刀を払う。それと同時に飛び上がった男は、空中で一回転して着地した。
「あんさん、さっきまでブッ倒れてたんやろ? そないな危ないモン振り回しとぉないで、休んでいた方がいいんとちゃう?」
「黙れ、阿呆商人」
「阿呆商人……くぅ~素晴らしいわぁ。そないに誉めなくてもええでぇ~。いやぁ照れまんがなぁ~」
堪忍袋の緒が、強烈な断裂音を伴って切れる。
我慢の限界だ。
素早く振り下ろした刀は、
木製だというのに、傷一つつかない男の得物が恨めしい。
「ちょっと、マツザワさん、アキラさん。何喧嘩してるんですか!」
遅れて戻ってきたユウが、その様子を見て口を挟む。
ユウの兄でるアキラは、マツザワと同じ齢十九。幼馴染に相当するアキラが、マツザワはこの村
「ユウよ~、聞いとくれぇ。マツザワはんったらわいを見るなり、刀で襲ってきたんよぉ~。ひどい話やろぉ~? わいは心配して駆けつけてきたんよ? この仕打ちはあんまりやろぉ~」
実に精悍な顔つきの青年だが、その口調と内容が評価を下げていることを、彼は自覚しているのだろうか。
「黙れ、阿呆商人。何が心配して駆けつけた、だ。私がユウに頼んで呼んでもらっただけの話だろう」
「マツザワはんがわいを呼んでくれたんかぁ~。そら嬉しいわぁ~。何? わいに会いたかったんかぁ?」
アキラの満面の笑みと歓喜に満ち溢れた声が、マツザワの神経を逆撫でする。
「変なことを言うな! お前は今すぐ村から出て行け!!」
「ひどいわぁ~。わいを追い出すんかぁ?」
大声で怒鳴るマツザワに、アキラはわざと涙を浮かべてみた。
「マツザワさん、何もそこまでしなくても……」
そうやってユウの同情を呼んで面白がる態度が、気に入らない。
マツザワは二人の言葉を完全に無視して、大股でユウの家を出て行く。
「ちょい、待てぇな」
アキラがマツザワの腕を掴む。瞬時にマツザワの平手がアキラの頬に炸裂した。
「私に触れるな! 戯け者! さっさとロサリドに行って、客人を連れてこい!!」
「ほぉ。そういうことかいな。客人とは、ちまたで噂の彼らのことやな?」
「ギアディスも共にいる。くれぐれも無礼な行動はするな」
マツザワは背を向けたまま冷然と言う。
「あいな~」
「アキラさん、お気をつけて」
「ほいほ~い」
二人の忠告に何とも気の抜けた返事をして、アキラは村を出て行った。
「よかったです。アキラさんが追い出されなくて」
「あの阿呆はもう少し我が種族である自覚を持つべきだ」
見届けたマツザワは大きな溜息をついた。
何事も起きずに送迎を終えてくれれば良いのだが。
「疲れた……」
よろけたマツザワをユウが抱き留める。
「大丈夫ですか?」
「あぁ、すまない。……ん、どうした?」
淡く微笑んでいるユウに尋ねると、彼女は更に顔を和ませた。
「いえ、何も。マツザワさん、綺麗です」
「何が……」
怪訝そうに尋ねてくるその顔が、仄かに赤みを帯びているのは、きっと夕日のせいだけではないだろうから。
とても綺麗だと、ユウは思った。
「夕日、綺麗ですね」
そう微笑んだ三つ下の幼馴染に頷いて、マツザワも茜色の空を見上げた。
第10記 不審な尾行者
日が沈む頃、アズウェルたちはロサリドに到着した。街の上空をディオウが旋回する。
「うわー、でけー」
「確かに……でかいな」
アズウェルとディオウは、ロサリドの建物の数と規模の大きさに唖然としている。
ロサリドはディザードで最も規模が大きい街だ。二人が驚くのも無理はない。
「あ~。なんて情けないの。もう! あんたたち田舎者丸出しよ!」
ラキィが羽のような耳で頭を抱える。
「でっけぇもんはでっけぇんだって。さて……まずは」
「飯」
「だな!!」
二人は意気投合しているが、ラキィがそれを許さない。
「何言ってるのよ! 街に着いたら、まず宿探しでしょ!?」
この言葉の後、二人はラキィに叱咤され、宿探しをすることになった。
宿探しを始めてたものの、動物連れ込み可能な宿はそう簡単に見つからない。漸[ く見つかった頃には、日はとっぷりと暮れていた。
「ディオウ、入ってもいいぜ」
アズウェルが闇に向かって囁[ く。
「おう」
ディオウはふわりと二階の窓まで飛び上がり、アズウェルが開いた窓から侵入する。
「ふぅ~。人に見つからないように、お前らの後をついて行くのは骨が折れたぞ」
「お疲れさん」
アズウェルが苦笑混じりに言った。
「おれも、疲れた。動物連れ込みオーケーで、部屋に鍵付きで、でっかい窓があって、安めのところってなかなか無いもんだなぁ」
「普通、そんなところ無いわよ。ある方が珍しいわ」
とりあえずあってよかった。
そう三人揃ってほっと一息つく。
「もーだめ、限界」
アズウェルがどさりと床に倒れ込んだ。そのままぴくりとも動かずに、寝息を立てる。
「あ~ら、床で寝ちゃ風邪引くわ」
ディオウがアズウェルの服を銜[ え、ベッドに放り投げる。
それでもアズウェルは起きない。文字通り、熟睡している。
「おれも疲れたぜ……」
そう言い残すと、今度はディオウが床に倒れた。
「あら、二人とも寝ちゃったわ。さっきまで飯~って騒いでいたのに」
ラキィは二人を呆れ顔で眺めてから机の上に飛び乗り、小さく体を丸めて静かに目を閉じた。
◇ ◇ ◇
午前十時過ぎ。ロサリドのとある酒場。
金髪の青年としゃべるトゥルーメンズという実に異様な光景に、酒場の客は唖然としている。
「ふぅ~。食った食った」
「アズウェル、あんた食べ過ぎよ」
まぁまぁ、とアズウェルはラキィを宥[ める。
「まったく、一人で五人分も食べて!!」
今にも爆発しそうなラキィからそっと離れて、アズウェルは会計を済ませる。
「ラキィ、行こう」
アズウェルは延々と文句を連ねるラキィの首根っこを掴むと、奇異の視線を向けられる酒場から逃げるようにして外へ出た。
そんな彼らを黙々と観察していた青年がいる。
頭に巻いている鉢巻を縛り直し、にやりと口端を吊り上げた。
「おっさん、ありがとうな。ほな、ここにお勘定置いておくで」
青年は適当に銅貨をカウンターにばらまいて、席を立つ。
「ちょっと……お客さん足りませんよ!」
金額を確認したマスターが慌てて呼び止めるが、青年の姿は何処にも見当たらなかった。
◇ ◇ ◇
酒場の裏の路地に入ると、アズウェルは物陰に隠れているディオウに声をかけた。
「よ、ディオウ。飯食ったか?」
「やっときたな。おれは随分前に食い終わってたぞ」
ディオウを連れて入るとあまりに目立ち過ぎるため、アズウェルは露店で買ってきた肉を渡したのだ。ラキィと二人でも十分目立っていたのに、ディオウまで連れて行けば厄介事に巻き込まれても不思議ではない。
「いや、それにしても、ここの味付けは最高だった。絶妙なスパイスと香ばしさがおれ好みだ」
「そりゃよかったね……」
アズウェルは呆れ顔で相槌を打つ。
どういうわけか、ディオウは生の肉を食べない。肉食動物であるのに、アズウェルたちと同じ食事を取るのだ。
獣のくせに舌が肥えているのだから、手が焼ける。
やれやれ、とアズウェルが肩を竦めた時、ディオウが叫んだ。
「走れっ!!」
「え? えぇ!?」
突然のことに対処しきれず、アズウェルは思いっきり出遅れる。ラキィも首を傾げている。
「アズウェル、ラキィ、走れって!!」
ディオウは頭でアズウェルの背中を押す。
酒場の方から、「食い逃げだ!」という怒声が聞こえてきた。
「へ? おれちゃんと払ったぞ?」
「いいから、走れって!」
「え? えぇ?」
訳が分からず混乱しながらもアズウェルは全力疾走する。
「も~!! 一体何なんだよ !!」
アズウェルの絶叫が街路地に響いた。
程なくして、黒髪の青年が路地に現れた。既に酒場の裏はもぬけの殻だ。
何も逃げることないのに。
青年が頭を掻いていると、後方から怒号と足音が近づいてきた。
「追って、追われる……か」
一瞬だけ顧みて、青年は駆け出した。
◇ ◇ ◇
「ここまで走れば……」
ディオウが来た道を振り返る。
「一体どうしたって言うんだよ~」
「そうよ、何で急に走り出したの?」
二人がたたみ掛けるようにディオウに訊く。
「あ~、それはだな……ってぇ!! おい、マジか!?」
安堵しかけたディオウは、距離を縮めてくる気配に愕然とした。
「くそ、飛ぶぞ! アズウェル乗れ!!」
「へ?」
ぼけっとしているアズウェルを、長い尾で叩[ いて催促する。
「後で説明するから、早くしろ!」
「え、あぁ、うん」
とりあえずディオウに言われるがままに、アズウェルが騎乗する。
ラキィが頭に乗ったことを確認すると、一目散にディオウはその場から飛び去った。
「ちょっと、落ちるわよ!」
「しっかり掴まっていろよ!!」
「ホント、ディオウ、ちょ、まっ !?」
また一足遅かったようだ。
「う~ん……酷いなぁ……ホンマに酷いわぁ。けど、流石、ギアディス」
さて、と青年は秘密兵器を取り出すと、黒いボタンを押した。
◇ ◇ ◇
風の咆哮が耳をつんざき、髪をうねらせた。まともに前方を見据えることすらできない。
必死にディオウの背にしがみつきながら、アズウェルは左手でラキィを抑える。力を少しでも抜けばこの小さな体躯は遥か後方へ飛ばされてしまうだろう。
「ディオウ飛ばしすぎだって!! ラキィが落ちる!」
「これくらい出さないと、振り切れん! 流石に、ここまで、飛べば、いくらなんでも……!」
ディオウは徐々に速度を落とし、着地する。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「で、一体どうしたんだ?」
肩で息をしながら、ディオウはアズウェルを見上げた。
「何か、怪しい、気配を、感じて……それが、しつこく、追って、来たんだ」
途切れ途切れのディオウの言葉に、二人は首を傾げる。
「怪しい気配?」
「何それ? クロウ族なの?」
いや、とディオウは首を振る。
「違う……と思う。殺気とかじゃない。何か、やばい気配がしたんだ。おれはそれに殺気より恐怖を感じた」
「殺気じゃなくて、クロウ族じゃなくてやばいって何だ? ディオウがそこまで感じる恐怖って……」
「う~ん、一体何やろなぁ~」
アズウェルが言い差した台詞を、正体不明の者が繋いだ。
アズウェルが顧みて、ラキィが瞠目し、ディオウが絶句した。
「な……な……何だよ、おまえ!?」
いつの間にか真後ろにいた青年に、アズウェルが目を剥[ く。
問われた不審者は、三人の様子を面白そうに眺めていた。
◇ ◇ ◇
一人考え込んでいたマツザワは、ぐるぐると自室の中を歩き回っていた。
「あの阿呆を遣いに出したのはまずかっただろうか……」
派遣したのが自分である以上、何か起きれば責任を取らねばなるまい。
「ディオウ殿に不興を買われなければいいが……」
頭を抱えてしゃがみ込む。
無理だ。いくら適当に見積もったとしても、彼が大人しくしているとは欠片も思えない。
マツザワは深く、深く肩を落とし、嘆息した。
◇ ◇ ◇
三対の目は不信感を顕[ にしていた。
「何や、と? あんさんら目見えへんの?」
「悪いが、貴様が何を言っているんだか、よくわからん」
ディオウが不審者を見据える。
「確かに少し変だけど……だいたいはわかるわよ」
「訛りが邪魔で意図が読み取れん」
「はぁ、しょうがないわね。私が訳すわ。えっと『あなたたち目が見えないの?』って聞いてるわ」
溜息混じりにラキィが翻訳すると、ディオウは声を張り上げる。
「な……貴様、おれたちを馬鹿にしてるのか!? 見えるに決まってるだろうが!!」
「そんなら、なして『何だ』と言うんや? 見りゃわかるやろ。わいは人間やで」
不審者は目をぱちくりさせながら、大袈裟に肩を竦[ めてみせる。
「『それなら、何で『何だ』と言うの? 見ればわかるでしょ? 私は人間よ』」
「違 う!!」
即、ディオウの怒号が轟く。
「おれが言いたいのはそこじゃな い!!」
「あのさ……」
アズウェルが苦笑しながら口を挟む。
「ディオウ、ホントはあの人が何言っているんだかわかってるんだろ?」
「わかってない、知らない」
ディオウは抑揚のない声で即答する。
「うん、わかってるんだな。ディオウ、余計に混乱するだけだからちゃんと会話しようぜ」
「む、何を言う。おれは真面目にやっているぞ。そこの不審者が真面目にやっていないだけの話だ」
じろりと不審者を睥睨し、ディオウは尾を一振りする。
「不審者って……確かに怪しいけど、それはちょっと可哀相な気が……」
「不審者! 怪しい! 可哀相!!」
いきなり破顔した不審者を見て、三人は咄嗟に後方へ飛び退いた。とても危険な香りがする。
ごくり、とアズウェルは唾を飲んだ。
「ええわぁ~!! 最高やな!」
予想外の反応に、三人は口を開けたまま固まった。
拒絶オーラを放出しているディオウを気にも留めずに、不審者はアズウェルに歩み寄ると、その両手を取ってぶんぶんと上下に振った。
「ほんま、ナイスや、アズウェルはん!!」
そこに、ディオウがすかさず吠える。
「この変態野郎!! アズウェルに触るなっ!!」
「変態、とな!?」
不審者はアズウェルの手をぱっと放し、瞳をキラキラと輝かせた。
「極上やないか! 素晴らしい、ホンマ素晴らしい! 流石、ディオウはん、あっぱれや!!」
間。
「じゃかぁし い!!」
「あなた、言葉の意味間違って捉えているわよ!?」
「ってか、何でおれたちの名前知ってんの?」
三者三様の反応を見てから、不審者はアズウェルに笑いかけた。
「うん、うん。まずはそこに突っ込みいれなあかんなぁ。アズウェルはん、いい筋してまっせぇ~」
それを聞いてディオウとラキィははっと顔を見合わせる。
確かに。
何故、名前を知っているのか。そして、一体何者 いや何物なのか。
「よし、振り出しにちゃぁんと戻ったなぁ。アズウェルはん、ナイスやったで!」
ぐっと親指を立てて、不審者と呼ばれた青年は片目を瞑[ った。
「うわー、でけー」
「確かに……でかいな」
アズウェルとディオウは、ロサリドの建物の数と規模の大きさに唖然としている。
ロサリドはディザードで最も規模が大きい街だ。二人が驚くのも無理はない。
「あ~。なんて情けないの。もう! あんたたち田舎者丸出しよ!」
ラキィが羽のような耳で頭を抱える。
「でっけぇもんはでっけぇんだって。さて……まずは」
「飯」
「だな!!」
二人は意気投合しているが、ラキィがそれを許さない。
「何言ってるのよ! 街に着いたら、まず宿探しでしょ!?」
この言葉の後、二人はラキィに叱咤され、宿探しをすることになった。
宿探しを始めてたものの、動物連れ込み可能な宿はそう簡単に見つからない。
「ディオウ、入ってもいいぜ」
アズウェルが闇に向かって
「おう」
ディオウはふわりと二階の窓まで飛び上がり、アズウェルが開いた窓から侵入する。
「ふぅ~。人に見つからないように、お前らの後をついて行くのは骨が折れたぞ」
「お疲れさん」
アズウェルが苦笑混じりに言った。
「おれも、疲れた。動物連れ込みオーケーで、部屋に鍵付きで、でっかい窓があって、安めのところってなかなか無いもんだなぁ」
「普通、そんなところ無いわよ。ある方が珍しいわ」
とりあえずあってよかった。
そう三人揃ってほっと一息つく。
「もーだめ、限界」
アズウェルがどさりと床に倒れ込んだ。そのままぴくりとも動かずに、寝息を立てる。
「あ~ら、床で寝ちゃ風邪引くわ」
ディオウがアズウェルの服を
それでもアズウェルは起きない。文字通り、熟睡している。
「おれも疲れたぜ……」
そう言い残すと、今度はディオウが床に倒れた。
「あら、二人とも寝ちゃったわ。さっきまで飯~って騒いでいたのに」
ラキィは二人を呆れ顔で眺めてから机の上に飛び乗り、小さく体を丸めて静かに目を閉じた。
◇ ◇ ◇
午前十時過ぎ。ロサリドのとある酒場。
金髪の青年としゃべるトゥルーメンズという実に異様な光景に、酒場の客は唖然としている。
「ふぅ~。食った食った」
「アズウェル、あんた食べ過ぎよ」
まぁまぁ、とアズウェルはラキィを
「まったく、一人で五人分も食べて!!」
今にも爆発しそうなラキィからそっと離れて、アズウェルは会計を済ませる。
「ラキィ、行こう」
アズウェルは延々と文句を連ねるラキィの首根っこを掴むと、奇異の視線を向けられる酒場から逃げるようにして外へ出た。
そんな彼らを黙々と観察していた青年がいる。
頭に巻いている鉢巻を縛り直し、にやりと口端を吊り上げた。
「おっさん、ありがとうな。ほな、ここにお勘定置いておくで」
青年は適当に銅貨をカウンターにばらまいて、席を立つ。
「ちょっと……お客さん足りませんよ!」
金額を確認したマスターが慌てて呼び止めるが、青年の姿は何処にも見当たらなかった。
◇ ◇ ◇
酒場の裏の路地に入ると、アズウェルは物陰に隠れているディオウに声をかけた。
「よ、ディオウ。飯食ったか?」
「やっときたな。おれは随分前に食い終わってたぞ」
ディオウを連れて入るとあまりに目立ち過ぎるため、アズウェルは露店で買ってきた肉を渡したのだ。ラキィと二人でも十分目立っていたのに、ディオウまで連れて行けば厄介事に巻き込まれても不思議ではない。
「いや、それにしても、ここの味付けは最高だった。絶妙なスパイスと香ばしさがおれ好みだ」
「そりゃよかったね……」
アズウェルは呆れ顔で相槌を打つ。
どういうわけか、ディオウは生の肉を食べない。肉食動物であるのに、アズウェルたちと同じ食事を取るのだ。
獣のくせに舌が肥えているのだから、手が焼ける。
やれやれ、とアズウェルが肩を竦めた時、ディオウが叫んだ。
「走れっ!!」
「え? えぇ!?」
突然のことに対処しきれず、アズウェルは思いっきり出遅れる。ラキィも首を傾げている。
「アズウェル、ラキィ、走れって!!」
ディオウは頭でアズウェルの背中を押す。
酒場の方から、「食い逃げだ!」という怒声が聞こえてきた。
「へ? おれちゃんと払ったぞ?」
「いいから、走れって!」
「え? えぇ?」
訳が分からず混乱しながらもアズウェルは全力疾走する。
「も~!! 一体何なんだよ
アズウェルの絶叫が街路地に響いた。
程なくして、黒髪の青年が路地に現れた。既に酒場の裏はもぬけの殻だ。
何も逃げることないのに。
青年が頭を掻いていると、後方から怒号と足音が近づいてきた。
「追って、追われる……か」
一瞬だけ顧みて、青年は駆け出した。
◇ ◇ ◇
「ここまで走れば……」
ディオウが来た道を振り返る。
「一体どうしたって言うんだよ~」
「そうよ、何で急に走り出したの?」
二人がたたみ掛けるようにディオウに訊く。
「あ~、それはだな……ってぇ!! おい、マジか!?」
安堵しかけたディオウは、距離を縮めてくる気配に愕然とした。
「くそ、飛ぶぞ! アズウェル乗れ!!」
「へ?」
ぼけっとしているアズウェルを、長い尾で
「後で説明するから、早くしろ!」
「え、あぁ、うん」
とりあえずディオウに言われるがままに、アズウェルが騎乗する。
ラキィが頭に乗ったことを確認すると、一目散にディオウはその場から飛び去った。
「ちょっと、落ちるわよ!」
「しっかり掴まっていろよ!!」
「ホント、ディオウ、ちょ、まっ
また一足遅かったようだ。
「う~ん……酷いなぁ……ホンマに酷いわぁ。けど、流石、ギアディス」
さて、と青年は秘密兵器を取り出すと、黒いボタンを押した。
◇ ◇ ◇
風の咆哮が耳をつんざき、髪をうねらせた。まともに前方を見据えることすらできない。
必死にディオウの背にしがみつきながら、アズウェルは左手でラキィを抑える。力を少しでも抜けばこの小さな体躯は遥か後方へ飛ばされてしまうだろう。
「ディオウ飛ばしすぎだって!! ラキィが落ちる!」
「これくらい出さないと、振り切れん! 流石に、ここまで、飛べば、いくらなんでも……!」
ディオウは徐々に速度を落とし、着地する。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「で、一体どうしたんだ?」
肩で息をしながら、ディオウはアズウェルを見上げた。
「何か、怪しい、気配を、感じて……それが、しつこく、追って、来たんだ」
途切れ途切れのディオウの言葉に、二人は首を傾げる。
「怪しい気配?」
「何それ? クロウ族なの?」
いや、とディオウは首を振る。
「違う……と思う。殺気とかじゃない。何か、やばい気配がしたんだ。おれはそれに殺気より恐怖を感じた」
「殺気じゃなくて、クロウ族じゃなくてやばいって何だ? ディオウがそこまで感じる恐怖って……」
「う~ん、一体何やろなぁ~」
アズウェルが言い差した台詞を、正体不明の者が繋いだ。
アズウェルが顧みて、ラキィが瞠目し、ディオウが絶句した。
「な……な……何だよ、おまえ!?」
いつの間にか真後ろにいた青年に、アズウェルが目を
問われた不審者は、三人の様子を面白そうに眺めていた。
◇ ◇ ◇
一人考え込んでいたマツザワは、ぐるぐると自室の中を歩き回っていた。
「あの阿呆を遣いに出したのはまずかっただろうか……」
派遣したのが自分である以上、何か起きれば責任を取らねばなるまい。
「ディオウ殿に不興を買われなければいいが……」
頭を抱えてしゃがみ込む。
無理だ。いくら適当に見積もったとしても、彼が大人しくしているとは欠片も思えない。
マツザワは深く、深く肩を落とし、嘆息した。
◇ ◇ ◇
三対の目は不信感を
「何や、と? あんさんら目見えへんの?」
「悪いが、貴様が何を言っているんだか、よくわからん」
ディオウが不審者を見据える。
「確かに少し変だけど……だいたいはわかるわよ」
「訛りが邪魔で意図が読み取れん」
「はぁ、しょうがないわね。私が訳すわ。えっと『あなたたち目が見えないの?』って聞いてるわ」
溜息混じりにラキィが翻訳すると、ディオウは声を張り上げる。
「な……貴様、おれたちを馬鹿にしてるのか!? 見えるに決まってるだろうが!!」
「そんなら、なして『何だ』と言うんや? 見りゃわかるやろ。わいは人間やで」
不審者は目をぱちくりさせながら、大袈裟に肩を
「『それなら、何で『何だ』と言うの? 見ればわかるでしょ? 私は人間よ』」
「違
即、ディオウの怒号が轟く。
「おれが言いたいのはそこじゃな
「あのさ……」
アズウェルが苦笑しながら口を挟む。
「ディオウ、ホントはあの人が何言っているんだかわかってるんだろ?」
「わかってない、知らない」
ディオウは抑揚のない声で即答する。
「うん、わかってるんだな。ディオウ、余計に混乱するだけだからちゃんと会話しようぜ」
「む、何を言う。おれは真面目にやっているぞ。そこの不審者が真面目にやっていないだけの話だ」
じろりと不審者を睥睨し、ディオウは尾を一振りする。
「不審者って……確かに怪しいけど、それはちょっと可哀相な気が……」
「不審者! 怪しい! 可哀相!!」
いきなり破顔した不審者を見て、三人は咄嗟に後方へ飛び退いた。とても危険な香りがする。
ごくり、とアズウェルは唾を飲んだ。
「ええわぁ~!! 最高やな!」
予想外の反応に、三人は口を開けたまま固まった。
拒絶オーラを放出しているディオウを気にも留めずに、不審者はアズウェルに歩み寄ると、その両手を取ってぶんぶんと上下に振った。
「ほんま、ナイスや、アズウェルはん!!」
そこに、ディオウがすかさず吠える。
「この変態野郎!! アズウェルに触るなっ!!」
「変態、とな!?」
不審者はアズウェルの手をぱっと放し、瞳をキラキラと輝かせた。
「極上やないか! 素晴らしい、ホンマ素晴らしい! 流石、ディオウはん、あっぱれや!!」
間。
「じゃかぁし
「あなた、言葉の意味間違って捉えているわよ!?」
「ってか、何でおれたちの名前知ってんの?」
三者三様の反応を見てから、不審者はアズウェルに笑いかけた。
「うん、うん。まずはそこに突っ込みいれなあかんなぁ。アズウェルはん、いい筋してまっせぇ~」
それを聞いてディオウとラキィははっと顔を見合わせる。
確かに。
何故、名前を知っているのか。そして、一体何者
「よし、振り出しにちゃぁんと戻ったなぁ。アズウェルはん、ナイスやったで!」
ぐっと親指を立てて、不審者と呼ばれた青年は片目を
第11記 予感
スワロウ族の集落、ワツキ。その村を静かに見下ろしている者がいた。
男の名は、ルアルティド・レジア。左目を黒い眼帯で覆っている。
「二度とこの地に足を踏み入れることはないと誓っていたのだが……」
深紅の瞳が微かに揺れた。
「……ルーティング様」
彼の後ろに控える兵士の一人が、苦渋を帯びた声で呼称を呟く。
ルーティングは首を振ってから、青い大空を仰いだ。
「まったく、主は何を考えているのか」
考えたところで、彼の思考を読み取れる者などいないだろう。
流れる雲を眺めながら、無邪気に笑う栗毛の少年を思い浮かべる。
〝彼ら〟も昔はそんな風に笑っていたというのに。その笑顔を見ることは、もう叶わない。叶えてはならない。
兵士たちは口を閉ざし、感傷に浸る統括者を見守る。
「この風景を、またこの場所で見ることになるとはな……」
視線を下に落として彼は村を見つめる。
彼らは村を取り囲む崖の上に立っていた。此処からは村全体を見渡すことができる。
長い黒髪の女を見とめて、彼は僅かに右目を細めた。
◇ ◇ ◇
険しい表情をした女が、足早に歩いていく。
「マツザワさん、どこに行かれるのですか?」
そんな彼女を浴衣の少女が呼び止めた。
「……彼らを……迎えに行く」
マツザワと呼ばれた女はくるりと振り返り、重々しく言った。
「それは、アキラさんに頼んだのでは?」
ぱちぱちと瞬[ きをしながら、少女は小首を傾げる。
「そうだ。確かに私が頼んだ。だが、どうも心配だ」
「アキラさんが付いていれば大丈夫でしょう。それにその方々もお強いのでは?」
彼女が指す危惧の対象は、恐らく夜盗や賊のことだろう。
そうじゃない、とマツザワは首を横に振る。
「私が心配しているのは、阿呆の方だ。奴が大人しくしているとは到底思えない」
奴を使者に立てたのはこの自分。その責任は己が負わなければならない。
眉根を寄せて、マツザワは息を吐いた。
「そういう訳だから、私は彼らを迎えに行ってくる。しばらく、父上と村を頼む」
「そうですか。マツザワさんがどうしてもと仰るなら……くれぐれもお気をつけて」
「あぁ。よろしく頼んだぞ、ユウ」
笑顔で応えて、それと、とユウは付け足した。
「決して無理はなさらぬよう。貴女はまだ床にいなければならない身なのですから」
こういうことは抜け目ない。満面の笑みで釘を刺すものだから余計に怖く感じられる。
「……御意」
苦笑混じりに短く返すと、マツザワは身を翻した。
◇ ◇ ◇
「いやはや、話があらぬ方向にどんどん進んでいくもんやから、どないしよ思うたわぁ」
けたけたと笑いながら青年は言った。
「申し遅れましたが、わいはアキラ・リアイリドっちゅう者や。よろしゅ~なぁ」
「その名からして……」
ディオウが言いながら頬を引きつらせる。
「お前……スワロウ族か?」
「ピンポン、ピンポン、大せ~かいっ! その通りや。わいはスワロウ族の大商人やでぇ~」
さり気なく自分のことを宣伝し、アキラはディオウを見た。
「ギアディスさん、よぉわかりまったなぁ」
ディオウは胡乱げにアキラを見上げた。
「お前のようなスワロウ族がいるとは……おれもまだまだだな」
「わいはスワロウ族の名物でっせぇ~」
「もう、いい。勝手にしろ」
飄々[ と嘯[ くアキラに逐一突っ込むのを諦めて、ディオウはアズウェルを顧みた。
「かなり風変わりな奴だが、まぁスワロウ族なら大丈夫だろう」
「そっか。……あ!」
目を見開いたアズウェルが、ディオウとラキィに提案する。
「なぁ、この人にマツザワの村に連れて行ってもらったらどうだろ?」
「確かに手間は省けるが……」
「そうねぇ。確かに、楽だけど……」
ラキィとディオウはアキラを一瞥した。言外に、二人の目は「こいつで大丈夫なのか」と訴えている。
一方、当人は人差し指を振りながら、目を眇[ めて笑う。
「あんさんら、人を見かけで判断するのはよくないでっせぇ~。こう見えてもわいはマツザワはんが立てた使者やで」
「おぉ! マツザワ村に着いたのか! ……よかった」
アズウェルは安堵の息を漏らした。あの暗闇の中、一人で出て行ったのは、正直心配だったのだ。
「お姉さんが立てた使者……」
「あいつが立てた使者……」
アキラの言葉に安堵したのは、アズウェルだけだった。
ディオウとラキィの視線は剣呑さを増し、頭から爪先までアキラを観察する。
「そ~いうことで、わいはあんさんらを無事に村へ連れてかなあかんのや。よろしゅうな」
「よろしくな……え、と……あ、あき……?」
「アキラや」
アキラはアズウェルに向き直って名前を繰り返す。
「アキラ・リアイリド、アキラ・リアイリド、アキラ・リアイリド」
「アキラ・リアイリド……?」
アズウェルが問うように復唱すると、アキラは破顔一笑する。
「せやせや。アキラでええよ、アズウェルはん」
「おう! おれはアズウェル・クランスティ!」
名前は知っているようだが、アズウェルも名乗る。すると、アズウェルの予想通り、彼は優しく微笑んだ。
「アズウェル・クランスティやな。よぉし、ちゃぁんと頭に叩き入れたで!」
何故だかわからないが、兄ができたような嬉しさを感じて、アズウェルは無意識に顔を和ませた。
そんなアズウェルとアキラのやり取りを眺めていたディオウが、半眼で口を挟む。
「おい、そこ。和むのもいいが、急いだ方がいいんじゃねぇか?」
ディオウの声音に硬さを感じたラキィは呆れ顔で溜息をついた。
今日出会ったばかりのアキラに妬いているとは。千年生きようが、やはりディオウは子供なのだ。
「あ、そうだったな。じゃあ道案内よろしくな、アキラ!」
「まっかせろぃ! このわいがきちっと案内したるで!!」
「頼んだぜ!」
明るく返事をしたアズウェルの顔を見て、ディオウが目を細める。次にアキラをじろりと睨んだ。
「最短ルートでだぞ。事は一刻を争っているんだ」
「ディオウ、クロウ族の攻撃は二日後の午前十時よ。そんなに慌てなくても余裕で着くわ。ここからはさほど遠くないはずだし」
南西を見やったラキィを、ディオウが無言で見返す。
矛先が自分に変わったことに気付かない振りをして、ラキィはアズウェルの肩に飛び乗った。
「でも、急ぐに越したことはないわ。時間に余裕があれば色々と対策も練れるし」
「そうだな。んじゃ、すぐ行こうか。アキラ、ここから村までどれくらい?」
「それは、距離かいな? それとも、時間のことやろか?」
「ん……と、時間かな」
アキラは暫[ く思案してから、そやなぁと口を開く。
「歩いていけば夕方に着くかどうか。飛んでいくなら昼過ぎくらいやろな」
「急ぐに越したことはない、と。ディオウ、よろしく」
アズウェルがディオウを振り返る。
「言っておくが、そいつは乗せたくないぞ」
唸るように言ったディオウは、ひょんひょんと尾を振って不快さを表している。
「何言ってんだよ! 事は一刻を争うって言ったのおまえだろ」
アズウェルはディオウに騎乗し、その頭をぽんぽんと叩いた。
それでも、揺れるディオウの尾は動きを止めない。
アキラは頬を人差し指で掻いた。
その程度で妬かれても、こちらとしても困るのだが。
ディオウの鋭利な眼差しに苦笑しながら、相棒を取り出す。
「アズウェルはん、気持ちだけもろとくわ。わいにはこれがあるから問題ありまへん」
「何だよ、それ?」
指を差されたアキラがそれを振ると、かしゃかしゃと音が鳴った。
「これは算盤[ っちゅうモンでな。一般的には計算の時に使うモンや。わいは武器としても、移動手段としても使うけんな」
「へぇ~、ソロバンかぁ」
アズウェルの瞳は興味津々といった感じだ。
「それでさっきおれのスピードについてきたのか?」
ディオウが顎で算盤を差す。
「せや、ここのボタンをポチッと押してな」
アキラがボタンを押すと、算盤から強風が噴射した。笑顔のまま、アキラは風に押されて徐々に移動している。
流石に三人とも目を疑った。
その反応を楽しみながら、再びボタンを押す。
風と共にアキラの動きもぴたりと停止した。
「このままやとちょいっと小さ過ぎまっから、わいの符術でこれを……」
懐から一枚の呪符を取り出す。
「広拡[ !」
呪を唱えると算盤がベッドサイズ並に拡大した。
「ここに乗ってきたっちゅうわけや」
よいせ、と算盤に乗り込む。
三人は驚愕のあまり硬直していた。
一体何なのだ。この男は。
その金縛りから最初に抜け出したのはアズウェルだった。無免許とはいえ、一応フレイテジアの彼は、好奇心のままに疑問を投げかける。
「すっげぇな。符術で大きくなったのはわかったけど、ジェットの方は? フレイトみたいだったけど、ジェットはどうやって出てるんだ?」
「アズウェルはん、人には一つや二つや三つや四つ、誰にも言えん事があるやろ」
小首を傾げながらアズウェルは目を瞬[ かせた。
「秘密ってことか?」
「まぁ、そんなところや」
「答えられないだけじゃないの?」
「あるいは、説明が面倒だとか」
「企業秘密や」
口を挟んできたラキィとディオウに、アキラは間髪入れずに切り返す。
「はよ着いた方がええんやろ? 行きまっせ!」
やはり答えられなかったのだろう。
二人は半眼でアキラを一瞥する。
「よし、出発だ!!」
張り切るアズウェルに聞こえないように、ラキィはディオウの耳元で囁[ いた。
「話題をコロッと変えられても、それにすぐに順応するアズウェルはある意味凄いのかも知れないわね……」
「まったくだ」
二人は尊敬の眼差しで主人を見つめるが、それに当人は気付かない。
「行くぜ、スワロウ族の村!」
「ワツキや」
何となく語呂が悪いと思ったアキラが、村の名前を口にする。
「行くぜ! ワツキ!!」
アズウェルもそう思ったのか言い直す。
「やっとか……」
ディオウは大きく嘆息して飛翔した。
呪符を取り出しアキラは呪文を唱える。
「宙飛[ !」
算盤がふわりと宙に浮く。
「ほな、ポチっとな」
算盤の一辺から、強風が勢い良く飛び出す。
アキラは満足そうに微笑んで、ディオウの後を追った。
◇ ◇ ◇
ぞくり、とマツザワの背中に悪寒が走った。
嫌な予感がする。
こういう時だけは予感が的中するのだ。頭上から苦手な声が降ってくる。
「マツザワは~ん」
「お、マツザワ!」
アズウェルの声と共に目の前にディオウが降り立った。次いでアキラも算盤を着地させる。
「なんかすっげぇ久々な気がするな」
「まだ一日しか経っていないが……」
頭の後ろで指を組んで笑うアズウェルに、彼女は苦笑した。
「密度の濃い一日だったな、昨日は」
「そうか、疲れは我が村で癒すといい」
こきこきと首を鳴らすディオウに、彼女は微笑んだ。
「お姉さんもお疲れ様」
「あぁ、ありがとう」
眼前に浮かぶラキィに、彼女は顔を綻[ ばせた。
「マツザワはん、わいちゃんと役目まっとうしたで。褒めとくれ~」
「……」
駆け寄ってくるアキラに、彼女は無言で刀を突きつけた。
咄嗟に飛び退いて、アキラは悲しそうな顔をする。
「何でわいにだけそないな酷いことするねん!!」
明らかに、アキラだけ待遇が異なる。
すっと目を細めたマツザワが、冷ややかに尋問した。
「無礼なことをしたのではないのか?」
「そないなことするわけ……」
言い差してちらりと背後へ視線を送ると、ディオウが睨んでいた。
ディオウの険しい表情を見て、マツザワは誰にも聞こえないように舌打ちをする。
あれほど、先に釘を刺していたというのに。
「問答無用!」
マツザワの振るった白刃がアキラに襲いかかる。
「うお! 危ない、掠るところやった」
どうやら相当怒らせてしまったようだ。
「解!」
アキラは瞬時に算盤の符術を解き、元の大きさに戻すと同時に、頭上から振ってきた刀をそれで受け止めた。
「お、おい……やめろって!」
アズウェルが止めに入ろうとするが、ディオウに遮られる。
「よせ。怪我をしたらどうする」
「あのなぁ、喧嘩している場合じゃな……」
不意にアズウェルの動きが止まる。
どくん、と心音が響いた。脈拍が急激に速度を上げる。
襟元[ を鷲掴[ み、苦しげにアズウェルは咳き込んだ。
「お、おい! アズウェルどうした!?」
ディオウの大声に、喧嘩をしていたアキラとマツザワが動きを止める。
ラキィがアズウェルの顔を覗[ き、くりくりとした紅い両眼を見開いた。
「ちょ、ちょっと……アズウェルの目どうしちゃったの!?」
「一体どうしたというのだ?」
マツザワとアキラも、アズウェルに駆け寄る。
「アズウェル!!」
「アズウェルはん!?」
ディオウが声を荒げ、アキラがアズウェルの体を揺すった。
唸り声を上げて、風が辺りを掻き乱す。
アキラの手を払い除[ けると、その風に身体ごと靡[ かせてアズウェルは告げた。
「墜ちる。片翼の鳥……〝ヴィアンタの失墜〟……〝絶望のファルファーレ〟……」
まるで闇夜に吸い込まれたかのように、その瞳は漆黒に染まっていた。
男の名は、ルアルティド・レジア。左目を黒い眼帯で覆っている。
「二度とこの地に足を踏み入れることはないと誓っていたのだが……」
深紅の瞳が微かに揺れた。
「……ルーティング様」
彼の後ろに控える兵士の一人が、苦渋を帯びた声で呼称を呟く。
ルーティングは首を振ってから、青い大空を仰いだ。
「まったく、主は何を考えているのか」
考えたところで、彼の思考を読み取れる者などいないだろう。
流れる雲を眺めながら、無邪気に笑う栗毛の少年を思い浮かべる。
〝彼ら〟も昔はそんな風に笑っていたというのに。その笑顔を見ることは、もう叶わない。叶えてはならない。
兵士たちは口を閉ざし、感傷に浸る統括者を見守る。
「この風景を、またこの場所で見ることになるとはな……」
視線を下に落として彼は村を見つめる。
彼らは村を取り囲む崖の上に立っていた。此処からは村全体を見渡すことができる。
長い黒髪の女を見とめて、彼は僅かに右目を細めた。
◇ ◇ ◇
険しい表情をした女が、足早に歩いていく。
「マツザワさん、どこに行かれるのですか?」
そんな彼女を浴衣の少女が呼び止めた。
「……彼らを……迎えに行く」
マツザワと呼ばれた女はくるりと振り返り、重々しく言った。
「それは、アキラさんに頼んだのでは?」
ぱちぱちと
「そうだ。確かに私が頼んだ。だが、どうも心配だ」
「アキラさんが付いていれば大丈夫でしょう。それにその方々もお強いのでは?」
彼女が指す危惧の対象は、恐らく夜盗や賊のことだろう。
そうじゃない、とマツザワは首を横に振る。
「私が心配しているのは、阿呆の方だ。奴が大人しくしているとは到底思えない」
奴を使者に立てたのはこの自分。その責任は己が負わなければならない。
眉根を寄せて、マツザワは息を吐いた。
「そういう訳だから、私は彼らを迎えに行ってくる。しばらく、父上と村を頼む」
「そうですか。マツザワさんがどうしてもと仰るなら……くれぐれもお気をつけて」
「あぁ。よろしく頼んだぞ、ユウ」
笑顔で応えて、それと、とユウは付け足した。
「決して無理はなさらぬよう。貴女はまだ床にいなければならない身なのですから」
こういうことは抜け目ない。満面の笑みで釘を刺すものだから余計に怖く感じられる。
「……御意」
苦笑混じりに短く返すと、マツザワは身を翻した。
◇ ◇ ◇
「いやはや、話があらぬ方向にどんどん進んでいくもんやから、どないしよ思うたわぁ」
けたけたと笑いながら青年は言った。
「申し遅れましたが、わいはアキラ・リアイリドっちゅう者や。よろしゅ~なぁ」
「その名からして……」
ディオウが言いながら頬を引きつらせる。
「お前……スワロウ族か?」
「ピンポン、ピンポン、大せ~かいっ! その通りや。わいはスワロウ族の大商人やでぇ~」
さり気なく自分のことを宣伝し、アキラはディオウを見た。
「ギアディスさん、よぉわかりまったなぁ」
ディオウは胡乱げにアキラを見上げた。
「お前のようなスワロウ族がいるとは……おれもまだまだだな」
「わいはスワロウ族の名物でっせぇ~」
「もう、いい。勝手にしろ」
「かなり風変わりな奴だが、まぁスワロウ族なら大丈夫だろう」
「そっか。……あ!」
目を見開いたアズウェルが、ディオウとラキィに提案する。
「なぁ、この人にマツザワの村に連れて行ってもらったらどうだろ?」
「確かに手間は省けるが……」
「そうねぇ。確かに、楽だけど……」
ラキィとディオウはアキラを一瞥した。言外に、二人の目は「こいつで大丈夫なのか」と訴えている。
一方、当人は人差し指を振りながら、目を
「あんさんら、人を見かけで判断するのはよくないでっせぇ~。こう見えてもわいはマツザワはんが立てた使者やで」
「おぉ! マツザワ村に着いたのか! ……よかった」
アズウェルは安堵の息を漏らした。あの暗闇の中、一人で出て行ったのは、正直心配だったのだ。
「お姉さんが立てた使者……」
「あいつが立てた使者……」
アキラの言葉に安堵したのは、アズウェルだけだった。
ディオウとラキィの視線は剣呑さを増し、頭から爪先までアキラを観察する。
「そ~いうことで、わいはあんさんらを無事に村へ連れてかなあかんのや。よろしゅうな」
「よろしくな……え、と……あ、あき……?」
「アキラや」
アキラはアズウェルに向き直って名前を繰り返す。
「アキラ・リアイリド、アキラ・リアイリド、アキラ・リアイリド」
「アキラ・リアイリド……?」
アズウェルが問うように復唱すると、アキラは破顔一笑する。
「せやせや。アキラでええよ、アズウェルはん」
「おう! おれはアズウェル・クランスティ!」
名前は知っているようだが、アズウェルも名乗る。すると、アズウェルの予想通り、彼は優しく微笑んだ。
「アズウェル・クランスティやな。よぉし、ちゃぁんと頭に叩き入れたで!」
何故だかわからないが、兄ができたような嬉しさを感じて、アズウェルは無意識に顔を和ませた。
そんなアズウェルとアキラのやり取りを眺めていたディオウが、半眼で口を挟む。
「おい、そこ。和むのもいいが、急いだ方がいいんじゃねぇか?」
ディオウの声音に硬さを感じたラキィは呆れ顔で溜息をついた。
今日出会ったばかりのアキラに妬いているとは。千年生きようが、やはりディオウは子供なのだ。
「あ、そうだったな。じゃあ道案内よろしくな、アキラ!」
「まっかせろぃ! このわいがきちっと案内したるで!!」
「頼んだぜ!」
明るく返事をしたアズウェルの顔を見て、ディオウが目を細める。次にアキラをじろりと睨んだ。
「最短ルートでだぞ。事は一刻を争っているんだ」
「ディオウ、クロウ族の攻撃は二日後の午前十時よ。そんなに慌てなくても余裕で着くわ。ここからはさほど遠くないはずだし」
南西を見やったラキィを、ディオウが無言で見返す。
矛先が自分に変わったことに気付かない振りをして、ラキィはアズウェルの肩に飛び乗った。
「でも、急ぐに越したことはないわ。時間に余裕があれば色々と対策も練れるし」
「そうだな。んじゃ、すぐ行こうか。アキラ、ここから村までどれくらい?」
「それは、距離かいな? それとも、時間のことやろか?」
「ん……と、時間かな」
アキラは
「歩いていけば夕方に着くかどうか。飛んでいくなら昼過ぎくらいやろな」
「急ぐに越したことはない、と。ディオウ、よろしく」
アズウェルがディオウを振り返る。
「言っておくが、そいつは乗せたくないぞ」
唸るように言ったディオウは、ひょんひょんと尾を振って不快さを表している。
「何言ってんだよ! 事は一刻を争うって言ったのおまえだろ」
アズウェルはディオウに騎乗し、その頭をぽんぽんと叩いた。
それでも、揺れるディオウの尾は動きを止めない。
アキラは頬を人差し指で掻いた。
その程度で妬かれても、こちらとしても困るのだが。
ディオウの鋭利な眼差しに苦笑しながら、相棒を取り出す。
「アズウェルはん、気持ちだけもろとくわ。わいにはこれがあるから問題ありまへん」
「何だよ、それ?」
指を差されたアキラがそれを振ると、かしゃかしゃと音が鳴った。
「これは
「へぇ~、ソロバンかぁ」
アズウェルの瞳は興味津々といった感じだ。
「それでさっきおれのスピードについてきたのか?」
ディオウが顎で算盤を差す。
「せや、ここのボタンをポチッと押してな」
アキラがボタンを押すと、算盤から強風が噴射した。笑顔のまま、アキラは風に押されて徐々に移動している。
流石に三人とも目を疑った。
その反応を楽しみながら、再びボタンを押す。
風と共にアキラの動きもぴたりと停止した。
「このままやとちょいっと小さ過ぎまっから、わいの符術でこれを……」
懐から一枚の呪符を取り出す。
「
呪を唱えると算盤がベッドサイズ並に拡大した。
「ここに乗ってきたっちゅうわけや」
よいせ、と算盤に乗り込む。
三人は驚愕のあまり硬直していた。
一体何なのだ。この男は。
その金縛りから最初に抜け出したのはアズウェルだった。無免許とはいえ、一応フレイテジアの彼は、好奇心のままに疑問を投げかける。
「すっげぇな。符術で大きくなったのはわかったけど、ジェットの方は? フレイトみたいだったけど、ジェットはどうやって出てるんだ?」
「アズウェルはん、人には一つや二つや三つや四つ、誰にも言えん事があるやろ」
小首を傾げながらアズウェルは目を
「秘密ってことか?」
「まぁ、そんなところや」
「答えられないだけじゃないの?」
「あるいは、説明が面倒だとか」
「企業秘密や」
口を挟んできたラキィとディオウに、アキラは間髪入れずに切り返す。
「はよ着いた方がええんやろ? 行きまっせ!」
やはり答えられなかったのだろう。
二人は半眼でアキラを一瞥する。
「よし、出発だ!!」
張り切るアズウェルに聞こえないように、ラキィはディオウの耳元で
「話題をコロッと変えられても、それにすぐに順応するアズウェルはある意味凄いのかも知れないわね……」
「まったくだ」
二人は尊敬の眼差しで主人を見つめるが、それに当人は気付かない。
「行くぜ、スワロウ族の村!」
「ワツキや」
何となく語呂が悪いと思ったアキラが、村の名前を口にする。
「行くぜ! ワツキ!!」
アズウェルもそう思ったのか言い直す。
「やっとか……」
ディオウは大きく嘆息して飛翔した。
呪符を取り出しアキラは呪文を唱える。
「
算盤がふわりと宙に浮く。
「ほな、ポチっとな」
算盤の一辺から、強風が勢い良く飛び出す。
アキラは満足そうに微笑んで、ディオウの後を追った。
◇ ◇ ◇
ぞくり、とマツザワの背中に悪寒が走った。
嫌な予感がする。
こういう時だけは予感が的中するのだ。頭上から苦手な声が降ってくる。
「マツザワは~ん」
「お、マツザワ!」
アズウェルの声と共に目の前にディオウが降り立った。次いでアキラも算盤を着地させる。
「なんかすっげぇ久々な気がするな」
「まだ一日しか経っていないが……」
頭の後ろで指を組んで笑うアズウェルに、彼女は苦笑した。
「密度の濃い一日だったな、昨日は」
「そうか、疲れは我が村で癒すといい」
こきこきと首を鳴らすディオウに、彼女は微笑んだ。
「お姉さんもお疲れ様」
「あぁ、ありがとう」
眼前に浮かぶラキィに、彼女は顔を
「マツザワはん、わいちゃんと役目まっとうしたで。褒めとくれ~」
「……」
駆け寄ってくるアキラに、彼女は無言で刀を突きつけた。
咄嗟に飛び退いて、アキラは悲しそうな顔をする。
「何でわいにだけそないな酷いことするねん!!」
明らかに、アキラだけ待遇が異なる。
すっと目を細めたマツザワが、冷ややかに尋問した。
「無礼なことをしたのではないのか?」
「そないなことするわけ……」
言い差してちらりと背後へ視線を送ると、ディオウが睨んでいた。
ディオウの険しい表情を見て、マツザワは誰にも聞こえないように舌打ちをする。
あれほど、先に釘を刺していたというのに。
「問答無用!」
マツザワの振るった白刃がアキラに襲いかかる。
「うお! 危ない、掠るところやった」
どうやら相当怒らせてしまったようだ。
「解!」
アキラは瞬時に算盤の符術を解き、元の大きさに戻すと同時に、頭上から振ってきた刀をそれで受け止めた。
「お、おい……やめろって!」
アズウェルが止めに入ろうとするが、ディオウに遮られる。
「よせ。怪我をしたらどうする」
「あのなぁ、喧嘩している場合じゃな……」
不意にアズウェルの動きが止まる。
どくん、と心音が響いた。脈拍が急激に速度を上げる。
「お、おい! アズウェルどうした!?」
ディオウの大声に、喧嘩をしていたアキラとマツザワが動きを止める。
ラキィがアズウェルの顔を
「ちょ、ちょっと……アズウェルの目どうしちゃったの!?」
「一体どうしたというのだ?」
マツザワとアキラも、アズウェルに駆け寄る。
「アズウェル!!」
「アズウェルはん!?」
ディオウが声を荒げ、アキラがアズウェルの体を揺すった。
唸り声を上げて、風が辺りを掻き乱す。
アキラの手を払い
「墜ちる。片翼の鳥……〝ヴィアンタの失墜〟……〝絶望のファルファーレ〟……」
まるで闇夜に吸い込まれたかのように、その瞳は漆黒に染まっていた。
第12記 ワツキ
どくん。
心臓が跳ね上がる。
!!
頭の中で叫び声が響く。言葉は聞き取れない。だが、この声は知っている。
目の前が暗くなり、直後に映像が飛び込んできた。
人が倒れる。誰かがその人の名前を呼んでいる。
倒れた人の向こうに不敵な笑みを浮かべて立っている者がいた。
その歪んだ口が微かに動く。
墜ちる。片翼の鳥……〝ヴィアンタの失墜〟……〝絶望のファルファーレ〟
刹那、アズウェルの意識は途絶えた。
◇ ◇ ◇
風が吹いた。それは自然の風ではない。
男は小さく舌打ちした。
それが、主の命[ だと言うならば。
「お前たちは主のところへ戻れ。俺は……」
崖の下の集落に視線を落とす。男の顔が苦痛に歪んだ。
「……主を頼んだぞ」
兵士たちは男の背中を数秒見つめた後[ 、無言でその場を立ち去った。
気配が遠のいたことを察して、右の手で左目の眼帯を覆う。
彼らに会うことは許されない。だから、せめて、彼らが生き抜くことを願う。
長剣の鞘を持つ左手に力が入る。
もし見つかれば、切腹する覚悟が必要だろう。
男は一度天を仰ぐと、その身を翻した。
◇ ◇ ◇
いくら呼びかけても、アズウェルは反応しない。
ディオウは焦りだけが募っていた。
「アズウェル! おい返事をしろ、アズウェル!!」
「ディオウ、ただ呼びかけてもだめよ……! 五年前の状態に近いわ!」
ラキィが少しでもディオウの冷静さを取り戻そうとするが、事実を述べることは逆効果だった。
「くっそ! アズウェル……戻ってこい……!!」
深刻な色を浮かべている二人を、アキラとマツザワは見つめていることしかできなかった。
ラキィがアズウェルの足下に移動する。辛そうな表情で彼を見上げた。
アズウェルは今、意識がない。人形のように突っ立っている。美しく透き通っているはずの蒼の瞳は、闇に包まれたように黒く濁っていた。
「何か……衝撃でも与えられれば……」
小さく呟いた時、彼女の体躯が地面から離れた。
「え、ちょっと、何?」
ディオウがラキィの尾を銜[ えている。
ラキィの質問には答えずに、ディオウは彼女を力一杯投げつけた。
「きゃん!!」
びたん、とアズウェルの顔に叩きつけられたラキィは、そのまま真下に落下する。
ラキィがぶつかった衝撃で、棒立ちしていたアズウェル尻餅をついた。
「いった~い……」
ラキィが嘆くと、その頭を温かな手がそっと撫でた。
「ラキィ……? どうした? 大丈夫か?」
その声にラキィは顔を上げる。アズウェルが心配そうに彼女を見下ろしていた。
「あ……アズウェル! 戻ってきたのね!」
「ご、ごめん。おれまた意識飛ばしてた?」
「アズウェル……! 良かった、もう大丈夫なのか?」
決まりが悪そうに頭を掻くアズウェルに、マツザワが駆け寄る。その後ろにはアキラもいる。
「心配したんやでぇ。ディオウはんなんかえっらい焦っとって……」
「ごめんごめん。もう平気だよ。それよりラキィ何で痛いっていってたの?」
人の心配より自分の心配をしろ。
その場にいた誰もがそう思った。
「アズウェルを起こそうとディオウが投げつけたのよ……」
苦笑気味に答えると、アズウェルはディオウを睨む。
「おい、いくらなんでもそれはラキィが可哀相だぞ」
批難されて、ディオウは一瞬アズウェルの顔を見る。
澄んだ蒼の瞳。眉根を寄せる表情。いつもの、アズウェルだ。
「ったくディオウは……ラキィ、平気か?」
「ええ。もう大丈夫よ」
飼い主に怒られようが、ラキィに後で毒づかれようが、そんなのはかまわない。ただ戻ってきたのに安心した。
「……すまない、ラキィ」
珍しく素直に謝るディオウに、ラキィは何も言わなかった 否、言えなかった。
ディオウはしょんぼりと項垂[ れていた。
わしゃわしゃとディオウの頭を撫でつつ、アズウェルは皆に謝る。
「ごめんな、急いでいたのにおれのせいで遅くなっちまった」
「いや……大丈夫ならそれでいいんだ。我が村はもうじきだ。あそこに竹林が見えるだろう?」
マツザワが南を指差す。その向こうには緑色の林が見えた。
「ここからなら、歩いてもすぐやな」
アキラが数歩歩いて振り返る。
「ほな、皆はん、行きましょか」
「おう!」
アズウェルの元気な返事と共に、一行はワツキを目指して歩き出した。
笹の葉が身体を揺らし、見知らぬ客人たちにざわめいた。
四方八方竹で囲まれている。どちらから来たのか、振り返っても全く見当がつかない。
「何だか迷子になりそうだぞ……」
アズウェルが眉根を寄せる。
「夜一人で歩くと、他所[ から来た者は迷うかもしれないな」
苦笑を浮かべてマツザワが応じた時、一羽の白い鳩が飛んできた。アキラの眼前まで降下すると、その鳩は一枚の紙切れに変貌した。
「……またロサリドまで行けと」
その紙に何か書いてあったのだろうか。
アキラががくりと両肩を落とす。
「え、アキラどうしたんだ?」
「すまんのぉ、アズウェルはん。ちょっくらお使い行ってきますわぁ」
竹林を抜けるまでは、狭すぎて算盤に乗れないのだから走るしかない。
もう少し早くに報せが届いてほしかった。
そう思いながら身を翻すと、アキラは来た道を走っていった。
「ユウに買い物でも頼まれたのだろう。いつものことだ。……ほら、見えたぞ。あれが我が村ワツキだ」
急に視界が開けたと思うと、高い崖で囲まれた集落が目に飛び込んできた。
土で出来た家々が立ち並んでいる。屋根には独特の形をした黒いものが敷き詰められていた。
「お~。これがマツザワの故郷かぁ。あの屋根にある黒いのはなんだ?」
「あれは瓦といって、粘土を焼いたものだな」
「へぇ~。あれ、窓の格子は竹か?」
「あぁ、そうだな。竹窓と言うんだ」
アズウェルとマツザワは会話をしながら進んでいく。その後ろを、頭にラキィを乗せたディオウが歩いていた。
至る所に点在する菜園には、色取りどりの野菜が栽培されている。青々と伸びた稲を覗き込むと、水黽[ が水面を這[ っていた。
「こういう自然もいいもんだなぁ」
田畑を縫[ うようにして歩いて行く。
暫くすると、一際大きな屋敷が悠然と建っていた。その前で、マツザワが足を止める。
「さて、まずは族長に会っていただきたいのだが、よろしいか? ディオウ殿」
「あぁ。構わんぞ」
「マツザワの父ちゃんか~」
玄関に踏み入ると、靴がいくつか並んでいた。
そのまま家に上がろうとするアズウェルを、マツザワが止める。
「すまぬが、靴を脱いでくれ。我々の村では家に上がる際、履き物を脱ぐ習慣になっているのだ」
「そ、そうなんだ……」
土足で上がりかけたアズウェルは、慌てて右足を引いた。頬が赤く染まる。
横を見ると、玄関に用意されていた桶の水で、ラキィとディオウは足を洗っていた。
知っていたなら一言くれればいいのに。
火照った顔を落ち着かせながら、靴を脱いで一段上がる。床は木で造られているようだった。
「では、いこうか」
マツザワの案内で、三人は一番奥の部屋 族長の間へと通された。
何とも言い難い空気が部屋中に漂っている。
「わざわざ足を運んでいただき、感謝する。ディオウ殿、少々二人で話したいことがあるのだがよろしいか?」
「おれだけということか?」
「すまないがお願いしたい」
淡々と進められていく会話にアズウェルが口を挟む隙はなかった。
族長は厳かな気迫を放出している。その気迫に均衡するほどの威圧をディオウも放っていた。
「あ、じゃぁ……おれたち外出てます」
ラキィを抱えてアズウェルは立ち上がった。
「そなたがアズウェルか?」
部屋を出る直前に声を掛けられ、アズウェルはびくりと硬直する。
「え、あ、はい。おれです」
「そうか。後ほどそなたとも話をしたい」
「わ、わかりました」
一礼すると、アズウェルはぎこちない足取りで族長の家を後にする。
外に出たアズウェルは、肺の中が空になるほど息を吐き出した。
「こ、こっえ~……」
「情けないわね、アズウェルったら」
「いっや、だってあのオッサン迫力がすっげぇのなんのって」
外に出た二人は「さて、これからどうしよう」と辺りを見渡す。
「アズウェル」
呼びかけられて振り返ると、マツザワがいた。
「あれ、おまえも出てきたのか?」
「あぁ。ところでアズウェル、昼はすませたか?」
「いや……まだだけど……」
家の中へアズウェルは視線を送る。
「ディオウ殿なら心配することはない」
「でも、あいつも腹減ってると思うし……先に食うと後で色々言われるしなぁ、ラキィ?」
「大丈夫でしょ。文句言うなら族長さんに言いなさいって言えばいいじゃない」
ラキィは何食わぬ顔でそう言う。
そんなこと、頼まれても御免蒙[ りたいところだ。自分の代わりにラキィが言ってくれればいいのに。
ちらりとマツザワを見る。目が合うと彼女は首を傾げた。
「……う~ん。わかった。じゃぁ、昼飯にすっかぁ」
この後何事もないことを祈って、アズウェルは渋々頷いた。
◇ ◇ ◇
「なぁ、ディオウ。あんなに長い時間何話していたんだ?」
「まぁ、色々とな。気にするな」
結局、ディオウが戻ってきたのは夕方だった。今はアキラの家で夕餉を食べている。
「ディオウ……それ、骨あったよな?」
アズウェルがディオウの皿を差す。皿の上に残っていたのは魚の頭だけだ。
「あぁ、あったような、なかったような」
「骨まで食ったのかよ」
「お前と違っておれの顎[ は鍛えられているからな。あれぐらい大したことじゃない」
そう言うとディオウは大きく欠伸[ をした。鋭利な歯が見える。
「こんな太い骨バリバリいっちまうのかよ……」
アズウェルは魚の尻尾を持ち上げて、そのがっしりとした骨を半眼で見据える。
「んまぁ、これくらいなら食えまっせ」
アズウェルの向かいに座っているアキラは難なくそれを噛み砕いていた。
「マジ? おれも食ってみるかな……」
「あんたはやめておいた方がいいわよ」
ラキィの忠告を無視してアズウェルは骨に噛みつく。
「…… っ!?」
「だから言ったのに。喉に骨が刺さったんでしょ」
呆れたラキィが片耳でアズウェルの喉をつついた。
口を押さえたまま、アズウェルは涙目でこくこくと首を縦に振る。
「あら、それは大変ですね。ご飯を飲んでください」
ユウが空になっていた竹造りの茶碗に白米をよそった。
団扇[ を扇ぎながら、アキラが説明する。
「噛まずに丸ごと飲み込むんやでぇ。ごっくん、とな」
頷いてアズウェルは口に含んだ飯を飲み込んだ。
「……お? 取れた、取れた!」
「よかったですね」
ユウがにっこりと微笑みかける。
「おう! サンキューな」
アズウェルも笑顔で応えた。その正直な笑顔に、ユウの頬が桃色に染まる。
「い、いえ……」
ユウは空いた食器を盆に乗せると、慌てて部屋を出て行った。
「おやまぁ……」
「あらあら……」
「…………」
アキラ、ラキィ、ディオウが揃ってアズウェルを見る。
「へ?」
アズウェルは懲りずに魚の骨にかぶりついていた。
「いやまぁ、面白いことになりそうでんなぁ」
にやりとアキラがほくそ笑む。
「ん? だから何が?」
「大変ね。彼女も」
ラキィに尋ねても、彼女も笑うだけだった。
今度はディオウに訊く。
「だから、何?」
「……まぁ、お前は気付かないでいいことだ」
ぶっきらぼうに答えて、ディオウはそっぽを向いた。
「あら……ディオウ、あんた……」
「おや、ディオウはん……」
また妬いているのか。当人には伝わっていないが。
アキラとラキィは、未だに「わからない」とぼやくアズウェルと、「知らなくていい」の一点張りのディオウを面白そうに観賞していた。
◇ ◇ ◇
日は沈み、ワツキは夜の静寂に包まれている。
アズウェルたちは今晩アキラの家に泊まることになったのだが。
「う~ん。どうも寝付けない」
夜のワツキをアズウェルは一人で散策していた。
「何でディオウもラキィもあんなすぐに寝ちゃったんだ?」
腕組みをしながら静かな夜道を歩いていく。
「どうも、布団っていうのは寝にくいんだよなぁ」
ぶつぶつと独り言を並べて歩くアズウェルの瞳に、見たことのある男が映った。
男は深刻な面持ちで足早に村の奥へと進んでいく。アズウェルには気付いていないようだ。
「あ、あれ……あいつ!」
呼び止めようとして、その名を飲み込む。
何故彼が、こんな夜中に此処にいるのだろうか。
足音を立てないように注意を払いながら、アズウェルは男の後を追った。
心臓が跳ね上がる。
頭の中で叫び声が響く。言葉は聞き取れない。だが、この声は知っている。
目の前が暗くなり、直後に映像が飛び込んできた。
人が倒れる。誰かがその人の名前を呼んでいる。
倒れた人の向こうに不敵な笑みを浮かべて立っている者がいた。
その歪んだ口が微かに動く。
刹那、アズウェルの意識は途絶えた。
◇ ◇ ◇
風が吹いた。それは自然の風ではない。
男は小さく舌打ちした。
それが、主の
「お前たちは主のところへ戻れ。俺は……」
崖の下の集落に視線を落とす。男の顔が苦痛に歪んだ。
「……主を頼んだぞ」
兵士たちは男の背中を数秒見つめた
気配が遠のいたことを察して、右の手で左目の眼帯を覆う。
彼らに会うことは許されない。だから、せめて、彼らが生き抜くことを願う。
長剣の鞘を持つ左手に力が入る。
もし見つかれば、切腹する覚悟が必要だろう。
男は一度天を仰ぐと、その身を翻した。
◇ ◇ ◇
いくら呼びかけても、アズウェルは反応しない。
ディオウは焦りだけが募っていた。
「アズウェル! おい返事をしろ、アズウェル!!」
「ディオウ、ただ呼びかけてもだめよ……! 五年前の状態に近いわ!」
ラキィが少しでもディオウの冷静さを取り戻そうとするが、事実を述べることは逆効果だった。
「くっそ! アズウェル……戻ってこい……!!」
深刻な色を浮かべている二人を、アキラとマツザワは見つめていることしかできなかった。
ラキィがアズウェルの足下に移動する。辛そうな表情で彼を見上げた。
アズウェルは今、意識がない。人形のように突っ立っている。美しく透き通っているはずの蒼の瞳は、闇に包まれたように黒く濁っていた。
「何か……衝撃でも与えられれば……」
小さく呟いた時、彼女の体躯が地面から離れた。
「え、ちょっと、何?」
ディオウがラキィの尾を
ラキィの質問には答えずに、ディオウは彼女を力一杯投げつけた。
「きゃん!!」
びたん、とアズウェルの顔に叩きつけられたラキィは、そのまま真下に落下する。
ラキィがぶつかった衝撃で、棒立ちしていたアズウェル尻餅をついた。
「いった~い……」
ラキィが嘆くと、その頭を温かな手がそっと撫でた。
「ラキィ……? どうした? 大丈夫か?」
その声にラキィは顔を上げる。アズウェルが心配そうに彼女を見下ろしていた。
「あ……アズウェル! 戻ってきたのね!」
「ご、ごめん。おれまた意識飛ばしてた?」
「アズウェル……! 良かった、もう大丈夫なのか?」
決まりが悪そうに頭を掻くアズウェルに、マツザワが駆け寄る。その後ろにはアキラもいる。
「心配したんやでぇ。ディオウはんなんかえっらい焦っとって……」
「ごめんごめん。もう平気だよ。それよりラキィ何で痛いっていってたの?」
人の心配より自分の心配をしろ。
その場にいた誰もがそう思った。
「アズウェルを起こそうとディオウが投げつけたのよ……」
苦笑気味に答えると、アズウェルはディオウを睨む。
「おい、いくらなんでもそれはラキィが可哀相だぞ」
批難されて、ディオウは一瞬アズウェルの顔を見る。
澄んだ蒼の瞳。眉根を寄せる表情。いつもの、アズウェルだ。
「ったくディオウは……ラキィ、平気か?」
「ええ。もう大丈夫よ」
飼い主に怒られようが、ラキィに後で毒づかれようが、そんなのはかまわない。ただ戻ってきたのに安心した。
「……すまない、ラキィ」
珍しく素直に謝るディオウに、ラキィは何も言わなかった
ディオウはしょんぼりと
わしゃわしゃとディオウの頭を撫でつつ、アズウェルは皆に謝る。
「ごめんな、急いでいたのにおれのせいで遅くなっちまった」
「いや……大丈夫ならそれでいいんだ。我が村はもうじきだ。あそこに竹林が見えるだろう?」
マツザワが南を指差す。その向こうには緑色の林が見えた。
「ここからなら、歩いてもすぐやな」
アキラが数歩歩いて振り返る。
「ほな、皆はん、行きましょか」
「おう!」
アズウェルの元気な返事と共に、一行はワツキを目指して歩き出した。
笹の葉が身体を揺らし、見知らぬ客人たちにざわめいた。
四方八方竹で囲まれている。どちらから来たのか、振り返っても全く見当がつかない。
「何だか迷子になりそうだぞ……」
アズウェルが眉根を寄せる。
「夜一人で歩くと、
苦笑を浮かべてマツザワが応じた時、一羽の白い鳩が飛んできた。アキラの眼前まで降下すると、その鳩は一枚の紙切れに変貌した。
「……またロサリドまで行けと」
その紙に何か書いてあったのだろうか。
アキラががくりと両肩を落とす。
「え、アキラどうしたんだ?」
「すまんのぉ、アズウェルはん。ちょっくらお使い行ってきますわぁ」
竹林を抜けるまでは、狭すぎて算盤に乗れないのだから走るしかない。
もう少し早くに報せが届いてほしかった。
そう思いながら身を翻すと、アキラは来た道を走っていった。
「ユウに買い物でも頼まれたのだろう。いつものことだ。……ほら、見えたぞ。あれが我が村ワツキだ」
急に視界が開けたと思うと、高い崖で囲まれた集落が目に飛び込んできた。
土で出来た家々が立ち並んでいる。屋根には独特の形をした黒いものが敷き詰められていた。
「お~。これがマツザワの故郷かぁ。あの屋根にある黒いのはなんだ?」
「あれは瓦といって、粘土を焼いたものだな」
「へぇ~。あれ、窓の格子は竹か?」
「あぁ、そうだな。竹窓と言うんだ」
アズウェルとマツザワは会話をしながら進んでいく。その後ろを、頭にラキィを乗せたディオウが歩いていた。
至る所に点在する菜園には、色取りどりの野菜が栽培されている。青々と伸びた稲を覗き込むと、
「こういう自然もいいもんだなぁ」
田畑を
暫くすると、一際大きな屋敷が悠然と建っていた。その前で、マツザワが足を止める。
「さて、まずは族長に会っていただきたいのだが、よろしいか? ディオウ殿」
「あぁ。構わんぞ」
「マツザワの父ちゃんか~」
玄関に踏み入ると、靴がいくつか並んでいた。
そのまま家に上がろうとするアズウェルを、マツザワが止める。
「すまぬが、靴を脱いでくれ。我々の村では家に上がる際、履き物を脱ぐ習慣になっているのだ」
「そ、そうなんだ……」
土足で上がりかけたアズウェルは、慌てて右足を引いた。頬が赤く染まる。
横を見ると、玄関に用意されていた桶の水で、ラキィとディオウは足を洗っていた。
知っていたなら一言くれればいいのに。
火照った顔を落ち着かせながら、靴を脱いで一段上がる。床は木で造られているようだった。
「では、いこうか」
マツザワの案内で、三人は一番奥の部屋
何とも言い難い空気が部屋中に漂っている。
「わざわざ足を運んでいただき、感謝する。ディオウ殿、少々二人で話したいことがあるのだがよろしいか?」
「おれだけということか?」
「すまないがお願いしたい」
淡々と進められていく会話にアズウェルが口を挟む隙はなかった。
族長は厳かな気迫を放出している。その気迫に均衡するほどの威圧をディオウも放っていた。
「あ、じゃぁ……おれたち外出てます」
ラキィを抱えてアズウェルは立ち上がった。
「そなたがアズウェルか?」
部屋を出る直前に声を掛けられ、アズウェルはびくりと硬直する。
「え、あ、はい。おれです」
「そうか。後ほどそなたとも話をしたい」
「わ、わかりました」
一礼すると、アズウェルはぎこちない足取りで族長の家を後にする。
外に出たアズウェルは、肺の中が空になるほど息を吐き出した。
「こ、こっえ~……」
「情けないわね、アズウェルったら」
「いっや、だってあのオッサン迫力がすっげぇのなんのって」
外に出た二人は「さて、これからどうしよう」と辺りを見渡す。
「アズウェル」
呼びかけられて振り返ると、マツザワがいた。
「あれ、おまえも出てきたのか?」
「あぁ。ところでアズウェル、昼はすませたか?」
「いや……まだだけど……」
家の中へアズウェルは視線を送る。
「ディオウ殿なら心配することはない」
「でも、あいつも腹減ってると思うし……先に食うと後で色々言われるしなぁ、ラキィ?」
「大丈夫でしょ。文句言うなら族長さんに言いなさいって言えばいいじゃない」
ラキィは何食わぬ顔でそう言う。
そんなこと、頼まれても
ちらりとマツザワを見る。目が合うと彼女は首を傾げた。
「……う~ん。わかった。じゃぁ、昼飯にすっかぁ」
この後何事もないことを祈って、アズウェルは渋々頷いた。
◇ ◇ ◇
「なぁ、ディオウ。あんなに長い時間何話していたんだ?」
「まぁ、色々とな。気にするな」
結局、ディオウが戻ってきたのは夕方だった。今はアキラの家で夕餉を食べている。
「ディオウ……それ、骨あったよな?」
アズウェルがディオウの皿を差す。皿の上に残っていたのは魚の頭だけだ。
「あぁ、あったような、なかったような」
「骨まで食ったのかよ」
「お前と違っておれの
そう言うとディオウは大きく
「こんな太い骨バリバリいっちまうのかよ……」
アズウェルは魚の尻尾を持ち上げて、そのがっしりとした骨を半眼で見据える。
「んまぁ、これくらいなら食えまっせ」
アズウェルの向かいに座っているアキラは難なくそれを噛み砕いていた。
「マジ? おれも食ってみるかな……」
「あんたはやめておいた方がいいわよ」
ラキィの忠告を無視してアズウェルは骨に噛みつく。
「……
「だから言ったのに。喉に骨が刺さったんでしょ」
呆れたラキィが片耳でアズウェルの喉をつついた。
口を押さえたまま、アズウェルは涙目でこくこくと首を縦に振る。
「あら、それは大変ですね。ご飯を飲んでください」
ユウが空になっていた竹造りの茶碗に白米をよそった。
「噛まずに丸ごと飲み込むんやでぇ。ごっくん、とな」
頷いてアズウェルは口に含んだ飯を飲み込んだ。
「……お? 取れた、取れた!」
「よかったですね」
ユウがにっこりと微笑みかける。
「おう! サンキューな」
アズウェルも笑顔で応えた。その正直な笑顔に、ユウの頬が桃色に染まる。
「い、いえ……」
ユウは空いた食器を盆に乗せると、慌てて部屋を出て行った。
「おやまぁ……」
「あらあら……」
「…………」
アキラ、ラキィ、ディオウが揃ってアズウェルを見る。
「へ?」
アズウェルは懲りずに魚の骨にかぶりついていた。
「いやまぁ、面白いことになりそうでんなぁ」
にやりとアキラがほくそ笑む。
「ん? だから何が?」
「大変ね。彼女も」
ラキィに尋ねても、彼女も笑うだけだった。
今度はディオウに訊く。
「だから、何?」
「……まぁ、お前は気付かないでいいことだ」
ぶっきらぼうに答えて、ディオウはそっぽを向いた。
「あら……ディオウ、あんた……」
「おや、ディオウはん……」
また妬いているのか。当人には伝わっていないが。
アキラとラキィは、未だに「わからない」とぼやくアズウェルと、「知らなくていい」の一点張りのディオウを面白そうに観賞していた。
◇ ◇ ◇
日は沈み、ワツキは夜の静寂に包まれている。
アズウェルたちは今晩アキラの家に泊まることになったのだが。
「う~ん。どうも寝付けない」
夜のワツキをアズウェルは一人で散策していた。
「何でディオウもラキィもあんなすぐに寝ちゃったんだ?」
腕組みをしながら静かな夜道を歩いていく。
「どうも、布団っていうのは寝にくいんだよなぁ」
ぶつぶつと独り言を並べて歩くアズウェルの瞳に、見たことのある男が映った。
男は深刻な面持ちで足早に村の奥へと進んでいく。アズウェルには気付いていないようだ。
「あ、あれ……あいつ!」
呼び止めようとして、その名を飲み込む。
何故彼が、こんな夜中に此処にいるのだろうか。
足音を立てないように注意を払いながら、アズウェルは男の後を追った。
第13記 追憶の桜吹雪
夜が更ける。月は今、その姿を雲の裏側に隠していた。
足音を立てないよう慎重に進んでいく。
早足で歩いていた男が、ふいに足を止めた。
慌ててアズウェルは物陰に隠れる。
男の眼前には高い崖を両断するように、石段が延々と続いている。その石段の先を彼は静かに見つめていた。
何か躊躇[ うことがあるのか、男はなかなか足を踏み出さない。
その先には、一体何があるのだろうか。
アズウェルは物陰からじっと彼の様子を見つめていた。
後を追うにしても一本道。石段に隠れる場所は見当たらない。彼が登り切ったら、一気に駆け上がるしかないだろう。
アズウェルが思案に暮れている間に、男は姿を消していた。
「あり? やっべ。見失った? ……とりあえずあれ登ってみるか」
アズウェルは物陰から飛び出すと、石段を一段飛ばしながら駆けていく。
「うっへ~。この階段きっついなぁ。……お? なんだこれ?」
石段を登り切ったアズウェルの目に飛び込んできたのは、朱色の門。
アズウェルは悠然と構える門を見上げた。幼い頃、写真を通して目にしたものと一致する。
「これが、鳥居ってヤツか……」
左右二本の柱の上に笠木が渡してある。その下に左右の柱を連結させる貫[ があった。
一歩門の中へを足を入れる。
刹那、強い風が吹いた。思わずアズウェルは目を閉じる。
アズウェルが瞼を上げた時、其処には美しい光景が広がっていた。
桜吹雪が舞っている。その花弁はひらひらと移ろい、水面[ へと腰を下ろす。
「水切りって知っているか?」
若い男が二人の子供に問うた。
「水切り……?」
「おれ知ってる! 石を水面に投げるヤツだろ?」
「あぁ、そうだ。こうやって……」
少年に頷[ くと、男は足下にある小石を拾って池へ投じる。その石は鮮やかに水の上を飛び跳ねていった。
「わぁ。兄[ さま、上手!」
少女が手を叩きながら、男を見上げる。
「おれだってできるやぃ! せーのっ!」
威勢の良い少年が、男の真似をして石を投げた。ぱしゃ、ぱしゃ、と小石が水上を駆けていく。
「上手いじゃないか、アキラ」
男に頭を優しく撫でられた少年は、嬉しそうに微笑んだ。
「兄さま、私にも教えて」
「あぁ、もちろんだ」
少女に袴の裾を引かれた男が、しゃがみ込んで彼女と目線の高さを合わせる。
「いいか? これくらいの角度で水面に向かって投げる」
少女の腕を支えながら、男は水面を指差す。
「上から投げちゃだめだぞ。横からこう……空気を大きく掬[ うようにして投げるんだ」
こくりと頷いた少女が、小石を拾い上げ、ぎこちない動きで投げ込む。
「こう……かな?」
だが、彼女の小石は、ぽちゃん、と沈んでしまった。
「う~ん……上手くできないよぉ」
「へへっ、おれのが上手いな。そ~れ!」
水面を下から撫で上げるように、少年の小石が跳ねていく。
「よっしゃ、五段跳ねたぜ!」
得意げに拳を握り締める少年を、少女が半眼で睨みつける。
「ホント、おっまえ不器用だよなぁ」
「う、うるさいわね」
負けじと石を投げてみるが、やはり一度も跳ねずに沈んでしまう。
少女はしょうんぼりと頭[ を垂れた。
「どうして私だけできないのかなぁ……」
「練習してみればいい。ミズナは努力家だからきっとできるようになるだろう」
「兄さま、本当?」
「あぁ」
その言葉に顔を輝かせて、彼女は石を探す。
「ほ~らよ。これで投げてみれば? ま、おまえにはできねぇと思うけどなぁ~」
少年が意地悪な笑みを浮かべて、少女の足元に小石を放り投げた。
その石は平らな円形をしている。まるで小さな円盤のようだ。
「な、なによ……アキラの助けなんかなくたって自分で探すもん」
頬を膨らませて、少女は少年から顔を背けた。
「ミズナ。その石で投げてみるといい」
男が少年の投げた石を指差す。
「ほらほら。リュウ兄[ もそう言ってるぜ?」
「……やってみる」
やや不服そうだが、少女はその小石を拾った。
深呼吸をして、腕を振るう。彼女の手を離れた小石が、軽やかに踊っていった。
「跳ねた! 兄さま、跳ねたよ!」
「あぁ、跳ねたな」
「おれの選んだ石がよかったんだよな」
頭の上で両手を組んだ少年が、にんまりと笑う。
「……投げ方が上手かったのよ」
少女は腕を組んで少年を一瞥する。
二人の強情さに呆れたように、男が額に手を当てて嘆息した。
くるりと少女に背を向けた少年が、独り言のように呟く。
「んま、さ。おまえにしちゃぁ、三段は上出来なんじゃね?」
その言葉に少女は少し頬を赤らめて、「ありがと」と囁[ いた。
三人を包み込むように、止めどなく桜吹雪が降り注ぐ。
彼が揃って後方に佇む大きな桜の木を振り返った。
その姿を見て、神社の入り口で静観していたアズウェルが、目を見開く。
「あれ……あの顔……」
何処かで会ったことがあるような気がした。
風が石段を駆け上り、無数の花弁を空へと送った。
「あ、あれ?」
気がつくと、アズウェルは鳥居の下に立っていた。
先刻まで見えていた桜も、三人の姿も何処にも見えない。
数歩奥へと足を踏み入れる。左手に池が見えた。
「この池……さっき見えてたヤツだ」
水面にゆっくりと月が映る。見上げると月が雲の影から顔を出していた。
神社の中に月の光が差し込む。その灯りを頼りに、アズウェルは池を観察した。
大きな石で囲まれた池。その水の源は、小さな滝だった。池の奥を見ると、人二人分ほどの高さから水が落ちている。不思議なことに、水が落ちてきても池全体に波紋は広がっていなかった。
「滝から水が出てるんだったら溢れると思うんだけど……」
池の水かさは少しも変わらない。
「池の底にでも穴空いてんのか?」
「そうだ」
低い声が答える。
びくりとしてアズウェルは背後を振り向いた。
「何故お前がここにいる……」
「え、いや……おまえを見かけたから……てか、おまえこそ何でいるんだよ、ルーティング」
アズウェルが追いかけていた男。それはエンプロイで別れたルーティングだった。
「用事がある。それだけだ」
そう言うと、ルーティングは歩き出した。
「あ、おい、待てよ」
アズウェルがそれを追う。
「なぁ、おまえさっき桜見なかった?」
「桜の木ならずっとそこにあるだろう」
ルーティングが怪訝そうな顔をして、池とは反対側を向く。
大きな木が一本立っていた。美しい深緑の葉を風に預けて揺らしている。
「あれ桜なの? おれが見たのはピンク色したヤツだぜ?」
「それは春のものだろう。今は夏だ。桜の花が咲いているわけがない」
「でも見たんだよ、さっき。それと子供二人と男一人。その池で水切りしてたんだ」
アズウェルが池の方を向く。
その背中を、ルーティングは愕然と見つめていた。
何故、彼が〝あの時〟を見たと言うのか。神木が、彼に幻影を見せたのだろうか。
「その子供アキラって言ってたなぁ。同じ名前のヤツがいるのかな」
返す言葉は、ない。
「あと、ミズナって子と、そいつの兄ちゃんっぽい男がいたぜ? おまえホントに見てない?」
「……見ていない」
ルーティングの右目が僅かに揺れた。
アズウェルはルーティングの動揺に気がつかない。些細な表情の変化を、夜の暗さが覆い隠していた。
「……ついてこい」
再び歩き出したルーティングが、滝の前で足を止めた。
「少し濡れるぞ」
「へ?」
アズウェルが聞き返すが、それには答えずルーティングは滝の中へと姿を消す。
「え……? この向こう行けんのか?」
濡れるのは嫌だ。だが、ついてこいとも言われた。
一瞬躊躇[ したが、アズウェルは思い切って滝に突っ込む。
その先には、ルーティングが不服そうに仁王立ちしていた。
「……遅い」
そんなに待たせてはいないというのに。
「濡れるの、嫌いなんだよ……」
溜息混じりに言い返し、ぐるりと首を回[ らせた。
水音が反響している此処は、小さな洞窟のようだった。振り返ると、入り口には水のカーテンが掛かっている。
「おまえ……何でここにこれがあるって知ってたんだ?」
「じきにわかる」
身を翻し、ルーティングは真っ直ぐ進んでいく。
「あ、待てってば!」
慌てて駆け出すと、ぱしゃ、と飛沫が跳ね、アズウェルの足を濡らした。そのことにやや顔を顰[ めて、できるだけ跳ねないよう徒歩に切り替える。
暫[ く足を進めていくと、奥に淡い光が見えた。
「お? 出口……?」
一本道の通路ではあったものの、やけに長く感じた。
「ここは、スワロウ族が修行をする道場だ」
ルーティングの視線の先には、大きな建物がある。族長の屋敷より大きかった。
「ここでマツザワ修行してたのか……」
アズウェルは道場の方へ走り出す。何故か自然と足が動いたのだ。
道場の中はがらんとしていた。
奥に掛け軸が三本あり、それぞれ〝仁〟、〝義〟、〝体〟と達筆な文字が記されている。
スワロウ族固有の文字が読めないアズウェルは、ただぼんやりと眺めていた。
「アズウェル……か?」
「へ?」
突然背後から投げられた威厳のある声に、アズウェルは驚いて振り返る。
困惑した表情の族長が立っていた。
「何故……そなたが此処に……」
「俺が連れてきたんだ」
族長の問いに答えたのはルーティングだった。
「その声は……まさか……!」
顧みた族長の目が、哀しみを帯びて見開かれた。
「久しぶりだな。父上」
「え、な……どういうことだよ、ルーティング!?」
アズウェルがルーティングを凝視する。
ルーティングの言葉を裏付けるように、族長が震える声で呟いた。
「……リュウジ」
風が、鳴いた。
足音を立てないよう慎重に進んでいく。
早足で歩いていた男が、ふいに足を止めた。
慌ててアズウェルは物陰に隠れる。
男の眼前には高い崖を両断するように、石段が延々と続いている。その石段の先を彼は静かに見つめていた。
何か
その先には、一体何があるのだろうか。
アズウェルは物陰からじっと彼の様子を見つめていた。
後を追うにしても一本道。石段に隠れる場所は見当たらない。彼が登り切ったら、一気に駆け上がるしかないだろう。
アズウェルが思案に暮れている間に、男は姿を消していた。
「あり? やっべ。見失った? ……とりあえずあれ登ってみるか」
アズウェルは物陰から飛び出すと、石段を一段飛ばしながら駆けていく。
「うっへ~。この階段きっついなぁ。……お? なんだこれ?」
石段を登り切ったアズウェルの目に飛び込んできたのは、朱色の門。
アズウェルは悠然と構える門を見上げた。幼い頃、写真を通して目にしたものと一致する。
「これが、鳥居ってヤツか……」
左右二本の柱の上に笠木が渡してある。その下に左右の柱を連結させる
一歩門の中へを足を入れる。
刹那、強い風が吹いた。思わずアズウェルは目を閉じる。
アズウェルが瞼を上げた時、其処には美しい光景が広がっていた。
桜吹雪が舞っている。その花弁はひらひらと移ろい、
「水切りって知っているか?」
若い男が二人の子供に問うた。
「水切り……?」
「おれ知ってる! 石を水面に投げるヤツだろ?」
「あぁ、そうだ。こうやって……」
少年に
「わぁ。
少女が手を叩きながら、男を見上げる。
「おれだってできるやぃ! せーのっ!」
威勢の良い少年が、男の真似をして石を投げた。ぱしゃ、ぱしゃ、と小石が水上を駆けていく。
「上手いじゃないか、アキラ」
男に頭を優しく撫でられた少年は、嬉しそうに微笑んだ。
「兄さま、私にも教えて」
「あぁ、もちろんだ」
少女に袴の裾を引かれた男が、しゃがみ込んで彼女と目線の高さを合わせる。
「いいか? これくらいの角度で水面に向かって投げる」
少女の腕を支えながら、男は水面を指差す。
「上から投げちゃだめだぞ。横からこう……空気を大きく
こくりと頷いた少女が、小石を拾い上げ、ぎこちない動きで投げ込む。
「こう……かな?」
だが、彼女の小石は、ぽちゃん、と沈んでしまった。
「う~ん……上手くできないよぉ」
「へへっ、おれのが上手いな。そ~れ!」
水面を下から撫で上げるように、少年の小石が跳ねていく。
「よっしゃ、五段跳ねたぜ!」
得意げに拳を握り締める少年を、少女が半眼で睨みつける。
「ホント、おっまえ不器用だよなぁ」
「う、うるさいわね」
負けじと石を投げてみるが、やはり一度も跳ねずに沈んでしまう。
少女はしょうんぼりと
「どうして私だけできないのかなぁ……」
「練習してみればいい。ミズナは努力家だからきっとできるようになるだろう」
「兄さま、本当?」
「あぁ」
その言葉に顔を輝かせて、彼女は石を探す。
「ほ~らよ。これで投げてみれば? ま、おまえにはできねぇと思うけどなぁ~」
少年が意地悪な笑みを浮かべて、少女の足元に小石を放り投げた。
その石は平らな円形をしている。まるで小さな円盤のようだ。
「な、なによ……アキラの助けなんかなくたって自分で探すもん」
頬を膨らませて、少女は少年から顔を背けた。
「ミズナ。その石で投げてみるといい」
男が少年の投げた石を指差す。
「ほらほら。リュウ
「……やってみる」
やや不服そうだが、少女はその小石を拾った。
深呼吸をして、腕を振るう。彼女の手を離れた小石が、軽やかに踊っていった。
「跳ねた! 兄さま、跳ねたよ!」
「あぁ、跳ねたな」
「おれの選んだ石がよかったんだよな」
頭の上で両手を組んだ少年が、にんまりと笑う。
「……投げ方が上手かったのよ」
少女は腕を組んで少年を一瞥する。
二人の強情さに呆れたように、男が額に手を当てて嘆息した。
くるりと少女に背を向けた少年が、独り言のように呟く。
「んま、さ。おまえにしちゃぁ、三段は上出来なんじゃね?」
その言葉に少女は少し頬を赤らめて、「ありがと」と
三人を包み込むように、止めどなく桜吹雪が降り注ぐ。
彼が揃って後方に佇む大きな桜の木を振り返った。
その姿を見て、神社の入り口で静観していたアズウェルが、目を見開く。
「あれ……あの顔……」
何処かで会ったことがあるような気がした。
風が石段を駆け上り、無数の花弁を空へと送った。
「あ、あれ?」
気がつくと、アズウェルは鳥居の下に立っていた。
先刻まで見えていた桜も、三人の姿も何処にも見えない。
数歩奥へと足を踏み入れる。左手に池が見えた。
「この池……さっき見えてたヤツだ」
水面にゆっくりと月が映る。見上げると月が雲の影から顔を出していた。
神社の中に月の光が差し込む。その灯りを頼りに、アズウェルは池を観察した。
大きな石で囲まれた池。その水の源は、小さな滝だった。池の奥を見ると、人二人分ほどの高さから水が落ちている。不思議なことに、水が落ちてきても池全体に波紋は広がっていなかった。
「滝から水が出てるんだったら溢れると思うんだけど……」
池の水かさは少しも変わらない。
「池の底にでも穴空いてんのか?」
「そうだ」
低い声が答える。
びくりとしてアズウェルは背後を振り向いた。
「何故お前がここにいる……」
「え、いや……おまえを見かけたから……てか、おまえこそ何でいるんだよ、ルーティング」
アズウェルが追いかけていた男。それはエンプロイで別れたルーティングだった。
「用事がある。それだけだ」
そう言うと、ルーティングは歩き出した。
「あ、おい、待てよ」
アズウェルがそれを追う。
「なぁ、おまえさっき桜見なかった?」
「桜の木ならずっとそこにあるだろう」
ルーティングが怪訝そうな顔をして、池とは反対側を向く。
大きな木が一本立っていた。美しい深緑の葉を風に預けて揺らしている。
「あれ桜なの? おれが見たのはピンク色したヤツだぜ?」
「それは春のものだろう。今は夏だ。桜の花が咲いているわけがない」
「でも見たんだよ、さっき。それと子供二人と男一人。その池で水切りしてたんだ」
アズウェルが池の方を向く。
その背中を、ルーティングは愕然と見つめていた。
何故、彼が〝あの時〟を見たと言うのか。神木が、彼に幻影を見せたのだろうか。
「その子供アキラって言ってたなぁ。同じ名前のヤツがいるのかな」
返す言葉は、ない。
「あと、ミズナって子と、そいつの兄ちゃんっぽい男がいたぜ? おまえホントに見てない?」
「……見ていない」
ルーティングの右目が僅かに揺れた。
アズウェルはルーティングの動揺に気がつかない。些細な表情の変化を、夜の暗さが覆い隠していた。
「……ついてこい」
再び歩き出したルーティングが、滝の前で足を止めた。
「少し濡れるぞ」
「へ?」
アズウェルが聞き返すが、それには答えずルーティングは滝の中へと姿を消す。
「え……? この向こう行けんのか?」
濡れるのは嫌だ。だが、ついてこいとも言われた。
一瞬
その先には、ルーティングが不服そうに仁王立ちしていた。
「……遅い」
そんなに待たせてはいないというのに。
「濡れるの、嫌いなんだよ……」
溜息混じりに言い返し、ぐるりと首を
水音が反響している此処は、小さな洞窟のようだった。振り返ると、入り口には水のカーテンが掛かっている。
「おまえ……何でここにこれがあるって知ってたんだ?」
「じきにわかる」
身を翻し、ルーティングは真っ直ぐ進んでいく。
「あ、待てってば!」
慌てて駆け出すと、ぱしゃ、と飛沫が跳ね、アズウェルの足を濡らした。そのことにやや顔を
「お? 出口……?」
一本道の通路ではあったものの、やけに長く感じた。
「ここは、スワロウ族が修行をする道場だ」
ルーティングの視線の先には、大きな建物がある。族長の屋敷より大きかった。
「ここでマツザワ修行してたのか……」
アズウェルは道場の方へ走り出す。何故か自然と足が動いたのだ。
道場の中はがらんとしていた。
奥に掛け軸が三本あり、それぞれ〝仁〟、〝義〟、〝体〟と達筆な文字が記されている。
スワロウ族固有の文字が読めないアズウェルは、ただぼんやりと眺めていた。
「アズウェル……か?」
「へ?」
突然背後から投げられた威厳のある声に、アズウェルは驚いて振り返る。
困惑した表情の族長が立っていた。
「何故……そなたが此処に……」
「俺が連れてきたんだ」
族長の問いに答えたのはルーティングだった。
「その声は……まさか……!」
顧みた族長の目が、哀しみを帯びて見開かれた。
「久しぶりだな。父上」
「え、な……どういうことだよ、ルーティング!?」
アズウェルがルーティングを凝視する。
ルーティングの言葉を裏付けるように、族長が震える声で呟いた。
「……リュウジ」
風が、鳴いた。
第14記 破る者
アズウェルはルーティングの言葉を思い出す。
この戦は、お前に全てが懸かっている
言われなくとも、絶対守り抜くと誓った。だが、急に「全て」と言われても。
戸惑が予知の邪魔をする。
「遅い!」
ルーティングの印[ が完成した。
風が雄叫びを上げて、アズウェルを吹き飛ばす。
がん、という音と共に、アズウェルは道場の壁に叩きつけられた。
「 ~っ! ……いってー」
「お前、真面目にやれ!!」
鋭利なルーティングの怒号が道場に反響する。
何度目の怒号なのか、数えるだけでうんざりだ。
「やってるよ……」
不満を顕[ にして、アズウェルはルーティングを睨み上げた。
「結果を出せなければ意味がない。時間がないんだ。感覚を研ぎ澄ませ」
「意図的に能力を使うなんて、天気予報くらいしかしたことねぇんだよ……」
「……」
緊張感のないアズウェルを、ルーティングは半ば呆れて見つめていた。
印、即ち魔術。それを破る術をたった一日で叩き込めというのだ。
相変わらず無理難題を押しつける主に、頭を抱える。
「予知能力を何でもいい、何か武器として考えてみろ」
「武器?」
「漠然としているものより、形をイメージできるものの方が扱い易い」
「なるほど、扱い易いモノのイメージかぁ」
数秒の後、アズウェルは大真面目に答える。
「じゃ、ディオウで」
「……は?」
「だから、扱い易いモノのイメージだろ?」
「……」
真面目にやれぇえええっ!!
空が朝焼けに染まる頃、ルーティングの怒号が高らかに響いた。
◇ ◇ ◇
「おい、起きろ、この馬鹿商人!!」
リアイリド家は早朝からディオウの罵声と怒声で賑やかだ。
「んぁ~……ディオウはん、寝込みを襲うなんてあんまりやないでっか~」
ディオウはアキラの胸元を前足で押さえつけていた。
今にも尖った爪が胸板に食い込みそうで恐ろしい。
「……重いっす」
「黙れ。おまえ、アズウェルをどこにやった!?」
「アズウェルはん? おらへんの?」
「あいつがこんなに朝早く起きれるわけがない。一体どこへ隠した!?」
相当お冠のようだ。下手に答えると殺されそうな勢いだった。
「ちょ、ちょっとディオウ! いくら起きたらアズウェルの姿がなかったからって何やってんの!?」
ラキィがぱたぱたと耳で飛びながら、アキラの寝室に入ってくる。
「ラキィはん、ユウには聞いたか?」
「ええ。聞いたわ。知らないって」
「あ~、そらおかしいで。朝おらんようになったならユウが見とるはずや。ユウは朝早いからな。ユウが見とらんなら、夜の間やろ」
「夜の間にどこへ隠した!?」
ディオウの押さえつける力が強くなる。
肺が圧迫されて呼吸が不規則になり、アキラの額に冷や汗が生じた。
「あぁ……あかんて、ディオウはん……ちょ、ちょっと」
「ディオウさん、ディオウさ……アキラさん!? 何してらっしゃるんですか、ディオウさん!!」
ひょっこりと襖の隙間から顔を出したユウは、アキラが半殺しにされている様子を見て顔を真っ青に染め上げた。
「アキラ、すまぬが邪魔するぞ」
事態が悪転していく中、落ち着いた声音がディオウの凶行に歯止めをかけた。
「……族長」
ディオウの力が徐々に弱まり、アキラはほっとして咳き込んだ。
流石にもう殺される心配はないだろう。
「朝からアズウェルの姿がない。どういうことだ?」
「これでアズウェルが勝手に散歩にでも行っていたらいい迷惑だわ」
ラキィの文句を聞いて、族長は微かに目を瞠[ った。
流石、というべきか、彼女の勘は鋭かった。半分、当たってはいる。
だが、朝になってもアズウェルが戻って来られなかったのは、本人のせいではなかった。
「アズウェルには少々修行をお願いした。明日の十時までには戻るだろう」
族長の脳裏に、昨夜の会話が鮮明に浮かんだ。
震える口が言葉を紡ぐ。
「……リュウジ……戻ってきてくれたのか」
リュウジと呼ばれた男は静かに視線を落とした。
「俺はもう……その名は捨てた。村を出たあの日から。俺の名はルアルティド・レジアだ」
ルアルティド・レジア。アズウェルが知っている名前。しかしそれは彼の本名ではなかった。
「たとえ……たとえ村を出て行っても、我が息子であることになんら変わりはない。お前の名は、リュウジ・コネクティードだ」
族長に昼間の気迫はなかった。震える声が孕[ むのは哀しみを織り混ぜた後悔だ。
「頼む……村へ、ワツキへ戻ってきてくれ」
懇願するように絞り出された言の葉を、ルーティングは迷うことなく断ち切った。
「俺は、戻らない。アキラにも、ミズ……マツザワにも会わない。あくまで俺は主の命でここに来た。村を出て、クロウ族になった俺が、貴様に従う筋合いはない」
迷いは、ないのだ。自分に迷いがあれば、この八年のアキラ、マツザワの想いが、自分の八年前の行動が、無に還る。
「俺は主の命でここに結界を張りに来ただけだ。この村は崖に囲まれている。崖の上から攻撃されれば打つ手がない。貴様に会いに来たのは、この印をマツザワ、アキラ、ショウゴに渡してもらう必要があるからだ」
文字通り、呆然となっている族長に、ルーティングは印を刻み込んだガラスを差し出す。
「……受け取れば戻ってくれるか?」
「それとこれは話が別だ。俺は命令でここに来ているだけだ。言う通りにしてくれ……いや、しなくてもいい。村が潰れても構わないならな」
族長は押し黙った。
知っていた。クロウ族になり、刀も名も捨てたことは。
だが、それを本人の口から滔々と述べられたとき、後悔の念に駆られた。
掟を覆してでも、追い出すべきではなかったのだ。
ルーティングは真っ直ぐに父を見つめている。
息子の視線から、逃げてはいけない。彼の決意が変わることは、もうないだろう。今はワツキを、民を守ることが先決。族長という立場である以上、私情に捕らわれてはならない。
「……受け取ろう」
堂々と印を受け取る。族長は本来の気迫を取り戻した。
「全部で四枚ある。この結界は族長、マツザワ、アキラ、ショウゴ、そしてこの俺で作る」
「私は構わない。ショウゴもよいだろう。しかし……」
ルーティングは族長の言わんとしてるところを察した。
問題はアキラとマツザワである。
「よりこの村を守る意志が強い者を選んだ。俺が張る結界の源はその想いだ。あの二人は誰よりも適任だろう」
「そうだ。だが、マツザワはともかく……アキラは今刀を抜くことすらできない」
八年前のあの悲劇は、アキラから刀技を奪った。無論、失ったものはそれだけれはない。悲劇は今も尚、それぞれの心に深い爪痕を残している。
「それは俺の知ったことじゃない。アキラ以外じゃ術は成り立たない。術者である俺、そして……」
固まっているアズウェルへ視線を移す。
「結界の核になるアズウェルの信頼がなければ」
「お……おれが、核……?」
自分の名を呼ばれ、漸[ く呪縛が解けたのか、アズウェルの言葉が音になった。
「別に難しい事じゃない。お前はただ、俺たち全員の力を感じていればいい。後は無意識にできるはずだ。それより、お前にはもう一つやることがある」
「やること?」
ルーティングは族長へ向き直ると静かに告げた。
「今から丸一日、アズウェルを預けていただきたい。俺はこいつに印の破り方を叩き込む。闇魔術[ に対抗するには、印破りができなければならない。俺とショウゴと族長……貴方だけでは力不足だ」
「……いいだろう。ディオウ殿の方には私から伝えておこう」
察しがいい。何より問題はそこだ。朝アズウェルの姿がなければ必ず騒ぎになる。
族長の言葉にルーティングは無言で頷いた。
「お、おれ、これからどうすんの?」
「時間は惜しい。今からこの道場で印破りを覚えろ。この戦は、お前に全てが懸かっている」
ルーティングの心配通り、族長の察した通り、リアイリド家では騒ぎになっていた。
危うくアキラが絞め殺されるところだったのだ。
「私が頼んだのだ。心配することはない」
「アズウェルはどこだ?」
ディオウはアキラから降り、族長を見据える。
「それは答えることはできない。誰一人として干渉することはならん」
「無理矢理アズウェルにやらせていないだろうな?」
「本人の意志だ。強くなりたい、守りたい、というな」
その言葉にディオウも口を閉ざした。
アズウェルの意志なら止める必要はない。むしろ、止めればアズウェルの気持ちを踏みにじることになる。
「……わかった。アキラ、疑って悪かった」
「ええよ、ええよ。いやぁ、しかし。ディオウはんお強いでんなぁ。ホンマ殺されるかと思うたわ」
けたけたと笑っているアキラに、族長が冷然と命[ を突き刺す。
「アキラ、後で我が家へ。玄鳥を持ってくるのだ」
アキラはその言葉に顔を強張らせた。血の気が引いていく。
ユウが心配そうにアキラを見つめている。
あのアキラが、全身をがたがたと震わせていた。
「族長さま、それはあまりに……!」
「待っておるぞ」
ユウの批難を遮り、族長はリアイリド家を後にした。
◇ ◇ ◇
「まだ遅い!!」
「くそっ!」
またアズウェルはルーティングの風に殴り飛ばされた。
「予知は大分追いついているはずだ。体が遅れている。数歩先を見据えて動け!」
再びルーティングが宙に印を描く。
印を破るにはいくつかの柱を崩せばいい。より、魔力が注入されている柱を切り崩せば。
「上と下っ……!」
アズウェルは小刀で印の上下を素早く斬り込む。
窓ガラスが割れるような音を立てて、印が破れる。ルーティングの詠唱が中断した。
「おっしゃ! 破れた!」
「ようやく一つ目か。これはまだまだ低級魔法だ。徐々に詠唱速度と魔法ランクを上げていくぞ」
「おう!!」
アズウェルの心にはルーティングの台詞が木霊している。
失いたくなければ、己の力で守り通してみろ
言われなくとも、絶対守り抜くと誓った。だが、急に「全て」と言われても。
戸惑が予知の邪魔をする。
「遅い!」
ルーティングの
風が雄叫びを上げて、アズウェルを吹き飛ばす。
がん、という音と共に、アズウェルは道場の壁に叩きつけられた。
「
「お前、真面目にやれ!!」
鋭利なルーティングの怒号が道場に反響する。
何度目の怒号なのか、数えるだけでうんざりだ。
「やってるよ……」
不満を
「結果を出せなければ意味がない。時間がないんだ。感覚を研ぎ澄ませ」
「意図的に能力を使うなんて、天気予報くらいしかしたことねぇんだよ……」
「……」
緊張感のないアズウェルを、ルーティングは半ば呆れて見つめていた。
印、即ち魔術。それを破る術をたった一日で叩き込めというのだ。
相変わらず無理難題を押しつける主に、頭を抱える。
「予知能力を何でもいい、何か武器として考えてみろ」
「武器?」
「漠然としているものより、形をイメージできるものの方が扱い易い」
「なるほど、扱い易いモノのイメージかぁ」
数秒の後、アズウェルは大真面目に答える。
「じゃ、ディオウで」
「……は?」
「だから、扱い易いモノのイメージだろ?」
「……」
空が朝焼けに染まる頃、ルーティングの怒号が高らかに響いた。
◇ ◇ ◇
「おい、起きろ、この馬鹿商人!!」
リアイリド家は早朝からディオウの罵声と怒声で賑やかだ。
「んぁ~……ディオウはん、寝込みを襲うなんてあんまりやないでっか~」
ディオウはアキラの胸元を前足で押さえつけていた。
今にも尖った爪が胸板に食い込みそうで恐ろしい。
「……重いっす」
「黙れ。おまえ、アズウェルをどこにやった!?」
「アズウェルはん? おらへんの?」
「あいつがこんなに朝早く起きれるわけがない。一体どこへ隠した!?」
相当お冠のようだ。下手に答えると殺されそうな勢いだった。
「ちょ、ちょっとディオウ! いくら起きたらアズウェルの姿がなかったからって何やってんの!?」
ラキィがぱたぱたと耳で飛びながら、アキラの寝室に入ってくる。
「ラキィはん、ユウには聞いたか?」
「ええ。聞いたわ。知らないって」
「あ~、そらおかしいで。朝おらんようになったならユウが見とるはずや。ユウは朝早いからな。ユウが見とらんなら、夜の間やろ」
「夜の間にどこへ隠した!?」
ディオウの押さえつける力が強くなる。
肺が圧迫されて呼吸が不規則になり、アキラの額に冷や汗が生じた。
「あぁ……あかんて、ディオウはん……ちょ、ちょっと」
「ディオウさん、ディオウさ……アキラさん!? 何してらっしゃるんですか、ディオウさん!!」
ひょっこりと襖の隙間から顔を出したユウは、アキラが半殺しにされている様子を見て顔を真っ青に染め上げた。
「アキラ、すまぬが邪魔するぞ」
事態が悪転していく中、落ち着いた声音がディオウの凶行に歯止めをかけた。
「……族長」
ディオウの力が徐々に弱まり、アキラはほっとして咳き込んだ。
流石にもう殺される心配はないだろう。
「朝からアズウェルの姿がない。どういうことだ?」
「これでアズウェルが勝手に散歩にでも行っていたらいい迷惑だわ」
ラキィの文句を聞いて、族長は微かに目を
流石、というべきか、彼女の勘は鋭かった。半分、当たってはいる。
だが、朝になってもアズウェルが戻って来られなかったのは、本人のせいではなかった。
「アズウェルには少々修行をお願いした。明日の十時までには戻るだろう」
族長の脳裏に、昨夜の会話が鮮明に浮かんだ。
震える口が言葉を紡ぐ。
「……リュウジ……戻ってきてくれたのか」
リュウジと呼ばれた男は静かに視線を落とした。
「俺はもう……その名は捨てた。村を出たあの日から。俺の名はルアルティド・レジアだ」
ルアルティド・レジア。アズウェルが知っている名前。しかしそれは彼の本名ではなかった。
「たとえ……たとえ村を出て行っても、我が息子であることになんら変わりはない。お前の名は、リュウジ・コネクティードだ」
族長に昼間の気迫はなかった。震える声が
「頼む……村へ、ワツキへ戻ってきてくれ」
懇願するように絞り出された言の葉を、ルーティングは迷うことなく断ち切った。
「俺は、戻らない。アキラにも、ミズ……マツザワにも会わない。あくまで俺は主の命でここに来た。村を出て、クロウ族になった俺が、貴様に従う筋合いはない」
迷いは、ないのだ。自分に迷いがあれば、この八年のアキラ、マツザワの想いが、自分の八年前の行動が、無に還る。
「俺は主の命でここに結界を張りに来ただけだ。この村は崖に囲まれている。崖の上から攻撃されれば打つ手がない。貴様に会いに来たのは、この印をマツザワ、アキラ、ショウゴに渡してもらう必要があるからだ」
文字通り、呆然となっている族長に、ルーティングは印を刻み込んだガラスを差し出す。
「……受け取れば戻ってくれるか?」
「それとこれは話が別だ。俺は命令でここに来ているだけだ。言う通りにしてくれ……いや、しなくてもいい。村が潰れても構わないならな」
族長は押し黙った。
知っていた。クロウ族になり、刀も名も捨てたことは。
だが、それを本人の口から滔々と述べられたとき、後悔の念に駆られた。
掟を覆してでも、追い出すべきではなかったのだ。
ルーティングは真っ直ぐに父を見つめている。
息子の視線から、逃げてはいけない。彼の決意が変わることは、もうないだろう。今はワツキを、民を守ることが先決。族長という立場である以上、私情に捕らわれてはならない。
「……受け取ろう」
堂々と印を受け取る。族長は本来の気迫を取り戻した。
「全部で四枚ある。この結界は族長、マツザワ、アキラ、ショウゴ、そしてこの俺で作る」
「私は構わない。ショウゴもよいだろう。しかし……」
ルーティングは族長の言わんとしてるところを察した。
問題はアキラとマツザワである。
「よりこの村を守る意志が強い者を選んだ。俺が張る結界の源はその想いだ。あの二人は誰よりも適任だろう」
「そうだ。だが、マツザワはともかく……アキラは今刀を抜くことすらできない」
八年前のあの悲劇は、アキラから刀技を奪った。無論、失ったものはそれだけれはない。悲劇は今も尚、それぞれの心に深い爪痕を残している。
「それは俺の知ったことじゃない。アキラ以外じゃ術は成り立たない。術者である俺、そして……」
固まっているアズウェルへ視線を移す。
「結界の核になるアズウェルの信頼がなければ」
「お……おれが、核……?」
自分の名を呼ばれ、
「別に難しい事じゃない。お前はただ、俺たち全員の力を感じていればいい。後は無意識にできるはずだ。それより、お前にはもう一つやることがある」
「やること?」
ルーティングは族長へ向き直ると静かに告げた。
「今から丸一日、アズウェルを預けていただきたい。俺はこいつに印の破り方を叩き込む。
「……いいだろう。ディオウ殿の方には私から伝えておこう」
察しがいい。何より問題はそこだ。朝アズウェルの姿がなければ必ず騒ぎになる。
族長の言葉にルーティングは無言で頷いた。
「お、おれ、これからどうすんの?」
「時間は惜しい。今からこの道場で印破りを覚えろ。この戦は、お前に全てが懸かっている」
ルーティングの心配通り、族長の察した通り、リアイリド家では騒ぎになっていた。
危うくアキラが絞め殺されるところだったのだ。
「私が頼んだのだ。心配することはない」
「アズウェルはどこだ?」
ディオウはアキラから降り、族長を見据える。
「それは答えることはできない。誰一人として干渉することはならん」
「無理矢理アズウェルにやらせていないだろうな?」
「本人の意志だ。強くなりたい、守りたい、というな」
その言葉にディオウも口を閉ざした。
アズウェルの意志なら止める必要はない。むしろ、止めればアズウェルの気持ちを踏みにじることになる。
「……わかった。アキラ、疑って悪かった」
「ええよ、ええよ。いやぁ、しかし。ディオウはんお強いでんなぁ。ホンマ殺されるかと思うたわ」
けたけたと笑っているアキラに、族長が冷然と
「アキラ、後で我が家へ。玄鳥を持ってくるのだ」
アキラはその言葉に顔を強張らせた。血の気が引いていく。
ユウが心配そうにアキラを見つめている。
あのアキラが、全身をがたがたと震わせていた。
「族長さま、それはあまりに……!」
「待っておるぞ」
ユウの批難を遮り、族長はリアイリド家を後にした。
◇ ◇ ◇
「まだ遅い!!」
「くそっ!」
またアズウェルはルーティングの風に殴り飛ばされた。
「予知は大分追いついているはずだ。体が遅れている。数歩先を見据えて動け!」
再びルーティングが宙に印を描く。
印を破るにはいくつかの柱を崩せばいい。より、魔力が注入されている柱を切り崩せば。
「上と下っ……!」
アズウェルは小刀で印の上下を素早く斬り込む。
窓ガラスが割れるような音を立てて、印が破れる。ルーティングの詠唱が中断した。
「おっしゃ! 破れた!」
「ようやく一つ目か。これはまだまだ低級魔法だ。徐々に詠唱速度と魔法ランクを上げていくぞ」
「おう!!」
アズウェルの心にはルーティングの台詞が木霊している。
第15記 対
暗闇に包まれた蔵で、一人佇む者がいた。
「……ごめんな。おれ……おれはまだ……」
絞り出す感情はとても微弱で音にならない。
ただただ、「ごめん」と繰り返す若者の背は、いつもより小さく見えた。
◇ ◇ ◇
「これを、アズウェルさんと指導者さんにお願いします」
「あいよー、オレっちに任せとけぇー」
ユウは手作りの弁当をショウゴに渡した。
「あの、ところで……」
「ん~?」
思い切ってユウは疑問をぶつける。
「アズウェルさんを指導しているのは一体どなたなのですか?」
族長でもない。そして、その右腕であるショウゴでもない。
ワツキで腕の立つ者といえば、次はマツザワである。しかし、マツザワもアズウェルの修行は初耳だと言っていた。
「あー、それはオレっちも知らんなー」
「え、ショウゴさんも知らないのですか!?」
「何かサァー。ぞくちょーしか知らん人っぽいよー」
ショウゴはけろりとして答えた。
実際、知ってはいるのだが、箝口令敷かれてる身で教えることはできない。
「そうですか……」
頷いたものの、ユウはやや腑に落ちなかった。だが、ショウゴが言わないということは、マツザワすら知らされていないに等しい。次期族長が知らないことを、たかが治療師に教えるはずもない。
「そんじゃ、オレっちぞくちょーんとこ行ってくるサァー」
「あ、はい! 宜しく御願い致します」
丁寧にお辞儀をして、ユウはショウゴを見送った。
◇ ◇ ◇
男が一人、ふらふらと道場へやって来た。
さんばら髪に袴姿。腰に蒼の刀を帯びて、背には紅い刀を背負っていた。
「ふぅん。あれがアズウェルかぁー」
普段静まり返っているワツキの道場は、何年かぶりに賑やかな声がしている。
「ちょっち、お手並み拝見といっきますかねー」
男は道場の中が見えるところで足を止め、その場にどかりと座り込んだ。
「ウィンド・クロウ!」
鋭利な風の爪がアズウェルを襲った。
「げ!?」
咄嗟に小刀を横に寝かし、両手でそれを前へ突き出す。
その風は斬撃。きぃん、と高い音が道場に響いた。
「お、おい、ルーティング、おれ印の柱全部切ったぞ?」
「中位魔法以上はただ闇雲に印を崩してもだめだ。切り崩す順を間違えれば魔法が発動する」
「じゅ……順番……」
そんなこと、わかるものなのだろうか。
アズウェルは困ったように左手で頭を掻いた。
「もう一度同じ魔法を唱える。よく見てみろ。順序が必要とわかっていれば見えるかもしれんぞ」
「おう」
噛み切った右手の血で、ルーティングは印を宙に描く。
左手を上げた瞬間、その印がエメラルドグリーンの光を纏[ った。
印とルーティングの動きに集中しながら、予知能力を起動する。
アズウェルの瞳に文字が浮かんできた。だが、その字が何を示すのかわからない。印の末端から次々と現れる文字は、アズウェルが知るものではなかった。
「あ……!」
光った。仄かなエメラルドグリーンの光を帯びていた文字が、金色[ の色に輝いたのだ。一度に全てが輝くわけではなく、一文字一文字徐々に色を変えてゆく。
順番とは、このことなのかもしれない。
アズウェルはルーティングの懐に飛び込むと、色が変化した順に印を斬り裂いていく。
当然、アズウェルが視ているは〝これから変わる文字〟であり、実際にまだ全ての文字が淡い緑のままだった。
「一、二、三、四……八! これでラストのはず!」
残りの一文字を左上から斬り下ろす。
ガラスが割れるように、印は砕け散った。
「よっしゃぁ!」
アズウェルが拳を突き上げた時、別の拳が頭に落下した。
「いっ……! 何すんだよ、ルーティング! 印は破れたじゃねぇか!」
「甘い。実践が全て詠唱だと思うか? 気を抜くのが早い」
「う……」
正論を言われて、アズウェルは言葉を詰まらせた。
敵が必ず印を作るとは限らない。印を作り、仮に破れたとしても、当然相手は次の行動に出る。
「一つ破れたからと言って慢心するな。……そうだな、お前は基本的に考えが甘い。体で覚えた方がいいだろう」
そう言うと、ルーティングは先程と同様の詠唱を開始する。
「何だ? さっきと同じやつ?」
一つの印は、一つの破り方と対[ になっている。つまり、同じ詠唱をした場合は、同じ破り方をすれば良いのだ。
アズウェルは予知を働かせることもなく、さくさくと斬っていく。
破れたと思った直後、アズウェルの瞳に別の印が映った。
「げ!?」
予知起動。
その印もウィンド・クロウと同じように、印が文字に変わる中位魔法だった。しかし、ウィンド・クロウではない。印が纏う色は冷ややかな空色。やがて空色は金色へと色を変える。
順に斬り落としていくが、予知が遅れた分、ルーティングの詠唱が勝った。
「……グラシカル・ブレード」
アズウェルに氷の刃が五本降ってきた。
「うお!?」
避ける。避ける。薙ぎ払う。叩き落とす。最後は 間に合わない。
その刃を避けようとした時、アズウェルはバランスを崩し尻餅をついた。
「あ……あっぶねぇ……」
氷の刃はアズウェルの両足の間に着地していた。
もう少し横に倒れ込んでいたら、足が刺されていたのではないだろうか。ひやりと冷たいものが背筋を滑る。
「道場に傷を付けたな……」
ルーティングがアズウェルを睨むように見下ろす。
「お前の術の選定が悪かったんだろっ」
「最初から予知していないお前が悪い。今やったのは二重詠唱だ。多重詠唱は術者の力によって、いくらでも重ねることができる。二枚程度破れないようでは、とても闇魔術[ など破れんぞ」
「抜き打ちなんてせこいじゃんかよ……」
そう言いながらも、実践ならば相手の手の内など全くわからないのだから、全力で臨んでいなかった自分が悪いのだろう。
両肩を落として俯[ いているアズウェルから道場の外へと、ルーティングは視線を移す。
昼時だろうか。陽は真上に昇っていた。
間に合うのだろうか。だが、選択肢にあるは間に合わせるの一択だけだ。
「はぁー……腹減ったぁ~」
アズウェルは大の字に寝転がる。
その様子を見て、ルーティングは小さく嘆息した。
確かに空腹だ。何せ、あれからずっと修行をしているのだから、当然朝飯など食べていない。
「立て。二重詠唱を終えたら休憩を取る」
「おう!!」
威勢良く、アズウェルは飛び起きた。と、その時。
「たっちゃぁ~ん」
道場に緊張感のない声が響いた。
「……ウィンド・クロウ」
「おおっと」
無詠唱で発動した魔法を、鮮やかに刀で受け流す男がいる。さんばら髪に似合わず、その刀捌きは柔らかく、華麗だった。
「おれ吹っ飛ばされたのに……」
アズウェルが呆然と呟く。
「力の流れる方向を捉えれば、こ~んくらいちょちょいのちょいよー」
「何しに来た。ショウゴ」
得意げに笑うショウゴに、容赦なくルーティングは無詠唱の術を差し向ける。
それを軽やかに受け流しながらショウゴは言った。
「まさでいーじゃん、たっちゃぁん」
「その呼び方はやめろ」
「えー。えー。せぇっかく昼飯届けに来てやったのにサァー」
左手の弁当を持ち上げてアピールする。
ルーティングは僅かに目を細めると魔法を止めた。
「俺はもう龍司[ という名は捨てたんだ」
くるりと背を向ける親友に、ショウゴはただ笑っていた。
「あはー。そんなん関係ないってーのー。あだ名は名前なんかにゃ関係しないっすよー。見た目でウニとかもありだしねー」
「……さっさと昼飯を渡せ」
きょとんと目を見開いて、それからショウゴは悪戯[ にほくそ笑む。
「まさって呼んだらあげるー」
「……」
二人のやり取りを黙って見つめていたアズウェルだが、空腹に耐えきれず口を挟んだ。
「まささーん、おれの分ありますか?」
「ん、ん~? キミがアズウェルー?」
「そうです。アズウェル・クランスティって言います」
「ほーほー、クリスちゃんねー。よろしくー」
ぶち、と何かが切れる音がした。
アズウェルの目が怪しく光っている。
「その呼び方、やめてもらえますか?」
ショウゴは変な呼び名を付けるのが趣味だが、クリスというのはミステイクだったようだ。アズウェルにとってあまり良い思い出がない。彼は渋面を作って「おれは男だ……」と呟いていた。
「おやや。たっちゃん、オレっちまずいとこ踏んじまったー?」
「知らん。相変わらずおふざけ度は満点だな」
半眼で睨むと、ルーティングはショウゴの手から弁当を奪い取る。
「おい、小僧。五分で食え」
アズウェルに半分投げ渡すと、ルーティングは再びショウゴに背を向け、弁当を食べ始めた。
「たっちゃんも相変わらずお堅いねー。あのねー、あのねー。たっちゃんにはもう一つお届け物がありましてー」
振り向きもしないルーティングを気にした様子も見せず、ショウゴは背負っていた刀を下ろす。それをぽんとルーティングの肩に乗せた。
「……いらん。俺はもう刀は抜かない」
「そういうなよー。紅焔[ が可哀相だー。オレっちの蒼焔[ と対なんだしサァー」
ワツキに伝わる刀の中で、唯一二本で一対の存在である紅焔と蒼焔。対でなければ力を発揮しないというじゃじゃ馬の刀は、一本ずつではただの鈍[ ら刀に等しかった。だが、現在ワツキに二刀流を扱える者はいない。
眠っていたその刀を目覚めさせた二人は、幼馴染であると同時に性格が見事なまでに正反対だった。過去にも先にも、もう彼らのように一本ずつで扱える者など現れないだろう。
「せーっかく、オレっちも降ろせたのにぃー」
ショウゴは少し寂しそうな表情を浮かべた。
「とりあえず、持っててよー。受け取ってくんないと、オレっちがぞくちょーに怒られるー」
過去と寸分違わぬ口調に、癒されると共に心配になってくる。
一体いつまでそんな子供じみた喋[ り方をしているのか。
溜息をつくと、ショウゴが肩をぽんぽんと叩いている刀を受け取った。
「受け取る。代わりに、まさ。小僧に上位魔法の破り方を見せてくれ」
「おー? たっちゃん、上位も唱えちゃうのー?」
「エクストラまではできる」
ルーティングは立ち上がると道場の外へ行く。
「さぁーっすがぁ~」
ショウゴもルーティングの後に続いた。
「小僧、よく見ておけ」
ひたすら無言で弁当を頬張るアズウェルに、ルーティングが言った。
弁当を抱えたまま身体ごと二人に向けて、こくりとアズウェルは頷く。
「たっちゃぁ~ん。オレっちいつでもいーよー?」
蒼焔を両手で持って伸びをしているショウゴには、緊張感の欠片もない。
「……」
エクストラを叩き込みたい衝動を必死に抑え、宙に印を描いて、両手を胸の前で合わせる。
徐々に両手の間隔を離していくと、それに伴って印も拡大した。印の直径が、ルーティングの身長とほぼ等しくなる。
印が、深紅の輝きを帯びて回転を始めた。
「あー。あー。たっちゃんマジかー」
「降ろすのは、禁止だぞ」
「わーってるよー」
握っていた刀を鞘[ から抜く。その刃[ は蒼白かった。
「エクスプローション」
ルーティングが唱えるのと、ショウゴが印の中央を貫くのは同時。
一時[ 、その空間は完全な静寂に呑まれる。
突如鈴のような澄んだ音が響いたかと思うと、印はキラキラと輝く深紅の砂となって崩れ落ちた。
◇ ◇ ◇
アキラは刀を一本握りしめ、屋敷の門を叩く。
「族長。アキラ・リアイリド、参りました」
「……アキラ、族長は床の間がある部屋にいる」
アキラを迎えたのはマツザワだった。
名を呼ばれアキラは瞠目する。
「……すまない」
「あんさんが謝ることやないで」
顔を歪めて謝るマツザワに無理に笑顔を作ると、アキラは中へ入っていった。
廊下を摺[ り足で歩き、最奥の襖[ を開ける。
「玄鳥は持ってきたか」
「はい、この通り」
アキラは正座をして、刀を族長に差し出す。
「玄鳥の封印を開放する。明日の戦はこれを持て」
族長は刀を拘束している白い布を巻き取ってゆく。その布は細く、呪が施されていた。
「族長、お言葉ですが、おれは……」
「ただ持っていればよい。抜くか否かの判断は、そなたに任せる」
族長の声音はいつもより柔らかかった。
「……承知いたしました」
姿勢を正し片膝を付くと、アキラは族長に深々と頭を下げた。
チュビッチュルル
何処かで燕[ のさえずりが聞こえた気がした。
「……ごめんな。おれ……おれはまだ……」
絞り出す感情はとても微弱で音にならない。
ただただ、「ごめん」と繰り返す若者の背は、いつもより小さく見えた。
◇ ◇ ◇
「これを、アズウェルさんと指導者さんにお願いします」
「あいよー、オレっちに任せとけぇー」
ユウは手作りの弁当をショウゴに渡した。
「あの、ところで……」
「ん~?」
思い切ってユウは疑問をぶつける。
「アズウェルさんを指導しているのは一体どなたなのですか?」
族長でもない。そして、その右腕であるショウゴでもない。
ワツキで腕の立つ者といえば、次はマツザワである。しかし、マツザワもアズウェルの修行は初耳だと言っていた。
「あー、それはオレっちも知らんなー」
「え、ショウゴさんも知らないのですか!?」
「何かサァー。ぞくちょーしか知らん人っぽいよー」
ショウゴはけろりとして答えた。
実際、知ってはいるのだが、箝口令敷かれてる身で教えることはできない。
「そうですか……」
頷いたものの、ユウはやや腑に落ちなかった。だが、ショウゴが言わないということは、マツザワすら知らされていないに等しい。次期族長が知らないことを、たかが治療師に教えるはずもない。
「そんじゃ、オレっちぞくちょーんとこ行ってくるサァー」
「あ、はい! 宜しく御願い致します」
丁寧にお辞儀をして、ユウはショウゴを見送った。
◇ ◇ ◇
男が一人、ふらふらと道場へやって来た。
さんばら髪に袴姿。腰に蒼の刀を帯びて、背には紅い刀を背負っていた。
「ふぅん。あれがアズウェルかぁー」
普段静まり返っているワツキの道場は、何年かぶりに賑やかな声がしている。
「ちょっち、お手並み拝見といっきますかねー」
男は道場の中が見えるところで足を止め、その場にどかりと座り込んだ。
「ウィンド・クロウ!」
鋭利な風の爪がアズウェルを襲った。
「げ!?」
咄嗟に小刀を横に寝かし、両手でそれを前へ突き出す。
その風は斬撃。きぃん、と高い音が道場に響いた。
「お、おい、ルーティング、おれ印の柱全部切ったぞ?」
「中位魔法以上はただ闇雲に印を崩してもだめだ。切り崩す順を間違えれば魔法が発動する」
「じゅ……順番……」
そんなこと、わかるものなのだろうか。
アズウェルは困ったように左手で頭を掻いた。
「もう一度同じ魔法を唱える。よく見てみろ。順序が必要とわかっていれば見えるかもしれんぞ」
「おう」
噛み切った右手の血で、ルーティングは印を宙に描く。
左手を上げた瞬間、その印がエメラルドグリーンの光を
印とルーティングの動きに集中しながら、予知能力を起動する。
アズウェルの瞳に文字が浮かんできた。だが、その字が何を示すのかわからない。印の末端から次々と現れる文字は、アズウェルが知るものではなかった。
「あ……!」
光った。仄かなエメラルドグリーンの光を帯びていた文字が、
順番とは、このことなのかもしれない。
アズウェルはルーティングの懐に飛び込むと、色が変化した順に印を斬り裂いていく。
当然、アズウェルが視ているは〝これから変わる文字〟であり、実際にまだ全ての文字が淡い緑のままだった。
「一、二、三、四……八! これでラストのはず!」
残りの一文字を左上から斬り下ろす。
ガラスが割れるように、印は砕け散った。
「よっしゃぁ!」
アズウェルが拳を突き上げた時、別の拳が頭に落下した。
「いっ……! 何すんだよ、ルーティング! 印は破れたじゃねぇか!」
「甘い。実践が全て詠唱だと思うか? 気を抜くのが早い」
「う……」
正論を言われて、アズウェルは言葉を詰まらせた。
敵が必ず印を作るとは限らない。印を作り、仮に破れたとしても、当然相手は次の行動に出る。
「一つ破れたからと言って慢心するな。……そうだな、お前は基本的に考えが甘い。体で覚えた方がいいだろう」
そう言うと、ルーティングは先程と同様の詠唱を開始する。
「何だ? さっきと同じやつ?」
一つの印は、一つの破り方と
アズウェルは予知を働かせることもなく、さくさくと斬っていく。
破れたと思った直後、アズウェルの瞳に別の印が映った。
「げ!?」
予知起動。
その印もウィンド・クロウと同じように、印が文字に変わる中位魔法だった。しかし、ウィンド・クロウではない。印が纏う色は冷ややかな空色。やがて空色は金色へと色を変える。
順に斬り落としていくが、予知が遅れた分、ルーティングの詠唱が勝った。
「……グラシカル・ブレード」
アズウェルに氷の刃が五本降ってきた。
「うお!?」
避ける。避ける。薙ぎ払う。叩き落とす。最後は
その刃を避けようとした時、アズウェルはバランスを崩し尻餅をついた。
「あ……あっぶねぇ……」
氷の刃はアズウェルの両足の間に着地していた。
もう少し横に倒れ込んでいたら、足が刺されていたのではないだろうか。ひやりと冷たいものが背筋を滑る。
「道場に傷を付けたな……」
ルーティングがアズウェルを睨むように見下ろす。
「お前の術の選定が悪かったんだろっ」
「最初から予知していないお前が悪い。今やったのは二重詠唱だ。多重詠唱は術者の力によって、いくらでも重ねることができる。二枚程度破れないようでは、とても
「抜き打ちなんてせこいじゃんかよ……」
そう言いながらも、実践ならば相手の手の内など全くわからないのだから、全力で臨んでいなかった自分が悪いのだろう。
両肩を落として
昼時だろうか。陽は真上に昇っていた。
間に合うのだろうか。だが、選択肢にあるは間に合わせるの一択だけだ。
「はぁー……腹減ったぁ~」
アズウェルは大の字に寝転がる。
その様子を見て、ルーティングは小さく嘆息した。
確かに空腹だ。何せ、あれからずっと修行をしているのだから、当然朝飯など食べていない。
「立て。二重詠唱を終えたら休憩を取る」
「おう!!」
威勢良く、アズウェルは飛び起きた。と、その時。
「たっちゃぁ~ん」
道場に緊張感のない声が響いた。
「……ウィンド・クロウ」
「おおっと」
無詠唱で発動した魔法を、鮮やかに刀で受け流す男がいる。さんばら髪に似合わず、その刀捌きは柔らかく、華麗だった。
「おれ吹っ飛ばされたのに……」
アズウェルが呆然と呟く。
「力の流れる方向を捉えれば、こ~んくらいちょちょいのちょいよー」
「何しに来た。ショウゴ」
得意げに笑うショウゴに、容赦なくルーティングは無詠唱の術を差し向ける。
それを軽やかに受け流しながらショウゴは言った。
「まさでいーじゃん、たっちゃぁん」
「その呼び方はやめろ」
「えー。えー。せぇっかく昼飯届けに来てやったのにサァー」
左手の弁当を持ち上げてアピールする。
ルーティングは僅かに目を細めると魔法を止めた。
「俺はもう
くるりと背を向ける親友に、ショウゴはただ笑っていた。
「あはー。そんなん関係ないってーのー。あだ名は名前なんかにゃ関係しないっすよー。見た目でウニとかもありだしねー」
「……さっさと昼飯を渡せ」
きょとんと目を見開いて、それからショウゴは
「まさって呼んだらあげるー」
「……」
二人のやり取りを黙って見つめていたアズウェルだが、空腹に耐えきれず口を挟んだ。
「まささーん、おれの分ありますか?」
「ん、ん~? キミがアズウェルー?」
「そうです。アズウェル・クランスティって言います」
「ほーほー、クリスちゃんねー。よろしくー」
ぶち、と何かが切れる音がした。
アズウェルの目が怪しく光っている。
「その呼び方、やめてもらえますか?」
ショウゴは変な呼び名を付けるのが趣味だが、クリスというのはミステイクだったようだ。アズウェルにとってあまり良い思い出がない。彼は渋面を作って「おれは男だ……」と呟いていた。
「おやや。たっちゃん、オレっちまずいとこ踏んじまったー?」
「知らん。相変わらずおふざけ度は満点だな」
半眼で睨むと、ルーティングはショウゴの手から弁当を奪い取る。
「おい、小僧。五分で食え」
アズウェルに半分投げ渡すと、ルーティングは再びショウゴに背を向け、弁当を食べ始めた。
「たっちゃんも相変わらずお堅いねー。あのねー、あのねー。たっちゃんにはもう一つお届け物がありましてー」
振り向きもしないルーティングを気にした様子も見せず、ショウゴは背負っていた刀を下ろす。それをぽんとルーティングの肩に乗せた。
「……いらん。俺はもう刀は抜かない」
「そういうなよー。
ワツキに伝わる刀の中で、唯一二本で一対の存在である紅焔と蒼焔。対でなければ力を発揮しないというじゃじゃ馬の刀は、一本ずつではただの
眠っていたその刀を目覚めさせた二人は、幼馴染であると同時に性格が見事なまでに正反対だった。過去にも先にも、もう彼らのように一本ずつで扱える者など現れないだろう。
「せーっかく、オレっちも降ろせたのにぃー」
ショウゴは少し寂しそうな表情を浮かべた。
「とりあえず、持っててよー。受け取ってくんないと、オレっちがぞくちょーに怒られるー」
過去と寸分違わぬ口調に、癒されると共に心配になってくる。
一体いつまでそんな子供じみた
溜息をつくと、ショウゴが肩をぽんぽんと叩いている刀を受け取った。
「受け取る。代わりに、まさ。小僧に上位魔法の破り方を見せてくれ」
「おー? たっちゃん、上位も唱えちゃうのー?」
「エクストラまではできる」
ルーティングは立ち上がると道場の外へ行く。
「さぁーっすがぁ~」
ショウゴもルーティングの後に続いた。
「小僧、よく見ておけ」
ひたすら無言で弁当を頬張るアズウェルに、ルーティングが言った。
弁当を抱えたまま身体ごと二人に向けて、こくりとアズウェルは頷く。
「たっちゃぁ~ん。オレっちいつでもいーよー?」
蒼焔を両手で持って伸びをしているショウゴには、緊張感の欠片もない。
「……」
エクストラを叩き込みたい衝動を必死に抑え、宙に印を描いて、両手を胸の前で合わせる。
徐々に両手の間隔を離していくと、それに伴って印も拡大した。印の直径が、ルーティングの身長とほぼ等しくなる。
印が、深紅の輝きを帯びて回転を始めた。
「あー。あー。たっちゃんマジかー」
「降ろすのは、禁止だぞ」
「わーってるよー」
握っていた刀を
「エクスプローション」
ルーティングが唱えるのと、ショウゴが印の中央を貫くのは同時。
突如鈴のような澄んだ音が響いたかと思うと、印はキラキラと輝く深紅の砂となって崩れ落ちた。
◇ ◇ ◇
アキラは刀を一本握りしめ、屋敷の門を叩く。
「族長。アキラ・リアイリド、参りました」
「……アキラ、族長は床の間がある部屋にいる」
アキラを迎えたのはマツザワだった。
名を呼ばれアキラは瞠目する。
「……すまない」
「あんさんが謝ることやないで」
顔を歪めて謝るマツザワに無理に笑顔を作ると、アキラは中へ入っていった。
廊下を
「玄鳥は持ってきたか」
「はい、この通り」
アキラは正座をして、刀を族長に差し出す。
「玄鳥の封印を開放する。明日の戦はこれを持て」
族長は刀を拘束している白い布を巻き取ってゆく。その布は細く、呪が施されていた。
「族長、お言葉ですが、おれは……」
「ただ持っていればよい。抜くか否かの判断は、そなたに任せる」
族長の声音はいつもより柔らかかった。
「……承知いたしました」
姿勢を正し片膝を付くと、アキラは族長に深々と頭を下げた。
何処かで
第16記 いざ開かれん
日が照りつける真昼の道場で、秘密裏の修行が行われていた。
「小僧、見ていたか?」
「あぁ、ど真ん中に突き刺してたな」
食事を終えたアズウェルが、道場から出て二人の元へ歩いてきた。
「ただ突き刺すだけではだめだ。これはタイミングが鍵になる」
「予知して刺せばいいってもんじゃねぇってことか」
「そうだな。こればっかりは失敗したときのリスクが大きい。とても練習など」
「だめだろ、それじゃ」
ルーティングの言葉を言い差して、アズウェルは真剣な眼差しを向ける。
「失敗を恐れてたら何もできねぇよ」
揺らぐことのない蒼い瞳。
二人の会話を静かに聞いていたショウゴが口を開いた。
「たっちゃん、エクストラ出してみぃ」
「エクストラだと? お前にか?」
怪訝そうな顔をする親友に、珍しく真面目に答えた。
「オレっちじゃなくて、アズっちに」
クリスが却下されたため、アズウェルの呼称はアズっちになったようだ。
「まだ中級の二重詠唱を破ったばかりだ。いきなりエクストラは危険過ぎる」
「大丈夫よぉー。いざとなったらオレっちも降ろすから」
そう言ってルーティングに片目を瞑ってみせる。
無茶をして傷でも負わせようものなら、後で主にどやされるだろう。人の気も知らないで、一体何を考えているのか。
半眼でショウゴを睥睨していたルーティングに、アズウェルが言った。
「自分のことは自分で守る。自分も守れないようじゃ、何かを守り抜くことはできない。そう思わない?」
「……もしものことがあったら、ギアディスにどう説明するんだ」
「もしもを恐れていたら闇魔術[ は破れないんだろ」
その言葉にルーティングは何も言えなかった。
「試してみぃ。オレっちの蒼焔が疼[ いてるんサァ」
耳元でショウゴが囁く。
二人を一瞥して、ルーティングは道場に置いてきた紅焔を取りに行く。
どくん、と紅焔を持ち上げた瞬間、刀の鼓動が伝わってきた。
「こいつもか……」
ちらりとアズウェルを顧みて、ルーティングは印を描く。
詠唱を始めたのだ。
「アズっち、本番やと思ってやってみぃー。オレっちがサポートすっからサァ」
無言で頷き、ルーティングの詠唱へ意識を集める。
文字が花びらのように高速で回転する印から派生した。その文字はそれぞれ帯状になり、術者を守るように球体を作る。
上位より上のエクストラ。簡単に破れるわけがない。
アズウェルは印の変化を凝視しながら、かつてのディオウとの他愛のない会話を思い起こす。
エクストラってのはな。自然界の精霊を呼び出す術だ。唱えられる奴はそうそういないがな。呼び出すのには精霊と波長を同調させなければいけないぞ
それおれにもできる?
呼び出してどうするんだ
雪が見たいんだぁ
自然との同調。
アズウェルは真っ直ぐ前を見据える。ルーティングの詠唱はまだ続いていた。
徐々に深紅の文字が金色に変わっていく。
「来るよー……!」
ショウゴの言葉はアズウェルに届いていなかった。
目を閉じたアズウェルは静かに小刀を抜く。
精霊。自然界の化身といえども意識を持っている。
アズウェルがゆっくりと瞼を上げると、金色の瞳が輝いていた。
「火か」
アズウェルの纏[ う空気が変わったことを、ショウゴは肌で感じていた。
「……まさか……アズっち……破るつもりは毛頭ないって感じ?」
「エクストラ・マジック」
印が完成した。球体が紅い光を放つ。
「朱雀」
ルーティングが唱えると、巨大な炎の鳥が顕現した。
ぼう、とアズウェルの持つ小刀が光を帯びる。小刀を真っ直ぐ突き出すと、文字を綴る。その文字は魔法文字でもなければ、ショウゴたちが知る一般の文字でもなかった。
「この字は……!」
ショウゴが目を瞠る。
読めない。だがしかし、見たことがある気もする。そう、例えばそれは古代書で。
文字が形を成していく。それは小さな箱。
キュルルル……
箱が小鳥を吸い込んだ。いや、鳥が自分の意志で入っていったようにも見えた。
アズウェルは一歩も動いていない。
「おいで、バード」
アズウェルが小箱に話しかけると、炎の小鳥が飛び出した。
小鳥は小刀に止まると、首を傾げてアズウェルの瞳を見つめた。
「もう、いいよ」
キュル、と一声さえずると、小鳥は炎が掻き消えるように姿を消した。
静寂がその場を包む。
ショウゴが呆然と声をかける。
「……あ、アズっち今の何?」
「今のはディオウに教えてもらったヤツだよ」
にっこりと微笑むアズウェルの瞳は、澄んだ蒼に戻っていた。
「対精霊でしか使えないけど……妖精の巣箱[ っていうんだ」
道場で瞠目している者がいる。
あの、技は。
二本の刀が共鳴した。
◇ ◇ ◇
夕刻。
族長は一人寝室で座禅を組んでいた。
窓を叩く音がする。障子を開けるとショウゴが立っていた。
「戻ったか」
族長の言葉に頷いたショウゴは窓を開けてくれと鍵を指差す。
族長が窓の鍵を外すと、ショウゴはひらりと部屋に舞い込んだ。
「どうだ。二人の様子は」
「いー感じでしたよぉー。アズウェルって子、とんだダークホースかもねー」
よっこいせと腰を下ろすと、ショウゴは蒼焔を抜く。
「久々に、こいつが唸ったサァー」
昼間の出来事を思い出し、ショウゴは唇に笑みを滲ませた。
「妖精の巣箱[ 。ぞくちょー聞いたことありませんー?」
「……ある。彼はやはり……」
「マジでその可能性が高くなりましたねー」
二人は窓の外を見つめた。淡い緋色の影が、部屋に差し込んでいる。
開戦は、明日の午前十時。
◇ ◇ ◇
草木も眠る丑三つ時。ワツキは夜の帳[ に包まれていた。
「ハッ。わざわざ本家が手を下すまでもねぇっつーの」
崖の上から見下ろす複数の影。
「いいのぉ~? 攻撃時刻は明日の十時だよ~ん?」
「あぁん? 俺たで殺[ っちまえばいいだろ」
「そうそう。由緒ある純血族とか、うざいよね」
緋色の髪の男を中心に、不気味な笑い声が空気を揺らす。
「小鳥たちよ、お前らに夜明けは来ねぇぜ!」
「誰が一番獲物狩れるか競争しなぁ~い?」
「いいね。哀れなツバメを撃ち落としてやるよ」
不敵な笑みを浮かべて三人は背後の部下を顧みる。
「い~い? あたしたちの隊が優秀ってこと見せつけるのよぉ~?」
「こんなちっぽけな村に闇魔術[ はもったいないぜ」
「さぁ、狩りの幕開けだよ」
眼鏡をかけた少年が、背負っている矢を一本弓に番[ える。
「ド派手に行っちゃいます? 緋色さん」
「あぁ、叩き起こしてやれ」
ゆっくりと弓を打ち起こし、引き分ける。
「逃げ惑え、小鳥たちよ」
矢がワツキ上空へ放たれる。その矢は炎を纏い、大爆発した。
◇ ◇ ◇
突然の地響きにマツザワは家を飛び出す。空が紅く光っていた。
「奴らか……!」
「本家ではないな。先走った者が来たのだろう」
「……父上」
族長は既に武装していた。
「族長……!」
アキラとディオウが駆けてくる。
「うむ。開戦のようだ」
「アズウェルはまだ戻らないのか!?」
ディオウに迫られた族長は、静かに神社の方へ視線を移す。
「あれも気付いたことだろう……」
◇ ◇ ◇
「な、なんだ!? 空が爆発したぞ!?」
爆発音を聞きつけて、道場の外へと躍り出る影は二つ。
「……緋色隊か。余計な真似を……」
アズウェルに聞こえないように吐き捨てて、ルーティングは小さく舌打ちした。
もう、時間はない。
「結界を張るぞ。小僧準備はいいか?」
背後からかけられた言葉に、アズウェルは力強く頷いた。
「おう……!」
◇ ◇ ◇
「綺麗な花火だねぇ……」
空を見上げていた男はすっと目を細める。
「さてと、小鳥狩りのスタートだ」
長い一日が幕を開けた。
「小僧、見ていたか?」
「あぁ、ど真ん中に突き刺してたな」
食事を終えたアズウェルが、道場から出て二人の元へ歩いてきた。
「ただ突き刺すだけではだめだ。これはタイミングが鍵になる」
「予知して刺せばいいってもんじゃねぇってことか」
「そうだな。こればっかりは失敗したときのリスクが大きい。とても練習など」
「だめだろ、それじゃ」
ルーティングの言葉を言い差して、アズウェルは真剣な眼差しを向ける。
「失敗を恐れてたら何もできねぇよ」
揺らぐことのない蒼い瞳。
二人の会話を静かに聞いていたショウゴが口を開いた。
「たっちゃん、エクストラ出してみぃ」
「エクストラだと? お前にか?」
怪訝そうな顔をする親友に、珍しく真面目に答えた。
「オレっちじゃなくて、アズっちに」
クリスが却下されたため、アズウェルの呼称はアズっちになったようだ。
「まだ中級の二重詠唱を破ったばかりだ。いきなりエクストラは危険過ぎる」
「大丈夫よぉー。いざとなったらオレっちも降ろすから」
そう言ってルーティングに片目を瞑ってみせる。
無茶をして傷でも負わせようものなら、後で主にどやされるだろう。人の気も知らないで、一体何を考えているのか。
半眼でショウゴを睥睨していたルーティングに、アズウェルが言った。
「自分のことは自分で守る。自分も守れないようじゃ、何かを守り抜くことはできない。そう思わない?」
「……もしものことがあったら、ギアディスにどう説明するんだ」
「もしもを恐れていたら
その言葉にルーティングは何も言えなかった。
「試してみぃ。オレっちの蒼焔が
耳元でショウゴが囁く。
二人を一瞥して、ルーティングは道場に置いてきた紅焔を取りに行く。
どくん、と紅焔を持ち上げた瞬間、刀の鼓動が伝わってきた。
「こいつもか……」
ちらりとアズウェルを顧みて、ルーティングは印を描く。
詠唱を始めたのだ。
「アズっち、本番やと思ってやってみぃー。オレっちがサポートすっからサァ」
無言で頷き、ルーティングの詠唱へ意識を集める。
文字が花びらのように高速で回転する印から派生した。その文字はそれぞれ帯状になり、術者を守るように球体を作る。
上位より上のエクストラ。簡単に破れるわけがない。
アズウェルは印の変化を凝視しながら、かつてのディオウとの他愛のない会話を思い起こす。
自然との同調。
アズウェルは真っ直ぐ前を見据える。ルーティングの詠唱はまだ続いていた。
徐々に深紅の文字が金色に変わっていく。
「来るよー……!」
ショウゴの言葉はアズウェルに届いていなかった。
目を閉じたアズウェルは静かに小刀を抜く。
精霊。自然界の化身といえども意識を持っている。
アズウェルがゆっくりと瞼を上げると、金色の瞳が輝いていた。
「火か」
アズウェルの
「……まさか……アズっち……破るつもりは毛頭ないって感じ?」
「エクストラ・マジック」
印が完成した。球体が紅い光を放つ。
「朱雀」
ルーティングが唱えると、巨大な炎の鳥が顕現した。
ぼう、とアズウェルの持つ小刀が光を帯びる。小刀を真っ直ぐ突き出すと、文字を綴る。その文字は魔法文字でもなければ、ショウゴたちが知る一般の文字でもなかった。
「この字は……!」
ショウゴが目を瞠る。
読めない。だがしかし、見たことがある気もする。そう、例えばそれは古代書で。
文字が形を成していく。それは小さな箱。
箱が小鳥を吸い込んだ。いや、鳥が自分の意志で入っていったようにも見えた。
アズウェルは一歩も動いていない。
「おいで、バード」
アズウェルが小箱に話しかけると、炎の小鳥が飛び出した。
小鳥は小刀に止まると、首を傾げてアズウェルの瞳を見つめた。
「もう、いいよ」
キュル、と一声さえずると、小鳥は炎が掻き消えるように姿を消した。
静寂がその場を包む。
ショウゴが呆然と声をかける。
「……あ、アズっち今の何?」
「今のはディオウに教えてもらったヤツだよ」
にっこりと微笑むアズウェルの瞳は、澄んだ蒼に戻っていた。
「対精霊でしか使えないけど……
道場で瞠目している者がいる。
あの、技は。
二本の刀が共鳴した。
◇ ◇ ◇
夕刻。
族長は一人寝室で座禅を組んでいた。
窓を叩く音がする。障子を開けるとショウゴが立っていた。
「戻ったか」
族長の言葉に頷いたショウゴは窓を開けてくれと鍵を指差す。
族長が窓の鍵を外すと、ショウゴはひらりと部屋に舞い込んだ。
「どうだ。二人の様子は」
「いー感じでしたよぉー。アズウェルって子、とんだダークホースかもねー」
よっこいせと腰を下ろすと、ショウゴは蒼焔を抜く。
「久々に、こいつが唸ったサァー」
昼間の出来事を思い出し、ショウゴは唇に笑みを滲ませた。
「
「……ある。彼はやはり……」
「マジでその可能性が高くなりましたねー」
二人は窓の外を見つめた。淡い緋色の影が、部屋に差し込んでいる。
開戦は、明日の午前十時。
◇ ◇ ◇
草木も眠る丑三つ時。ワツキは夜の
「ハッ。わざわざ本家が手を下すまでもねぇっつーの」
崖の上から見下ろす複数の影。
「いいのぉ~? 攻撃時刻は明日の十時だよ~ん?」
「あぁん? 俺たで
「そうそう。由緒ある純血族とか、うざいよね」
緋色の髪の男を中心に、不気味な笑い声が空気を揺らす。
「小鳥たちよ、お前らに夜明けは来ねぇぜ!」
「誰が一番獲物狩れるか競争しなぁ~い?」
「いいね。哀れなツバメを撃ち落としてやるよ」
不敵な笑みを浮かべて三人は背後の部下を顧みる。
「い~い? あたしたちの隊が優秀ってこと見せつけるのよぉ~?」
「こんなちっぽけな村に
「さぁ、狩りの幕開けだよ」
眼鏡をかけた少年が、背負っている矢を一本弓に
「ド派手に行っちゃいます? 緋色さん」
「あぁ、叩き起こしてやれ」
ゆっくりと弓を打ち起こし、引き分ける。
「逃げ惑え、小鳥たちよ」
矢がワツキ上空へ放たれる。その矢は炎を纏い、大爆発した。
◇ ◇ ◇
突然の地響きにマツザワは家を飛び出す。空が紅く光っていた。
「奴らか……!」
「本家ではないな。先走った者が来たのだろう」
「……父上」
族長は既に武装していた。
「族長……!」
アキラとディオウが駆けてくる。
「うむ。開戦のようだ」
「アズウェルはまだ戻らないのか!?」
ディオウに迫られた族長は、静かに神社の方へ視線を移す。
「あれも気付いたことだろう……」
◇ ◇ ◇
「な、なんだ!? 空が爆発したぞ!?」
爆発音を聞きつけて、道場の外へと躍り出る影は二つ。
「……緋色隊か。余計な真似を……」
アズウェルに聞こえないように吐き捨てて、ルーティングは小さく舌打ちした。
もう、時間はない。
「結界を張るぞ。小僧準備はいいか?」
背後からかけられた言葉に、アズウェルは力強く頷いた。
「おう……!」
◇ ◇ ◇
「綺麗な花火だねぇ……」
空を見上げていた男はすっと目を細める。
「さてと、小鳥狩りのスタートだ」
長い一日が幕を開けた。
禍月の舞*Past Memory 『想うが故に 〝月〟』
温かい春の日差しの中、ワツキでは式典が行われていた。
俺、リュウジ・コネクティードと、親友のショウゴ・ディレイスの成人式。
「リュウジ、そしてショウゴ。成人おめでとう」
父上から祝福の挨拶を頂く。
俺とショウゴは無言で礼をした。
「リュウジ、そなたは次期族長として、これからも村を支えていただきたい」
「はい」
「ショウゴ、リュウジをこれからも支えていってくれたまえ」
「はーい」
成人式だろうと、何であろうと関係ない。ショウゴはいつも気の抜けた返事をする。
「そなたたちに、ワツキから祝福として名を与えよう」
俺たちスワロウ族は、成人すると名をもらえる。正確に言うと、名前に字をあててもらえるのだ。
父上 族長は筆を取ると、和紙に達筆な文字を記す。
ショウゴの名が与えられた。
「将吾。そなたは偉大な武将になるだろう」
ただの字ではない。あてられる字は呪い師が選ぶ。その字には意味が込められていた。
「有り難く、いただきま~す」
実に緊張感がない。
俺は隣の親友を半眼で睨みつけた。
まぁまぁ、とショウゴは愛嬌のある笑顔を返す。
「龍司。我が村の守護神、水龍様を司[ り、このワツキの栄華を極めよ」
「……身に余るお言葉。有り難く頂戴いたします」
礼をする。隣から聞こえた「まったくお堅いなぁ」などという声は黙殺だ。
「皆の衆、よくぞ集まってくれた。今日[ は盛大に祝杯をあげよう」
参列者から拍手がわき起こる。
形式張った式もこれで終わりだ。後は酒を飲み交わし、並べられたご馳走を食すのみ。
「よっしゃ、たっちゃん、食いまくろー」
「……誰だ、それは」
「オマエしかいないじゃぁ~ん」
飄々[ と嘯[ くショウゴを俺は無言で置き去りにする。
「あ、ちょっとぉー。まったくつれないなぁ~」
ショウゴは肩をすくめて笑いながら、俺の後を追ってきた。並んだ親友を横目で一瞥し、小さく嘆息する。
成人すれば少しは真面目になるだろうか。
そんな淡い期待を見事に裏切ってくれた親友の戯言を聞き流しながら、妹のところへ向かった。
「あ、兄[ さまだ」
「おぅ、リュウ兄[ ! ショウゴさんも一緒だ」
赤い着物を身に纏[ ったミズナと、やや大きめの袴を着たアキラが駆けてきた。
「お前たち、なかなか様になっているじゃないか」
「お~お~。そのまま式挙げたらどうだー?」
笑いながらショウゴが冗談を飛ばす。
「おれも式あげたい!」
「……アキラ、意味わかっているか?」
「もちろん! おれも字もらいてぇよ!」
やはりわかっていないようだ。
アキラと対照的に、ミズナは顔を赤らめていた。
「ショウゴさん、そんな冗談言わないでください!」
目を瞑って俯[ く。
「なぁんだ~? おまえ字もらいたくねぇの?」
ショウゴの言った「式を挙げる」という意味がわかっていないアキラは、デリカシーのないことこの上なく、ミズナに思いっきり平手打ちされていた。
「いってぇーな! 何すんだよ。そんなんじゃ、せっかく綺麗な着物着ていても台無しだぜ」
火に油を注ぐとはこのことだ。
「アキラのばかー!!」
激怒したミズナは大声を上げて走っていった。
「……アキラ、後で謝った方がいいぞ」
「え、なんでおれが謝んの? リュウ兄、おれいきなりはたかれたんだぜ?」
赤くなった頬を摩りながら、アキラは両目を丸くする。
同い年でもミズナの方が精神年齢は高い。色々と複雑な年頃なのだろう。なかなか素直にものを言わない。
対して、アキラはまだ子供だ。思ったことをそのまま口に出す。
その悪びれないアキラの素直な言動が、彼女を困惑させていることに、当人は欠片も気付いていない。
二人の揉め事は、大抵アキラの無自覚な純粋さが原因となっているのだが……。
それを面白がって茶化すからややこしい事になるのだ。まったく、いつもショウゴは厄介事を引き起こしてくれる。
「ショウゴ、お前のせいだ。ミズナの機嫌を取ってこい」
「えー? オレっちのせい~? あっきーがにっぶいせいだよぉー」
心外なとばかりに言うショウゴに、俺は溜息しか出てこなかった。
「アキラ、俺と一緒に来い。ショウゴ、お前は適当に食っていろ。一緒に来ると余計に面倒事になる」
「えー。一緒に酒飲もうよー」
「……後で付き合う」
「わーい。約束なー」
歓喜の声を上げてショウゴはぴょこぴょこと走っていった。
本当に疲れる。
俺は体一つしかないんだ。頼むから面倒事を増やさないで欲しい。
ただでさえ、龍降ろしの修行で疲れているというのに。
「行くか」
「でも、あいつどこ行ったかわかんないよ?」
「ミズナなら……多分あそこだ」
俺は神社の方へ視線を向けた。
◇ ◇ ◇
俺の予想通り、ミズナは神社の池の畔に腰を下ろしていた。
「ミズナ」
「……兄さま」
振り向いたミズナは、俺の後ろにアキラを認めてまたそっぽを向く。
「ちぇっ。も~、何だよー。せっかく謝りに来たのに」
アキラは不服そうに頬を膨らませた。
やれやれ。仲が良いのか悪いのか。
俺はミズナの隣へ足を運んだ。膝を抱えたミズナが上目遣いで見上げてくる。
軽く屈んで小石を拾い上げると、二人に問うた。
「水切りって知っているか?」
「水切り……?」
「おれ知ってる! 石を水面に投げるヤツだろ?」
首を傾げたミズナと石を投げる振りをするアキラを交互に見やり、頷く。
「あぁ、そうだ。 こうやって……」
軽く石を投げる。石は軽快に飛び跳ねながら水面を渡っていった。
その様子が先ほどのショウゴに被り、俺は微[ かに眉をひそめる。
「わぁ! 兄さま、上手!」
ミズナは喜んでくれたようだ。
「おれだってできるやぃ! せーのっ!」
アキラが俺の真似をして石を投げる。
その手つきは不慣れだったが、石は上手く水面を飛び跳ねた。
「上手いじゃないか、アキラ」
俺が頭を撫でると、アキラは嬉しそうに微笑んだ。
それを見ていたミズナが俺の袴の裾[ を引く。
「兄さま、私にも教えて」
「あぁ、もちろんだ」
しゃがみ込んで目線を合わせ、ミズナの手を取りながら指導する。
「いいか? これくらいの角度で水面に向かって投げる。上から投げちゃだめだぞ。横からこう……空気を大きく掬[ うようにして投げるんだ」
俺の説明を真剣に聞いていたミズナは、こくりと頷くと小石を拾って池の前に立つ。
「こう……かな?」
言われた通りに身体を動かし投じるが、しかしその石は跳ねることなく沈んでしまった。
「う~ん……上手くできないよぉ」
「へへっ、おれのが上手いな。そ~れ!」
アキラの投げた小石は鮮やかに飛んでいった。
「よっしゃ、五段跳ねたぜ!」
満足そうに拳を握りしめるアキラを、ミズナが半眼で見つめる。
「ホント、おっまえ不器用だよなぁ」
それは俺も同感だ。色んな意味でミズナは不器用だった。
「う、うるさいわね」
何度も石を投げてみるが、沈んでしまう。
ミズナは悔しそうに俯いた。
「どうして私だけできないのかなぁ……」
「練習してみればいい。ミズナは努力家だからきっとできるようになるだろう」
「兄さま、本当?」
「あぁ」
嘘ではない。ミズナが努力で剣術を磨いていることを俺もアキラも知っていた。
ミズナに比べると、アキラは天才肌でいつも彼女の一歩前を進んでいる。
少しアキラより大人びているミズナは、それが堪らなく悔しいらしく、事ある毎に喧嘩をしていた。
二人の仲裁は最早[ 俺にとっては日課と言っても過言ではないかもしれない。
俺の言葉にミズナは瞳を輝かせて石を探している。
そんなミズナを暫[ く無言で眺めていたアキラは、ふと一つ小石を拾い上げると、彼女の手元にそれを放り投げた。
「ほ~らよ。これで投げてみれば? ま、おまえにはできねぇと思うけどなぁ~」
アキラ……お前はいつも一言余計なんだ。
ミズナに投げた石は小さな円盤のようだった。水切りには適している。
恐らく知っていてあげたのだろうが、アキラは余計な一言を付け加えていた。
「な、なによ……アキラの助けなんかなくたって自分で探すもん」
こちらも頑固だった。
まったく、素直になればいいものを。
「ミズナ。その石で投げてみるといい」
「ほらほら。リュウ兄もそう言ってるぜ?」
「……やってみる」
渋々と小石を拾うと、ミズナは再び池へ投じる。
不器用さが滲み出ている投げ方だったが、その石は三段飛び跳ねた。アキラの選んだ石が良かったのだろう。
「跳ねた! 兄さま、跳ねたよ!」
「あぁ、跳ねたな」
「おれの選んだ石が良かったんだよな」
「……投げ方が上手かったのよ」
確かにアキラの言うとおりなのだが。……俺の仲裁を無駄にするな。
またか、と額に手を当てた時、珍しくアキラがミズナに褒め言葉を贈った。
「んま、さ。おまえにしちゃぁ、三段は上出来なんじゃね?」
一瞬瞠目した後[ 、ミズナは頬を仄[ かに赤く染め上げる。
「……ありがと」
小さくお礼の言葉を呟いて顔を伏せるミズナ。それを見て、アキラは満足げに微笑んだ。
桜吹雪が俺たちを温かく包み込む。
俺が背後の桜を顧みると、二人も桜へと視線を移す。
「綺麗だね」
「うん」
ミズナの言葉にアキラが同意する。
その花弁は儚く移ろい、俺たちに降り注ぐ。
淡い一時を、俺たちはただただ楽しんでいた。
この桜吹雪が、何気ない幸せの終わりを告げていることに気付くのは、それから僅か三日後のことだった。
◇ ◇ ◇
「ミズナ、刀があるぜっ。これリュウ兄の真剣だよ!」
道場でアキラの嬉々とした声が響いていた。
アキラが手にしているのは水華[ 。俺が成人式後に父上から継承された刀だった。
「あっれ~? リュウ兄、これ抜けねぇよ」
「抜けないの? 貸してよ、アキラ」
その刀は継承された者にしか抜けない はずだった。
父上、ショウゴ、アキラ、そして俺の目の前でそれは起こった。
誰一人、口を開く者はいない。
いとも簡単に水華を抜いたミズナは、虚ろな黒瞳[ で佇んでいた。
俺、リュウジ・コネクティードと、親友のショウゴ・ディレイスの成人式。
「リュウジ、そしてショウゴ。成人おめでとう」
父上から祝福の挨拶を頂く。
俺とショウゴは無言で礼をした。
「リュウジ、そなたは次期族長として、これからも村を支えていただきたい」
「はい」
「ショウゴ、リュウジをこれからも支えていってくれたまえ」
「はーい」
成人式だろうと、何であろうと関係ない。ショウゴはいつも気の抜けた返事をする。
「そなたたちに、ワツキから祝福として名を与えよう」
俺たちスワロウ族は、成人すると名をもらえる。正確に言うと、名前に字をあててもらえるのだ。
父上
ショウゴの名が与えられた。
「将吾。そなたは偉大な武将になるだろう」
ただの字ではない。あてられる字は呪い師が選ぶ。その字には意味が込められていた。
「有り難く、いただきま~す」
実に緊張感がない。
俺は隣の親友を半眼で睨みつけた。
まぁまぁ、とショウゴは愛嬌のある笑顔を返す。
「龍司。我が村の守護神、水龍様を
「……身に余るお言葉。有り難く頂戴いたします」
礼をする。隣から聞こえた「まったくお堅いなぁ」などという声は黙殺だ。
「皆の衆、よくぞ集まってくれた。
参列者から拍手がわき起こる。
形式張った式もこれで終わりだ。後は酒を飲み交わし、並べられたご馳走を食すのみ。
「よっしゃ、たっちゃん、食いまくろー」
「……誰だ、それは」
「オマエしかいないじゃぁ~ん」
「あ、ちょっとぉー。まったくつれないなぁ~」
ショウゴは肩をすくめて笑いながら、俺の後を追ってきた。並んだ親友を横目で一瞥し、小さく嘆息する。
成人すれば少しは真面目になるだろうか。
そんな淡い期待を見事に裏切ってくれた親友の戯言を聞き流しながら、妹のところへ向かった。
「あ、
「おぅ、リュウ
赤い着物を身に
「お前たち、なかなか様になっているじゃないか」
「お~お~。そのまま式挙げたらどうだー?」
笑いながらショウゴが冗談を飛ばす。
「おれも式あげたい!」
「……アキラ、意味わかっているか?」
「もちろん! おれも字もらいてぇよ!」
やはりわかっていないようだ。
アキラと対照的に、ミズナは顔を赤らめていた。
「ショウゴさん、そんな冗談言わないでください!」
目を瞑って
「なぁんだ~? おまえ字もらいたくねぇの?」
ショウゴの言った「式を挙げる」という意味がわかっていないアキラは、デリカシーのないことこの上なく、ミズナに思いっきり平手打ちされていた。
「いってぇーな! 何すんだよ。そんなんじゃ、せっかく綺麗な着物着ていても台無しだぜ」
火に油を注ぐとはこのことだ。
「アキラのばかー!!」
激怒したミズナは大声を上げて走っていった。
「……アキラ、後で謝った方がいいぞ」
「え、なんでおれが謝んの? リュウ兄、おれいきなりはたかれたんだぜ?」
赤くなった頬を摩りながら、アキラは両目を丸くする。
同い年でもミズナの方が精神年齢は高い。色々と複雑な年頃なのだろう。なかなか素直にものを言わない。
対して、アキラはまだ子供だ。思ったことをそのまま口に出す。
その悪びれないアキラの素直な言動が、彼女を困惑させていることに、当人は欠片も気付いていない。
二人の揉め事は、大抵アキラの無自覚な純粋さが原因となっているのだが……。
それを面白がって茶化すからややこしい事になるのだ。まったく、いつもショウゴは厄介事を引き起こしてくれる。
「ショウゴ、お前のせいだ。ミズナの機嫌を取ってこい」
「えー? オレっちのせい~? あっきーがにっぶいせいだよぉー」
心外なとばかりに言うショウゴに、俺は溜息しか出てこなかった。
「アキラ、俺と一緒に来い。ショウゴ、お前は適当に食っていろ。一緒に来ると余計に面倒事になる」
「えー。一緒に酒飲もうよー」
「……後で付き合う」
「わーい。約束なー」
歓喜の声を上げてショウゴはぴょこぴょこと走っていった。
本当に疲れる。
俺は体一つしかないんだ。頼むから面倒事を増やさないで欲しい。
ただでさえ、龍降ろしの修行で疲れているというのに。
「行くか」
「でも、あいつどこ行ったかわかんないよ?」
「ミズナなら……多分あそこだ」
俺は神社の方へ視線を向けた。
◇ ◇ ◇
俺の予想通り、ミズナは神社の池の畔に腰を下ろしていた。
「ミズナ」
「……兄さま」
振り向いたミズナは、俺の後ろにアキラを認めてまたそっぽを向く。
「ちぇっ。も~、何だよー。せっかく謝りに来たのに」
アキラは不服そうに頬を膨らませた。
やれやれ。仲が良いのか悪いのか。
俺はミズナの隣へ足を運んだ。膝を抱えたミズナが上目遣いで見上げてくる。
軽く屈んで小石を拾い上げると、二人に問うた。
「水切りって知っているか?」
「水切り……?」
「おれ知ってる! 石を水面に投げるヤツだろ?」
首を傾げたミズナと石を投げる振りをするアキラを交互に見やり、頷く。
「あぁ、そうだ。
軽く石を投げる。石は軽快に飛び跳ねながら水面を渡っていった。
その様子が先ほどのショウゴに被り、俺は
「わぁ! 兄さま、上手!」
ミズナは喜んでくれたようだ。
「おれだってできるやぃ! せーのっ!」
アキラが俺の真似をして石を投げる。
その手つきは不慣れだったが、石は上手く水面を飛び跳ねた。
「上手いじゃないか、アキラ」
俺が頭を撫でると、アキラは嬉しそうに微笑んだ。
それを見ていたミズナが俺の袴の
「兄さま、私にも教えて」
「あぁ、もちろんだ」
しゃがみ込んで目線を合わせ、ミズナの手を取りながら指導する。
「いいか? これくらいの角度で水面に向かって投げる。上から投げちゃだめだぞ。横からこう……空気を大きく
俺の説明を真剣に聞いていたミズナは、こくりと頷くと小石を拾って池の前に立つ。
「こう……かな?」
言われた通りに身体を動かし投じるが、しかしその石は跳ねることなく沈んでしまった。
「う~ん……上手くできないよぉ」
「へへっ、おれのが上手いな。そ~れ!」
アキラの投げた小石は鮮やかに飛んでいった。
「よっしゃ、五段跳ねたぜ!」
満足そうに拳を握りしめるアキラを、ミズナが半眼で見つめる。
「ホント、おっまえ不器用だよなぁ」
それは俺も同感だ。色んな意味でミズナは不器用だった。
「う、うるさいわね」
何度も石を投げてみるが、沈んでしまう。
ミズナは悔しそうに俯いた。
「どうして私だけできないのかなぁ……」
「練習してみればいい。ミズナは努力家だからきっとできるようになるだろう」
「兄さま、本当?」
「あぁ」
嘘ではない。ミズナが努力で剣術を磨いていることを俺もアキラも知っていた。
ミズナに比べると、アキラは天才肌でいつも彼女の一歩前を進んでいる。
少しアキラより大人びているミズナは、それが堪らなく悔しいらしく、事ある毎に喧嘩をしていた。
二人の仲裁は
俺の言葉にミズナは瞳を輝かせて石を探している。
そんなミズナを
「ほ~らよ。これで投げてみれば? ま、おまえにはできねぇと思うけどなぁ~」
アキラ……お前はいつも一言余計なんだ。
ミズナに投げた石は小さな円盤のようだった。水切りには適している。
恐らく知っていてあげたのだろうが、アキラは余計な一言を付け加えていた。
「な、なによ……アキラの助けなんかなくたって自分で探すもん」
こちらも頑固だった。
まったく、素直になればいいものを。
「ミズナ。その石で投げてみるといい」
「ほらほら。リュウ兄もそう言ってるぜ?」
「……やってみる」
渋々と小石を拾うと、ミズナは再び池へ投じる。
不器用さが滲み出ている投げ方だったが、その石は三段飛び跳ねた。アキラの選んだ石が良かったのだろう。
「跳ねた! 兄さま、跳ねたよ!」
「あぁ、跳ねたな」
「おれの選んだ石が良かったんだよな」
「……投げ方が上手かったのよ」
確かにアキラの言うとおりなのだが。……俺の仲裁を無駄にするな。
またか、と額に手を当てた時、珍しくアキラがミズナに褒め言葉を贈った。
「んま、さ。おまえにしちゃぁ、三段は上出来なんじゃね?」
一瞬瞠目した
「……ありがと」
小さくお礼の言葉を呟いて顔を伏せるミズナ。それを見て、アキラは満足げに微笑んだ。
桜吹雪が俺たちを温かく包み込む。
俺が背後の桜を顧みると、二人も桜へと視線を移す。
「綺麗だね」
「うん」
ミズナの言葉にアキラが同意する。
その花弁は儚く移ろい、俺たちに降り注ぐ。
淡い一時を、俺たちはただただ楽しんでいた。
この桜吹雪が、何気ない幸せの終わりを告げていることに気付くのは、それから僅か三日後のことだった。
◇ ◇ ◇
「ミズナ、刀があるぜっ。これリュウ兄の真剣だよ!」
道場でアキラの嬉々とした声が響いていた。
アキラが手にしているのは
「あっれ~? リュウ兄、これ抜けねぇよ」
「抜けないの? 貸してよ、アキラ」
その刀は継承された者にしか抜けない
父上、ショウゴ、アキラ、そして俺の目の前でそれは起こった。
誰一人、口を開く者はいない。
いとも簡単に水華を抜いたミズナは、虚ろな
禍月の舞*Past Memory 『想うが故に 〝影〟』
ビリビリとする空気が痛い。
親友の妹であるミズナは何かに取り憑かれたようだった。
「何故、私が呼び起こされた……? 答えろ、コウキ!!」
小さい体躯から発せられる異常な威圧感。ミズナのものとは思えない声が、道場に響き渡る。
ミズナは水龍 スイカに取り憑かれていた。
水華を握りしめたミズナは怒気を顕にし、族長コウキを責め立てる。
「何故だ、私はまだ降ろされていない! 私の使い手は貴様の息子、リュウジじゃないのか!?」
族長も絶句していた。
ミズナの顔色が徐々に蒼くなっていく。
このままだとまずい。だが、打つ手はなかった。
怒りで我を忘れたスイカは自力でミズナから離れられずにいたのだ。
オレはただ見ていることしかできなかった。余りの無力さに嘔吐が出る。
大人が動けないこの状況で、唯一自我を見失わずにいたのは……アキラだった。
「てめぇ、誰だよ!? ミズナから離れろ!!」
ぎろり、とスイカはアキラを睨む。
それに怯むことなく、アキラが怒鳴った。
「ミズナの顔色がどんどん蒼くなってるんだよ! おまえのせいだろ!? 離れろよ!!」
「黙れ、糞餓鬼! 私とて、このようなチビに取り憑いている暇などないのだ!!」
「だったらさっさと離れろ! 馬鹿!!」
「ええい、生意気な餓鬼め! 貴様など、水に飲まれてしまうがいい!!」
まずい……非常にまずい。
それはわかっているというのに、大人は動揺という金縛りで動けない。
動けるのはただ一人。
「うるせぇ! ミズナから離れろったら離れろ!!」
「黙れ黙れ黙れ!!」
ミズナは水華を振り上げる。
流石、守護神と言うべきだろうか。その速さは凄まじかった。
だが、所詮水神だ。
水華の刃[ がアキラを襲うが、それを見事に受け止る。
「……小癪な!」
「玄鳥、降臨……」
以前リュウジがアキラを天才肌と言っていたことがある。
オレに言わせればリュウジも充分天才なのだが、アキラは百年に一度現れるか否かの、風神であるゲンチョウの使い手だった。その速さは、齢九つといえども、村の実力トップである族長を凌ぐ。
アキラの背後に巨大なツバメが見えた。
『愚かだな、スイカよ。己の力も制御できんのか』
「ゲンチョウ、おれに力を貸してくれ。ミズナからあいつを剥ぎ取るんだ」
鋭利な視線をスイカに向ける。
『お主が言うなら快く引き受けよう』
アキラが風を纏[ う。アキラの動きは、先程より格段に速度を上げた。
「ゲンチョウか! ツバメなど、下等な生物が出る幕ではないわ!!」
ミズナの瞳が深い青色に染まる。
どこから地響きがしてきた。
道場の外へ目をやると、渦巻いた水が凄まじい勢いで迫ってくる。
その水は、アキラをゲンチョウごと呑み込んだ。
『暴走しているお主に、我が負けるとでも思うか……』
そう嘲笑すると、渦巻く水の塔を切り裂く。
「ミズナから離れろ!」
アキラが左右に飛びながらミズナへ攻撃を仕掛けた。
「水華蓮々[ !!」
完全に暴走したスイカは奥義を繰り出そうとする。
それは、巨大な蓮形の斬撃が標的の足下から湧き出るという恐ろしい技。
「アキラ……!!」
金縛りを無理矢理解[ いて、リュウジが間に割って入る。リュウジの刀である水華はミズナが持っているのだから、当然丸腰だ。
「りゅ……リュウジ、行ってはならん!!」
族長が叫ぶが、迷い無くリュウジは水華を受け止めた。
一瞬止められたオレたちの時間。
ぽたぽたと、リュウジの鮮血が道場の床に落ちてゆく。
「ぁ……あ……りゅ……リュウ兄……」
振り下ろされた水華を、リュウジはその背で受け止めた。
一方、玄鳥の太刀はあまりの速さ故アキラ自身も止められなかった。アキラは、リュウジを斬りつけてしまったのだ。
その、左目を。
「アキラ、無事か?」
今、あいつの身体は激痛で蝕まれているはずなのに、何で笑うんだよ。
どうして、オレは何もできない? こんな時に、オレは何をしていたんだ。
やるせない想いで胸が締め付けられる。
「に……兄さま……?」
くるりとミズナを振り返ると、リュウジは右手で優しく彼女の頭を撫でた。
「大丈夫か、ミズナ?」
「兄さま……ど、どうして……?」
いつの間にかスイカは離れていた。
スイカに意識を取られていた分、ミズナは何が起きたのかわからない。呆然と血まみれの兄を見つめていた。
「あ……あ……ぁ……」
アキラの全身ががたがたと震える。
『アキラ、落ち着け。おちつ 』
がしゃん、とアキラの手から玄鳥が零[ れ落ちた。その衝撃でゲンチョウの姿は掻き消される。
「ぅ……うあああ !!」
アキラの悲痛な叫び声がワツキに木霊した。
◇ ◇ ◇
この村には昔から様々な掟、決まり事があった。
オレは掟なんぞ意識もしたことなかったが、この時ばかりは意識せざるを得なかった。
「俺は、ワツキを出て行く」
あれから二日後。村の役場で幹部会が開かれている。オレも族長の右腕候補として呼ばれていた。
「リュウジ殿のせいではないだろう……!」
「そうだ、今回の事件は誰のせいでもないはずだ!」
口々に幹部たちから声が上がる。
そりゃそうだろう。リュウジはそのカリスマ性で村から絶大な人気を集めていたのだから。
「オレっちも、出て行く必要はないと思うよー」
本心だ。親友に消えて欲しいなど、誰が思うだろうか。
しかし、リュウジは静かに首を横に振った。
「これは古来から決められている掟だ。俺はもう水華を抜くことはできない。堕ちた継承者はその名を捨て、村から出て行くと定められている」
「リュウジの言う通りだ。掟に従った決断、誰にも異議は唱えさせん」
族長が厳かに言い放つ。
役場の会議室が重い空気に包まれた。
「俺は今までこのワツキに居られたことを誇りに思う。皆に感謝する」
淡々とリュウジは言葉を紡いでいく。
「今まで、ありがとう」
そこに、迷いはなかった。
◇ ◇ ◇
オレは親友の最後の姿を見ていた。
もう、会えることはないだろう。
「リュウジ、マジで行っちまうのか……」
「珍しいな、まさが俺の名をまともに呼ぶとは」
左目に黒い眼帯、真っ黒なマントをはおり、リュウジは笑っていた。
誰よりも辛いはずなのに。
「俺は出て行く。堕ちた継承者がワツキにできる唯一のことだからな」
堕ちた継承者。それは禍[ を呼ぶ。
そう、掟に記されているそうだ。
オレにとってはそんなの知ったことじゃない。だけど、リュウジのワツキを想う気持ちを捩[ じ曲げることはできなかった。
「たっちゃんがそれで納得してるならオレっちは何も言わないサァー」
どうせ見送るなら、いつも通りで。オレだったら、いつも通り接してくれた方が心が落ち着くから。
無言で頷くと、リュウジは右目を細めた。
「アキラと……ミズナを宜しく頼む。ミズナも重症だが……アキラは……」
言葉を詰まらせる。
「たっちゃん、そんな気に病むなよー。だいじょ~ぶ! あっきーは天才肌なんだろ? あれくらいでだめになるわけない~って」
そう言った根拠は全くなかった。現に、アキラはあれから心が壊れてしまい、寝たきりだ。
「アキラには……刀を捨てて欲しくない。アキラの居合いは失われたくないからな……」
オレもそう思う。一剣士として、アキラの居合いはこの世から失われたくないほど美しいものだと。
「俺は、お前とアキラ、ミズナに夢を託す」
「たっちゃんも何か見つけろよー?」
「あぁ、必ずな」
短く答えると、リュウジは身を翻した。
オレはリュウジの姿が地平線の向こうに消えるまで、その場を動かなかった。
◇ ◇ ◇
「あ、ショウゴさん、こんばんは」
おかっぱの女の子がオレを出迎えてくれた。
「アキラに会わせてくれるー?」
「お兄ちゃんはまだ目をさましていません」
「それでもいいからさ?」
オレは両手を合わして頼むと懇願する。
ユウは年の割にしっかりしたアキラの妹で、なかなかオレを通してくれない。粘り強く懇願すること数十分、最後は渋々と部屋に案内してくれた。
「てあらなまねはしないでください」
「あー、わかったわかったよー」
どこであんな言葉覚えたんだ? とても七歳が言う言葉じゃないねー。
ちらりとそんなことを考えたが、すぐにそれは掻き消えた。
ユウが部屋を出て行った後、オレは静かにアキラの顔を覗き込む。
「……うなされているか」
アキラの額はぐっしょりと汗で濡れていた。
「乗り切れよ……オマエが死んだら、リュウジもミズナもユウも悲しむんだからな……」
もちろん、オレだって。
ふと窓の外を見る。竹格子の窓の向こうには半月が浮かんでいた。
オレはその月を睨みつけて小さく呟く。
神様がいるなら、アキラを助けてくれ。
ワツキに、平和を返してくれ
アキラに視線を戻して拳を握りしめる。
あの時の自分の無力さは、情けなさはなんだ。オレがあの時動けていれば、リュウジも傷つくことなく、アキラもこんな状態にはならなかったはずなのに。
「ちくしょう……!」
拳を畳に叩きつけてみるが、それで何かが変わるわけもなかった。
腰に帯びている蒼焔へと目をやる。
今までとりあえず族長に教えられた通りにやっていた。それだけで、オレの実力は村の中でも相当だった。
でも、それだけじゃ足りない。痛いほど、思い知らされた。
オレは一年以内にソウエンを降ろす。
目の前で仲間が傷つくなど、二度と見るのはご免だ。
『偉大な武将になるだろう』
脳裏に五日前の言葉が甦る。
「なってやるサァ。名将になってやるよ……」
月光が差し込む部屋で、オレはアキラの左手を握り、そう誓ったのだった。
親友の妹であるミズナは何かに取り憑かれたようだった。
「何故、私が呼び起こされた……? 答えろ、コウキ!!」
小さい体躯から発せられる異常な威圧感。ミズナのものとは思えない声が、道場に響き渡る。
ミズナは水龍
水華を握りしめたミズナは怒気を顕にし、族長コウキを責め立てる。
「何故だ、私はまだ降ろされていない! 私の使い手は貴様の息子、リュウジじゃないのか!?」
族長も絶句していた。
ミズナの顔色が徐々に蒼くなっていく。
このままだとまずい。だが、打つ手はなかった。
怒りで我を忘れたスイカは自力でミズナから離れられずにいたのだ。
オレはただ見ていることしかできなかった。余りの無力さに嘔吐が出る。
大人が動けないこの状況で、唯一自我を見失わずにいたのは……アキラだった。
「てめぇ、誰だよ!? ミズナから離れろ!!」
ぎろり、とスイカはアキラを睨む。
それに怯むことなく、アキラが怒鳴った。
「ミズナの顔色がどんどん蒼くなってるんだよ! おまえのせいだろ!? 離れろよ!!」
「黙れ、糞餓鬼! 私とて、このようなチビに取り憑いている暇などないのだ!!」
「だったらさっさと離れろ! 馬鹿!!」
「ええい、生意気な餓鬼め! 貴様など、水に飲まれてしまうがいい!!」
まずい……非常にまずい。
それはわかっているというのに、大人は動揺という金縛りで動けない。
動けるのはただ一人。
「うるせぇ! ミズナから離れろったら離れろ!!」
「黙れ黙れ黙れ!!」
ミズナは水華を振り上げる。
流石、守護神と言うべきだろうか。その速さは凄まじかった。
だが、所詮水神だ。
水華の
「……小癪な!」
「玄鳥、降臨……」
以前リュウジがアキラを天才肌と言っていたことがある。
オレに言わせればリュウジも充分天才なのだが、アキラは百年に一度現れるか否かの、風神であるゲンチョウの使い手だった。その速さは、齢九つといえども、村の実力トップである族長を凌ぐ。
アキラの背後に巨大なツバメが見えた。
『愚かだな、スイカよ。己の力も制御できんのか』
「ゲンチョウ、おれに力を貸してくれ。ミズナからあいつを剥ぎ取るんだ」
鋭利な視線をスイカに向ける。
『お主が言うなら快く引き受けよう』
アキラが風を
「ゲンチョウか! ツバメなど、下等な生物が出る幕ではないわ!!」
ミズナの瞳が深い青色に染まる。
どこから地響きがしてきた。
道場の外へ目をやると、渦巻いた水が凄まじい勢いで迫ってくる。
その水は、アキラをゲンチョウごと呑み込んだ。
『暴走しているお主に、我が負けるとでも思うか……』
そう嘲笑すると、渦巻く水の塔を切り裂く。
「ミズナから離れろ!」
アキラが左右に飛びながらミズナへ攻撃を仕掛けた。
「
完全に暴走したスイカは奥義を繰り出そうとする。
それは、巨大な蓮形の斬撃が標的の足下から湧き出るという恐ろしい技。
「アキラ……!!」
金縛りを無理矢理
「りゅ……リュウジ、行ってはならん!!」
族長が叫ぶが、迷い無くリュウジは水華を受け止めた。
一瞬止められたオレたちの時間。
ぽたぽたと、リュウジの鮮血が道場の床に落ちてゆく。
「ぁ……あ……りゅ……リュウ兄……」
振り下ろされた水華を、リュウジはその背で受け止めた。
一方、玄鳥の太刀はあまりの速さ故アキラ自身も止められなかった。アキラは、リュウジを斬りつけてしまったのだ。
その、左目を。
「アキラ、無事か?」
今、あいつの身体は激痛で蝕まれているはずなのに、何で笑うんだよ。
どうして、オレは何もできない? こんな時に、オレは何をしていたんだ。
やるせない想いで胸が締め付けられる。
「に……兄さま……?」
くるりとミズナを振り返ると、リュウジは右手で優しく彼女の頭を撫でた。
「大丈夫か、ミズナ?」
「兄さま……ど、どうして……?」
いつの間にかスイカは離れていた。
スイカに意識を取られていた分、ミズナは何が起きたのかわからない。呆然と血まみれの兄を見つめていた。
「あ……あ……ぁ……」
アキラの全身ががたがたと震える。
『アキラ、落ち着け。おちつ
がしゃん、とアキラの手から玄鳥が
「ぅ……うあああ
アキラの悲痛な叫び声がワツキに木霊した。
◇ ◇ ◇
この村には昔から様々な掟、決まり事があった。
オレは掟なんぞ意識もしたことなかったが、この時ばかりは意識せざるを得なかった。
「俺は、ワツキを出て行く」
あれから二日後。村の役場で幹部会が開かれている。オレも族長の右腕候補として呼ばれていた。
「リュウジ殿のせいではないだろう……!」
「そうだ、今回の事件は誰のせいでもないはずだ!」
口々に幹部たちから声が上がる。
そりゃそうだろう。リュウジはそのカリスマ性で村から絶大な人気を集めていたのだから。
「オレっちも、出て行く必要はないと思うよー」
本心だ。親友に消えて欲しいなど、誰が思うだろうか。
しかし、リュウジは静かに首を横に振った。
「これは古来から決められている掟だ。俺はもう水華を抜くことはできない。堕ちた継承者はその名を捨て、村から出て行くと定められている」
「リュウジの言う通りだ。掟に従った決断、誰にも異議は唱えさせん」
族長が厳かに言い放つ。
役場の会議室が重い空気に包まれた。
「俺は今までこのワツキに居られたことを誇りに思う。皆に感謝する」
淡々とリュウジは言葉を紡いでいく。
「今まで、ありがとう」
そこに、迷いはなかった。
◇ ◇ ◇
オレは親友の最後の姿を見ていた。
もう、会えることはないだろう。
「リュウジ、マジで行っちまうのか……」
「珍しいな、まさが俺の名をまともに呼ぶとは」
左目に黒い眼帯、真っ黒なマントをはおり、リュウジは笑っていた。
誰よりも辛いはずなのに。
「俺は出て行く。堕ちた継承者がワツキにできる唯一のことだからな」
堕ちた継承者。それは
そう、掟に記されているそうだ。
オレにとってはそんなの知ったことじゃない。だけど、リュウジのワツキを想う気持ちを
「たっちゃんがそれで納得してるならオレっちは何も言わないサァー」
どうせ見送るなら、いつも通りで。オレだったら、いつも通り接してくれた方が心が落ち着くから。
無言で頷くと、リュウジは右目を細めた。
「アキラと……ミズナを宜しく頼む。ミズナも重症だが……アキラは……」
言葉を詰まらせる。
「たっちゃん、そんな気に病むなよー。だいじょ~ぶ! あっきーは天才肌なんだろ? あれくらいでだめになるわけない~って」
そう言った根拠は全くなかった。現に、アキラはあれから心が壊れてしまい、寝たきりだ。
「アキラには……刀を捨てて欲しくない。アキラの居合いは失われたくないからな……」
オレもそう思う。一剣士として、アキラの居合いはこの世から失われたくないほど美しいものだと。
「俺は、お前とアキラ、ミズナに夢を託す」
「たっちゃんも何か見つけろよー?」
「あぁ、必ずな」
短く答えると、リュウジは身を翻した。
オレはリュウジの姿が地平線の向こうに消えるまで、その場を動かなかった。
◇ ◇ ◇
「あ、ショウゴさん、こんばんは」
おかっぱの女の子がオレを出迎えてくれた。
「アキラに会わせてくれるー?」
「お兄ちゃんはまだ目をさましていません」
「それでもいいからさ?」
オレは両手を合わして頼むと懇願する。
ユウは年の割にしっかりしたアキラの妹で、なかなかオレを通してくれない。粘り強く懇願すること数十分、最後は渋々と部屋に案内してくれた。
「てあらなまねはしないでください」
「あー、わかったわかったよー」
どこであんな言葉覚えたんだ? とても七歳が言う言葉じゃないねー。
ちらりとそんなことを考えたが、すぐにそれは掻き消えた。
ユウが部屋を出て行った後、オレは静かにアキラの顔を覗き込む。
「……うなされているか」
アキラの額はぐっしょりと汗で濡れていた。
「乗り切れよ……オマエが死んだら、リュウジもミズナもユウも悲しむんだからな……」
もちろん、オレだって。
ふと窓の外を見る。竹格子の窓の向こうには半月が浮かんでいた。
オレはその月を睨みつけて小さく呟く。
神様がいるなら、アキラを助けてくれ。
アキラに視線を戻して拳を握りしめる。
あの時の自分の無力さは、情けなさはなんだ。オレがあの時動けていれば、リュウジも傷つくことなく、アキラもこんな状態にはならなかったはずなのに。
「ちくしょう……!」
拳を畳に叩きつけてみるが、それで何かが変わるわけもなかった。
腰に帯びている蒼焔へと目をやる。
今までとりあえず族長に教えられた通りにやっていた。それだけで、オレの実力は村の中でも相当だった。
でも、それだけじゃ足りない。痛いほど、思い知らされた。
オレは一年以内にソウエンを降ろす。
目の前で仲間が傷つくなど、二度と見るのはご免だ。
『偉大な武将になるだろう』
脳裏に五日前の言葉が甦る。
「なってやるサァ。名将になってやるよ……」
月光が差し込む部屋で、オレはアキラの左手を握り、そう誓ったのだった。
禍月の舞*Past Memory 『想うが故に 〝風〟』
身体が熱い。全身を灼熱の蛇が這いずり回っているようだっだ。
自分の鼓動が耳をつんざく。
頭は真っ白だった。そこに繰り返し再生される映像。
アキラ、無事か?
血塗られた顔……痛みなど少しも感じさせずに笑う顔。
おれは大切な人を斬りつけた。
憧れだったあの人の笑顔が頭に浮かぶ。
刹那、その映像は血まみれになるのだ。
〝ソレ〟が、おれの人生の全てだと言うように、ひたすら頭の中で流れ続けていた。
おれの心を支配するのは、自己嫌悪と絶望感。
悪夢は永遠と続くものだと思っていた。
これが地獄なのだろう。そんな考えすら浮かび始めていた。
ふいに、視界に色が浮かんだ。
ぼんやりと焦点を合わせると、おれの顔を覗き込む人がいる。
「ゆーちゃん、あっきーが目を覚ましたよー」
「本当ですか? すぐにおくすりをもってきます!」
ぱたぱたと足音が遠のいていく。
「あっきー、しゃべれる?」
さんばら髪の男が尋ねてきた。
この人は……多分、ショウゴさん。リュウ兄の親友。リュウ兄の……
「りゅ、リュウ兄!?」
「あ、あっきー、ダメだよー。いきなり飛び起きたりしちゃ……」
ぐにゃりと目に映るものが歪んだ。頭に激痛が走る。
だが、今のおれにとって、そんなことは些細な痛みに過ぎなかった。
心配させれば答えがもらえない。
おれはゆっくりと深呼吸してから再び問うた。
「リュウ兄は……?」
目を開けた時、悪夢は過ぎ去ったと思った。それは地獄の終わりだと。
だが、刀で同志を傷つけるなどという大罪が、簡単に消えるわけでもなかった。
そう、地獄の終わりじゃない。生き地獄の始まりだった。
「たっちゃんは……村を出て行ったよ……」
「そ……それいつですか!?」
「もう五日前になるかな……。あっきーはあの後一週間寝込んでいたんだよ」
現実に引き戻されたおれは、しばらく何も言えなかった。
何か言おうと唇が動くが、音にならない。
どうしてこんなときだけ頭が回るのだろうか。
リュウ兄が出て行った理由 堕ちた継承者はこの地を去れ。さすれば禍[ は訪れず……
掟の一節が、走馬燈のように駆け抜けた。
「……そう……ですか……」
やっとの思いで吐き出した言葉がそれだ。
憧れの人が突然目の前から消えたというのに、涙すら出てこなかった。
「あっきー……?」
「おにいちゃん、おくすりもってきましたよ」
ショウゴさんとユウの声がした。
しかし今のおれには通過していくだけの音。雑音となんら変わりない。
「あっき~? 聞こえてる……?」
「おにいちゃん?」
「何も聞こえません!」
そう啖呵を切ると、おれは家を飛び出していた。
気がついたら神社にいた。花弁が散った桜は、まるで哀しみを表してるようだ。
顧みると池が見えた。
水切りをして遊んだ記憶が鮮やかに甦る。
足下に転がっている小石を拾って投げてみるが、それは跳ねることなく沈んでいった。
「あ……アキラだ」
久しぶりに聞く女の声。
虚ろな視線を音の発信源に送ると、ミズナが立っていた。
綺麗な黒髪を一つに束ね、道着に身を包み、真剣を……水華を手にしていた。
「……」
「ずっと寝込んでいたのだろう? こんなところに来ていて平気なのか?」
ミズナが隣に来て石を投げる。
その石はあいつが投げたとは思えないほど、軽やかに飛んでいった。
「……おまえ、平気なのかよ?」
小さく呟いたはずの言葉は予想以上に大きかった。
「何が?」
惚[ けているのか、この女は。
急に頭に血が上る。
「何が……じゃねぇだろ!? てめぇ、リュウ兄いなくなって平気なのかよ!? よくまぁ、平気な面して修行なんかしてられるなぁ!?」
ミズナの胸ぐらを掴み上げると、おれは感情にまかせて罵声を浴びせていた。
「兄上は掟に従ったまでだ。私のやることは兄上の跡を継ぐこと。事実に目を背けていて何かが変わるわけでもないだろう」
動じることなく淡々と述べていくミズナに違和感を感じた。
こんな……こんなやつだったっけ?
「ミズナ、休憩にするか?」
「いえ父上、すぐ戻ります」
滝の向こうから現れた族長に即答すると、ミズナはおれの手を振り払い、足早に駆けていく。
「行きましょう、父上」
おれを振り返ることもなく、ミズナは滝の中へと姿を消した。
ちらりとおれに視線を送った族長もミズナの後に続く。
滝の向こうに何があるのか、おれは知っていた。……道場だ。おれがリュウ兄を傷つけた、あの道場。
リュウ兄の顔を思い出した途端、違和感の正体に気付く。
「あの……あの口調は……」
入り口を覆い隠している滝を見つめる。
「あの口調は……」
そう、ミズナの違和感。それは硬く堂々とした口調。
リュウ兄の口調そのものだった。
寂しくないわけ……ないよな。
自分の考えの浅はかさに、その場を動くことができなかった。
リュウ兄が出て行ったのはワツキのため。
修行をして、強くなって、このワツキを守ること。それが残されたおれたちのやるべき使命。リュウ兄の気持ちを汲む唯一のこと。
「やっぱ……おまえは強いよ、ミズナ……」
敵わない。
自嘲にも似た苦笑を漏らして、おれは家へ足を運んだ。玄鳥を取りに。
◇ ◇ ◇
修行に復帰したおれを、族長もミズナも歓迎してくれた。
ショウゴさんだけは、やや表情が暗かったけど。
「ミズナ、アキラ。手合いをしてみなさい」
手合いとは勝負のこと。竹刀を用いての擬似対決だった。
族長の言葉に頷いて、おれたちは向かい合った。
礼をして構える。同時に床を蹴り、斬り込んだ。
速さではおれの方が上。一本取れたと思った。
突然、身体がびくりと硬直し、竹刀を持つ手が震えた。竹刀はミズナに当たる手前で止められていた。
ミズナが目を丸くする。
「何のつもりだ?」
答えることすらできないおれの竹刀を払う。そのまま思い切り竹刀を突き出した。
その竹刀はおれのみぞおちに見事命中。
「がはっ……」
受け身を取れなかったおれは、無惨に膝をついた。
「そこまで!」
族長の静止がかかり、ミズナが動きを止める。
「み~ずなちゃん、オレっちと手合わせしない~?」
「お願いします」
ショウゴさんに連れられて、ミズナは道場の外へ出て行った。
族長がおれに近づいてくる。
「……アキラ、剣術が必ずしも一番とは限らん。目的を達成するために与えられている手段は、一つではない」
突然動けなくなった理由がわからないおれは、族長の言葉の意味もわからなかった。
あの瞬間まで。
◇ ◇ ◇
今日の修行はここまで、と道場から追い出されたおれは、ユウの買い物を手伝っていた。
村から割と近くに位置する巨大都市、ロサリドへ行った帰り道。日は陰り、夕刻時だった。
「おにいちゃん、今日の夕げはたいですよ」
「あぁ~、そういやおまえ、鯛買ってたっけ?」
「おにいちゃんが起きたから、今日はごちそうなのです」
張り切っている妹を尻目に、おれはぼんやりと空を見上げていた。
のんびりとした帰路を、他愛のない会話をしつつ、ただ進んでいった。
村の入り口である竹林に足を踏み入れる。風が吹き、竹の葉がざわめいた。
ふと、背後に殺気を感じ玄鳥を抜く。竹林の中、滅多にお目にかかることのないそれは、〝夜叉〟と飛ばれる鬼だった。
「ったく……まだ丑三つ時じゃねぇだろ。ユウ、下がってろ」
「はい」
息が荒い鬼は、おれたちの持っている食い物を狙っているようだ。
ふざけんなよ、そんなに欲しけりゃ、てめぇでロサリドに行ってこい。
半眼で一瞥すると、夜叉へ斬りかかる。
おれの速さに身動きが取れない夜叉は、キィーキィーと気色の悪い声を上げているだけだった。
一瞬で片は付く。
そう……ミズナと手合わせをしたときと同じことを思った。
そして、あの時と同じことが起こる。
あと一歩のところで、おれは刀を止めていた。
リュウ兄を斬りつけた時の映像が浮かぶ。四肢が己の罪悪感に蝕まれ動かない。
日が沈み辺りが暗くなっていくと、夜叉が本来の力を取り戻す。
しゃぁしゃぁと息を巻きながら、おれを玩具のようにいたぶった。身体に傷が刻まれていく。
痛みは、感じなかった。その代わり、呆然とただ一つの念が、渦巻いていた。
おれは……もう、刀を使えないんだ……
「いやああああ!!」
妹の叫び声が響き渡る。
「……! アキラ!!」
蒼い刀が見えた。
刹那、鬼の頭が吹き飛んだ。
蒼焔を鞘に収め、ショウゴさんがおれを抱く。
「アキラ、しっかりしろ!!」
ショウゴさんの真面目な口調……久々だなぁ……
そんなことを考えて、おれは自然と笑みを零[ す。
「ショウゴさん……」
「大丈夫か。ならいい。ゆーちゃん、すぐ薬作ってきて!」
「は、はい!」
妹が遠のいたのを確認すると、おれは小さく呟いた。
「……おれ……刀……振れないです」
「あ……アキラ……今なんて……?」
ショウゴさんの目が大きくなる。
細目のショウゴさんの瞳をぼんやりと見つめて、おれは笑った。いや、泣いていたのかもしれない。
「おれは、もう……刀は振れないです。……抜いた数だけ、誰かの心や体を傷つけるから……」
その時初めて、おれはショウゴさんの頬を伝う涙を見た。
この村を守る手段は刀だけじゃないから……おれは、刀を捨てます
自分の鼓動が耳をつんざく。
頭は真っ白だった。そこに繰り返し再生される映像。
血塗られた顔……痛みなど少しも感じさせずに笑う顔。
おれは大切な人を斬りつけた。
憧れだったあの人の笑顔が頭に浮かぶ。
刹那、その映像は血まみれになるのだ。
〝ソレ〟が、おれの人生の全てだと言うように、ひたすら頭の中で流れ続けていた。
おれの心を支配するのは、自己嫌悪と絶望感。
悪夢は永遠と続くものだと思っていた。
これが地獄なのだろう。そんな考えすら浮かび始めていた。
ふいに、視界に色が浮かんだ。
ぼんやりと焦点を合わせると、おれの顔を覗き込む人がいる。
「ゆーちゃん、あっきーが目を覚ましたよー」
「本当ですか? すぐにおくすりをもってきます!」
ぱたぱたと足音が遠のいていく。
「あっきー、しゃべれる?」
さんばら髪の男が尋ねてきた。
この人は……多分、ショウゴさん。リュウ兄の親友。リュウ兄の……
「りゅ、リュウ兄!?」
「あ、あっきー、ダメだよー。いきなり飛び起きたりしちゃ……」
ぐにゃりと目に映るものが歪んだ。頭に激痛が走る。
だが、今のおれにとって、そんなことは些細な痛みに過ぎなかった。
心配させれば答えがもらえない。
おれはゆっくりと深呼吸してから再び問うた。
「リュウ兄は……?」
目を開けた時、悪夢は過ぎ去ったと思った。それは地獄の終わりだと。
だが、刀で同志を傷つけるなどという大罪が、簡単に消えるわけでもなかった。
そう、地獄の終わりじゃない。生き地獄の始まりだった。
「たっちゃんは……村を出て行ったよ……」
「そ……それいつですか!?」
「もう五日前になるかな……。あっきーはあの後一週間寝込んでいたんだよ」
現実に引き戻されたおれは、しばらく何も言えなかった。
何か言おうと唇が動くが、音にならない。
どうしてこんなときだけ頭が回るのだろうか。
リュウ兄が出て行った理由
掟の一節が、走馬燈のように駆け抜けた。
「……そう……ですか……」
やっとの思いで吐き出した言葉がそれだ。
憧れの人が突然目の前から消えたというのに、涙すら出てこなかった。
「あっきー……?」
「おにいちゃん、おくすりもってきましたよ」
ショウゴさんとユウの声がした。
しかし今のおれには通過していくだけの音。雑音となんら変わりない。
「あっき~? 聞こえてる……?」
「おにいちゃん?」
「何も聞こえません!」
そう啖呵を切ると、おれは家を飛び出していた。
気がついたら神社にいた。花弁が散った桜は、まるで哀しみを表してるようだ。
顧みると池が見えた。
水切りをして遊んだ記憶が鮮やかに甦る。
足下に転がっている小石を拾って投げてみるが、それは跳ねることなく沈んでいった。
「あ……アキラだ」
久しぶりに聞く女の声。
虚ろな視線を音の発信源に送ると、ミズナが立っていた。
綺麗な黒髪を一つに束ね、道着に身を包み、真剣を……水華を手にしていた。
「……」
「ずっと寝込んでいたのだろう? こんなところに来ていて平気なのか?」
ミズナが隣に来て石を投げる。
その石はあいつが投げたとは思えないほど、軽やかに飛んでいった。
「……おまえ、平気なのかよ?」
小さく呟いたはずの言葉は予想以上に大きかった。
「何が?」
急に頭に血が上る。
「何が……じゃねぇだろ!? てめぇ、リュウ兄いなくなって平気なのかよ!? よくまぁ、平気な面して修行なんかしてられるなぁ!?」
ミズナの胸ぐらを掴み上げると、おれは感情にまかせて罵声を浴びせていた。
「兄上は掟に従ったまでだ。私のやることは兄上の跡を継ぐこと。事実に目を背けていて何かが変わるわけでもないだろう」
動じることなく淡々と述べていくミズナに違和感を感じた。
こんな……こんなやつだったっけ?
「ミズナ、休憩にするか?」
「いえ父上、すぐ戻ります」
滝の向こうから現れた族長に即答すると、ミズナはおれの手を振り払い、足早に駆けていく。
「行きましょう、父上」
おれを振り返ることもなく、ミズナは滝の中へと姿を消した。
ちらりとおれに視線を送った族長もミズナの後に続く。
滝の向こうに何があるのか、おれは知っていた。……道場だ。おれがリュウ兄を傷つけた、あの道場。
リュウ兄の顔を思い出した途端、違和感の正体に気付く。
「あの……あの口調は……」
入り口を覆い隠している滝を見つめる。
「あの口調は……」
そう、ミズナの違和感。それは硬く堂々とした口調。
リュウ兄の口調そのものだった。
寂しくないわけ……ないよな。
自分の考えの浅はかさに、その場を動くことができなかった。
リュウ兄が出て行ったのはワツキのため。
修行をして、強くなって、このワツキを守ること。それが残されたおれたちのやるべき使命。リュウ兄の気持ちを汲む唯一のこと。
「やっぱ……おまえは強いよ、ミズナ……」
敵わない。
自嘲にも似た苦笑を漏らして、おれは家へ足を運んだ。玄鳥を取りに。
◇ ◇ ◇
修行に復帰したおれを、族長もミズナも歓迎してくれた。
ショウゴさんだけは、やや表情が暗かったけど。
「ミズナ、アキラ。手合いをしてみなさい」
手合いとは勝負のこと。竹刀を用いての擬似対決だった。
族長の言葉に頷いて、おれたちは向かい合った。
礼をして構える。同時に床を蹴り、斬り込んだ。
速さではおれの方が上。一本取れたと思った。
突然、身体がびくりと硬直し、竹刀を持つ手が震えた。竹刀はミズナに当たる手前で止められていた。
ミズナが目を丸くする。
「何のつもりだ?」
答えることすらできないおれの竹刀を払う。そのまま思い切り竹刀を突き出した。
その竹刀はおれのみぞおちに見事命中。
「がはっ……」
受け身を取れなかったおれは、無惨に膝をついた。
「そこまで!」
族長の静止がかかり、ミズナが動きを止める。
「み~ずなちゃん、オレっちと手合わせしない~?」
「お願いします」
ショウゴさんに連れられて、ミズナは道場の外へ出て行った。
族長がおれに近づいてくる。
「……アキラ、剣術が必ずしも一番とは限らん。目的を達成するために与えられている手段は、一つではない」
突然動けなくなった理由がわからないおれは、族長の言葉の意味もわからなかった。
◇ ◇ ◇
今日の修行はここまで、と道場から追い出されたおれは、ユウの買い物を手伝っていた。
村から割と近くに位置する巨大都市、ロサリドへ行った帰り道。日は陰り、夕刻時だった。
「おにいちゃん、今日の夕げはたいですよ」
「あぁ~、そういやおまえ、鯛買ってたっけ?」
「おにいちゃんが起きたから、今日はごちそうなのです」
張り切っている妹を尻目に、おれはぼんやりと空を見上げていた。
のんびりとした帰路を、他愛のない会話をしつつ、ただ進んでいった。
村の入り口である竹林に足を踏み入れる。風が吹き、竹の葉がざわめいた。
ふと、背後に殺気を感じ玄鳥を抜く。竹林の中、滅多にお目にかかることのないそれは、〝夜叉〟と飛ばれる鬼だった。
「ったく……まだ丑三つ時じゃねぇだろ。ユウ、下がってろ」
「はい」
息が荒い鬼は、おれたちの持っている食い物を狙っているようだ。
ふざけんなよ、そんなに欲しけりゃ、てめぇでロサリドに行ってこい。
半眼で一瞥すると、夜叉へ斬りかかる。
おれの速さに身動きが取れない夜叉は、キィーキィーと気色の悪い声を上げているだけだった。
一瞬で片は付く。
そう……ミズナと手合わせをしたときと同じことを思った。
そして、あの時と同じことが起こる。
あと一歩のところで、おれは刀を止めていた。
リュウ兄を斬りつけた時の映像が浮かぶ。四肢が己の罪悪感に蝕まれ動かない。
日が沈み辺りが暗くなっていくと、夜叉が本来の力を取り戻す。
しゃぁしゃぁと息を巻きながら、おれを玩具のようにいたぶった。身体に傷が刻まれていく。
痛みは、感じなかった。その代わり、呆然とただ一つの念が、渦巻いていた。
おれは……もう、刀を使えないんだ……
「いやああああ!!」
妹の叫び声が響き渡る。
「……!
蒼い刀が見えた。
刹那、鬼の頭が吹き飛んだ。
蒼焔を鞘に収め、ショウゴさんがおれを抱く。
「アキラ、しっかりしろ!!」
ショウゴさんの真面目な口調……久々だなぁ……
そんなことを考えて、おれは自然と笑みを
「ショウゴさん……」
「大丈夫か。ならいい。ゆーちゃん、すぐ薬作ってきて!」
「は、はい!」
妹が遠のいたのを確認すると、おれは小さく呟いた。
「……おれ……刀……振れないです」
「あ……アキラ……今なんて……?」
ショウゴさんの目が大きくなる。
細目のショウゴさんの瞳をぼんやりと見つめて、おれは笑った。いや、泣いていたのかもしれない。
「おれは、もう……刀は振れないです。……抜いた数だけ、誰かの心や体を傷つけるから……」
その時初めて、おれはショウゴさんの頬を伝う涙を見た。
禍月の舞*Past Memory 『想うが故に 〝華〟』
「兄さま……」
私は一人、池の
「アキラ……」
呼んでみても返事はない。
目頭が熱くなる。
「置いて……かないでよ……」
どうして気がつくことができなかったのだろう。いつもあんなに近くにいたのに。
「母さま……私どうしたらいいの……」
◇ ◇ ◇
時は少し遡り、昨日の夕暮れのこと。
買い物に行ったはずのユウが、血相を変えて村へ戻ってきた。
「ゆ、ユウ?」
「みずなおねえちゃん……! ごめんなさい、どいてください!」
何かあったのだろうか。
ユウの駆けていく姿を呆然と見送る。
しばらくして、ショウゴさんが村へ帰ってきた。傷だらけのアキラを抱えて。
「アキラ!?」
私が駆け寄ると、アキラは決まりが悪そうに笑みを浮かべた。
「あはは。しくっちゃった。かっこわりぃな」
笑っているアキラに対して、ショウゴさんの表情は暗い。
「ミズナ、ちょっと族長にこれ預けてくれよ」
「え……」
アキラが差し出したのは、普段手放すことなどほとんどない玄鳥。
「お、おれさ。こっちの腕折っちまったみてぇだから。ユウは手入れできねぇからよ」
「あ……あぁ、わかった」
頷いて私は玄鳥を受け取った。
「よろしくな」
再びアキラが微笑む。
「あっきー、ゆーちゃん待ってるから」
「あ、はい」
ショウゴさんに連れられて、アキラは自宅へと帰っていった。
「今、ショウゴさんの声震えていたような……」
気のせいだよね、きっと……
身を翻し、私も家へ足を運んだ。
「父上、失礼します」
「アキラが怪我をしたそうだが」
「あ、はい。全身傷だらけでした。利き腕を骨折したようで、しばらくこれを預かって欲しいと」
そう言って玄鳥を父さまの前に差し出した。
一瞬、父さまは目を瞠る。
僅かの沈黙が長く感じられた。
「……そうか」
玄鳥を手に取り、その目を細める。
「他に何か変わったことは?」
「え、いえ。アキラは特に」
「そうか……」
それきり、父さまは口を開かなかった。
◇ ◇ ◇
今思えば、あの時にショウゴさんも父さまも気付いていたんだ。アキラの異変に。
私だけ、気がつかなかった。
後悔が頭をよぎる。
「今更……追いかけても……」
どこにいるかすらわからない。
「なんで、私に何も言わないで行っちゃうのよ……」
アキラはもう、この村にいない。
私がそれを知ったのはついさっきだった。
◇ ◇ ◇
昨日のことが気がかりで、夕刻、ユウの家を訪れてみた。
いつもより静かだ。アキラは寝ているのだろうか。
「ユウ? いるか?」
「あ……みずなおねえちゃん」
ユウはぼんやりと居間の座布団に腰を下ろしていた。
「アキラは?」
寝ているのだとしても、ユウが夕刻に台所にいないなんておかしい。ユウの両親は随分前に亡くなっているから、家事はもっぱらユウの仕事だったのだ。
「おにいちゃんは……この村にはいません」
「え?」
思わず聞き返す。
「おにいちゃんは……おやかたさんといっしょに、村をでていきました」
それは兄さまを失ったばかりの私にとって、受け入れがたい現実だった。
〝親方さん〟とは、恐らくワツキと外とを結ぶ大商人のこと。
剣術一筋のアキラが、どうして親方さんと一緒に出て行くの?
それに……親方さんって、滅多に村に来ないのに……
「あ……」
昨日の夜、父上が手紙を書いていた。
誰宛かは知らないけれど、急な用事みたいだった。
でも……まさか……
「おにいちゃんが、でていったりゆうは、カタナをふれなくなったからです」
「アキラが……?」
「ごめんなさい。くわしくはショウゴさんにきいてください」
そう言うとユウは微笑んだ。
瞳に大粒の涙を浮かべて。
◇ ◇ ◇
カラン。
突然の足音に顧みると、ショウゴさんが立っていた。
「みずなちゃん、こんなに遅く一人でどうしたの~?」
着物姿に下駄を履き、腰には蒼焔を帯びている。
「……アキラが」
そこまで言い出すが、言葉が出てこない。気持ちが沈み、それと共に俯く。
返事が、ない。
ちらりと目線を上げてみると、ショウゴさんの瞳が揺れていた。
私がそれを見とめたことに気付くと、ショウゴさんは右手で目元を覆い隠した。
「あっきーは、優しい子だよ……」
重い沈黙が流れる。
アキラが刀を振れなくなったのは、兄さまを斬りつけたことが原因だと、父上が教えてくれた。
私が気付かないところで、時は流れていたのだ。
兄さまの跡を私が継げば終わりだと思っていた。そんな簡単なことじゃなかったんだ……
「みずなちゃん?」
気がつくと、ショウゴさんは隣に座り、私の顔を覗き込んでいた。
「自分を責めたらだめだよー。……そぉれっと~」
ショウゴさんが石を投げる。その石は綺麗に水を切って飛んでいった。
「昔これよくやったなぁ。たっちゃんと二人でさ~」
にっこりと微笑み、ショウゴさんは空を仰ぐ。
「こんな、朧月夜だったなぁ。二人でイタズラして、この池の前で水切りしながら、そのいい訳を考えてね~。結局み~んなばれちゃって、ぞくちょーに怒られるんだけど」
「……」
そんなことがあったんだ……。私とアキラも似たようなことしてたっけ。
「たっちゃんもあっきーもね。キミのことを心配していたよ」
「え……?」
「二人とも、自分が出て行くことで、みずなちゃんが自分を責めないか~ってね」
私は何も言えなかった。文字通り、図星を突かれて絶句していた。
「あっきー、そういうところたっちゃんに似てるんだよなぁ。ほんと、あいつの弟みたいでさ」
くすくすと笑みを零すショウゴさんは、どこか寂しげな表情をしていた。
「あ、そうだ。もう一つ、二人揃って言ってたことがぁ」
「なんですか……?」
「それはね~、夢をキミに託すってことだよー」
夢を……私に……?
「ほら、覚えてない? まだあっきーもみずなちゃんも四歳くらいだったから……五年くらい前かなぁ。オレっちたち四人で、約束したじゃん?」
『約束だぞ!』
頭の中でアキラの声がした。
その約束は、遠い遠い昔の記憶。私とアキラが初めて刀を握った日。
「覚えて、ます……」
「今は、もう……オレっちとみずなちゃんだけになっちゃったけどね~」
ショウゴさんは再び石を投げた。今度も鮮やかに飛び跳ねていく。
「だから、オレっちたちは責任重だぁい」
そう言うと、立ち上がって蒼焔を抜いた。
「二人の分も頑張らなきゃね~」
二人の分も……
そっか……初めから私のやることは決まっていたんだ。
「はい」
私も水華を抜く。その刃を蒼焔と交差した。
刀と刀を交えるのは、昔した約束の証。
「さぁ、こんなところにいつまでもいたら風邪引いちゃうよ~」
「……はい」
「戻ろっか」
その笑顔はいつものショウゴさんのものだった。
笑顔で応えて、私たちは石段を下りていった。
◇ ◇ ◇
「次!!」
「ま……マツザワ殿、少し休まれては……」
「私は平気だ。次、出る者はいないのか!?」
あれから数年が経つ。アキラも兄さまも戻ってこない。
でも、私がやることは決まっている。その心は揺らがない。
『父上、お願いがあります』
あの晩、ショウゴさんと話をした後、父さまに自分の気持ちを伝えた。
『名を、封じさせてください』
アキラが玄鳥を封じたように。
兄さまがその名を心に封じたように。
私の名も、その時が来るまで。
『まだ私はミズナとは名乗れません』
強く優しかった二人が、呼んでくれた名前。
母さまに付けてもらった名前。
夢を託された名前。
『スイカを降ろし、己の力で制したときに』
まだ私はスイカを降ろせていなかった。
スイカを降ろし、制御して初めて、その名を名乗れると思った。
だから、それまでは……
ある時は静かに佇む松の如く、ある時は山を切り裂く沢の如し。
その斬り口は淀むことなく澄み渡り、水龍と共に清い流れになる。
〝マツザワ〟はそう謳われた母さまの通り名。
スイカを降ろした母さま。
母さまが亡くなって以来、父さまも兄さまも降ろすことのできなかった水龍様。
私は必ず降ろすから、だからその時まで見守ってください……
「次、出る者はいないのか!?」
「はぁ~い。オレっちとやらなぁい~?」
「お願いします!」
ショウゴさんはあれから程なくしてソウエンを降ろしていた。
今はそのショウゴさんの背を追っている。その先には、アキラと兄さまがいる。
「はじめ!」
強く、強くならなければ。
昔兄さまが教えてくれたことがある。
『失いたくないものは、己の力で守り通せ』
禍月の舞*Past Memory 『想うが故に 〝after episode〟』
あの桜を見なくなってから七年目の春が訪れた。
「ルーティング、こっちですよ、こっち!」
「主、俺は任務が……」
現在俺は、クロウ族のシルードに仕えている。当然、俺たちの宿敵である本家ではないわけだが。
「任務ってボクがお願いしたあの件でしょう?」
「あぁ。まだ片付いたわけではない」
「じゃ、今日はボクに付き合うことが任務で」
爽やかな笑顔で、主はさらりと命令を下した。
「……俺は人混みは」
「ほら、ルーティング! あそこにリンゴ飴が売ってますよ!」
屈辱の記憶が甦る。俺は小さく嘆息した。
主と俺はロサリドの春祭りに来ている。ディザード有数の大都市なだけあり、祭りに来る奴らが多い。大きな声でなければ会話にならなかった。
「……俺は甘いものは」
届かないであろう言葉を漏らした時、ある会話が一際大きく俺の耳に入った。
「ほな、おやっさん。わいはワツキに寄ってきますわ」
「あいよ! 族長さんによろしゅうな!」
「しかと、伝えときますわ~」
親方と一緒にいたあいつは……
「ルーティング! ボクの話聞いていましたか?」
「あ、主……いや、その……」
主が俺の前で仁王立ちしていた。
俺はそろそろと背後へ視線を送る。
先刻の二人は、既に人混みの中へ姿を消していた。
「誰かいたのですか?」
刀を持っていなかったな……
だが、あいつの選んだ道なら。あの心は失われていないだろう。
俺は静かに目を閉じる。
「ルーティング……?」
ゆっくりと瞼を上げて、俺を見上げる顔に微笑む。
「少々……懐かしい風が吹いたな、と」
◇ ◇ ◇
こんこん、とある屋敷の窓を拳で叩く。
「入って構わんぞ、ショウゴ」
「はぁ~い」
開いた窓から中へ身を送った。
「あっきーが戻ってきたとか?」
「あぁ、さっき私の所へ来たな」
「どうだったぁ?」
族長の部屋にどかりと座り込む。
「うむ……何というか、親方さんに染め上げられたというか……」
苦笑いを浮かべながら話す族長だが、とても嬉しそうに見えた。
「ってことは、あの独特の訛りがぁ~」
「見事だったぞ」
「そりゃ、まぁ……」
あっきー、みずなちゃんに殴られるなぁ~。「何だそのふざけた口調は!」と切れる彼女が目に浮かぶ。
「あぁ~、そういえばー。たっちゃんの話聞きましたー?」
「リュウジのことか……風の便りでな。ショウゴ、どう思う?」
リュウジはクロウ族の一員となり、オレたちと同じように任務をしているらしい。
「べ~つに、なぁにも。オレっちはむしろ嬉しいかな~」
「嬉しい……?」
親友が敵[ の一族に仲間入りしたからといって、別に驚くわけでも怒るわけでもなかった。
リュウジはあいつなりに考えてのことだろう。ずっとワツキにいたオレが口出しすることじゃない。オレは誰よりあいつを信じているから、むしろ喜ばしいことだったのだ。
「同じように任務をしてる~ってことはぁ」
「うむ……」
まったく、族長は何を期待しているのだろう。
オレはにやりとほくそ笑んだ。
「そのうち、どっかで会えるかなぁ~って」
オレにとって、それが何よりの報せだった。
窓の外へ顔を向ける。
ひらりと一枚の花弁が舞い降りた。
◇ ◇ ◇
「ユウ!!」
「あら、マツザワさん。どうかなさいましたか?」
呼吸を整えながら落ち着いて問う。
「アキラが……村へ戻っていると聞いたのだが……」
ユウは柔らかい笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。つい先ほど。今なら……神社にいるかもしれません。桜を見に行くと言っておりましたので」
「神社か……ありがとう、ユウ」
身を翻し、再び全力疾走しようとした時。
「あ、お待ちください」
「な、何か?」
ユウは懐[ から何か小物を取り出すと、それを私の手に乗せた。
「アキラさんから頼み事です」
「頼み……事?」
「ええ、マツザワさんに。このお土産を〝ミズナさん〟に届けて欲しいと」
速くなっていた鼓動が、一瞬止まった。
手の中にある物へ視線を送る。
それは綺麗な簪[ だった。桜の花弁をあしらい、美しい深紅の玉がついている。この玉はルビーだろうか。
「お願い、できますか?」
なかなか答えない私に、ユウが首を傾げて尋ねてくる。
「あぁ。必ず、届けよう」
「はい」
にっこりとユウが微笑んだ。その笑顔を見るのは、七年ぶりだ。
「少し、神社に行ってくる」
「お気をつけて」
目と鼻の先ほどだから、気をつけることもないのだが、彼女はどこへ行く時でもそう言った。それは、アキラが怪我をして村へ戻ってきた日から。
こくんと頷き、私は駆けだした。
◇ ◇ ◇
満開の桜を見るのは、〝あの時〟以来か。
七年ぶりの桜を一人ぼんやりと眺めていたとき、あいつの声がした。
「アキラ……」
様子を見るに、長い石段を駆け上がってきたようだ。息が上がっている。
ふと、あいつの左手を見ると、おれがユウに頼んでおいた品が握りしめられていた。
「お久しぶりでんなぁ、マツザワはん」
あの方の通り名を口にして、懐かしい気持ちが沸き起こる。
おれはユウと族長から、ミズナがその名を封じたことを聞いていた。
「その……口調……」
あいつがあからさまに顔を顰[ める。
そういえば、親方さんの口調は苦手だと前言っていたな。
「ええ感じやろ~? おやっさんのがす~っかりうつってもうた」
「……前より余計にうるさくなった」
あぁ、嫌味を言われるのも久しぶりだなぁ。
昔のおれなら反論していただろう。でも、今は久しぶりのそれに顔を綻ばせていた。
それがお気に召さなかったらしく、ミズナは刀を突きつける。
「笑い事ではない。ふざけるのも大概にしろ」
「おなごがこないなもん、やたらと振り回したらあきまへんで~」
火に油を注ぐとはこのこと。今は自覚してやっていたりする。向きになるのが懐かしい。
「戯けたことを!」
相変わらずおちょくられることが苦手なようだ。
刀を思いっきり振り下ろしてくる。
「危ないいうてんのになぁ」
おれの今の相棒。算盤[ を取り出して刀を受ける。
ホントに久しぶりだな、こうして喧嘩するの。
喧嘩をしていれば、またリュウ兄が仲裁に来てくれるだろうか。
心の奥で、そんな気がしていた。
「ほれほれ、社の前でそないなもん出しとったら罰当たりとちゃうん?」
「む……」
ミズナは渋々刀を鞘に収めながら、おれから目線を逸[ らす。
「あの……」
「なんや?」
「しばらくは、いるのか?」
囁くような声で聞いてくる。
昔から変わらんなぁ。
「せやな。これからはここを拠点にするさかい。おやっさんに認められて、ワツキ専属の商人になれたからなぁ」
言いながら、おれは池の畔へ足を運ぶ。
「……ミズナ、久しぶりに水切りしねぇか?」
あえてミズナと呼び、かつてのおれの口調で問うた。
突然名を呼ばれ驚いているのか、ミズナは瞠目していた。
「やらね?」
「……いいよ、やろう」
可愛らしい笑みを浮かべると、あいつも〝あの時〟のままの口調で返事をした。
おれたちは小石を手に取り、池を見つめる。
今ここに、リュウ兄はいない。
「せーので投げるぜ」
「うん」
「せ~っの!」
同時に放たれた二つの石は、並んで飛び跳ねていく。
おれたちは、歩き出したんだ。
並行だった石の間隔が徐々に開いていく。まるで、おれたちの進む道が分かれたことを示しているかのように。
静かな沈黙が流れる。
「……さてと。仕事に戻りましょか。マツザワはんも任務抜け出して来たんやろ?」
「な……」
「その格好、よそ行きやもんなぁ」
村にいる間、基本的にミズナは道着姿だった。
図星なのか、そのまま押し黙る。
「そないにわいに会いたかったんかぁ?」
意地悪そうな笑みを浮かべると、案の定あいつは向きになった。
「そんなわけないだろう! すぐに戻る!」
そう怒鳴って、足早に石段を駆け下りていく。
「わいもロサリドへ商談に行かんとなぁ」
ミズナの背を見送りながら、ゆっくりと歩き出した。
カラン、カラン、カラン。
石段を一段下りる度に下駄の音が響く。
振り返ると、神木がおれたちを送り出すように、風が花弁を運んでくる。
「ほな、行ってきますわ」
おれは身を翻し、右手を上げた。
風が吹いた。
それは美しく咲き乱れる花弁を空へ運び、ワツキを駆け抜けていく。
春色の雪がこの地に降り注いでいた。
「ルーティング、こっちですよ、こっち!」
「主、俺は任務が……」
現在俺は、クロウ族のシルードに仕えている。当然、俺たちの宿敵である本家ではないわけだが。
「任務ってボクがお願いしたあの件でしょう?」
「あぁ。まだ片付いたわけではない」
「じゃ、今日はボクに付き合うことが任務で」
爽やかな笑顔で、主はさらりと命令を下した。
「……俺は人混みは」
「ほら、ルーティング! あそこにリンゴ飴が売ってますよ!」
屈辱の記憶が甦る。俺は小さく嘆息した。
主と俺はロサリドの春祭りに来ている。ディザード有数の大都市なだけあり、祭りに来る奴らが多い。大きな声でなければ会話にならなかった。
「……俺は甘いものは」
届かないであろう言葉を漏らした時、ある会話が一際大きく俺の耳に入った。
「ほな、おやっさん。わいはワツキに寄ってきますわ」
「あいよ! 族長さんによろしゅうな!」
「しかと、伝えときますわ~」
親方と一緒にいたあいつは……
「ルーティング! ボクの話聞いていましたか?」
「あ、主……いや、その……」
主が俺の前で仁王立ちしていた。
俺はそろそろと背後へ視線を送る。
先刻の二人は、既に人混みの中へ姿を消していた。
「誰かいたのですか?」
刀を持っていなかったな……
だが、あいつの選んだ道なら。あの心は失われていないだろう。
俺は静かに目を閉じる。
「ルーティング……?」
ゆっくりと瞼を上げて、俺を見上げる顔に微笑む。
「少々……懐かしい風が吹いたな、と」
◇ ◇ ◇
こんこん、とある屋敷の窓を拳で叩く。
「入って構わんぞ、ショウゴ」
「はぁ~い」
開いた窓から中へ身を送った。
「あっきーが戻ってきたとか?」
「あぁ、さっき私の所へ来たな」
「どうだったぁ?」
族長の部屋にどかりと座り込む。
「うむ……何というか、親方さんに染め上げられたというか……」
苦笑いを浮かべながら話す族長だが、とても嬉しそうに見えた。
「ってことは、あの独特の訛りがぁ~」
「見事だったぞ」
「そりゃ、まぁ……」
あっきー、みずなちゃんに殴られるなぁ~。「何だそのふざけた口調は!」と切れる彼女が目に浮かぶ。
「あぁ~、そういえばー。たっちゃんの話聞きましたー?」
「リュウジのことか……風の便りでな。ショウゴ、どう思う?」
リュウジはクロウ族の一員となり、オレたちと同じように任務をしているらしい。
「べ~つに、なぁにも。オレっちはむしろ嬉しいかな~」
「嬉しい……?」
親友が
リュウジはあいつなりに考えてのことだろう。ずっとワツキにいたオレが口出しすることじゃない。オレは誰よりあいつを信じているから、むしろ喜ばしいことだったのだ。
「同じように任務をしてる~ってことはぁ」
「うむ……」
まったく、族長は何を期待しているのだろう。
オレはにやりとほくそ笑んだ。
「そのうち、どっかで会えるかなぁ~って」
オレにとって、それが何よりの報せだった。
窓の外へ顔を向ける。
ひらりと一枚の花弁が舞い降りた。
◇ ◇ ◇
「ユウ!!」
「あら、マツザワさん。どうかなさいましたか?」
呼吸を整えながら落ち着いて問う。
「アキラが……村へ戻っていると聞いたのだが……」
ユウは柔らかい笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。つい先ほど。今なら……神社にいるかもしれません。桜を見に行くと言っておりましたので」
「神社か……ありがとう、ユウ」
身を翻し、再び全力疾走しようとした時。
「あ、お待ちください」
「な、何か?」
ユウは
「アキラさんから頼み事です」
「頼み……事?」
「ええ、マツザワさんに。このお土産を〝ミズナさん〟に届けて欲しいと」
速くなっていた鼓動が、一瞬止まった。
手の中にある物へ視線を送る。
それは綺麗な
「お願い、できますか?」
なかなか答えない私に、ユウが首を傾げて尋ねてくる。
「あぁ。必ず、届けよう」
「はい」
にっこりとユウが微笑んだ。その笑顔を見るのは、七年ぶりだ。
「少し、神社に行ってくる」
「お気をつけて」
目と鼻の先ほどだから、気をつけることもないのだが、彼女はどこへ行く時でもそう言った。それは、アキラが怪我をして村へ戻ってきた日から。
こくんと頷き、私は駆けだした。
◇ ◇ ◇
満開の桜を見るのは、〝あの時〟以来か。
七年ぶりの桜を一人ぼんやりと眺めていたとき、あいつの声がした。
「アキラ……」
様子を見るに、長い石段を駆け上がってきたようだ。息が上がっている。
ふと、あいつの左手を見ると、おれがユウに頼んでおいた品が握りしめられていた。
「お久しぶりでんなぁ、マツザワはん」
あの方の通り名を口にして、懐かしい気持ちが沸き起こる。
おれはユウと族長から、ミズナがその名を封じたことを聞いていた。
「その……口調……」
あいつがあからさまに顔を
そういえば、親方さんの口調は苦手だと前言っていたな。
「ええ感じやろ~? おやっさんのがす~っかりうつってもうた」
「……前より余計にうるさくなった」
あぁ、嫌味を言われるのも久しぶりだなぁ。
昔のおれなら反論していただろう。でも、今は久しぶりのそれに顔を綻ばせていた。
それがお気に召さなかったらしく、ミズナは刀を突きつける。
「笑い事ではない。ふざけるのも大概にしろ」
「おなごがこないなもん、やたらと振り回したらあきまへんで~」
火に油を注ぐとはこのこと。今は自覚してやっていたりする。向きになるのが懐かしい。
「戯けたことを!」
相変わらずおちょくられることが苦手なようだ。
刀を思いっきり振り下ろしてくる。
「危ないいうてんのになぁ」
おれの今の相棒。
ホントに久しぶりだな、こうして喧嘩するの。
喧嘩をしていれば、またリュウ兄が仲裁に来てくれるだろうか。
心の奥で、そんな気がしていた。
「ほれほれ、社の前でそないなもん出しとったら罰当たりとちゃうん?」
「む……」
ミズナは渋々刀を鞘に収めながら、おれから目線を
「あの……」
「なんや?」
「しばらくは、いるのか?」
囁くような声で聞いてくる。
昔から変わらんなぁ。
「せやな。これからはここを拠点にするさかい。おやっさんに認められて、ワツキ専属の商人になれたからなぁ」
言いながら、おれは池の畔へ足を運ぶ。
「……ミズナ、久しぶりに水切りしねぇか?」
あえてミズナと呼び、かつてのおれの口調で問うた。
突然名を呼ばれ驚いているのか、ミズナは瞠目していた。
「やらね?」
「……いいよ、やろう」
可愛らしい笑みを浮かべると、あいつも〝あの時〟のままの口調で返事をした。
おれたちは小石を手に取り、池を見つめる。
今ここに、リュウ兄はいない。
「せーので投げるぜ」
「うん」
「せ~っの!」
同時に放たれた二つの石は、並んで飛び跳ねていく。
おれたちは、歩き出したんだ。
並行だった石の間隔が徐々に開いていく。まるで、おれたちの進む道が分かれたことを示しているかのように。
静かな沈黙が流れる。
「……さてと。仕事に戻りましょか。マツザワはんも任務抜け出して来たんやろ?」
「な……」
「その格好、よそ行きやもんなぁ」
村にいる間、基本的にミズナは道着姿だった。
図星なのか、そのまま押し黙る。
「そないにわいに会いたかったんかぁ?」
意地悪そうな笑みを浮かべると、案の定あいつは向きになった。
「そんなわけないだろう! すぐに戻る!」
そう怒鳴って、足早に石段を駆け下りていく。
「わいもロサリドへ商談に行かんとなぁ」
ミズナの背を見送りながら、ゆっくりと歩き出した。
カラン、カラン、カラン。
石段を一段下りる度に下駄の音が響く。
振り返ると、神木がおれたちを送り出すように、風が花弁を運んでくる。
「ほな、行ってきますわ」
おれは身を翻し、右手を上げた。
風が吹いた。
それは美しく咲き乱れる花弁を空へ運び、ワツキを駆け抜けていく。
春色の雪がこの地に降り注いでいた。
第17記 我らが敵に情けなし
耳鳴りのような高い音が辺りに響いた。
ルーティングが眉根を寄せた時、腕に衝撃が走り、印が割れる。
また詠唱が中断してしまった。
「く……まだあれを渡していないのか!」
渋面を作って舌打ちをする。
「力が足りない……」
何度も唱えてみるものの、結界が形になる前に霧のように掻き消えてしまっていた。
「ルーティング、大丈夫か?」
修行中、何度も魔法を放っていたのだ。当然疲れが見えていた。
ルーティングの魔力は、後僅かだ。
「問題ない」
口では言うが、がくりと片膝をつく。
エクストラの消費が思ったより激しかったのか。術は失敗すればその分、魔力を余計に消費する。
だが、とルーティングはアズウェルを見据えた。
あの技が〝アレ〟だとすると、エクストラの失敗は決して無駄なことではなかったはずだ。
二十歩ほど離れているアズウェルが、心配そうにルーティングを見つめている。
無理をして術を唱えても、失敗する可能性が高いだろう。
「小僧、悪いが少し休ませてもらう。お前も休んでおけ。結界を成したら体力をかなり奪われる」
「おう、わかった」
焦っていても仕方がない。結界があろうがなかろうが、ショウゴたちは村を守るだろう。
「次で、片をつける」
少しでも早く、彼らの負担を和らげるために。
ルーティングは坐禅を組むと、目を閉じて心を落ち着けた。
◇ ◇ ◇
「マツザワ、アキラ、これを持って行きなさい」
族長が紋章の描かれている板を渡す。スワロウ族の紋章だった。戦の時、スワロウ族はこの板を必ず懐に入れて持ち歩いている。勝利の呪いがかけられた板だ。
無言で頷き、二人は板を受け取った。
「武運を祈る」
族長のかけ声と共に、その場にいた者が一斉に散った。
「……アズウェル」
先刻、アズウェルの行方を問い詰めた時、族長が視線を送った先は神社だ。
アズウェルを迎えに行くか、否か。ディオウは決めあぐねていた。
「ディオウ!」
取り残されたディオウにラキィが声をかけてくる。ラキィの後ろにはユウもいた。
「ラキィか。おれたちはどうする」
「そうね……まずは雑魚を蹴散らしましょ。この村にいる限り、アズウェルともそのうち会うはずよ」
「……そうだな。お前はどうするんだ」
ディオウがユウに尋ねる。
「私は治療師です。村の中に来た者には応戦しますが、あくまで治癒優先になります。……これをどうぞ」
ユウは小瓶のついた首飾りをディオウに見せる。
小瓶の中には赤い液体が入っていた。
「応急処置の傷薬です。皆これを持って戦に臨んでいます。アズウェルさんに会えるかわからないので、ディオウさんに渡しておきますね」
そう言うと首飾りをディオウにかけた。
「あぁ、わかった。おれたちも行ってくる」
「ちゃっちゃと倒しましょ。本命の敵は十時に来るわ」
「お気をつけて」
ユウの言葉に首肯して、ディオウとラキィはそれぞれ飛翔した。
◇ ◇ ◇
竹林の中、蒼焔を携えてショウゴはのんびりと歩いていた。
「ん~。キミたちフライングは良くないよ~」
背後から敵が仕掛けてくる。
「ひ~とり、ふ~たり、さぁんにん……ん~、六人ね~」
振り向きざまに蒼焔を抜く。
「燃えろ」
ぽつりと呟いた言葉が敵に届くことはなかった。
何故なら、蒼焔を抜いた時点で片は付いていたから。敵は皆一様に、胸が真一文字に斬りつけられていた。
「約束は守らなきゃね~」
すっと目を細めるとショウゴは身を翻した。
「烈火一文字」
斬り口から蒼白い炎が発火する。
後方で聞こえる悲鳴に顔を顰[ めて、ショウゴは冷然と言い放った。
「オレっちは、みんなと違って優しくないんだよ……」
◇ ◇ ◇
目の前の敵は動かない。こちらの様子を伺っているようだった。
「うむ……」
族長はその手を腰へやると、岩月[ という名の刀を抜く。
放出される威圧感が更に重みを増し、敵はじりじりと後退[ りした。
「なぁ……あれ、ちょっとやばくないか……?」
「お、おれたちじゃ……」
「あれは、岩守[ りのコウキだ……!」
口々に囁く者たちを前に、族長、コウキは悠然と答えた。
「ご名答」
「やばい、逃げろ!!」
一人が叫ぶと、我先にと逃げていく。
「大地の爪」
小さくなっていく敵の背に呟き、刀を真っ直ぐに斬り下ろす。
岩月が地面に触れた瞬間、大地が唸り、敵を追う。
「ひぃ!!」
必死に走る侵入者に、背後から大地が牙を剥[ いて襲いかかる。
「だから、だから本家に任せておけば良かったんだ……ぐぁあああ!」
一人、また一人と、土の牙が足を突き刺さし、彼らの自由を剥奪した。
「……二度とこの地に足を踏み入れるな」
岩月を鞘に収め、族長は静かに立ち去った。
◇ ◇ ◇
ラキィはアキラと合流し、村の上空を旋回していた。
「崖の上の敵が厄介ね~」
「ほな、片付けましょか。ラキィはん、ちぃとばかし手ぇ貸してくれへん?」
「耳ならいいわよ」
アキラが一瞬瞠目する。
確かに、ラキィに手はなかった。
「……こら失礼。これを持って、こう……やつらの間縫[ ってくれまっか?」
アキラは細い銅線をラキィに見せる。
「ちょい待ってぇな。この先っちょに……」
銅線の末端にデグという石をつけた。この石は電気を通さない。
「なるほどね~。わかったわ」
ラキィはアキラがやらんとしていることを察し、デグを尻尾で包[ む。
「頼みまっせ~」
「行くわよ!」
アキラの算盤[ から飛び降りると、そのまま敵目がけて急降下する。
「あんたたち! 観念しなさい!」
「な、なんだ? トゥルーメンズがしゃべったぞ!」
男たちが次から次へと剣を振り下ろしてくるが、ラキィは高速でその合間を縫っていく。
「い~感じでっせ。……ほな」
上空に浮かぶ算盤からラキィの動きを観察をしていたアキラが、懐から一枚の呪符を取り出す。
「雷矢[ !」
唱えた直後、空から黄金の光が落下した。光の矢はアキラの指し示す銅線へ突き刺さる。
「い~夢を」
眩[ い光を放ちながら、雷は銅線を伝っていく。
「ひ……うわぁああ!!」
その雷は、男たちが持つ剣へ乗り移り、彼らの頭から爪先まで駆け抜けていった。
ばたばたと倒れていく男たちに、ラキィが舌を出す。
「戦が終わるまで寝ててちょ~だい!」
デグを捨て、アキラの待つ上空へ戻る。
「ラキィはん、ナイスやったで!」
「あんたもね!」
二人はにやりとほくそ笑むと、右手と左耳でハイタッチした。
◇ ◇ ◇
「雹[ の舞!!」
刹那、辺り一帯が冷気に包まれる。
ひんやりとした空気を切るように、マツザワは疾走した。
彼女とすれ違った敵が、声もなく倒れていく。
竹林に隠れていた男は、彼女が通り過ぎたことを確認すると、首をこきこきと鳴らしながら村道に躍り出た。緋色の長髪を揺らし、倒れている男を一人持ち上げる。
「おえおえ、えげつねぇ~なぁ。穴だらじゃねーか」
氷の礫[ で撃たれた部下には、至る所から鮮血が流れ出ていた。
「まるで鉄砲だな、あの女[ 」
顔色一つ変えずに、血まみれの部下を放り投げる。
冷ややかな目を向けて、仰向けに倒れた部下の腹を、強く踏みつけた。
「ぐぁあっ!」
悲痛な呻[ き声を上げる部下を、低い声音で戒告した。
「緋色隊に弱いヤツはいらねぇんだよ」
冷酷な笑みを口元に宿し、その男は赤黒い得物を振りかざす。一瞬の後に、部下の頭が吹き飛んだ。
視線の先にマツザワが映る。
「デザートは食後ってな」
緋色髪の男、ヒウガは身を翻し、村の中へと足を踏み入れた。
ルーティングが眉根を寄せた時、腕に衝撃が走り、印が割れる。
また詠唱が中断してしまった。
「く……まだあれを渡していないのか!」
渋面を作って舌打ちをする。
「力が足りない……」
何度も唱えてみるものの、結界が形になる前に霧のように掻き消えてしまっていた。
「ルーティング、大丈夫か?」
修行中、何度も魔法を放っていたのだ。当然疲れが見えていた。
ルーティングの魔力は、後僅かだ。
「問題ない」
口では言うが、がくりと片膝をつく。
エクストラの消費が思ったより激しかったのか。術は失敗すればその分、魔力を余計に消費する。
だが、とルーティングはアズウェルを見据えた。
あの技が〝アレ〟だとすると、エクストラの失敗は決して無駄なことではなかったはずだ。
二十歩ほど離れているアズウェルが、心配そうにルーティングを見つめている。
無理をして術を唱えても、失敗する可能性が高いだろう。
「小僧、悪いが少し休ませてもらう。お前も休んでおけ。結界を成したら体力をかなり奪われる」
「おう、わかった」
焦っていても仕方がない。結界があろうがなかろうが、ショウゴたちは村を守るだろう。
「次で、片をつける」
少しでも早く、彼らの負担を和らげるために。
ルーティングは坐禅を組むと、目を閉じて心を落ち着けた。
◇ ◇ ◇
「マツザワ、アキラ、これを持って行きなさい」
族長が紋章の描かれている板を渡す。スワロウ族の紋章だった。戦の時、スワロウ族はこの板を必ず懐に入れて持ち歩いている。勝利の呪いがかけられた板だ。
無言で頷き、二人は板を受け取った。
「武運を祈る」
族長のかけ声と共に、その場にいた者が一斉に散った。
「……アズウェル」
先刻、アズウェルの行方を問い詰めた時、族長が視線を送った先は神社だ。
アズウェルを迎えに行くか、否か。ディオウは決めあぐねていた。
「ディオウ!」
取り残されたディオウにラキィが声をかけてくる。ラキィの後ろにはユウもいた。
「ラキィか。おれたちはどうする」
「そうね……まずは雑魚を蹴散らしましょ。この村にいる限り、アズウェルともそのうち会うはずよ」
「……そうだな。お前はどうするんだ」
ディオウがユウに尋ねる。
「私は治療師です。村の中に来た者には応戦しますが、あくまで治癒優先になります。……これをどうぞ」
ユウは小瓶のついた首飾りをディオウに見せる。
小瓶の中には赤い液体が入っていた。
「応急処置の傷薬です。皆これを持って戦に臨んでいます。アズウェルさんに会えるかわからないので、ディオウさんに渡しておきますね」
そう言うと首飾りをディオウにかけた。
「あぁ、わかった。おれたちも行ってくる」
「ちゃっちゃと倒しましょ。本命の敵は十時に来るわ」
「お気をつけて」
ユウの言葉に首肯して、ディオウとラキィはそれぞれ飛翔した。
◇ ◇ ◇
竹林の中、蒼焔を携えてショウゴはのんびりと歩いていた。
「ん~。キミたちフライングは良くないよ~」
背後から敵が仕掛けてくる。
「ひ~とり、ふ~たり、さぁんにん……ん~、六人ね~」
振り向きざまに蒼焔を抜く。
「燃えろ」
ぽつりと呟いた言葉が敵に届くことはなかった。
何故なら、蒼焔を抜いた時点で片は付いていたから。敵は皆一様に、胸が真一文字に斬りつけられていた。
「約束は守らなきゃね~」
すっと目を細めるとショウゴは身を翻した。
「烈火一文字」
斬り口から蒼白い炎が発火する。
後方で聞こえる悲鳴に顔を
「オレっちは、みんなと違って優しくないんだよ……」
◇ ◇ ◇
目の前の敵は動かない。こちらの様子を伺っているようだった。
「うむ……」
族長はその手を腰へやると、
放出される威圧感が更に重みを増し、敵はじりじりと
「なぁ……あれ、ちょっとやばくないか……?」
「お、おれたちじゃ……」
「あれは、
口々に囁く者たちを前に、族長、コウキは悠然と答えた。
「ご名答」
「やばい、逃げろ!!」
一人が叫ぶと、我先にと逃げていく。
「大地の爪」
小さくなっていく敵の背に呟き、刀を真っ直ぐに斬り下ろす。
岩月が地面に触れた瞬間、大地が唸り、敵を追う。
「ひぃ!!」
必死に走る侵入者に、背後から大地が牙を
「だから、だから本家に任せておけば良かったんだ……ぐぁあああ!」
一人、また一人と、土の牙が足を突き刺さし、彼らの自由を剥奪した。
「……二度とこの地に足を踏み入れるな」
岩月を鞘に収め、族長は静かに立ち去った。
◇ ◇ ◇
ラキィはアキラと合流し、村の上空を旋回していた。
「崖の上の敵が厄介ね~」
「ほな、片付けましょか。ラキィはん、ちぃとばかし手ぇ貸してくれへん?」
「耳ならいいわよ」
アキラが一瞬瞠目する。
確かに、ラキィに手はなかった。
「……こら失礼。これを持って、こう……やつらの間
アキラは細い銅線をラキィに見せる。
「ちょい待ってぇな。この先っちょに……」
銅線の末端にデグという石をつけた。この石は電気を通さない。
「なるほどね~。わかったわ」
ラキィはアキラがやらんとしていることを察し、デグを尻尾で
「頼みまっせ~」
「行くわよ!」
アキラの
「あんたたち! 観念しなさい!」
「な、なんだ? トゥルーメンズがしゃべったぞ!」
男たちが次から次へと剣を振り下ろしてくるが、ラキィは高速でその合間を縫っていく。
「い~感じでっせ。……ほな」
上空に浮かぶ算盤からラキィの動きを観察をしていたアキラが、懐から一枚の呪符を取り出す。
「
唱えた直後、空から黄金の光が落下した。光の矢はアキラの指し示す銅線へ突き刺さる。
「い~夢を」
「ひ……うわぁああ!!」
その雷は、男たちが持つ剣へ乗り移り、彼らの頭から爪先まで駆け抜けていった。
ばたばたと倒れていく男たちに、ラキィが舌を出す。
「戦が終わるまで寝ててちょ~だい!」
デグを捨て、アキラの待つ上空へ戻る。
「ラキィはん、ナイスやったで!」
「あんたもね!」
二人はにやりとほくそ笑むと、右手と左耳でハイタッチした。
◇ ◇ ◇
「
刹那、辺り一帯が冷気に包まれる。
ひんやりとした空気を切るように、マツザワは疾走した。
彼女とすれ違った敵が、声もなく倒れていく。
竹林に隠れていた男は、彼女が通り過ぎたことを確認すると、首をこきこきと鳴らしながら村道に躍り出た。緋色の長髪を揺らし、倒れている男を一人持ち上げる。
「おえおえ、えげつねぇ~なぁ。穴だらじゃねーか」
氷の
「まるで鉄砲だな、あの
顔色一つ変えずに、血まみれの部下を放り投げる。
冷ややかな目を向けて、仰向けに倒れた部下の腹を、強く踏みつけた。
「ぐぁあっ!」
悲痛な
「緋色隊に弱いヤツはいらねぇんだよ」
冷酷な笑みを口元に宿し、その男は赤黒い得物を振りかざす。一瞬の後に、部下の頭が吹き飛んだ。
視線の先にマツザワが映る。
「デザートは食後ってな」
緋色髪の男、ヒウガは身を翻し、村の中へと足を踏み入れた。
第18記 古代魔法
静かに目を閉じ、坐禅を組む男がいる。辺りは水を打ったような静けさだった。
恐らく族長は〝あの板〟に印を潜ませているだろう。
右目だけを開く。
ならば、もう渡されているはずだ。
無音で立ち上がると、辺りを見渡した。だが、道場に金髪の青年の姿は見つからない。
「小僧、どこに行ったんだ……?」
水の音が洞窟に反響していた。
視界が明るくなり、目の先に水のカーテンが見えた。
「おれじっとしてられる質[ じゃねぇんだよな」
滝を潜[ り抜け、アズウェルは薄暗い洞窟から脱出する。
神社には人一人見当たらなかった。見えるものは、池と社と神木である一本桜のみ。
神社と村を繋ぐ石段の方へ駆け寄る。遠くから騒音が聞こえてきた。
「みんな、今必死で村を守ってるんだ……。おれ、こんなところにいていいのか……?」
足が自然と動き出す。
「待て」
突然左腕を掴まれ、アズウェルの動きは止められた。
「る、ルーティング……」
「大人しくしていられない気持ちはわかるが、お前にはやることがあるんだ。道場へ戻るぞ」
紅い瞳を見返すと、ルーティングも気持ちを抑えていることが読み取れた。
「結界を成したら、好きにしろ」
ルーティングは握っていた腕を放し、身を翻す。一瞬、背後を顧みて、アズウェルも後を追った。
今、成すべきことは。
この村を結界で覆うこと
「いいか、本来この術は五人が村を囲むように立っていなければならない。だが、動きを制限されれば、当然敵と対峙できない。だからお前の力が必要なんだ」
村の離れにアズウェルを連れて戻ったルーティングは、道場の前に立ち、術の説明を始めた。
風に撫でられて、草がさわさわと鳴く。
「おれは何をすればいいんだ?」
腕組みをしながらアズウェルは首を傾げた。
「お前、フレイテジアだろう。頭に構図を思い描け。村を囲むような五角形だ」
「正五角形か? まぁ、フレイトの図面に比べれば随分と楽だけど……」
「俺は術を唱える者だからその役目はできないんだ。五角形を頭に浮かべつつ、族長、まさ、マツザワ、アキラ、そして俺の気を均等にしろ」
やればわかる、とルーティングは詠唱を始めた。
「俺もサポートはする。だが、あくまでサポートだ。俺に頼るな」
いまいち感覚が掴めないが、確かにやってみればわかるだろう。印破りを始めた時も、最初はまったくわからなかったのだ。
ルーティングは宙ではなく、大地に印を描いている。アズウェルはその動きに集中した。
印が緑色の光を帯び、中心に立つアズウェルを軸に回転しながら浮き上がっていく。その速度が徐々に増し、遂にはアズウェルの周りに緑の輪ができた。
光が地面にも投影し、足下で巨大な魔法陣が輝きを放つ。
「守れ、我らの友を……!」
ルーティングは更に自分の前に印を描き、それを五角形で囲む。
その時、ルーティングを含む五人から、緑の光線が空へ飛び出した。
「小僧、感じるか!?」
風が強く吹いている。アズウェルを取り込むように、エメラルドの風が球状に渦巻いていた。
「あぁ……! 感じるぜ、マツザワたちの力!」
アズウェルは肌でその強力な想いを感じていた。
それぞれ僅かに波長は異なるが、芯の想いはただ一つ。
ワツキを守る!
先刻言われた通り、頭に五角形を思い浮かべる。その頂点に一人一人の力を配置する。
唸りを上げ暴れていた風が、瞬く間にアズウェルの元へと収束していった。
「……流石、あの方の血を引く者だ」
小さな呟きは、アズウェルには届かない。
自然と笑みが零れたルーティングは、空を仰いだ。
◇ ◇ ◇
突如緑色の光に囲まれ、ショウゴは頭を掻[ いた。
「いやぁ~、たっちゃん、派手にやってるねぇ~」
これでは敵に場所を知らせているのに等しい。案の定、四方八方囲まれている。
「まぁ~、こっちから捜しに行かなくて便利だけどね~」
不敵な微笑みを浮かべて、抜刀する。
「さて、キミたち。一瞬で終わるのと、苦しんで長らえるのとどっちがい~?」
蒼焔が蒼い炎を帯びた。
「オレっち、手加減ってもん知らないからサァ。……ワツキを荒らす者には容赦しないよ」
最後の一言は、陽気なショウゴの声とは思えないほど冷たいものだった。
ショウゴを纏[ う光の輝きが、より一層明るさを増した。
◇ ◇ ◇
疾走する彼女の軌跡が、エメラルドの道となって光り輝く。
すれ違いざまに敵をなぎ倒しているマツザワは、自分が光を纏っているなど気づきもしなかった。
「あれが、由緒ある種族の次期族長……?」
眼鏡を掛けた少年がにやりと口端を吊り上げる。
「緋色さん、デザートなんて言って見逃したんでしょうね。僕がいただいちゃいますよ」
その眼鏡が怪しく光った。
◇ ◇ ◇
「アキラ……その光……」
アキラは、ラキィの丸い深紅の目が自分に釘付けになっているのに気づいた。
「なんやろなぁ? 身に覚えがありまへんが……」
上空から地上を覗くと、似たような光が他にもある。
「わいだけやあらへんなぁ」
「あんた、その光なんだかわかってる?」
ラキィの意図が読み取れず、アキラは首を傾げた。
「それ、魔法の一種よ。しかもただの魔法じゃないわ……」
「この村に、魔法が使える者なんておりまへんがな」
くるりと振り返ると、村から少し離れたところにも光が見えた。
あの場所は、道場だ。
アキラは眉をひそめる。
「アズウェルはん、魔法唱えられまっか?」
「アズウェルはできないわ。魔法は、唱えられない」
つまり、アズウェルに修行をつけている者が唱えていることになる。
二人は顔を一度見合わせ、道場から立ち上る光に目を向けた。
◇ ◇ ◇
大分それぞれの力が均等に落ち着いてきた。
「小僧、歯を食いしばれ!」
ルーティングの声に、アズウェルはただ頷く。
「緑の塔[ !」
ワツキを取り囲むようにして、五角形の柱が空へ昇る。
アズウェルの身体に重圧が伸しかかった。
「く……まささんのが強すぎる!」
「あの馬鹿、闘志を剥き出しにしてるな。小僧、安定させられるか!?」
「やってる!!」
叫び声に叫び返し、アズウェルは片手と片膝を大地につく。
「おれの、言うことを聞け!!」
見開いたアズウェルの瞳は、ルーティングのエクストラを封じた時と同じ金色。
凄まじい力がアズウェルから放たれた。
「この力は……魔力でもなければ、闘志でもない……」
目を細め、ルーティングはその様子を見守る。
五人の力が少しずつ、しかし確実に、アズウェルに制御されていった。
◇ ◇ ◇
ディオウは目の前に現れた緑の壁を鋭く見つめている。
「これは、ただの魔法じゃない」
背後の足音に顧みると、族長が立っていた。族長も壁と同じ色の光に包まれている。
「族長、この村に魔法を唱えられる者などいるのか?」
ディオウの問いに沈黙を以[ て返す。
「……アズウェルに修行をつけている者の仕業だな」
「流石ディオウ殿。察しが宜しい」
「おれの勘だと、そいつはスワロウ族でクロウ族の奴だろう」
不機嫌そうに目を細めるディオウに、族長は再び沈黙で答えた。
「今回ばかりは当たってほしくなかったがな」
嘆息して空を見上げる。
「知らないだろうが、族長の息子が唱えているこの魔法は」
一旦言葉を句切る。
「失われし光[ だ」
「古代魔法、と仰るのか」
「あぁ……恐らく、唱えているのは奴だが、制御しているのは……」
ディオウはゆっくりと神社へ視線を送る。
黙り込んでしまったディオウを、族長は真っ直ぐ見据えていた。
やはり、千年前の聖獣。一目で古代魔法だと見破ったのは、かつて同じようなものを見たことがあるからだろう。
役目を果たす時が来たのかもしれない。そして。
族長も神社へ目を向ける。
八年の間に、我が子に何があったというのだろうか。
◇ ◇ ◇
アズウェルは問題児の力に悪戦苦闘していた。
「まささんの想いが強すぎる……!」
他の四人と対等にならない。
「くっそ……!」
意識を集めてみるが、その力は周りを呑み込むほど強かった。
「小僧に制御させるのも限界か……」
ルーティングはショウゴがいるであろう方向を見やる。
腰に帯びている二本の剣の内、一本を抜く。
「クエン、ソウエンに語りかけろ!」
抜いた刀の刃が紅い炎を纏った。
恐らく族長は〝あの板〟に印を潜ませているだろう。
右目だけを開く。
ならば、もう渡されているはずだ。
無音で立ち上がると、辺りを見渡した。だが、道場に金髪の青年の姿は見つからない。
「小僧、どこに行ったんだ……?」
水の音が洞窟に反響していた。
視界が明るくなり、目の先に水のカーテンが見えた。
「おれじっとしてられる
滝を
神社には人一人見当たらなかった。見えるものは、池と社と神木である一本桜のみ。
神社と村を繋ぐ石段の方へ駆け寄る。遠くから騒音が聞こえてきた。
「みんな、今必死で村を守ってるんだ……。おれ、こんなところにいていいのか……?」
足が自然と動き出す。
「待て」
突然左腕を掴まれ、アズウェルの動きは止められた。
「る、ルーティング……」
「大人しくしていられない気持ちはわかるが、お前にはやることがあるんだ。道場へ戻るぞ」
紅い瞳を見返すと、ルーティングも気持ちを抑えていることが読み取れた。
「結界を成したら、好きにしろ」
ルーティングは握っていた腕を放し、身を翻す。一瞬、背後を顧みて、アズウェルも後を追った。
今、成すべきことは。
「いいか、本来この術は五人が村を囲むように立っていなければならない。だが、動きを制限されれば、当然敵と対峙できない。だからお前の力が必要なんだ」
村の離れにアズウェルを連れて戻ったルーティングは、道場の前に立ち、術の説明を始めた。
風に撫でられて、草がさわさわと鳴く。
「おれは何をすればいいんだ?」
腕組みをしながらアズウェルは首を傾げた。
「お前、フレイテジアだろう。頭に構図を思い描け。村を囲むような五角形だ」
「正五角形か? まぁ、フレイトの図面に比べれば随分と楽だけど……」
「俺は術を唱える者だからその役目はできないんだ。五角形を頭に浮かべつつ、族長、まさ、マツザワ、アキラ、そして俺の気を均等にしろ」
やればわかる、とルーティングは詠唱を始めた。
「俺もサポートはする。だが、あくまでサポートだ。俺に頼るな」
いまいち感覚が掴めないが、確かにやってみればわかるだろう。印破りを始めた時も、最初はまったくわからなかったのだ。
ルーティングは宙ではなく、大地に印を描いている。アズウェルはその動きに集中した。
印が緑色の光を帯び、中心に立つアズウェルを軸に回転しながら浮き上がっていく。その速度が徐々に増し、遂にはアズウェルの周りに緑の輪ができた。
光が地面にも投影し、足下で巨大な魔法陣が輝きを放つ。
「守れ、我らの友を……!」
ルーティングは更に自分の前に印を描き、それを五角形で囲む。
その時、ルーティングを含む五人から、緑の光線が空へ飛び出した。
「小僧、感じるか!?」
風が強く吹いている。アズウェルを取り込むように、エメラルドの風が球状に渦巻いていた。
「あぁ……! 感じるぜ、マツザワたちの力!」
アズウェルは肌でその強力な想いを感じていた。
それぞれ僅かに波長は異なるが、芯の想いはただ一つ。
先刻言われた通り、頭に五角形を思い浮かべる。その頂点に一人一人の力を配置する。
唸りを上げ暴れていた風が、瞬く間にアズウェルの元へと収束していった。
「……流石、あの方の血を引く者だ」
小さな呟きは、アズウェルには届かない。
自然と笑みが零れたルーティングは、空を仰いだ。
◇ ◇ ◇
突如緑色の光に囲まれ、ショウゴは頭を
「いやぁ~、たっちゃん、派手にやってるねぇ~」
これでは敵に場所を知らせているのに等しい。案の定、四方八方囲まれている。
「まぁ~、こっちから捜しに行かなくて便利だけどね~」
不敵な微笑みを浮かべて、抜刀する。
「さて、キミたち。一瞬で終わるのと、苦しんで長らえるのとどっちがい~?」
蒼焔が蒼い炎を帯びた。
「オレっち、手加減ってもん知らないからサァ。……ワツキを荒らす者には容赦しないよ」
最後の一言は、陽気なショウゴの声とは思えないほど冷たいものだった。
ショウゴを
◇ ◇ ◇
疾走する彼女の軌跡が、エメラルドの道となって光り輝く。
すれ違いざまに敵をなぎ倒しているマツザワは、自分が光を纏っているなど気づきもしなかった。
「あれが、由緒ある種族の次期族長……?」
眼鏡を掛けた少年がにやりと口端を吊り上げる。
「緋色さん、デザートなんて言って見逃したんでしょうね。僕がいただいちゃいますよ」
その眼鏡が怪しく光った。
◇ ◇ ◇
「アキラ……その光……」
アキラは、ラキィの丸い深紅の目が自分に釘付けになっているのに気づいた。
「なんやろなぁ? 身に覚えがありまへんが……」
上空から地上を覗くと、似たような光が他にもある。
「わいだけやあらへんなぁ」
「あんた、その光なんだかわかってる?」
ラキィの意図が読み取れず、アキラは首を傾げた。
「それ、魔法の一種よ。しかもただの魔法じゃないわ……」
「この村に、魔法が使える者なんておりまへんがな」
くるりと振り返ると、村から少し離れたところにも光が見えた。
あの場所は、道場だ。
アキラは眉をひそめる。
「アズウェルはん、魔法唱えられまっか?」
「アズウェルはできないわ。魔法は、唱えられない」
つまり、アズウェルに修行をつけている者が唱えていることになる。
二人は顔を一度見合わせ、道場から立ち上る光に目を向けた。
◇ ◇ ◇
大分それぞれの力が均等に落ち着いてきた。
「小僧、歯を食いしばれ!」
ルーティングの声に、アズウェルはただ頷く。
「
ワツキを取り囲むようにして、五角形の柱が空へ昇る。
アズウェルの身体に重圧が伸しかかった。
「く……まささんのが強すぎる!」
「あの馬鹿、闘志を剥き出しにしてるな。小僧、安定させられるか!?」
「やってる!!」
叫び声に叫び返し、アズウェルは片手と片膝を大地につく。
「おれの、言うことを聞け!!」
見開いたアズウェルの瞳は、ルーティングのエクストラを封じた時と同じ金色。
凄まじい力がアズウェルから放たれた。
「この力は……魔力でもなければ、闘志でもない……」
目を細め、ルーティングはその様子を見守る。
五人の力が少しずつ、しかし確実に、アズウェルに制御されていった。
◇ ◇ ◇
ディオウは目の前に現れた緑の壁を鋭く見つめている。
「これは、ただの魔法じゃない」
背後の足音に顧みると、族長が立っていた。族長も壁と同じ色の光に包まれている。
「族長、この村に魔法を唱えられる者などいるのか?」
ディオウの問いに沈黙を
「……アズウェルに修行をつけている者の仕業だな」
「流石ディオウ殿。察しが宜しい」
「おれの勘だと、そいつはスワロウ族でクロウ族の奴だろう」
不機嫌そうに目を細めるディオウに、族長は再び沈黙で答えた。
「今回ばかりは当たってほしくなかったがな」
嘆息して空を見上げる。
「知らないだろうが、族長の息子が唱えているこの魔法は」
一旦言葉を句切る。
「
「古代魔法、と仰るのか」
「あぁ……恐らく、唱えているのは奴だが、制御しているのは……」
ディオウはゆっくりと神社へ視線を送る。
黙り込んでしまったディオウを、族長は真っ直ぐ見据えていた。
やはり、千年前の聖獣。一目で古代魔法だと見破ったのは、かつて同じようなものを見たことがあるからだろう。
役目を果たす時が来たのかもしれない。そして。
族長も神社へ目を向ける。
八年の間に、我が子に何があったというのだろうか。
◇ ◇ ◇
アズウェルは問題児の力に悪戦苦闘していた。
「まささんの想いが強すぎる……!」
他の四人と対等にならない。
「くっそ……!」
意識を集めてみるが、その力は周りを呑み込むほど強かった。
「小僧に制御させるのも限界か……」
ルーティングはショウゴがいるであろう方向を見やる。
腰に帯びている二本の剣の内、一本を抜く。
「クエン、ソウエンに語りかけろ!」
抜いた刀の刃が紅い炎を纏った。
第19記 悲哀の雫
天高くそびえ立つ緑の壁を見上げる者が二人いた。
長身の男は、首に赤いスカーフを巻き、眉間に皺[ を寄せている。
「こいつぁ、緑の塔[ じゃねぇか」
「間違いないわ」
彼の言葉に頷いた女は、エメラルドグリーンの長い髪を二束に結わえていた。
「これは、唱える者と支える者が揃わなければできない古代上位魔法だ」
「そうね……術者は魔力がそれなりにあって、呪文さえ知っていればいいけれど……」
支える者を見つけ出せる可能性は皆無に等しい。
「ロウド……私悲しくなってきちゃった……」
「まだ泣くな。任務が終われば、いくらでも聞いてやる」
水色の瞳を揺らしながら、彼女はロウドを見つめた。
「うん、ごめんね……」
微笑みを浮かべた彼女の表情は、悲哀を隠し切れていなかった。ロウドの顔にも苦渋が浮かぶ。
見つめ合っていた二人は同時に顔を上げて、目の前の壁を見据えた。
「私の予知だと、この壁は私たちを拒まないわ」
緑の塔[ は、結界を成している者たちに許された者のみが、中へ入ることができる。
拒まれないということは、心を許されているということ。
ちくり、と二人の胸に痛みが走る。
「俺が先に行く」
ロウドはゆっくりと緑の壁に向かっていく。壁は味方を招き入れるようにして、口を開けた。
壁の向こうに辿り着いたロウドは、彼女に手招きをする。
「大丈夫だ。来いよ、リル」
こくりと頷いて、リルもロウドに続いた。
◇ ◇ ◇
ふいに、ショウゴの手が止まる。
「たっちゃん……?」
視線だけ動かすと、一線だけ紅い炎を纏う光が見えた。
蒼焔が鼓動を鳴らす。
『ソウエン、俺に合わせろ』
ショウゴの頭の中で、少年の声が響いた。
「ん~、オレっち張り切り過ぎちゃってる~?」
その声に返事をしつつ、襲ってくる敵を薙ぎ払う。
『お前だけ暴れ過ぎなんだよ。これだからさー……ソウエン、兄貴の言うことを聞け』
嘆息混じりの言葉が返ってきた。
『俺のせいじゃない。文句は使い手に言え』
不機嫌な声が更に追加される。
「あ~、もう、わかったよ~。クエン、たっちゃんの気を送って~」
『ったく……てめぇで感じろよな、兄弟』
肩を竦[ めたような気配を送り、クエンはショウゴの頭の中から姿を消した。
◇ ◇ ◇
どくん、と。
天へ突き上げた紅焔から鼓動を感じたルーティングは、口元に微笑みを浮かべた。
「クエン、あの馬鹿をねじ伏せるぞ」
『おうよ、相棒』
ショウゴの気が少しずつ、ルーティングに波長を合わせていく。
「お……! ルーティング、もう少しでいけそうだ!」
風の向こうからアズウェルの声が聞こえた。
「最後まで気を抜くな!」
「おう!」
二人はそれぞれの意識を、暴れ回る問題児に全力で注いだ。
◇ ◇ ◇
徐々に族長の身体を纏う光が薄れていく。それは即ち、結界が安定してきたことを意味する。
うっすらと光を放っているものの、この程度ならさほど目立たないだろう。
「ではディオウ殿、私はそろそろ」
「あぁ」
「お待ち下さい」
突如響いた声に、族長とディオウは背後を顧みる。
其処にはオレンジ髪の男と、妖精のような可愛らしい面立ちをした女が立っていた。
「お……お前ら……!」
絶句するディオウを素通りし、族長の前で片膝を付く。
「俺は通達者、ロウドと申します」
「同じく通達者、リルでございます」
二人は左手を地につき、右手を左胸に当て、淡々と語っていった。
「我らが君主様より、スワロウ族のご当主に伝言を預かって参りました」
「この度は、緋色隊の命令違反による攻撃、誠に申し訳なく思っております」
「おい、ロウド、リル、お前らどういうつもりだ!?」
ディオウの怒鳴り声を黙殺し、ロウドとリルは交互に話を進めていく。
「無礼な部下の始末はこちらにお任せください」
「午前四時、処罰を与えに派遣された者が此処へ参ります」
「そのようなことは我らに何ら関係のないことだ。本題はそれではないであろう?」
威圧を放ちつつ、族長は悠然と問うた。
「その通りでございます。緋色隊の無礼のお詫びとして、この度は本家からの総攻撃は控えさせていただきます」
顔を上げずにリルが答える。その声は僅かに震えていた。
先を言えずに唇を噛むリルの後を、ロウドが紡ぐ。
「午前四時、緋色隊抹消と同時に、ワツキ併合を行います」
「ワツキを、配下に置くと言うことか」
「制裁を加える者の手により、ワツキは我らの手に落ちるであろう。これが君主様のお言葉でございます」
ロウドは族長の眼光に怯むことなく、その瞳を正々堂々と見返した。
「その者たちからワツキを守りきった場合、この戦はスワロウ族の勝利とさせていただきます」
「さようか。確かに、報せを受け取った。下がるがいい」
以前にも似たようなことがあったのだろうか。
通達者と名乗る二人の仕事振りは円滑だった。
「では俺たちはこれで」
一礼して、二人は踵[ を返す。
族長は険しい表情で、彼らの背を見つめていた。
「待て」
二人の前に聖獣が降り立った。
黄金の瞳を鋭く光らせ、真っ白な毛並みの獣は静かに問いつめる。
「何故、お前らがクロウ族にいるんだ?」
「……久しぶりだな、ディオウ」
嘲笑を浮かべ、ロウドは挑発的にものを言う。
リルは彼の背に隠れ、その肩を震わせていた。
「ディオウ、その問いは愚問だぜ。クロウ族は複数の種族から成る、いわば連合種族だ。当然、本家は純血族だが、それに仕える俺たちは、混血だろうが、滅びた種族だろうが、堕ちた継承者であろうが、関係ない。今この地にももう一人いるだろ?」
緑の目を細くして、ロウドは更に続ける。
「俺たちと同じように、クロウ族に入ったスワロウ族が」
「あぁ、知っている。奴のことは、おれにとってどうでもいいことだ。そんなクロウ族の仕組みなど、訊いているわけじゃない。アズウェルを一人にしておきながら、クロウ族に入り戦争の肩を持っているというのは、どういうことだと訊いている」
その問いに、リルがか細い声を上げた。
「あ……アズウェルには、言わないで……! お願い……!」
「リル。お前は黙っていろ。一言で答えるなら、仕事だ。クロウ族の供給は他よりいいんだぜ」
「所詮金か。堕ちたもんだな、ロウド」
今にも泣き出しそうなリルの手を引き、ロウドはディオウの横を通り過ぎる。
そして、肩越しに感情を抑えた声で答えた。
「……どうとでも言うがいいさ。俺たちの心配をするくらいなら、アズウェルを命懸けて守れよ」
その言葉から滲み出る感情を悟ったディオウは、一言投げ返した。
「ロウド、リル……死ぬなよ」
互いに背を向け交わした言葉は、それぞれの瞳を揺らした。
◇ ◇ ◇
足下に放たれた矢に、マツザワは足を止めた。
「次期族長って、貴女のことですよね」
振り返ると、眼鏡を掛けた茶髪の少年がいる。
自分の背丈ほどある弓を持ち、少年は不気味な笑みを浮かべていた。
「確か、そう。貴女のせいで、お兄さんはワツキを追われたとか」
「貴様、何故それを……」
「僕らの情報網を甘く見ないでくださいよ。……いやだなぁ、由緒ある血族って何でもかんでも自分たちが一番だと思っちゃってて、虫酸が走るよ」
くいっと中指で眼鏡のつるを押し上げる。
鈍く光った眼鏡は、マツザワの神経を逆撫でした。
「どうせ貴様らは命令を無視して先走ったのだろう。随分と軽率だな」
「あ~、僕、こういう大人嫌いなんですよねぇ。上から物言う人って馬鹿みたい。さっさと……あの世へ逝けよ、小鳥風情が!」
少年から禍々しい魔力が立ち上った。
◇ ◇ ◇
瞳から溢[ れる涙が示すものは、罪悪感。
「ごめんね、アズウェル。ごめんね、ディオウ、ラキィ……」
ロウドの胸を借り泣きじゃくるリルは、ただただ謝り続けていた。
「今は、こうするしかないんだ。俺たちみんなで決めたことだろ。あいつらを巻き込んじゃいけねぇ」
彼女を優しく抱きながら、ロウドは緑の壁を振り仰ぐ。
「お前は何があっても、進まなきゃいけねぇんだ。絶対……死ぬんじゃねぇぞ、クリスちゃんよ」
今はどうか心の痛みは忘れて
ただ、ただ、切に願う
友の無事を、ただただ、願う……
長身の男は、首に赤いスカーフを巻き、眉間に
「こいつぁ、
「間違いないわ」
彼の言葉に頷いた女は、エメラルドグリーンの長い髪を二束に結わえていた。
「これは、唱える者と支える者が揃わなければできない古代上位魔法だ」
「そうね……術者は魔力がそれなりにあって、呪文さえ知っていればいいけれど……」
支える者を見つけ出せる可能性は皆無に等しい。
「ロウド……私悲しくなってきちゃった……」
「まだ泣くな。任務が終われば、いくらでも聞いてやる」
水色の瞳を揺らしながら、彼女はロウドを見つめた。
「うん、ごめんね……」
微笑みを浮かべた彼女の表情は、悲哀を隠し切れていなかった。ロウドの顔にも苦渋が浮かぶ。
見つめ合っていた二人は同時に顔を上げて、目の前の壁を見据えた。
「私の予知だと、この壁は私たちを拒まないわ」
拒まれないということは、心を許されているということ。
ちくり、と二人の胸に痛みが走る。
「俺が先に行く」
ロウドはゆっくりと緑の壁に向かっていく。壁は味方を招き入れるようにして、口を開けた。
壁の向こうに辿り着いたロウドは、彼女に手招きをする。
「大丈夫だ。来いよ、リル」
こくりと頷いて、リルもロウドに続いた。
◇ ◇ ◇
ふいに、ショウゴの手が止まる。
「たっちゃん……?」
視線だけ動かすと、一線だけ紅い炎を纏う光が見えた。
蒼焔が鼓動を鳴らす。
『ソウエン、俺に合わせろ』
ショウゴの頭の中で、少年の声が響いた。
「ん~、オレっち張り切り過ぎちゃってる~?」
その声に返事をしつつ、襲ってくる敵を薙ぎ払う。
『お前だけ暴れ過ぎなんだよ。これだからさー……ソウエン、兄貴の言うことを聞け』
嘆息混じりの言葉が返ってきた。
『俺のせいじゃない。文句は使い手に言え』
不機嫌な声が更に追加される。
「あ~、もう、わかったよ~。クエン、たっちゃんの気を送って~」
『ったく……てめぇで感じろよな、兄弟』
肩を
◇ ◇ ◇
どくん、と。
天へ突き上げた紅焔から鼓動を感じたルーティングは、口元に微笑みを浮かべた。
「クエン、あの馬鹿をねじ伏せるぞ」
『おうよ、相棒』
ショウゴの気が少しずつ、ルーティングに波長を合わせていく。
「お……! ルーティング、もう少しでいけそうだ!」
風の向こうからアズウェルの声が聞こえた。
「最後まで気を抜くな!」
「おう!」
二人はそれぞれの意識を、暴れ回る問題児に全力で注いだ。
◇ ◇ ◇
徐々に族長の身体を纏う光が薄れていく。それは即ち、結界が安定してきたことを意味する。
うっすらと光を放っているものの、この程度ならさほど目立たないだろう。
「ではディオウ殿、私はそろそろ」
「あぁ」
「お待ち下さい」
突如響いた声に、族長とディオウは背後を顧みる。
其処にはオレンジ髪の男と、妖精のような可愛らしい面立ちをした女が立っていた。
「お……お前ら……!」
絶句するディオウを素通りし、族長の前で片膝を付く。
「俺は通達者、ロウドと申します」
「同じく通達者、リルでございます」
二人は左手を地につき、右手を左胸に当て、淡々と語っていった。
「我らが君主様より、スワロウ族のご当主に伝言を預かって参りました」
「この度は、緋色隊の命令違反による攻撃、誠に申し訳なく思っております」
「おい、ロウド、リル、お前らどういうつもりだ!?」
ディオウの怒鳴り声を黙殺し、ロウドとリルは交互に話を進めていく。
「無礼な部下の始末はこちらにお任せください」
「午前四時、処罰を与えに派遣された者が此処へ参ります」
「そのようなことは我らに何ら関係のないことだ。本題はそれではないであろう?」
威圧を放ちつつ、族長は悠然と問うた。
「その通りでございます。緋色隊の無礼のお詫びとして、この度は本家からの総攻撃は控えさせていただきます」
顔を上げずにリルが答える。その声は僅かに震えていた。
先を言えずに唇を噛むリルの後を、ロウドが紡ぐ。
「午前四時、緋色隊抹消と同時に、ワツキ併合を行います」
「ワツキを、配下に置くと言うことか」
「制裁を加える者の手により、ワツキは我らの手に落ちるであろう。これが君主様のお言葉でございます」
ロウドは族長の眼光に怯むことなく、その瞳を正々堂々と見返した。
「その者たちからワツキを守りきった場合、この戦はスワロウ族の勝利とさせていただきます」
「さようか。確かに、報せを受け取った。下がるがいい」
以前にも似たようなことがあったのだろうか。
通達者と名乗る二人の仕事振りは円滑だった。
「では俺たちはこれで」
一礼して、二人は
族長は険しい表情で、彼らの背を見つめていた。
「待て」
二人の前に聖獣が降り立った。
黄金の瞳を鋭く光らせ、真っ白な毛並みの獣は静かに問いつめる。
「何故、お前らがクロウ族にいるんだ?」
「……久しぶりだな、ディオウ」
嘲笑を浮かべ、ロウドは挑発的にものを言う。
リルは彼の背に隠れ、その肩を震わせていた。
「ディオウ、その問いは愚問だぜ。クロウ族は複数の種族から成る、いわば連合種族だ。当然、本家は純血族だが、それに仕える俺たちは、混血だろうが、滅びた種族だろうが、堕ちた継承者であろうが、関係ない。今この地にももう一人いるだろ?」
緑の目を細くして、ロウドは更に続ける。
「俺たちと同じように、クロウ族に入ったスワロウ族が」
「あぁ、知っている。奴のことは、おれにとってどうでもいいことだ。そんなクロウ族の仕組みなど、訊いているわけじゃない。アズウェルを一人にしておきながら、クロウ族に入り戦争の肩を持っているというのは、どういうことだと訊いている」
その問いに、リルがか細い声を上げた。
「あ……アズウェルには、言わないで……! お願い……!」
「リル。お前は黙っていろ。一言で答えるなら、仕事だ。クロウ族の供給は他よりいいんだぜ」
「所詮金か。堕ちたもんだな、ロウド」
今にも泣き出しそうなリルの手を引き、ロウドはディオウの横を通り過ぎる。
そして、肩越しに感情を抑えた声で答えた。
「……どうとでも言うがいいさ。俺たちの心配をするくらいなら、アズウェルを命懸けて守れよ」
その言葉から滲み出る感情を悟ったディオウは、一言投げ返した。
「ロウド、リル……死ぬなよ」
互いに背を向け交わした言葉は、それぞれの瞳を揺らした。
◇ ◇ ◇
足下に放たれた矢に、マツザワは足を止めた。
「次期族長って、貴女のことですよね」
振り返ると、眼鏡を掛けた茶髪の少年がいる。
自分の背丈ほどある弓を持ち、少年は不気味な笑みを浮かべていた。
「確か、そう。貴女のせいで、お兄さんはワツキを追われたとか」
「貴様、何故それを……」
「僕らの情報網を甘く見ないでくださいよ。……いやだなぁ、由緒ある血族って何でもかんでも自分たちが一番だと思っちゃってて、虫酸が走るよ」
くいっと中指で眼鏡のつるを押し上げる。
鈍く光った眼鏡は、マツザワの神経を逆撫でした。
「どうせ貴様らは命令を無視して先走ったのだろう。随分と軽率だな」
「あ~、僕、こういう大人嫌いなんですよねぇ。上から物言う人って馬鹿みたい。さっさと……あの世へ逝けよ、小鳥風情が!」
少年から禍々しい魔力が立ち上った。
◇ ◇ ◇
瞳から
「ごめんね、アズウェル。ごめんね、ディオウ、ラキィ……」
ロウドの胸を借り泣きじゃくるリルは、ただただ謝り続けていた。
「今は、こうするしかないんだ。俺たちみんなで決めたことだろ。あいつらを巻き込んじゃいけねぇ」
彼女を優しく抱きながら、ロウドは緑の壁を振り仰ぐ。
「お前は何があっても、進まなきゃいけねぇんだ。絶対……死ぬんじゃねぇぞ、クリスちゃんよ」
第20記 Devilish Arrow
立ち昇る魔力を拒むかのように、竹葉がざわめく。
「……換装魔術師[ か」
少年が手に持つ弓が、魔力に反応し変貌を遂げる。竹弓という原型は跡形もなく、蝙蝠の翼を広げたような、禍々しい姿をしていた。
「あぁ、そういえば言い忘れていました。僕、緋色隊参謀のセロと言います。仰る通り、僕は換装魔術師[ ですよ。……ま、最も今から死ぬ人にはどうでもいいことですかね」
詠唱の代わりに、物理的な〝物〟に魔力を注入して戦う換装魔術師[ 。敵を駆逐するために編み出されたその哀しき力は、多くが血に飢えた武具の姿を取る。
セロが一本の矢を番[ え、マツザワに狙いを定める。
穢れた魔具を扱う彼らは、人呼んで「悪魔の操り人形[ 」。
「悪魔に魅入られたか」
マツザワは水華を握り締め、鋒[ で足下に弧を描く。
「デイモン・スピー!」
放たれた矢は、セロの呪と共に数本の黒い槍と化した。
「逆賊の滝!」
マツザワは刀を真上に振り上げる。
彼女の斬撃とセロの矢が激突し、空中で太刀音が舞った。
「へぇ……変わった技をお持ちなんですね」
セロが放った槍は綺麗に輪切りにされ、マツザワの足下に散らばっている。
「貴様ほどではない」
両者は一定の間合いを保ちつつ、それぞれの眼光を研ぎ澄ます。
間合いに風が吹き込み、槍の残骸が砂埃に紛れて散りばめられた。
風が止んだ時、其処に二人の姿はない。暗闇に紛れて、太刀音だけが竹林の中を掻き乱していた。
◇ ◇ ◇
背後から迫り来る音に、ショウゴは反射的に体勢を低くした。
恐らくショウゴを狙っていたであろうそれは、前方に見えていた竹を次々に斬り倒していく。
「やだぁ~ん。避けないでよぅ~」
勘に障る声に顧みると、指先でくるくると刃物を回している女がいた。
「円月輪[ ね~。キミ、珍しいもの持ってるねぇ」
円月輪。別名チャクラムとも言われるそれは、中央に穴の開いた薄い円形の投擲[ 武器。ワツキ周辺ではあまり見かけない代物だ。
「あら、おに~さん、詳しいのね~ん。ジェルゼンで特注した殺戮兵器だよ~ん」
縦巻きのブロンドヘアを弄[ り、狐のように目を細める。
外周を覆う鋭利な刃が月光を浴びて不気味に光った。
「ふぅ~ん。あのジェルゼンでねー」
さして興味なさそうに相槌を打ちながら、竹を斬り終えて持ち主の元へ戻ってきた円月輪を、ショウゴは体勢を変えずに叩き落とした。
「こんなのが飛び回っていたら、竹林が禿げちゃうじゃない」
人差し指と中指で叩き落としたものを拾い上げる。
「危ないものを投げないでよねー」
僅かに指をずらすと、円月輪はばらばらになり、ショウゴの手から舞い落ちた。
「おに~さんったら、やってくれるじゃなぁい?」
「オレっちは女性だからって手加減しないよー?」
「ふふっ、上等よ~。ちょうどおに~さんで十人目なのよね~ん」
その言葉を聞いて、ショウゴは表情から笑みを消す。
「生憎、オレっちは倒した敵の数なんて覚えてないよ。……バラバラになる覚悟はできたかい?」
ぼう、とショウゴの持つ刀が蒼白い炎を帯びた。
「あたしを女の子だと思って舐めない方がいいわよん。こう見えても、緋色隊副隊長なんだから~」
副隊長と名乗る女、ユンアは長いコートの裾[ をたくし上げる。
その下には、夥[ しい数の円月輪が、ギラギラとした光沢を覗かせていた。
◇ ◇ ◇
「傷薬、回復薬、解毒剤、針に糸……」
自宅で一人、応急用具の準備を進めていたユウは、ふと顔を上げる。
「何か……何か嫌な予感が……」
思案を巡らせてもその意味はわからない。
急がないといけない、そんな焦りが背筋を駆け上がった。
「準備は整っているはずです。落ち着いて、後は負傷者の手当を行えば……」
用意したものを竹籠[ に詰め込み家を飛び出す。
直後に軽薄な声が投げかけられた。
「お? 嬢ちゃんどこ行くんだ?」
「……貴方は、敵ですね」
玄関を出たすぐのところにいたのは、緋色髪の男だった。
「私は戦うつもりはありません。通してください」
「この緋色隊隊長、ヒウガ様がはいどうぞって通すわけねぇだろ?」
「そうですか。……では、力尽くで退[ いていただきます」
籠を足下に置くと、ユウは不機嫌そうに顔を歪めた。
「随分と……お連れの方が多いようですね」
「安心しな、小鳥の嬢ちゃん。俺はここで見物してっから」
ひらりと屋根の上に飛び乗り、ヒウガが口笛を吹く。
「嬢ちゃんは小鳥の生命線だぜ。ここを断てば、どうなるかわかるよなぁ?」
物陰からヒウガの部下がぞろぞろと姿を現した。
数だけで、彼らはさほど強くはないだろう。本命は。
ちらりと屋上の男に視線を送る。
急がなければ、助かる命も助からない。
「道を開けていただきます」
ユウは懐から二本の扇子を取り出した。
◇ ◇ ◇
漆黒のナイフを払い落とし、マツザワはセロを一瞥する。
相手は遠距離。対して、自分は近接。間合いを詰めれば有利になるが、間合いが開けば防戦の一方だ。
攻撃をかわしつつ、間合いへ飛び込むには。
マツザワの脳裏にアキラが浮かんだ。
やや癪[ だが、この際そんなことも言ってる場合ではない。
「守っているだけじゃ、僕は倒せませんよ」
セロの挑発に、マツザワは黙って水華を鞘に収める。
「降参でもするつもりですか? まぁ土下座したところで、混血[ を見下すような純血族など許しはしませんけどね!」
三本一度に番え、蝙蝠の魔具から解き放つ。
「ヴィアンタ・ソード!」
黒き魔力を乗せた三本の矢は、飛びながらその力を収束させて、一本の古刀と化す。
間合いが徐々に縮んでいく。残りの距離およそ、数歩分。
気迫を込めた眼力を黒刀に向け、マツザワは抜刀する。
「居合い、燕魚[ !」
寸前でセロの剣[ を弾くと、マツザワは大地を蹴り一気に間合いを詰める。
更にもう一度大地を蹴り、すれ違いざまにセロの左腕を斬りつけた。
「っち!」
速い。一歩横に動く時間[ すらなかった。
「小鳥風情が、調子に乗るんじゃねぇよ!!」
番えた矢を、夜空へ放つ。
その矢は上空で爆発し、黒い雨を降らせた。
「死ね!!」
セロにその雨は当たらない。
「雹[ の舞!!」
黒雨にマツザワは無数の突きで対抗した。
冷気と共に、小さな氷が雨を貫いていく。
「へぇ。でも、全ては撃ち落とせませんね!」
にやりとセロは口の末端を吊り上げた。
「ブラッド・デビル」
マツザワの首筋に一滴、漆黒の雨が落ちる。しかし、その雫はマツザワに針ほどの痛みすらもたらさない。
数秒の沈黙の後、セロが高笑いが響き渡った。
「ふふふふふ……あははははっ! 勝負はつきましたよ!」
「私はまだ動ける」
怪訝そうな顔を向けるマツザワに、セロは勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「小鳥は脳が小さいですからね。気付くまでに時間がかかるだけですよ」
意味がわからないと彼女が眉根を寄せた時。
ぐにゃり、と視界が歪む。
「まさか……これはっ……!」
右手が震え、水華が零[ れ落ちた。
「そうです。僕の魔具には毒の効果があるんですよ。……さて、左腕のお返しに、右腕でも落としてあげましょうか」
眼鏡のレンズが光り、セロの表情を覆い隠す。だがその声色からは、狂気染みた歓喜が滲み出ていた。
「く……!」
視界がぐるぐると渦を巻き、とても立ち続けていられない。
片膝を付いたマツザワは、迫り来るセロを睨みつけることしかできなかった。
「……
少年が手に持つ弓が、魔力に反応し変貌を遂げる。竹弓という原型は跡形もなく、蝙蝠の翼を広げたような、禍々しい姿をしていた。
「あぁ、そういえば言い忘れていました。僕、緋色隊参謀のセロと言います。仰る通り、僕は
詠唱の代わりに、物理的な〝物〟に魔力を注入して戦う
セロが一本の矢を
穢れた魔具を扱う彼らは、人呼んで「
「悪魔に魅入られたか」
マツザワは水華を握り締め、
「デイモン・スピー!」
放たれた矢は、セロの呪と共に数本の黒い槍と化した。
「逆賊の滝!」
マツザワは刀を真上に振り上げる。
彼女の斬撃とセロの矢が激突し、空中で太刀音が舞った。
「へぇ……変わった技をお持ちなんですね」
セロが放った槍は綺麗に輪切りにされ、マツザワの足下に散らばっている。
「貴様ほどではない」
両者は一定の間合いを保ちつつ、それぞれの眼光を研ぎ澄ます。
間合いに風が吹き込み、槍の残骸が砂埃に紛れて散りばめられた。
風が止んだ時、其処に二人の姿はない。暗闇に紛れて、太刀音だけが竹林の中を掻き乱していた。
◇ ◇ ◇
背後から迫り来る音に、ショウゴは反射的に体勢を低くした。
恐らくショウゴを狙っていたであろうそれは、前方に見えていた竹を次々に斬り倒していく。
「やだぁ~ん。避けないでよぅ~」
勘に障る声に顧みると、指先でくるくると刃物を回している女がいた。
「
円月輪。別名チャクラムとも言われるそれは、中央に穴の開いた薄い円形の
「あら、おに~さん、詳しいのね~ん。ジェルゼンで特注した殺戮兵器だよ~ん」
縦巻きのブロンドヘアを
外周を覆う鋭利な刃が月光を浴びて不気味に光った。
「ふぅ~ん。あのジェルゼンでねー」
さして興味なさそうに相槌を打ちながら、竹を斬り終えて持ち主の元へ戻ってきた円月輪を、ショウゴは体勢を変えずに叩き落とした。
「こんなのが飛び回っていたら、竹林が禿げちゃうじゃない」
人差し指と中指で叩き落としたものを拾い上げる。
「危ないものを投げないでよねー」
僅かに指をずらすと、円月輪はばらばらになり、ショウゴの手から舞い落ちた。
「おに~さんったら、やってくれるじゃなぁい?」
「オレっちは女性だからって手加減しないよー?」
「ふふっ、上等よ~。ちょうどおに~さんで十人目なのよね~ん」
その言葉を聞いて、ショウゴは表情から笑みを消す。
「生憎、オレっちは倒した敵の数なんて覚えてないよ。……バラバラになる覚悟はできたかい?」
ぼう、とショウゴの持つ刀が蒼白い炎を帯びた。
「あたしを女の子だと思って舐めない方がいいわよん。こう見えても、緋色隊副隊長なんだから~」
副隊長と名乗る女、ユンアは長いコートの
その下には、
◇ ◇ ◇
「傷薬、回復薬、解毒剤、針に糸……」
自宅で一人、応急用具の準備を進めていたユウは、ふと顔を上げる。
「何か……何か嫌な予感が……」
思案を巡らせてもその意味はわからない。
急がないといけない、そんな焦りが背筋を駆け上がった。
「準備は整っているはずです。落ち着いて、後は負傷者の手当を行えば……」
用意したものを
直後に軽薄な声が投げかけられた。
「お? 嬢ちゃんどこ行くんだ?」
「……貴方は、敵ですね」
玄関を出たすぐのところにいたのは、緋色髪の男だった。
「私は戦うつもりはありません。通してください」
「この緋色隊隊長、ヒウガ様がはいどうぞって通すわけねぇだろ?」
「そうですか。……では、力尽くで
籠を足下に置くと、ユウは不機嫌そうに顔を歪めた。
「随分と……お連れの方が多いようですね」
「安心しな、小鳥の嬢ちゃん。俺はここで見物してっから」
ひらりと屋根の上に飛び乗り、ヒウガが口笛を吹く。
「嬢ちゃんは小鳥の生命線だぜ。ここを断てば、どうなるかわかるよなぁ?」
物陰からヒウガの部下がぞろぞろと姿を現した。
数だけで、彼らはさほど強くはないだろう。本命は。
ちらりと屋上の男に視線を送る。
急がなければ、助かる命も助からない。
「道を開けていただきます」
ユウは懐から二本の扇子を取り出した。
◇ ◇ ◇
漆黒のナイフを払い落とし、マツザワはセロを一瞥する。
相手は遠距離。対して、自分は近接。間合いを詰めれば有利になるが、間合いが開けば防戦の一方だ。
攻撃をかわしつつ、間合いへ飛び込むには。
マツザワの脳裏にアキラが浮かんだ。
やや
「守っているだけじゃ、僕は倒せませんよ」
セロの挑発に、マツザワは黙って水華を鞘に収める。
「降参でもするつもりですか? まぁ土下座したところで、
三本一度に番え、蝙蝠の魔具から解き放つ。
「ヴィアンタ・ソード!」
黒き魔力を乗せた三本の矢は、飛びながらその力を収束させて、一本の古刀と化す。
間合いが徐々に縮んでいく。残りの距離およそ、数歩分。
気迫を込めた眼力を黒刀に向け、マツザワは抜刀する。
「居合い、
寸前でセロの
更にもう一度大地を蹴り、すれ違いざまにセロの左腕を斬りつけた。
「っち!」
速い。一歩横に動く
「小鳥風情が、調子に乗るんじゃねぇよ!!」
番えた矢を、夜空へ放つ。
その矢は上空で爆発し、黒い雨を降らせた。
「死ね!!」
セロにその雨は当たらない。
「
黒雨にマツザワは無数の突きで対抗した。
冷気と共に、小さな氷が雨を貫いていく。
「へぇ。でも、全ては撃ち落とせませんね!」
にやりとセロは口の末端を吊り上げた。
「ブラッド・デビル」
マツザワの首筋に一滴、漆黒の雨が落ちる。しかし、その雫はマツザワに針ほどの痛みすらもたらさない。
数秒の沈黙の後、セロが高笑いが響き渡った。
「ふふふふふ……あははははっ! 勝負はつきましたよ!」
「私はまだ動ける」
怪訝そうな顔を向けるマツザワに、セロは勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「小鳥は脳が小さいですからね。気付くまでに時間がかかるだけですよ」
意味がわからないと彼女が眉根を寄せた時。
ぐにゃり、と視界が歪む。
「まさか……これはっ……!」
右手が震え、水華が
「そうです。僕の魔具には毒の効果があるんですよ。……さて、左腕のお返しに、右腕でも落としてあげましょうか」
眼鏡のレンズが光り、セロの表情を覆い隠す。だがその声色からは、狂気染みた歓喜が滲み出ていた。
「く……!」
視界がぐるぐると渦を巻き、とても立ち続けていられない。
片膝を付いたマツザワは、迫り来るセロを睨みつけることしかできなかった。
第21記 風が吹く
アズウェルは眉をひそめた。
「マツザワの力が落ちてる……」
胸騒ぎが起こる。
今ではなく、少し先に、〝何か〟が迫っているような気がした。
しかし予知を働かせてみても、それが何だかわからない。
おかしい。不自然だ。
ぼやけて見えるなら力が足りないだけだが、アズウェルに見えた光景は、黒い膜がかかっていた。 まるで誰かに妨害されているかのように。
「小僧、集中力を切らすな! 結界が歪んでいるぞ!」
風の向こうから放たれたルーティングの怒鳴り声が、耳を貫く。
余所見[ をしている場合ではない。今は力を均等にすることに集中せねば。
頭に過[ る不安を追いやり、アズウェルは足下の印に視線を落とした。
◇ ◇ ◇
じわじわとその距離が縮まっていく。
傍らにある水華を手に取ろうとするが、指先の感覚はなく、動いているのかすらわからなかった。
「せっかくですから、僕自身の手で落としてあげますよ」
天へ向け放った矢は漆黒の剣[ と化し、術者であるセロの前に降りてきた。
「右腕を落とされたら、もうその刀は振れませんよね……!」
嘲笑を浮かべ、セロは剣を振り上げた。
動け、と強く念じてみるが、マツザワの四肢は眠ったように動かない。
「く……!」
「あははははっ!!」
漆黒の刃は月光を浴び、鈍く光った。
「由緒ある血族の終焉だっ!!」
恨みを込めた剣を振り下ろす。
キィン!
全体重かけた剣は、突然現れた木によって阻まれた。
片手でセロの剣を受け止めた男は、瞠目しているマツザワに飄々[ と嘯[ く。
「わいのこと惚れ直したんとちゃう?」
緊張感の欠片もない言葉に、二人は魚のように口をぱくぱくしている。
普段なら「元々惚れてなどいない!」とマツザワも切り返すのだが、それすらできなかった。
満足そうに微笑んで、アキラは背後のセロに煽りをかける。
「あんさん非力やのぅ~」
「てめ……!」
おちょくられたセロは柄を握る両手に力を込めた。
しかし刃は、欠片ほどもアキラの得物に食い込まない。
「その剣、ちゃんと手入れしとらんとちゃう?」
算盤[ を持つ右手に僅かに力を入れ、セロの剣を弾き飛ばす。
「阿呆、何しに来た」
我を取り戻したマツザワが不服そうにアキラを睨み上げた。
マツザワに背を向け、アキラは声を落として告げる。
「動かん方がええで。今ユウも足止めくろうてる」
「ちっ……」
状況は芳しくない。ユウが足止めされているということは即ち、すぐに毒を取り除けないことを示していた。
動けばその分、毒が回るのも早くなる。
それ故、今はアキラの言うことに従うほかなかった。
「何をごちゃごちゃと言っているんですか。人の獲物を横取りしないでくださいよ……!」
眼鏡のつるを中指で鼻に押しつけながら、セロは弓を握りしめる。
「そらちゃうな。マツザワはんがあんさんの獲物やのぅて、あんさんがわいの獲物や」
にやりと口元に笑みを滲ませ、アキラは懐から呪符を取り出した。
「雷矢[ !」
刹那、辺りが眩[ い閃光で包まれる。
轟く雷鳴と共に、セロは二歩後ろへ飛び退いた。
先刻まで彼のいた場所には、真っ黒な焦げ跡がついている。
落ち着きを取り戻したセロは、目の前でけたけたと笑っている人物を上から下へと見積もっていた。
「貴方……ワツキ商ですね」
「こらどうも、わいのことご存じでっか」
口端を吊り上げて、セロは冷ややか言葉を突きつける。
「ええ、知っていますよ。そう、確か貴方、刀抜けないんですよね!」
さも馬鹿にしたような笑い声が竹林に響き渡った。
「貴様……!」
何も、何も知らないくせに。
憤るマツザワに対し、アキラは苦笑した。
「相手にせんでええて。ここはわいに任せときぃや」
◇ ◇ ◇
ラキィは一人、村の上空を旋回していた。
「もう! アキラったらいきなり消えちゃって! あたし一人だけ置いていかないでよね!」
結界が張られた今、崖上の敵は何もできない。
「どうしようかしら……」
村全体を見渡していると、見覚えのある姿が目についた。
「あ! あの子は……!」
円を描きながらラキィは急降下した。
◇ ◇ ◇
数多の金属片が大地を埋め尽くしている。
「まだ続けるかい?」
いくら投げても、ユンアの円月輪はショウゴに届く前に寸断される。
冷や汗がユンアの背筋を伝った。
「やぁ~ってくれるじゃなぁ~い?」
隊長は何をしているのか。こんな危ない敵を放置しておくなんて。
内心で毒づいたユンアは、忌々しげに舌打ちした。
余裕の様を見せつけているショウゴは、彼女の次の手を待っていた。
『さっさと片付けろ』
頭の中で不機嫌な声が響く。
『こんな小娘に何[ 時間かけてやがる』
「ちょっと気になることがあってね~」
囁[ くように応じて、ショウゴはすっと目を細めた。
『あ?』
「うん。副たいちょーならたいちょーの顔も知ってるでしょー」
『……ヒウガか』
顔を顰[ める気配が伝わってくる。
「緋色隊って名乗ったからねー。ちょっと尋問させてもらうサァ」
『ならさっさと片を付けろ』
「敵に情報を吐かせるときは、圧倒的な力の差を見せつけた方が早いから。それにあの人、まだ本気出してないよ……」
毒々しい魔力がちくちくと肌を刺す。
「おに~さん強いみたいだからぁ、あたしも本気出しちゃうわよ~ん」
彼女の左腕は黒い円盤に取り込まれていた。巨大な円月輪が、腕輪のように嵌っているのだ。
「キミ、換装魔術師[ だね」
「そうよ~ん。これでミンチにしてあげるぅ~」
高速で回転した円盤が、耳につく金属音を周囲に撒[ き散らした。
◇ ◇ ◇
「デビル・バースト!」
巨大な鉄球がアキラを襲う。
算盤で受け止めた瞬間、黒い炎が迸[ った。
「な、なんや!?」
反射的に相棒から手を放し、数歩退[ く。
「なかなかいい目を持っていますね。この炎は触れたものを腐敗させるのですよ」
もはや原形すらない算盤は、無惨な黒い塊へと姿を変えていた。
「貴方が刀を抜けない理由、確か次期族長さんのお兄さんを傷つけたとか」
ぴくり、とアキラが片眉を上げる。
「本当、馬鹿揃いですね、小鳥の群れは。そしてお兄さんはくだらない掟で村を追われたのでしょう。そのお兄さんが今どこにいるかご存じですか?」
一拍間を置いて、呪いを紡ぐ。
「貴方方、小鳥の群れを裏切り、僕たちの仲間になっているのですよ」
「ふざけたことを抜かすな!」
熱[ り立つマツザワを、アキラが制止する。
「あんさんはここで見とれって」
「ふふふ……! 符術ではこの剣は止められませんね!」
セロは先ほど弾かれた剣をアキラへ突きつけた。
「せやな、符術では止められへんなぁ」
肩を竦[ めて両手を上げるアキラの背を、ただ見つめていることしかできないマツザワは、ぎりっと唇を噛みしめた。
自分が油断をしたばっかりに。
動かない右手を睨みつけたところで、状況が変わることはなかった。
「さぁ、死んでもらいますよ!」
セロがアキラの首を刎[ ねようとしたその時。
風が止んだ。
「な……!?」
振り切られた剣は空を斬り、目の前にいたはずのアキラは何事もなかったかのように、セロの背後を歩いていた。鞘に収めたままの玄鳥で、右肩をぽんぽんと叩きながら。
「てめ……何をしやがった!?」
敵意剥[ き出しの眼差しを送られ、アキラは目を細める。
「飛び立て」
風が、吹いた。
「居合い、渡り鳥」
アキラが天を仰いだ時、無数の鳥が飛び立った。
「マツザワの力が落ちてる……」
胸騒ぎが起こる。
今ではなく、少し先に、〝何か〟が迫っているような気がした。
しかし予知を働かせてみても、それが何だかわからない。
おかしい。不自然だ。
ぼやけて見えるなら力が足りないだけだが、アズウェルに見えた光景は、黒い膜がかかっていた。
「小僧、集中力を切らすな! 結界が歪んでいるぞ!」
風の向こうから放たれたルーティングの怒鳴り声が、耳を貫く。
頭に
◇ ◇ ◇
じわじわとその距離が縮まっていく。
傍らにある水華を手に取ろうとするが、指先の感覚はなく、動いているのかすらわからなかった。
「せっかくですから、僕自身の手で落としてあげますよ」
天へ向け放った矢は漆黒の
「右腕を落とされたら、もうその刀は振れませんよね……!」
嘲笑を浮かべ、セロは剣を振り上げた。
動け、と強く念じてみるが、マツザワの四肢は眠ったように動かない。
「く……!」
「あははははっ!!」
漆黒の刃は月光を浴び、鈍く光った。
「由緒ある血族の終焉だっ!!」
恨みを込めた剣を振り下ろす。
全体重かけた剣は、突然現れた木によって阻まれた。
片手でセロの剣を受け止めた男は、瞠目しているマツザワに
「わいのこと惚れ直したんとちゃう?」
緊張感の欠片もない言葉に、二人は魚のように口をぱくぱくしている。
普段なら「元々惚れてなどいない!」とマツザワも切り返すのだが、それすらできなかった。
満足そうに微笑んで、アキラは背後のセロに煽りをかける。
「あんさん非力やのぅ~」
「てめ……!」
おちょくられたセロは柄を握る両手に力を込めた。
しかし刃は、欠片ほどもアキラの得物に食い込まない。
「その剣、ちゃんと手入れしとらんとちゃう?」
「阿呆、何しに来た」
我を取り戻したマツザワが不服そうにアキラを睨み上げた。
マツザワに背を向け、アキラは声を落として告げる。
「動かん方がええで。今ユウも足止めくろうてる」
「ちっ……」
状況は芳しくない。ユウが足止めされているということは即ち、すぐに毒を取り除けないことを示していた。
動けばその分、毒が回るのも早くなる。
それ故、今はアキラの言うことに従うほかなかった。
「何をごちゃごちゃと言っているんですか。人の獲物を横取りしないでくださいよ……!」
眼鏡のつるを中指で鼻に押しつけながら、セロは弓を握りしめる。
「そらちゃうな。マツザワはんがあんさんの獲物やのぅて、あんさんがわいの獲物や」
にやりと口元に笑みを滲ませ、アキラは懐から呪符を取り出した。
「
刹那、辺りが
轟く雷鳴と共に、セロは二歩後ろへ飛び退いた。
先刻まで彼のいた場所には、真っ黒な焦げ跡がついている。
落ち着きを取り戻したセロは、目の前でけたけたと笑っている人物を上から下へと見積もっていた。
「貴方……ワツキ商ですね」
「こらどうも、わいのことご存じでっか」
口端を吊り上げて、セロは冷ややか言葉を突きつける。
「ええ、知っていますよ。そう、確か貴方、刀抜けないんですよね!」
さも馬鹿にしたような笑い声が竹林に響き渡った。
「貴様……!」
何も、何も知らないくせに。
憤るマツザワに対し、アキラは苦笑した。
「相手にせんでええて。ここはわいに任せときぃや」
◇ ◇ ◇
ラキィは一人、村の上空を旋回していた。
「もう! アキラったらいきなり消えちゃって! あたし一人だけ置いていかないでよね!」
結界が張られた今、崖上の敵は何もできない。
「どうしようかしら……」
村全体を見渡していると、見覚えのある姿が目についた。
「あ! あの子は……!」
円を描きながらラキィは急降下した。
◇ ◇ ◇
数多の金属片が大地を埋め尽くしている。
「まだ続けるかい?」
いくら投げても、ユンアの円月輪はショウゴに届く前に寸断される。
冷や汗がユンアの背筋を伝った。
「やぁ~ってくれるじゃなぁ~い?」
隊長は何をしているのか。こんな危ない敵を放置しておくなんて。
内心で毒づいたユンアは、忌々しげに舌打ちした。
余裕の様を見せつけているショウゴは、彼女の次の手を待っていた。
『さっさと片付けろ』
頭の中で不機嫌な声が響く。
『こんな小娘に
「ちょっと気になることがあってね~」
『あ?』
「うん。副たいちょーならたいちょーの顔も知ってるでしょー」
『……ヒウガか』
顔を
「緋色隊って名乗ったからねー。ちょっと尋問させてもらうサァ」
『ならさっさと片を付けろ』
「敵に情報を吐かせるときは、圧倒的な力の差を見せつけた方が早いから。それにあの人、まだ本気出してないよ……」
毒々しい魔力がちくちくと肌を刺す。
「おに~さん強いみたいだからぁ、あたしも本気出しちゃうわよ~ん」
彼女の左腕は黒い円盤に取り込まれていた。巨大な円月輪が、腕輪のように嵌っているのだ。
「キミ、
「そうよ~ん。これでミンチにしてあげるぅ~」
高速で回転した円盤が、耳につく金属音を周囲に
◇ ◇ ◇
「デビル・バースト!」
巨大な鉄球がアキラを襲う。
算盤で受け止めた瞬間、黒い炎が
「な、なんや!?」
反射的に相棒から手を放し、数歩
「なかなかいい目を持っていますね。この炎は触れたものを腐敗させるのですよ」
もはや原形すらない算盤は、無惨な黒い塊へと姿を変えていた。
「貴方が刀を抜けない理由、確か次期族長さんのお兄さんを傷つけたとか」
ぴくり、とアキラが片眉を上げる。
「本当、馬鹿揃いですね、小鳥の群れは。そしてお兄さんはくだらない掟で村を追われたのでしょう。そのお兄さんが今どこにいるかご存じですか?」
一拍間を置いて、呪いを紡ぐ。
「貴方方、小鳥の群れを裏切り、僕たちの仲間になっているのですよ」
「ふざけたことを抜かすな!」
「あんさんはここで見とれって」
「ふふふ……! 符術ではこの剣は止められませんね!」
セロは先ほど弾かれた剣をアキラへ突きつけた。
「せやな、符術では止められへんなぁ」
肩を
自分が油断をしたばっかりに。
動かない右手を睨みつけたところで、状況が変わることはなかった。
「さぁ、死んでもらいますよ!」
セロがアキラの首を
風が止んだ。
「な……!?」
振り切られた剣は空を斬り、目の前にいたはずのアキラは何事もなかったかのように、セロの背後を歩いていた。鞘に収めたままの玄鳥で、右肩をぽんぽんと叩きながら。
「てめ……何をしやがった!?」
敵意
「飛び立て」
風が、吹いた。
「居合い、渡り鳥」
アキラが天を仰いだ時、無数の鳥が飛び立った。
第22記 無情の炎
無数の鳥が足元から飛び立つように、幾多もの斬撃がセロを襲った。
空へ吹き飛ばされたかと思うと、大地へと叩きつけられる。
「ぐぁっ!!」
セロの武器である、悪魔の翼が、音を立てて砕け散った。仮面を剥[ がされた竹弓がセロの傍らに横たわる。
竹弓に突き立てられた白銀の刃[ が眩しい。
「抜けるんじゃないですか……」
仰向けに倒れたまま、セロが静かに口を開いた。
「挑発に煽られて、勢いで抜いてもうたわ。ありがとさん」
にかっと白い歯を見せたアキラに、セロは瞠目する。
「あんさんのお陰で、わいは一歩前に進めたんやで」
「……お兄さんがクロウ族に入ったことは本当です。君主様の首を狙う、反逆者の部下ですよ」
満天の星空を瞳に映し、淡々と語る。
セロが語る言葉は、偽りでもなければ敵意もなかった。ただ、ありのままの事実を言葉にしていく。
「それは、つまり……」
二人の背後からマツザワが口を挟んだ。
「貴女方を裏切ってなどいないということです。純血族ですが、あの人はいい人でしたよ」
決して混血[ を見下すことなく。
だから、許せなかった。彼を追い出したスワロウ族が。
そして何より、自分たち[ を見下す態度が。
「何でそないなこと教えてくれるんや?」
首を傾げるアキラに、セロは微かに唇を動かした。
「……お礼を言われたのは、生まれて……初めてでしたから」
しかし、その言葉は届かない。
自嘲を浮かべ、セロは目を閉じた。
もっと早くに出会えていたら。
こんな形ではなく、彼らの兄と出会った時のように、在り来たりの日常で出会えていたら。
血を浴びることも、なかったかもしれない 。
◇ ◇ ◇
風が吹いた。それはとても懐かしい風だった。
「ヒュ~、嬢ちゃん強いねぇ」
パンパンと両手を叩きながら、ヒウガは口笛を吹いた。
ユウの足下には、ヒウガの部下が折り重なるように倒れている。
完全にヒウガを視界から抹消し、ユウは天を仰いだ。
「アキラさん……」
確かに、あれは玄鳥の風。
反応のないユウが気にくわなかったのか、ヒウガは冷笑する。
「嬢ちゃん、次は俺様だぜ」
「……道は開けていただきます」
視線を仕方なくヒウガに向け、彼女は扇子を構えた。
屋根の上から飛び降りると、ヒウガは長い爪をカチカチと鳴らす。
手の爪ではない。腕を覆うほどの巨大な爪を、それぞれの手に武器として携えている。
その爪を、ユウは不快そうな眼差しで射抜いた。
ヒウガが今までどれだけの者を手に掛けてきたのかは、暗紅色に染め上げられたその武器が物語っている。
ユウは右手の扇子を真一文字に振り抜く。
ガシャン、という音と共に、扇子が本来の姿を現した。
「面白い武器だな」
爪に牙を剥[ くその扇子は、蠍[ の尾が伸びたような形をしていた。
右手首を上へ向ける。
それと同時に、蠍の尾は元の扇子へと戻った。
部下がやられたというのに、ヒウガは顔色一つ変えない。
人の命を何だと思っているのだろうか。
治療師という立場から、急所は心得ている。軽く急所を峰打ちしただけで、彼らは魂が抜けたように倒れていったのだ。
だが、ヒウガはそう簡単には倒れてくれないだろう。
ユウは両手を広げ、くるくると回転した。扇子が長い太刀へと姿を変える。
「秋桜[ 」
淡い桃色の円盤が、ヒウガに襲いかかった。
「ヒュ~ゥ!」
口笛を吹き、爪を交差させる。
金属同士が火花をあげながら、激しく衝突した。
「技は見事だけど、非力だな」
クロスしていた爪を斜め下に開き、ユウの扇子は弾く。
すっと目を細めると、彼女は懐から小瓶を一つ取り出した。
「治療師を甘く見ないでください」
栓を抜き、中身を一気に飲み干す。
「秋桜!」
再び同じ技で仕掛ける。
あの程度の威力であれば、止める必要もない。
防ぐのではなく、攻めに入ったヒウガは、円盤に触れた瞬間、身体ごと吹き飛ばされた。
先程とは桁違いの力業である。
「こりゃこりゃ、おっかない嬢ちゃんだな」
珍しく切り傷が得物に増えた。
薬の調合を一手に引き受ける者からすれば、身体の機能を一時的に上昇させることなど容易いもの。
先刻彼女は、自前の腕力増強剤を投与したのだ。
「道を開けるつもりはありませんか」
「ねぇな」
互いの武器を構え、両者は吹き抜ける風に髪を靡[ かせていた。
◇ ◇ ◇
金属が擦[ れる高い音が、竹林に響く。
高速回転するユンアの武器に、ショウゴはやや苦戦を強いられていた。
「ん~、まともに受けちゃうと蒼焔折れちゃうねー」
『折ったら殺すぞ』
頭の中でソウエンが低く囁く。静かな物言いだが、確実に怒気をはらんでいる。
「あー、ソウ怖いー」
全くと言っていいほど怖がっていないショウゴに、ソウエンが切れかかった時。
風が、横切った。
二人には一羽の燕[ が横切ったように見えた。
風なのだから、そんな形など見えるはずもない。
しかし二人には、肌に感じたそれが何を示すのか、すぐに読み取れた。
「ソウ、感じた?」
『じじぃの風だ』
微笑して、ショウゴは首を縦に振る。
「オレっちたちもそろそろケリつけようか~」
『呼ぶのが遅いんだ、お前は』
嘆息混じりに蒼白い肌の少年が顕現する。
「蒼焔、こうり~ん」
右目にかかるほど長い前髪をかき上げ、ソウエンは全身に蒼い炎を纏[ った。
「お子様が出る幕じゃないわよ~ん!」
黒い円盤が近づいてくる。
ショウゴの蒼焔では弾かれ、止めることができなかった。
だが、それはあくまで刀で止めようとすればのこと。
ソウエンは無音で飛び上がると、ユンアの武器にひらりと舞い降りる。
「無情焔[ 」
一瞬にして蒼白の炎がユンアを包み込む。
「きゃあああああああ!!」
耳をつんざく悲鳴に、ショウゴは僅かに顔を顰[ めた。
「ソウ、もういいよ」
使い手の命令に従い、ユンアから離れる。
彼女の円月輪は跡形もなく燃え尽きていた。
長かったブロンドの髪も、ソウエンの炎によって焼失している。
「キミを生かしたのは、ちょっと聞きたいことがあったからだよ」
凛とした声音で語りかける。
首筋に当たる冷たい金属に、ユンアは全身を震わせていた。
「緋色隊って言ったよね?」
『のろまだ』
眉根を寄せて、ソウエンはユンアの胸倉を掴み上げた。
『隊長の名前を吐け』
「あ……ぁ……」
鬼神の気迫に答えることができず、嗚咽を漏らす。
血の気が引いたユンアは、顔面を蒼白にして歯をガチガチと鳴らせている。
「ソウ、それじゃ会話にならないよー。オレっちが聞くから下がってて」
舌打ちをしてソウエンはユンアを放り投げた。
尻餅をついた彼女に膝を折って目線を合わせると、ショウゴは静かに問い直す。
「もう一度だけ聞くよ。キミの隊の隊長は誰?」
「ひ……ヒウガ……」
「それは緋色の髪をした鳶[ のような男だね?」
必死で頷くユンアに、ショウゴは瞳を揺らした。
『いるとすれば村の中だ』
「そうだね。オレっちは責任取らなきゃいけないね~」
『あれはお前だけのせいではないだろ』
ソウエンは珍しくショウゴを慰めるが、その返事は返ってこなかった。
蒼焔を鞘に収め、身を翻す。
『止めは刺さないのか』
「戦意喪失してるし、武器ももうないからね。それよりヒウガを 」
ソウエンの白い髪が逆立った。
『ショウゴ』
「どうやらまだ村へ戻れそうにないねー……」
生暖かい風が、二人の頬を撫でた。
◇ ◇ ◇
気を失ったセロの傍らから玄鳥を抜き取り、鞘に収める。
振り返って、マツザワの元へ向かう。
「動けまっか?」
「身体右半分が動かないな……」
眉間に皺[ を寄せるマツザワに、アキラは屈み込むと手の平を見せた。
「一応ユウにこいつ送りまっせ~」
手の上には、紙でできた小鳥が乗っていた。
「白鳥[ 」
その言葉から命が吹き込まれたかのように、小鳥はアキラの手元から飛び立った。
「ほな、わいが負ぶってくさかい、一旦村へ戻りましょか~」
突拍子な発言にマツザワは目を剥[ いた。
「余計な真似はしなくていい! 私は一人で大丈夫だ!」
パチンッ……
微かに、音が聞こえた気がした。
どくん、とマツザワの鼓動が跳ね上がる。
「あんさん動けへんのやろぉ? また敵に遭[ うたらどないするねん」
アキラには聞こえていないようだ。
パチンッ!
今度は、確かに聞こえた。
「阿呆、後ろを見ろ!!」
マツザワが顔色を変えて声を上げる。
言葉に従い、アキラが振り返った直後。
全身に激痛が駆け巡る。
「アキラ!!」
アキラの脇腹をセロの腕が貫いていた。
深紅の雫が大地へ染みていく。
「かはっ!」
吐血したアキラの目に映ったのは、黒いスーツを着た狐目の男だった。
空へ吹き飛ばされたかと思うと、大地へと叩きつけられる。
「ぐぁっ!!」
セロの武器である、悪魔の翼が、音を立てて砕け散った。仮面を
竹弓に突き立てられた白銀の
「抜けるんじゃないですか……」
仰向けに倒れたまま、セロが静かに口を開いた。
「挑発に煽られて、勢いで抜いてもうたわ。ありがとさん」
にかっと白い歯を見せたアキラに、セロは瞠目する。
「あんさんのお陰で、わいは一歩前に進めたんやで」
「……お兄さんがクロウ族に入ったことは本当です。君主様の首を狙う、反逆者の部下ですよ」
満天の星空を瞳に映し、淡々と語る。
セロが語る言葉は、偽りでもなければ敵意もなかった。ただ、ありのままの事実を言葉にしていく。
「それは、つまり……」
二人の背後からマツザワが口を挟んだ。
「貴女方を裏切ってなどいないということです。純血族ですが、あの人はいい人でしたよ」
決して
だから、許せなかった。彼を追い出したスワロウ族が。
そして何より、
「何でそないなこと教えてくれるんや?」
首を傾げるアキラに、セロは微かに唇を動かした。
「……お礼を言われたのは、生まれて……初めてでしたから」
しかし、その言葉は届かない。
自嘲を浮かべ、セロは目を閉じた。
もっと早くに出会えていたら。
こんな形ではなく、彼らの兄と出会った時のように、在り来たりの日常で出会えていたら。
血を浴びることも、なかったかもしれない
◇ ◇ ◇
風が吹いた。それはとても懐かしい風だった。
「ヒュ~、嬢ちゃん強いねぇ」
パンパンと両手を叩きながら、ヒウガは口笛を吹いた。
ユウの足下には、ヒウガの部下が折り重なるように倒れている。
完全にヒウガを視界から抹消し、ユウは天を仰いだ。
「アキラさん……」
確かに、あれは玄鳥の風。
反応のないユウが気にくわなかったのか、ヒウガは冷笑する。
「嬢ちゃん、次は俺様だぜ」
「……道は開けていただきます」
視線を仕方なくヒウガに向け、彼女は扇子を構えた。
屋根の上から飛び降りると、ヒウガは長い爪をカチカチと鳴らす。
手の爪ではない。腕を覆うほどの巨大な爪を、それぞれの手に武器として携えている。
その爪を、ユウは不快そうな眼差しで射抜いた。
ヒウガが今までどれだけの者を手に掛けてきたのかは、暗紅色に染め上げられたその武器が物語っている。
ユウは右手の扇子を真一文字に振り抜く。
ガシャン、という音と共に、扇子が本来の姿を現した。
「面白い武器だな」
爪に牙を
右手首を上へ向ける。
それと同時に、蠍の尾は元の扇子へと戻った。
部下がやられたというのに、ヒウガは顔色一つ変えない。
人の命を何だと思っているのだろうか。
治療師という立場から、急所は心得ている。軽く急所を峰打ちしただけで、彼らは魂が抜けたように倒れていったのだ。
だが、ヒウガはそう簡単には倒れてくれないだろう。
ユウは両手を広げ、くるくると回転した。扇子が長い太刀へと姿を変える。
「
淡い桃色の円盤が、ヒウガに襲いかかった。
「ヒュ~ゥ!」
口笛を吹き、爪を交差させる。
金属同士が火花をあげながら、激しく衝突した。
「技は見事だけど、非力だな」
クロスしていた爪を斜め下に開き、ユウの扇子は弾く。
すっと目を細めると、彼女は懐から小瓶を一つ取り出した。
「治療師を甘く見ないでください」
栓を抜き、中身を一気に飲み干す。
「秋桜!」
再び同じ技で仕掛ける。
あの程度の威力であれば、止める必要もない。
防ぐのではなく、攻めに入ったヒウガは、円盤に触れた瞬間、身体ごと吹き飛ばされた。
先程とは桁違いの力業である。
「こりゃこりゃ、おっかない嬢ちゃんだな」
珍しく切り傷が得物に増えた。
薬の調合を一手に引き受ける者からすれば、身体の機能を一時的に上昇させることなど容易いもの。
先刻彼女は、自前の腕力増強剤を投与したのだ。
「道を開けるつもりはありませんか」
「ねぇな」
互いの武器を構え、両者は吹き抜ける風に髪を
◇ ◇ ◇
金属が
高速回転するユンアの武器に、ショウゴはやや苦戦を強いられていた。
「ん~、まともに受けちゃうと蒼焔折れちゃうねー」
『折ったら殺すぞ』
頭の中でソウエンが低く囁く。静かな物言いだが、確実に怒気をはらんでいる。
「あー、ソウ怖いー」
全くと言っていいほど怖がっていないショウゴに、ソウエンが切れかかった時。
風が、横切った。
二人には一羽の
風なのだから、そんな形など見えるはずもない。
しかし二人には、肌に感じたそれが何を示すのか、すぐに読み取れた。
「ソウ、感じた?」
『じじぃの風だ』
微笑して、ショウゴは首を縦に振る。
「オレっちたちもそろそろケリつけようか~」
『呼ぶのが遅いんだ、お前は』
嘆息混じりに蒼白い肌の少年が顕現する。
「蒼焔、こうり~ん」
右目にかかるほど長い前髪をかき上げ、ソウエンは全身に蒼い炎を
「お子様が出る幕じゃないわよ~ん!」
黒い円盤が近づいてくる。
ショウゴの蒼焔では弾かれ、止めることができなかった。
だが、それはあくまで刀で止めようとすればのこと。
ソウエンは無音で飛び上がると、ユンアの武器にひらりと舞い降りる。
「
一瞬にして蒼白の炎がユンアを包み込む。
「きゃあああああああ!!」
耳をつんざく悲鳴に、ショウゴは僅かに顔を
「ソウ、もういいよ」
使い手の命令に従い、ユンアから離れる。
彼女の円月輪は跡形もなく燃え尽きていた。
長かったブロンドの髪も、ソウエンの炎によって焼失している。
「キミを生かしたのは、ちょっと聞きたいことがあったからだよ」
凛とした声音で語りかける。
首筋に当たる冷たい金属に、ユンアは全身を震わせていた。
「緋色隊って言ったよね?」
『のろまだ』
眉根を寄せて、ソウエンはユンアの胸倉を掴み上げた。
『隊長の名前を吐け』
「あ……ぁ……」
鬼神の気迫に答えることができず、嗚咽を漏らす。
血の気が引いたユンアは、顔面を蒼白にして歯をガチガチと鳴らせている。
「ソウ、それじゃ会話にならないよー。オレっちが聞くから下がってて」
舌打ちをしてソウエンはユンアを放り投げた。
尻餅をついた彼女に膝を折って目線を合わせると、ショウゴは静かに問い直す。
「もう一度だけ聞くよ。キミの隊の隊長は誰?」
「ひ……ヒウガ……」
「それは緋色の髪をした
必死で頷くユンアに、ショウゴは瞳を揺らした。
『いるとすれば村の中だ』
「そうだね。オレっちは責任取らなきゃいけないね~」
『あれはお前だけのせいではないだろ』
ソウエンは珍しくショウゴを慰めるが、その返事は返ってこなかった。
蒼焔を鞘に収め、身を翻す。
『止めは刺さないのか』
「戦意喪失してるし、武器ももうないからね。それよりヒウガを
ソウエンの白い髪が逆立った。
『ショウゴ』
「どうやらまだ村へ戻れそうにないねー……」
生暖かい風が、二人の頬を撫でた。
◇ ◇ ◇
気を失ったセロの傍らから玄鳥を抜き取り、鞘に収める。
振り返って、マツザワの元へ向かう。
「動けまっか?」
「身体右半分が動かないな……」
眉間に
「一応ユウにこいつ送りまっせ~」
手の上には、紙でできた小鳥が乗っていた。
「
その言葉から命が吹き込まれたかのように、小鳥はアキラの手元から飛び立った。
「ほな、わいが負ぶってくさかい、一旦村へ戻りましょか~」
突拍子な発言にマツザワは目を
「余計な真似はしなくていい! 私は一人で大丈夫だ!」
パチンッ……
微かに、音が聞こえた気がした。
どくん、とマツザワの鼓動が跳ね上がる。
「あんさん動けへんのやろぉ? また敵に
アキラには聞こえていないようだ。
パチンッ!
今度は、確かに聞こえた。
「阿呆、後ろを見ろ!!」
マツザワが顔色を変えて声を上げる。
言葉に従い、アキラが振り返った直後。
全身に激痛が駆け巡る。
「アキラ!!」
アキラの脇腹をセロの腕が貫いていた。
深紅の雫が大地へ染みていく。
「かはっ!」
吐血したアキラの目に映ったのは、黒いスーツを着た狐目の男だった。
第23記 失墜
危険だ。
頭の中で警鐘が鳴り続けている。
アキラの心臓はうるさいほど悲鳴を上げていた。
セロが勢いよく腕を抜く。
「ぐぁっ」
無造作に血が飛び散った。
駆け抜ける激痛に顔を歪めながら、気力で体勢を立て直し、焦点を合わせる。
やたらと長いシルクハットをかぶり、くるっとカールした口髭を生やした男が立っていた。
「コンバンワ。ショータイム、楽しんでいただけてマスか?」
人間をまるで玩具のように扱っている。
セロはもう動けないはずだ。彼の目は〝全て〟が黒かった。
「あの眼鏡に……何を……した?」
アキラが静かに問う。
自然に出た言葉は、昔の口調だった。
今この時、この男を目の前にして、アキラに〝商人を演じる余裕〟など微塵[ も存在しない。
「セロ君たちは我々の君主様の命令を無視しマシタので、制裁を与えてあげたのデス」
何事もなかったかのように、男はクルクルとステッキを回している。
「サテ、お話しはこれくらいにして、ショーの続きにいきまショウ」
パチン、と白い手袋をした右手の指を鳴らす。
それが合図だった。再びセロがアキラを襲う。
玄鳥を握る手に力を入れた。何かを強く握りしめていなければ、意識を手放しそうになる。
血を、流しすぎたのだ。視界が朧気な霧に包まれていく。
感情のないセロの攻撃が、徐々にアキラを圧倒する。
じりじりと後退していた踵[ に、何かが触れたのを感じ、アキラの首筋に冷や汗が流れた。
もう、退[ けない。
自分の後ろには ……
「アキラ!」
マツザワが声を張り上げる。アキラの踵が触れたのは、彼女の膝だった。
「おまえは、黙って、見てろ……!」
「でも……!」
「ろくに利き手も使えないようなおまえは、大人しく下がっていろ!」
霞む視線が僅かに捉えるセロの動きに、一拍遅れて反応する。どうしても、視界に囚われてしまう。
邪魔なものは、いらない。
瞼を静かに閉じて、感覚を研ぎ澄ます。
「玄鳥、降臨!」
風が急激に強さを増した。
アキラの周りに、その風が集まっていく。
「馬鹿! その傷で降臨など無茶だ!」
批難の叫び声を上げるマツザワを黙殺して、アキラはゲンチョウを降ろした。
巨大なツバメがその翼を羽ばたかせている。
その度に、強風が唸るのだ。
『久しぶりだな、アキラ』
「すまねぇ、ゲンチョウ。またおれに力を貸してくれるか?」
『聞くまでもない。あの外道を吹き飛ばせばよいのだろう』
ゲンチョウはシルクハットの男を一瞥する。
風神に睨まれたというのに、男は眉一つ動かさない。
「その通りだぜ」
地面を蹴り、未だ止まることのないセロへ攻撃を仕掛ける。
操り人形と化しているセロは、意志を持たない。意識を、持たない。
ならば、肉体的に動きを止めるしかない。
痛覚がないのであれば、意図的に動きを断つしかない。
「眠れ」
刹那、更に風の威力が増した。
「居合い、飛燕[ 」
ぶちっという断裂音と共に、眼鏡が砕け散る。
完全に動きを停止し、セロはどさりと倒れ込んだ。
「ほう」
パチン、と再度指を鳴らしてみるが、セロが起きあがることはない。
玄鳥の刃が断ったのは、両脚の腱。もはや立ち上がることは不可能だ。
刀を鞘[ に収めたアキラは、宙に立っていた。抜刀すると同時に、アキラは纏っていた風に押し上げられたのだ。
くるりと一回転し、着地する。
いつでも抜刀できるよう手を玄鳥に添えたまま片膝をついているアキラは、殺気を男にぶつける。
「あとは、おまえだけだ」
「これはこれは。壊し甲斐のあるお坊ちゃんデスね」
『反撃の隙など与えん』
ゲンチョウが両翼を羽ばたかせる。
「奥義! 燕の仁義!」
風がアキラを中心として渦を作る。
男はにやりと口端を吊り上げ、指を鳴らすと共に唱えた。
「ブラックボックス」
アキラの足元に黒い影が伸びる。
開かれた箱が組み立てられるように、アキラを風ごと呑み込む。
「っ!?」
箱の側面には、獣の角のような棘が無数に張り付いていた。
吹き飛ばそうと、腕を真一文字に振り払うが、漆黒の壁は微動だにしない。
「アキラ!?」
立ち上がろうとするマツザワの膝が、絶望に砕ける。
一面、一面と壁が反り立ち、終いだというように上面が壮大な音を立てて覆いかぶさった。
そして、箱は、アキラを喰らい尽くした。
静寂が空気を包み込んでいる。
それを破ったものは、マツザワの切ない叫び声だった。
「アキラ!!」
全力を注いだ奥義は、いとも簡単に破られてしまった。
アキラの右手から玄鳥が落ちる。大地に響いたカシャンという音が、敗北を告げた。
既にゲンチョウの姿は何処にも見当たらない。
体中を無数の棘で貫かれたアキラは、全身が朱に染まっている。
どす、と鈍い音がした。
「これからが本当のショータイムデスよ」
アキラの背を見つめるマツザワの瞳が、驚愕に彩られる。
左胸を貫いた男の手が、不気味にアキラの背から生えているのだ。
しかし、血は流れていない。
「お嬢さん、よく見ているのデス」
ゆっくりと、男は左腕を引き抜いていく。
「ぅ……あ……」
アキラが呻[ き声を上げる。口から血が噴き出した。
男が引き抜いた手には、黒いものが握られている。
「コレ何だかわかりマスか? お嬢さん?」
すっと目を細めると、その黒いものをアキラから素早く引き抜いた。
「うあああああ!!」
「アキラ!!」
両膝をついたアキラに、冷徹な微笑みを向けて男は言う。
「これは貴方の負の心デス。貴方の辛かったり哀しかったりした過去が、ぎっしり詰められていマス」
「それが、どうした」
揺れる視界の中、男だけは確かに捕え、アキラは鋭利な眼差しを向けた。
「コレをデスね」
男が指を鳴らす。
その直後、黒い塊は数本の剣[ へと姿を変えた。
鋭い鋒[ をアキラに向け、剣は宙に佇んでいる。
「一本一本が貴方の記憶デス。さて、何本まで耐えられるでショウかね?」
パチンッ!
音と共に、剣が一本アキラに突き刺さる。
脳裏に鮮やかに甦る記憶は 両親が、この世を去った日。
呻き声一つ上げないアキラを、男は面白そうに眺めている。
「なかなかお強いデスね。ではもう一本」
パチンッ!
血は、出ない。だが、鉄の剣で突き刺されているのと、何ら変りない音が、痛みが、耳を、身体を支配する。
「い……や……」
縋[ るような声と共に、袴の裾を掴まれた感覚がアキラに届いた。
背中越しに、マツザワが震えているのが伝わる。
「あほか。こんなものを見せたって、おれは折れたりしねぇぞ」
「それは困りマスね。貴方の次はお嬢さんが待っているのデスから」
その言葉に、ほとんど見えていない瞳を鋭くする。
「ふざけるな。ミズナには、指一本触れさせねぇ」
「あ……アキラ……」
男は首を傾げると、両手で指を鳴らす。
次々とアキラの身体に漆黒の剣が刺さっていった。
「効かねぇよ」
ゆらりと玄鳥を持ち立ち上がる。
「今の貴方に何ができマスか。この最後の一本、何が入っているかお分かりでショウ?」
一際大きい剣を手元に移動させると、男は自らの手でアキラの心臓を突き刺した。
八年前の記憶が甦った。
「お……れは……乗り越えたんだっ」
刀を構え、懸命に言葉を絞[ り出す。
「しぶといデスね」
指を鳴らし、男が再びその剣をアキラに刺し直す。
「っ!!」
頭に衝撃が走る。
あの時と同じように、繰り返し凄惨な光景が目に浮かんだ。
力が入らない。
膝が折れ、地面に座り込む。
「み……ミズナ……」
「アキラ! もう……もう、いいよ!」
背後から聞こえる彼女の声は震えていた。
せめて、後ろにいる幼馴染だけは。
「に……ろ……」
「え……?」
「ミズ……ナ……逃げろ!」
顔を上げて前を見据える。
せめて、マツザワが ミズナが、逃げきるまでは。
「こいつは……はぁ、はぁ……こいつは、闇術師[ だ。おれたちじゃ敵わねぇ……!」
「その通りデス。貴方方はここで死ぬのデスよ」
「ミズナには触れさせねぇっつったろ! ミズナ、逃げろ。おれが時間を稼ぐから、族長かショウゴさんに伝えろ! 早く!」
動けないと悲鳴を上げる身体を叱咤して、アキラは立ち上がった。
まだ、死ねない。背後に、幼馴染がいる限り。
「いやだよ……! アキラ、置いていけないよ!」
「おまえが死んだら、誰がワツキを守るんだ!?」
震えながら頭を横に振るミズナに、気力で怒鳴りつける。
「早く、行け!!」
「いやっ!」
しかしミズナは、頑なに首を振り続けて、アキラの意志を拒む。
今ここでこの場を離れてしまったら、一生後悔するだろう。
まだ、アキラが戻ってきて一年しか経っていない。やっと、戻ってきてくれたのに。
ねぇ、アキラ
何だ?
私たちも兄さまたちみたいに、一緒に成人式するのかな?
あぁ~。タメなんだからするんじゃねーの?
ほんと! よかった、一人じゃないんだ。一緒にやろうね!
おう、じゃあ、約束しようぜ
うん、約束だよ!
「一緒に……成人式挙げるって約束したじゃんか……」
「覚えてる。だから、戻ってきたんだ」
アキラは、振り返らない。
振り返ることがないとわかっていても、必死に瞳を揺らし、訴える。
「だったら……!」
「だから、早く行くんだ! 族長かショウゴさんなら、こいつとやり合える!」
拒む気持ちはわかる。逆の立場であったら、そんなことは決して応じない。
声が、返ってこない。
ひやりとした予感が、背筋を駆け下りた。
顔だけ後ろへ向けると、ミズナの首筋に黒い針が刺さっていた。
「おまえ、ミズナに何しやがった!?」
「私がみすみすお嬢さんを逃がしたりすると思いマスか? 貴方の剣の一部を、刺してあげたんデスよ」
アキラは思わず瞠目する。
「まさか……それは……」
「アキラ……ごめん、ごめんね……」
小さく声を絞り出すミズナを呆然と見つめた。
「そう、貴方に最後に刺した剣。あの光景を見せてあげたんデスよ」
「てめぇ……!」
「終わりデスよ。貴方もいい加減折れてくだサイ」
パチンッ!
八年前の記憶。ミズナの兄であるリュウジを斬りつけた記憶が、無数の針と化す。
「数撃ちゃ当たるって言いマスよね」
その針が一斉にアキラを貫く。
「ぐあああああ!」
「いやだ、いやだ、アキラぁ !!」
「ん~。もう一度」
パチンッ!!
二つの悲鳴が、暁闇[ の空を切り裂いた。
頭の中で警鐘が鳴り続けている。
アキラの心臓はうるさいほど悲鳴を上げていた。
セロが勢いよく腕を抜く。
「ぐぁっ」
無造作に血が飛び散った。
駆け抜ける激痛に顔を歪めながら、気力で体勢を立て直し、焦点を合わせる。
やたらと長いシルクハットをかぶり、くるっとカールした口髭を生やした男が立っていた。
「コンバンワ。ショータイム、楽しんでいただけてマスか?」
人間をまるで玩具のように扱っている。
セロはもう動けないはずだ。彼の目は〝全て〟が黒かった。
「あの眼鏡に……何を……した?」
アキラが静かに問う。
自然に出た言葉は、昔の口調だった。
今この時、この男を目の前にして、アキラに〝商人を演じる余裕〟など
「セロ君たちは我々の君主様の命令を無視しマシタので、制裁を与えてあげたのデス」
何事もなかったかのように、男はクルクルとステッキを回している。
「サテ、お話しはこれくらいにして、ショーの続きにいきまショウ」
パチン、と白い手袋をした右手の指を鳴らす。
それが合図だった。再びセロがアキラを襲う。
玄鳥を握る手に力を入れた。何かを強く握りしめていなければ、意識を手放しそうになる。
血を、流しすぎたのだ。視界が朧気な霧に包まれていく。
感情のないセロの攻撃が、徐々にアキラを圧倒する。
じりじりと後退していた
もう、
自分の後ろには
「アキラ!」
マツザワが声を張り上げる。アキラの踵が触れたのは、彼女の膝だった。
「おまえは、黙って、見てろ……!」
「でも……!」
「ろくに利き手も使えないようなおまえは、大人しく下がっていろ!」
霞む視線が僅かに捉えるセロの動きに、一拍遅れて反応する。どうしても、視界に囚われてしまう。
邪魔なものは、いらない。
瞼を静かに閉じて、感覚を研ぎ澄ます。
「玄鳥、降臨!」
風が急激に強さを増した。
アキラの周りに、その風が集まっていく。
「馬鹿! その傷で降臨など無茶だ!」
批難の叫び声を上げるマツザワを黙殺して、アキラはゲンチョウを降ろした。
巨大なツバメがその翼を羽ばたかせている。
その度に、強風が唸るのだ。
『久しぶりだな、アキラ』
「すまねぇ、ゲンチョウ。またおれに力を貸してくれるか?」
『聞くまでもない。あの外道を吹き飛ばせばよいのだろう』
ゲンチョウはシルクハットの男を一瞥する。
風神に睨まれたというのに、男は眉一つ動かさない。
「その通りだぜ」
地面を蹴り、未だ止まることのないセロへ攻撃を仕掛ける。
操り人形と化しているセロは、意志を持たない。意識を、持たない。
ならば、肉体的に動きを止めるしかない。
痛覚がないのであれば、意図的に動きを断つしかない。
「眠れ」
刹那、更に風の威力が増した。
「居合い、
ぶちっという断裂音と共に、眼鏡が砕け散る。
完全に動きを停止し、セロはどさりと倒れ込んだ。
「ほう」
パチン、と再度指を鳴らしてみるが、セロが起きあがることはない。
玄鳥の刃が断ったのは、両脚の腱。もはや立ち上がることは不可能だ。
刀を
くるりと一回転し、着地する。
いつでも抜刀できるよう手を玄鳥に添えたまま片膝をついているアキラは、殺気を男にぶつける。
「あとは、おまえだけだ」
「これはこれは。壊し甲斐のあるお坊ちゃんデスね」
『反撃の隙など与えん』
ゲンチョウが両翼を羽ばたかせる。
「奥義! 燕の仁義!」
風がアキラを中心として渦を作る。
男はにやりと口端を吊り上げ、指を鳴らすと共に唱えた。
「ブラックボックス」
アキラの足元に黒い影が伸びる。
開かれた箱が組み立てられるように、アキラを風ごと呑み込む。
「っ!?」
箱の側面には、獣の角のような棘が無数に張り付いていた。
吹き飛ばそうと、腕を真一文字に振り払うが、漆黒の壁は微動だにしない。
「アキラ!?」
立ち上がろうとするマツザワの膝が、絶望に砕ける。
一面、一面と壁が反り立ち、終いだというように上面が壮大な音を立てて覆いかぶさった。
そして、箱は、アキラを喰らい尽くした。
静寂が空気を包み込んでいる。
それを破ったものは、マツザワの切ない叫び声だった。
「アキラ!!」
全力を注いだ奥義は、いとも簡単に破られてしまった。
アキラの右手から玄鳥が落ちる。大地に響いたカシャンという音が、敗北を告げた。
既にゲンチョウの姿は何処にも見当たらない。
体中を無数の棘で貫かれたアキラは、全身が朱に染まっている。
どす、と鈍い音がした。
「これからが本当のショータイムデスよ」
アキラの背を見つめるマツザワの瞳が、驚愕に彩られる。
左胸を貫いた男の手が、不気味にアキラの背から生えているのだ。
しかし、血は流れていない。
「お嬢さん、よく見ているのデス」
ゆっくりと、男は左腕を引き抜いていく。
「ぅ……あ……」
アキラが
男が引き抜いた手には、黒いものが握られている。
「コレ何だかわかりマスか? お嬢さん?」
すっと目を細めると、その黒いものをアキラから素早く引き抜いた。
「うあああああ!!」
「アキラ!!」
両膝をついたアキラに、冷徹な微笑みを向けて男は言う。
「これは貴方の負の心デス。貴方の辛かったり哀しかったりした過去が、ぎっしり詰められていマス」
「それが、どうした」
揺れる視界の中、男だけは確かに捕え、アキラは鋭利な眼差しを向けた。
「コレをデスね」
男が指を鳴らす。
その直後、黒い塊は数本の
鋭い
「一本一本が貴方の記憶デス。さて、何本まで耐えられるでショウかね?」
パチンッ!
音と共に、剣が一本アキラに突き刺さる。
脳裏に鮮やかに甦る記憶は
呻き声一つ上げないアキラを、男は面白そうに眺めている。
「なかなかお強いデスね。ではもう一本」
パチンッ!
血は、出ない。だが、鉄の剣で突き刺されているのと、何ら変りない音が、痛みが、耳を、身体を支配する。
「い……や……」
背中越しに、マツザワが震えているのが伝わる。
「あほか。こんなものを見せたって、おれは折れたりしねぇぞ」
「それは困りマスね。貴方の次はお嬢さんが待っているのデスから」
その言葉に、ほとんど見えていない瞳を鋭くする。
「ふざけるな。ミズナには、指一本触れさせねぇ」
「あ……アキラ……」
男は首を傾げると、両手で指を鳴らす。
次々とアキラの身体に漆黒の剣が刺さっていった。
「効かねぇよ」
ゆらりと玄鳥を持ち立ち上がる。
「今の貴方に何ができマスか。この最後の一本、何が入っているかお分かりでショウ?」
一際大きい剣を手元に移動させると、男は自らの手でアキラの心臓を突き刺した。
八年前の記憶が甦った。
「お……れは……乗り越えたんだっ」
刀を構え、懸命に言葉を
「しぶといデスね」
指を鳴らし、男が再びその剣をアキラに刺し直す。
「っ!!」
頭に衝撃が走る。
あの時と同じように、繰り返し凄惨な光景が目に浮かんだ。
力が入らない。
膝が折れ、地面に座り込む。
「み……ミズナ……」
「アキラ! もう……もう、いいよ!」
背後から聞こえる彼女の声は震えていた。
せめて、後ろにいる幼馴染だけは。
「に……ろ……」
「え……?」
「ミズ……ナ……逃げろ!」
顔を上げて前を見据える。
せめて、マツザワが
「こいつは……はぁ、はぁ……こいつは、
「その通りデス。貴方方はここで死ぬのデスよ」
「ミズナには触れさせねぇっつったろ! ミズナ、逃げろ。おれが時間を稼ぐから、族長かショウゴさんに伝えろ! 早く!」
動けないと悲鳴を上げる身体を叱咤して、アキラは立ち上がった。
まだ、死ねない。背後に、幼馴染がいる限り。
「いやだよ……! アキラ、置いていけないよ!」
「おまえが死んだら、誰がワツキを守るんだ!?」
震えながら頭を横に振るミズナに、気力で怒鳴りつける。
「早く、行け!!」
「いやっ!」
しかしミズナは、頑なに首を振り続けて、アキラの意志を拒む。
今ここでこの場を離れてしまったら、一生後悔するだろう。
まだ、アキラが戻ってきて一年しか経っていない。やっと、戻ってきてくれたのに。
「一緒に……成人式挙げるって約束したじゃんか……」
「覚えてる。だから、戻ってきたんだ」
アキラは、振り返らない。
振り返ることがないとわかっていても、必死に瞳を揺らし、訴える。
「だったら……!」
「だから、早く行くんだ! 族長かショウゴさんなら、こいつとやり合える!」
拒む気持ちはわかる。逆の立場であったら、そんなことは決して応じない。
声が、返ってこない。
ひやりとした予感が、背筋を駆け下りた。
顔だけ後ろへ向けると、ミズナの首筋に黒い針が刺さっていた。
「おまえ、ミズナに何しやがった!?」
「私がみすみすお嬢さんを逃がしたりすると思いマスか? 貴方の剣の一部を、刺してあげたんデスよ」
アキラは思わず瞠目する。
「まさか……それは……」
「アキラ……ごめん、ごめんね……」
小さく声を絞り出すミズナを呆然と見つめた。
「そう、貴方に最後に刺した剣。あの光景を見せてあげたんデスよ」
「てめぇ……!」
「終わりデスよ。貴方もいい加減折れてくだサイ」
パチンッ!
八年前の記憶。ミズナの兄であるリュウジを斬りつけた記憶が、無数の針と化す。
「数撃ちゃ当たるって言いマスよね」
その針が一斉にアキラを貫く。
「ぐあああああ!」
「いやだ、いやだ、アキラぁ
「ん~。もう一度」
パチンッ!!
二つの悲鳴が、
第24記 開演
声が、聞こえた。背筋が凍りつくような、冷たい声が。
墜ちる。片翼の鳥……〝ヴィアンタの失墜〟……〝絶望のファルファーレ〟……
不敵に微笑むシルクハットの男。
生きて、嫌だ……一人に、しないで……!
必死で幼馴染の名を呼ぶマツザワ。
逃げろ、早く……頼む、生きてくれ……!
そして、最後まで彼女を守り抜こうとしたアキラ。
リアルな情景が、一瞬[ 、一瞬、アズウェルの瞳に訴えかける。
崩れ落ちるアキラと呼応し、ガラスが割れるような哀しみの音を立てて、結界が砕け散った。
キラキラと輝くエメラルドの粉が、ワツキに降り注ぐ。
空を仰いでいたアズウェルは、苦渋の色を滲ませ視線を足元に落とす。
首を振った反動で、両眼から大粒の雫がいくつも弾け飛んだ。
「アキラの意識が……途絶えた……っ!」
震える拳が己の無力さを語る。
このままでは、終われない。
視界を歪める水滴を拭い、走り出す。
「待て!」
「放せ、まだマツザワがいる! 放せってば!!」
左の二の腕を強く掴んだ手を振り解こうと、乱暴に腕を振る。だが、制止したその手はアズウェルを放さない。
ルーティングは暴れるアズウェルの腕を捻り上げ、耳元で低く問いただす。
「何が見えた、言え」
ぞくり、とアズウェルの背筋を冷たいものが滑り落ちた。
反論を許さない威圧を発するルーティングに、息を飲む。
「な、長い……シルクハットをかぶったスーツのやつと、倒れたアキラと、泣いてる……マツザワ」
見えた。今度は、はっきりと見えたのだ。あの時のように、朧気ではなく。確かに、はっきりと。
自分の言葉に、再び凄惨なイメージが頭の中を駆け抜け、恐怖という名を鎖に締め付けられる。
早く行かなければ、取り返しのつかないことになる。
「……それだけか?」
「それと……墜ちる。片翼の鳥……〝ヴィアンタの失墜〟、〝絶望のファルファーレ〟。ところどころ、途切れていたけど、その男がそう言っていたんだ」
「そう……か……」
先程とは比べ物にならないほど弱々しく掠れた声がしたかと思うと、腕が開放される。
アズウェルが振り返ると、己の左目を隠す眼帯をくしゃりと握り潰すルーティングがいた。
小刻みに揺れる左手と眼帯の影に、真一文字の傷が見える。
表情を険しくしたルーティングは、感情を抑え込むように言った。
「お前には、敵わない……!」
「おまえ、そいつのこと知ってるのか!?」
「……知っている」
夕焼けのような紅い右目が、微かに揺れる。
「だったら……! だったら、さっさと行けよ! そいつ知ってんだろ!? おれじゃ……敵わねぇんだろ……!? おまえ、強いんだろ、早く、行けよ……!!」
アズウェルの催促に、左手が力なく眼帯を放す。怒りと悔しさが哀しみと恐れに変わり、左腕から力が抜けたのだ。
親指が微かに紅焔に触れる。それに一瞬右目を見開くと、顔をアズウェルから背け、強張った唇から足を拘束している戒めを吐き出した。
「俺は……! あいつらには会えない……!」
左目を縫いつけるかのような縦のラインは、かつて妹を守るために生まれ、弟を破壊した永劫消えることのない古傷[ 。
二度と会わないと、誓った。
掟がある。今会ってしまったら、八年の意味が無くなる。
「ばかか!? おまえ、何のために出て行ったんだよ!? ワツキを、マツザワたちを守るためだろ!?」
どくん、と心臓が跳ね上がった。
「おまえが守るのは、仲間と掟、どっちなんだよ!?」
見えないはずの左目に、幼き日の二人が映る。
兄さま!
リュウ兄~!
温かい笑顔で、自分に手を振る二人の姿。
頬に熱いものが伝う。
それでも。
「俺は……!」
「行きなさい。ルーティング」
凛とした声が辺りに響いた。
「おまえ……!」
「主[ ……」
二人が顧みた先には、ラキィを抱えるシルードの姿があった。
「ら、ラキィ!」
「アズウェル~!」
シルードの手元から離れ、ラキィがアズウェルの胸に飛び込む。
「ラキィ、どうして……」
「あたし、アキラと一緒にいたのよ。でも急に消えちゃって……アキラを捜してたらこの子に会って……。ねぇ、アズウェル、アキラは、アキラは無事なの!?」
ラキィの問いに答える者はいない。
冷たい静寂がその場を包み込んだ。
それが何を意味するのかを悟り、ラキィは額をアズウェルの胸板に押し付けた。
余韻を残したまま、シルードが口を開く。
「ボクはいつも言っていますよね、ルーティング。……いえ、リュウジ・コネクティード」
本名を呼ばれ、腰に携えている紅焔へ左手をかける。
後悔は、するな。
頭に響く主の言葉を噛み締めて、ルーティングは リュウジは、大地を蹴った。
「絶対、敗けんじゃねぇぞ……」
彼の背中に呟くアズウェルに、シルードが語りかける。
「アズウェル、貴方も行ってください」
「シルード……」
以前見た子供っぽい色はなく、シルードの顔は真剣そのものだった。
「今、ワツキの戦力が落ちています。闇魔術[ はボクが何とかしますから、闇術師[ をお願いします」
「今ルーティングが」
「ええ、貴方が見たシルクハットの男も闇術師[ です」
アズウェルが怪訝そうに眉根を寄せる。
お前には敵わないと言われたのだ。行っても足手まといに以外何者でもない。
しかし、そこまで考えて、ふとアズウェルはシルードの言葉に不安を覚える。
「おまえ、今、〝も〟っつったよな……?」
それが、示す意味は。
「はい。……この地に来ているのは、一人ではありません」
◇ ◇ ◇
寅の刻を回った。
「来たか……」
空を仰いだ族長に黒い羽が降り注ぐ。
妖艶な美女が空から舞い降りた。
族長、コウキは、久方振りの再会に眉をひそめる。
「久しぶりだね~、コウキ。……キヨミの葬儀以来かぁい?」
靡[ く漆黒の髪をかき上げ、彼女は長い得物に頬ずりをする。
「そういうことになるだろう」
「キヨミのいないワツキなぁんて、何の魅力もないわぁ~」
カシャン、と錫杖[ を大地に突き立てると、彼女を取り巻くように鴉[ の群れが集まってきた。
「キヨミが命を賭[ して守り抜いたワツキ。貴様ら外道どもに易々と渡しはせん」
抜刀したコウキの足下から、巨大な岩が顕現する。
「岩月[ 、降臨!」
『某[ が必要か』
低い声と共に、岩から 否、甲羅から顔が現れた。
コウキが沈黙を以て返すと、象のような太い足が、どすん、と音を立てながら一本ずつ姿を現す。その音に合わせて、一羽、二羽、と鴉が何かに叩き落とされた。
女の足元にゴツゴツとした岩が転がっている。岩の下から赤黒いものが流れ出てきた。
潰れた取り巻きを気にも留めず、女は笑みを浮かべた真っ赤な唇を人差し指でなぞる。
「せいぜい足掻いてみるがいいさ、偽りの継承者様……?」
無数の鴉がコウキとガンゲツの視界を埋め尽くした。
◇ ◇ ◇
サラサラと闇色の砂が舞っていく。
ユウは呆然とその様を見つめていた。
人が、砂になる様を。
「あ……貴方は、闇術師[ のっ……!」
「やぁ、ミス・ユウ。元気だったかい? 大丈夫、僕はレディには手を出さないから」
黒いシャツにスリムなズボンを着た青年は、片膝を付いて彼女に黒いバラを差し出す。
「受け取ってくれ、僕の可愛いコスモスちゃん」
「い、いりませんっ!」
悪寒が走り、咄嗟に飛び退いた。
「僕は君を殺しに来たんじゃないよ。そこのね……反逆者を、ね」
穏やかな空気は一瞬にして殺気に捕らわれた。
「僕がわざわざ出向いたわけ、わかるよねぇ? ミスター・ヒウガ」
「命令に背いたものは消せ、か。ユンアやセロはどうした?」
顔だけ背後へ向け、黒バラを持つ青年は口端を吊り上げる。
「多分、もうピエールさんかゼノンさん辺りに殺[ られてるんじゃない?」
刹那、ヒウガから凄まじい魔力が放たれた。
あまりの風圧にユウは体ごと吹き飛ばされる。
「そのちゃちな首、かっさらってやるぜ」
「君をこの手で砂にできるなんて、わくわくしちゃうな」
◇ ◇ ◇
「おまえ、闇術師[ だな」
黒いフードを被った少年に、ディオウが対峙していた。
「……」
返答はない。
「聖獣の前だぞ。そのくだらんフードくらい取ったらどうだ」
「……」
やはり返ってくる言葉はなかった。
張りつめた空気が、痛い。
その空気を切り裂くように、名を呼ぶ声がした。
「ディオーウ!」
「アズウェル、おまえ……! 何でこういうときに来るんだ!!」
思わず溜息が出てくる。
「マツザワと……」
言いかけたアズウェルの瞳がぐらりと揺れる。
「アキラが、闇術師[ にやられたの」
アズウェルの言葉を紡いだラキィの声もまた、揺れていた。
ディオウは前方の人物を顎[ で指す。
「……こいつもそれだ。気をつけろよ、アズウェル」
「あぁ。シルードが闇魔術[ を破る魔法を発動するまで、時間を稼ぐんだ」
抱えていたラキィを降ろし、少年を見据える。
アズウェルの言葉に、瞳だけ動かしディオウは姿勢を低くした。
闇魔術[ を破る魔法。
それは、ディオウが知る限り、二択しか存在しない。
いずれにしても、常人が知るはずのないものだ。
「あの栗毛も……侮れんな」
誰に対してでもなく呟かれた言葉は、アズウェルに届くことはなかった。
◇ ◇ ◇
ステッキが頬を擦る。
動かないアキラを抱きかかえ、マツザワは最後の悪足掻きをしていた。
蒼白の右手で水華を持ち、必死で抵抗を図る。
しかし、それも限界に来ていた。
「サテ、そろそろ踊りまショウか。お嬢さん」
「くっ……!」
こんなところで、終わりたくはない。
目を閉じたアキラが徐々に冷たくなっている。
悔しい。
目頭が熱い。
いつも助けてもらっているのに、自分は何一つ返せなかった。
走馬燈のように駆け抜ける数々の思い出。
「兄さま……」
微かに呟いた時。
紅の炎が視界を明るくする。
『よぉ~、ミズナぁ。久しぶりだなぁ』
白く逆立つ髪。赤褐色の肌。
その少年の名は ……
「クエン……」
即ち、目の前に見える頼もしい背は。
「兄さま……!」
「ミズナ、アキラを連れて下がれ」
兄の言葉に無言で頷[ き、そろそろと後ろへ下がる。
境界線を作るようにクエンが炎のラインを引いていく。
紅焔をシルクハットの男に突きつけ、ルーティングは怒気をはらんだ声で言った。
「貴様、俺の弟妹[ に手を出したことを後悔するんだな」
「おやおや、これはこれは、ルアルティド・レジアもとい……リュウジ・コネクティードではありまセンか」
ステッキをクルクル回し、男はシルクハットの鍔[ を僅かに下げる。
『ピエール・ポプキンス。十年越しのケリをつけようぜ』
怒りの業火が空へ立ち上った。
◇ ◇ ◇
『兄弟が反撃の狼煙[ を上げたぞ』
蒼い炎を纏った少年が天を見上げた。
「オレっちたちも本気で行こうか」
不気味な仮面を被った敵を一瞥する。
「ホントに、薄気味悪い能力だよ」
ショウゴが破ったユンアはすでにこの世にいない。
その姿は黄色い仮面へと変貌を遂げていた。
「アナタもワタシのコレクションにしてあげるヨ」
黒い仮面の奥から人とは思えない声が聞こえた。
『いつ見ても、お前らは外道揃いだな』
侮蔑を込めた言葉を吐き捨てて、ソウエンは天へ静かなる闘志を解き放つ。
◇ ◇ ◇
白みがかっていた空を黒雲が支配していく。
役者は揃いマシタ。悲劇〝失墜のワツキ〟、開演デス
暗黒に呑み込まれた舞台には、一筋の光すら差し込まなかった。
不敵に微笑むシルクハットの男。
必死で幼馴染の名を呼ぶマツザワ。
そして、最後まで彼女を守り抜こうとしたアキラ。
リアルな情景が、
崩れ落ちるアキラと呼応し、ガラスが割れるような哀しみの音を立てて、結界が砕け散った。
キラキラと輝くエメラルドの粉が、ワツキに降り注ぐ。
空を仰いでいたアズウェルは、苦渋の色を滲ませ視線を足元に落とす。
首を振った反動で、両眼から大粒の雫がいくつも弾け飛んだ。
「アキラの意識が……途絶えた……っ!」
震える拳が己の無力さを語る。
このままでは、終われない。
視界を歪める水滴を拭い、走り出す。
「待て!」
「放せ、まだマツザワがいる! 放せってば!!」
左の二の腕を強く掴んだ手を振り解こうと、乱暴に腕を振る。だが、制止したその手はアズウェルを放さない。
ルーティングは暴れるアズウェルの腕を捻り上げ、耳元で低く問いただす。
「何が見えた、言え」
ぞくり、とアズウェルの背筋を冷たいものが滑り落ちた。
反論を許さない威圧を発するルーティングに、息を飲む。
「な、長い……シルクハットをかぶったスーツのやつと、倒れたアキラと、泣いてる……マツザワ」
見えた。今度は、はっきりと見えたのだ。あの時のように、朧気ではなく。確かに、はっきりと。
自分の言葉に、再び凄惨なイメージが頭の中を駆け抜け、恐怖という名を鎖に締め付けられる。
早く行かなければ、取り返しのつかないことになる。
「……それだけか?」
「それと……墜ちる。片翼の鳥……〝ヴィアンタの失墜〟、〝絶望のファルファーレ〟。ところどころ、途切れていたけど、その男がそう言っていたんだ」
「そう……か……」
先程とは比べ物にならないほど弱々しく掠れた声がしたかと思うと、腕が開放される。
アズウェルが振り返ると、己の左目を隠す眼帯をくしゃりと握り潰すルーティングがいた。
小刻みに揺れる左手と眼帯の影に、真一文字の傷が見える。
表情を険しくしたルーティングは、感情を抑え込むように言った。
「お前には、敵わない……!」
「おまえ、そいつのこと知ってるのか!?」
「……知っている」
夕焼けのような紅い右目が、微かに揺れる。
「だったら……! だったら、さっさと行けよ! そいつ知ってんだろ!? おれじゃ……敵わねぇんだろ……!? おまえ、強いんだろ、早く、行けよ……!!」
アズウェルの催促に、左手が力なく眼帯を放す。怒りと悔しさが哀しみと恐れに変わり、左腕から力が抜けたのだ。
親指が微かに紅焔に触れる。それに一瞬右目を見開くと、顔をアズウェルから背け、強張った唇から足を拘束している戒めを吐き出した。
「俺は……! あいつらには会えない……!」
左目を縫いつけるかのような縦のラインは、かつて妹を守るために生まれ、弟を破壊した永劫消えることのない
二度と会わないと、誓った。
掟がある。今会ってしまったら、八年の意味が無くなる。
「ばかか!? おまえ、何のために出て行ったんだよ!? ワツキを、マツザワたちを守るためだろ!?」
どくん、と心臓が跳ね上がった。
「おまえが守るのは、仲間と掟、どっちなんだよ!?」
見えないはずの左目に、幼き日の二人が映る。
温かい笑顔で、自分に手を振る二人の姿。
頬に熱いものが伝う。
それでも。
「俺は……!」
「行きなさい。ルーティング」
凛とした声が辺りに響いた。
「おまえ……!」
「
二人が顧みた先には、ラキィを抱えるシルードの姿があった。
「ら、ラキィ!」
「アズウェル~!」
シルードの手元から離れ、ラキィがアズウェルの胸に飛び込む。
「ラキィ、どうして……」
「あたし、アキラと一緒にいたのよ。でも急に消えちゃって……アキラを捜してたらこの子に会って……。ねぇ、アズウェル、アキラは、アキラは無事なの!?」
ラキィの問いに答える者はいない。
冷たい静寂がその場を包み込んだ。
それが何を意味するのかを悟り、ラキィは額をアズウェルの胸板に押し付けた。
余韻を残したまま、シルードが口を開く。
「ボクはいつも言っていますよね、ルーティング。……いえ、リュウジ・コネクティード」
本名を呼ばれ、腰に携えている紅焔へ左手をかける。
後悔は、するな。
頭に響く主の言葉を噛み締めて、ルーティングは
「絶対、敗けんじゃねぇぞ……」
彼の背中に呟くアズウェルに、シルードが語りかける。
「アズウェル、貴方も行ってください」
「シルード……」
以前見た子供っぽい色はなく、シルードの顔は真剣そのものだった。
「今、ワツキの戦力が落ちています。
「今ルーティングが」
「ええ、貴方が見たシルクハットの男も
アズウェルが怪訝そうに眉根を寄せる。
お前には敵わないと言われたのだ。行っても足手まといに以外何者でもない。
しかし、そこまで考えて、ふとアズウェルはシルードの言葉に不安を覚える。
「おまえ、今、〝も〟っつったよな……?」
それが、示す意味は。
「はい。……この地に来ているのは、一人ではありません」
◇ ◇ ◇
寅の刻を回った。
「来たか……」
空を仰いだ族長に黒い羽が降り注ぐ。
妖艶な美女が空から舞い降りた。
族長、コウキは、久方振りの再会に眉をひそめる。
「久しぶりだね~、コウキ。……キヨミの葬儀以来かぁい?」
「そういうことになるだろう」
「キヨミのいないワツキなぁんて、何の魅力もないわぁ~」
カシャン、と
「キヨミが命を
抜刀したコウキの足下から、巨大な岩が顕現する。
「
『
低い声と共に、岩から
コウキが沈黙を以て返すと、象のような太い足が、どすん、と音を立てながら一本ずつ姿を現す。その音に合わせて、一羽、二羽、と鴉が何かに叩き落とされた。
女の足元にゴツゴツとした岩が転がっている。岩の下から赤黒いものが流れ出てきた。
潰れた取り巻きを気にも留めず、女は笑みを浮かべた真っ赤な唇を人差し指でなぞる。
「せいぜい足掻いてみるがいいさ、偽りの継承者様……?」
無数の鴉がコウキとガンゲツの視界を埋め尽くした。
◇ ◇ ◇
サラサラと闇色の砂が舞っていく。
ユウは呆然とその様を見つめていた。
人が、砂になる様を。
「あ……貴方は、
「やぁ、ミス・ユウ。元気だったかい? 大丈夫、僕はレディには手を出さないから」
黒いシャツにスリムなズボンを着た青年は、片膝を付いて彼女に黒いバラを差し出す。
「受け取ってくれ、僕の可愛いコスモスちゃん」
「い、いりませんっ!」
悪寒が走り、咄嗟に飛び退いた。
「僕は君を殺しに来たんじゃないよ。そこのね……反逆者を、ね」
穏やかな空気は一瞬にして殺気に捕らわれた。
「僕がわざわざ出向いたわけ、わかるよねぇ? ミスター・ヒウガ」
「命令に背いたものは消せ、か。ユンアやセロはどうした?」
顔だけ背後へ向け、黒バラを持つ青年は口端を吊り上げる。
「多分、もうピエールさんかゼノンさん辺りに
刹那、ヒウガから凄まじい魔力が放たれた。
あまりの風圧にユウは体ごと吹き飛ばされる。
「そのちゃちな首、かっさらってやるぜ」
「君をこの手で砂にできるなんて、わくわくしちゃうな」
◇ ◇ ◇
「おまえ、
黒いフードを被った少年に、ディオウが対峙していた。
「……」
返答はない。
「聖獣の前だぞ。そのくだらんフードくらい取ったらどうだ」
「……」
やはり返ってくる言葉はなかった。
張りつめた空気が、痛い。
その空気を切り裂くように、名を呼ぶ声がした。
「ディオーウ!」
「アズウェル、おまえ……! 何でこういうときに来るんだ!!」
思わず溜息が出てくる。
「マツザワと……」
言いかけたアズウェルの瞳がぐらりと揺れる。
「アキラが、
アズウェルの言葉を紡いだラキィの声もまた、揺れていた。
ディオウは前方の人物を
「……こいつもそれだ。気をつけろよ、アズウェル」
「あぁ。シルードが
抱えていたラキィを降ろし、少年を見据える。
アズウェルの言葉に、瞳だけ動かしディオウは姿勢を低くした。
それは、ディオウが知る限り、二択しか存在しない。
いずれにしても、常人が知るはずのないものだ。
「あの栗毛も……侮れんな」
誰に対してでもなく呟かれた言葉は、アズウェルに届くことはなかった。
◇ ◇ ◇
ステッキが頬を擦る。
動かないアキラを抱きかかえ、マツザワは最後の悪足掻きをしていた。
蒼白の右手で水華を持ち、必死で抵抗を図る。
しかし、それも限界に来ていた。
「サテ、そろそろ踊りまショウか。お嬢さん」
「くっ……!」
こんなところで、終わりたくはない。
目を閉じたアキラが徐々に冷たくなっている。
悔しい。
目頭が熱い。
いつも助けてもらっているのに、自分は何一つ返せなかった。
走馬燈のように駆け抜ける数々の思い出。
「兄さま……」
微かに呟いた時。
紅の炎が視界を明るくする。
『よぉ~、ミズナぁ。久しぶりだなぁ』
白く逆立つ髪。赤褐色の肌。
その少年の名は
「クエン……」
即ち、目の前に見える頼もしい背は。
「兄さま……!」
「ミズナ、アキラを連れて下がれ」
兄の言葉に無言で
境界線を作るようにクエンが炎のラインを引いていく。
紅焔をシルクハットの男に突きつけ、ルーティングは怒気をはらんだ声で言った。
「貴様、俺の
「おやおや、これはこれは、ルアルティド・レジアもとい……リュウジ・コネクティードではありまセンか」
ステッキをクルクル回し、男はシルクハットの
『ピエール・ポプキンス。十年越しのケリをつけようぜ』
怒りの業火が空へ立ち上った。
◇ ◇ ◇
『兄弟が反撃の
蒼い炎を纏った少年が天を見上げた。
「オレっちたちも本気で行こうか」
不気味な仮面を被った敵を一瞥する。
「ホントに、薄気味悪い能力だよ」
ショウゴが破ったユンアはすでにこの世にいない。
その姿は黄色い仮面へと変貌を遂げていた。
「アナタもワタシのコレクションにしてあげるヨ」
黒い仮面の奥から人とは思えない声が聞こえた。
『いつ見ても、お前らは外道揃いだな』
侮蔑を込めた言葉を吐き捨てて、ソウエンは天へ静かなる闘志を解き放つ。
◇ ◇ ◇
白みがかっていた空を黒雲が支配していく。
暗黒に呑み込まれた舞台には、一筋の光すら差し込まなかった。
第25記 猛る炎
紫のライトが、一つのグラスを照らす。
ウイスキーの中で氷を遊ばせ、女はカウンター上で寝そべっている黄色い生物に語りかけた。
「リン、今何人抜いてる?」
「んとね。いち、に、さん。三人。あ、いま、じぃちゃが消えた。二人? ……にゅにゅ。ごっつとぉじょー。やっぱり三人にゃの」
後ろ足で耳を引っ掻き、リンと呼ばれた生物は、その身体を丸くする。
既に寝息を立て始めた相方を見つめて、女は紅い唇の隙間から細い息を吐いた。
グラスの半分を占めていたウイスキーを一気に飲み干す。
頬杖をつくと、空になったグラスを揺らした。
「オヤジ、もう一杯」
氷とグラスが涼しげなメロディーを奏でていた。
◇ ◇ ◇
暗い。
此処は一体何処なのか。
疑問を抱いても、答える者は誰もいない。
「別に、どこだっていいや……」
絞り出された少年の声が、虚しく反響する。
何処だろうと、構わない。だが。
自分は一体誰なのだろうか……
◇ ◇ ◇
「冷たい……」
麻痺した右手でもわかるほどに、マツザワが抱えるアキラの体温は下がっていた。
何もできない歯がゆさに、血の味がするほど下唇を噛み締める。
自分の額を、血の気のないアキラのそれに重ねる。
視界の片隅が紅い光で灯され、目尻から滑り落ちる雫が、紅玉のように輝いた。
「死んじゃ……いやだよ……」
彼女の左手には、紅の簪[ が握り締められている。
それは、アキラが七年ぶりに故郷へ還ってきた時の手土産。
受け取ったあの日から、一日たりとも肌身離さずお守りとして持ち歩いていた。
神様、どうかアキラを連れて行かないで……
祈り続ける妹と眠り続ける弟。
二つの至宝を背にするルーティングは、一歩も退くことはできない。
何より自身が、勝利以外は許せないのだ。
使い手[ の意思に共感するように、クエンの両脚を紅い炎が覆う。
膝を曲げ、渾身の力で大地を蹴った。
クエンの軌跡を辿るように、炎の大蛇が現れ、敵に牙を剥く。
大蛇を紅焔の刃に絡めると、ルーティングは縦に大きく斬り込んだ。
「流石デスね。十年前の貴方に引けを取らない刀捌きデス」
ピエールは紙一重で太刀を避けながら、楽しそうにステッキを回す。
『一瞬であの世へ送ってやるぜ』
空を舞っていたクエンは、ルーティングの上空へ駆け上がる。
「炎天楼[ !」
クエンを頂点に紅の高楼が出現した。
楼[ の軸はピエール。
刃に帯びていた大蛇を楼観に差し向け、ルーティングは数歩退く。
「縛焔[ !!」
大蛇が高殿を縛り上げる。
鳴り響く轟音。
それと共に爆風が辺りを吹き荒らした。
◇ ◇ ◇
数多[ の岩が鳴き喚く鴉[ たちを叩き落としていく。
ぐちゃり、と無惨に鴉が潰れる音は生々しい。
「ホント、あんたの亀、むかつくわぁ」
黒曜の髪をかき上げ、ネビセは錫杖[ を大地に突きつける。
「ネビセ、貴様の鴉も五月蠅[ いぞ」
不死鳥の如く岩の下から舞い上がる鴉らを一瞥して、族長は眼前の亀に命令を下した。
「ガンゲツ、月を落とせ」
『意のままに』
ガンゲツの闊歩は、大地と大気を揺する。
一歩踏み出す度に、数羽の鴉が墜落した。
「いくら潰したところで、私の子供たちは死にゃしないよ……!」
錫杖の鋒[ を向けて、ネビセがコウキに躍りかかる。
狙うは、心の臓。
「僅かに遅かったな、ネビセよ」
「遅いのは、あんたさ……!」
捉えた。
そう思った時。
「っ……!?」
大地が振動すると共に、地鳴りが響く。
矛先が、定まらない。
身体を支えるのがやっとのネビセに、コウキは眉一つ動かさず技を繰り出す。
「堕天月[ 」
彼らの視界に落ちる巨大な影。
それに気付いたネビセが上を振り仰いだところで、既に手遅れだ。影の外に出ることは叶わない。
月にも似た巨岩が、全てを圧し潰した。
◇ ◇ ◇
「来るぞ、アズウェル!」
ディオウの怒鳴り声に応じ、アズウェルとラキィは左右に散る。
ぶん、と何かが素早く空を斬る音がした。
先刻まで踏みしめていた場所には、巨大な鎌を持った骸骨が立っている。
「うわぁ、これって死神ってヤツ?」
「精霊だな。だがエクストラを唱える気配など……」
ディオウが疑問を口にした時。
骸骨の顎[ がカタカタと上下に動いた。
『はーずれ~! オイラは聖[ の霊だぜぃ。聖獣のダンナ』
青ざめるとは、このことを言うのかもしれない。
容姿にそぐわない陽気な声は、骸骨の不気味さを更に引き立てる。
悪寒が背筋を駆け上ったディオウに対し、アズウェルは興味津々に呟いた。
「え、もしかして、闇の聖霊……?」
『金髪のダンナ、いい目してるぜぃ! その通り、オイラは世界でも珍しい闇の守人[ 、スカロウ様よぅ!』
先程感じた不気味さを訂正し、ディオウは骸骨に侮蔑[ の眼差しを向ける。
「ふん、聖霊ごときが何を言う」
「ディオウ。張り合う所じゃないわ……」
嘆息したラキィが、額を右耳で抑え首を振る。
決戦の最中だというのに、全く以[ て緊張感のない絵図に痺[ れを切らし、骸骨の背後に立つ少年が口を開いた。
「スカロウ、それは、敵」
被っていたフードを取り、アズウェルたちを指差す。
「え、おまえって!」
「道理で……聖の霊が出てくるわけだ」
「ちょっと、アズウェル大丈夫なの!?」
口々に言葉を並べる彼らを、めんどくさそうに見つめる少年の名は、キセル。
彼の耳は横に長く、先端が尖っていた。
『ダンナァ。戦中に余所見[ はいけませんぜ』
「まずい、アズウェルッ!」
ディオウが叫ぶ。
予め予知能力を起動していたアズウェルは、難なくスカロウの太刀を避けた。
「大丈夫! 油断するといてぇ目に遭うってのは、しこたま教えられたから!」
強大な敵を前にしても、怯まない。
何故なら己の力を信じているから。
そしてどのような状況であろうと、戦いの場面では気を抜かない。
ルーティングに骨の髄[ まで叩き込まれた教えを、頭の中で繰り返す。
キセルの背後に紅い炎の塔を見とめて、アズウェルは小刀を構えた。
◇ ◇ ◇
高楼から人影が消える。
クエンの業火はピエールを確実に捉えた。
しかし、薄らいでゆく炎の向こうに、あのシルクハットが見えたのだ。
『変わり身か』
忌々しそうにクエンは舌打ちする。
ピエールが冷酷な笑みを浮かべ、仰々しく会釈をした。
「助かりマシタよ。お陰でセロ君の火葬ができマシタ」
自慢の口髭をいじりながら、燃え尽きた黒い塊をステッキで指し示す。
その灰は吹き抜ける風に運ばれていく。
煤[ が頬に触れたことを感じ、ルーティングは微かに眉をひそめた。
「私の魔術、ご存じデスよね?」
沈黙をもって返答したルーティングの目が、突如見開かれた。
『まさか……!』
クエンも気付き、二人同時に背後を顧みる。
「兄……さ、ま……」
掠れた妹の声が、彼らの予想を裏付けた。
『くそ!』
炎のラインを掻き消して、クエンが二人の元へ駆け寄る。
幼馴染の首を絞めていたアキラを、クエンは容赦なく蹴り飛ばした。
「大丈夫か、ミズナ」
片膝をつき傍らで囁く兄に、マツザワはそれよりも、とアキラを見やる。
アキラの瞳はあの時のセロと同じ、闇の色。
眼光を一層険しくして、ルーティングはアキラを見据える。
ルーティングが駆けつける前に、既に手は打たれていた。
傀儡[ と化したアキラが、ゆらりと立ち上がる。
アキラを止めるには身体を殺すか、ピエールを倒すかの二択。
下手にピエールを狙えば、アキラが盾にされる可能性もある。
「サテ、リュウジ・コネクティード。どう出マスか?」
紫黒[ に染まった満月を背景に、闇の傀儡師は冷嘲を浮かべた。
パチン、と竹林に音が木霊する。
目を瞠[ るルーティングたちの前に、黒い燕[ が顕現した。
「確か……ゲンチョウと言いマシタか。風神、デシタよね?」
意志を持たないアキラとゲンチョウが、三人に斬撃を飛ばす。
ミズナを突き飛ばし、ルーティングは右に身体を捻る。
大地を抉[ る風の爪。
ゲンチョウが羽ばたく度に、その爪が彼らを襲った。
「クエン!」
相棒の名を呼び、紅い刃をアキラに向ける。
「兄さま!?」
驚愕の声を上げるマツザワを黙殺し、彼は身体にクエンの炎を纏[ った。
ここで負ければ、ミズナを庇ったアキラの意に背[ くことになる。
心を、感情を殺し、込み上げてくるものを胸の奥に押し込める。
『リュウ、ゲンチョウのじーさんが相手じゃ俺も手を抜けねぇ』
重圧を含んだ声音が、事態の深刻さを物語る。
「わかっている」
短く応えて、右目を細めた。
せめて、ソウエンが近くにいれば。
ソウエンとショウゴの気を辿ることは可能だ。
破壊力ではワツキの中でも水龍様と肩を並べる双子の鬼。片方の力だけでも、ゲンチョウやガンゲツに渡り合うことはできる。
だが、あくまで渡り合うだけだ。操られている二人を、丸め込むほどの力はない。
首筋を汗が滑る。
紅焔を正眼に据え、風と炎が猛る間合いに飛び込んだ。
◇ ◇ ◇
カウンターの上で身動[ いだ小動物は、目元を尾で覆い、くぐもった声を出す。
「じぃちゃが……くえんの咆哮が聞こえるにょ」
ガラスが割れる音がバーに響く。
グラスを握り潰した右手は、流れる鮮血も気にせずに、より強く破片を握り締める。
苛立を、痛覚で鎮めるように。
「勘弁してくれよ、アヤさん。それ五十七個目だよ」
またかと言わんばかりに、亭主は肩を落とす。
懐から出した金貨をカウンターに叩きつけ、アヤはぶっきらぼうに言い放った。
「金はあんだ。次に来る時までに作っておけ」
五十八個目のグラスを注文すると、リンの首根っこを掴み上げ、席を立つ。
その腕を伝い、リンはアヤの肩へ移動した。
「どうしゅるにょ?」
「加勢はしない。折角尻尾を掴みかけたんだ。……まだ、戻れない」
扉を押し開けると、不気味な空が広がっていた。
不吉を告げるように、暁降[ ちの空に雷鳴が轟いた。
ウイスキーの中で氷を遊ばせ、女はカウンター上で寝そべっている黄色い生物に語りかけた。
「リン、今何人抜いてる?」
「んとね。いち、に、さん。三人。あ、いま、じぃちゃが消えた。二人? ……にゅにゅ。ごっつとぉじょー。やっぱり三人にゃの」
後ろ足で耳を引っ掻き、リンと呼ばれた生物は、その身体を丸くする。
既に寝息を立て始めた相方を見つめて、女は紅い唇の隙間から細い息を吐いた。
グラスの半分を占めていたウイスキーを一気に飲み干す。
頬杖をつくと、空になったグラスを揺らした。
「オヤジ、もう一杯」
氷とグラスが涼しげなメロディーを奏でていた。
◇ ◇ ◇
暗い。
此処は一体何処なのか。
疑問を抱いても、答える者は誰もいない。
「別に、どこだっていいや……」
絞り出された少年の声が、虚しく反響する。
何処だろうと、構わない。だが。
◇ ◇ ◇
「冷たい……」
麻痺した右手でもわかるほどに、マツザワが抱えるアキラの体温は下がっていた。
何もできない歯がゆさに、血の味がするほど下唇を噛み締める。
自分の額を、血の気のないアキラのそれに重ねる。
視界の片隅が紅い光で灯され、目尻から滑り落ちる雫が、紅玉のように輝いた。
「死んじゃ……いやだよ……」
彼女の左手には、紅の
それは、アキラが七年ぶりに故郷へ還ってきた時の手土産。
受け取ったあの日から、一日たりとも肌身離さずお守りとして持ち歩いていた。
祈り続ける妹と眠り続ける弟。
二つの至宝を背にするルーティングは、一歩も退くことはできない。
何より自身が、勝利以外は許せないのだ。
膝を曲げ、渾身の力で大地を蹴った。
クエンの軌跡を辿るように、炎の大蛇が現れ、敵に牙を剥く。
大蛇を紅焔の刃に絡めると、ルーティングは縦に大きく斬り込んだ。
「流石デスね。十年前の貴方に引けを取らない刀捌きデス」
ピエールは紙一重で太刀を避けながら、楽しそうにステッキを回す。
『一瞬であの世へ送ってやるぜ』
空を舞っていたクエンは、ルーティングの上空へ駆け上がる。
「
クエンを頂点に紅の高楼が出現した。
刃に帯びていた大蛇を楼観に差し向け、ルーティングは数歩退く。
「
大蛇が高殿を縛り上げる。
鳴り響く轟音。
それと共に爆風が辺りを吹き荒らした。
◇ ◇ ◇
ぐちゃり、と無惨に鴉が潰れる音は生々しい。
「ホント、あんたの亀、むかつくわぁ」
黒曜の髪をかき上げ、ネビセは
「ネビセ、貴様の鴉も
不死鳥の如く岩の下から舞い上がる鴉らを一瞥して、族長は眼前の亀に命令を下した。
「ガンゲツ、月を落とせ」
『意のままに』
ガンゲツの闊歩は、大地と大気を揺する。
一歩踏み出す度に、数羽の鴉が墜落した。
「いくら潰したところで、私の子供たちは死にゃしないよ……!」
錫杖の
狙うは、心の臓。
「僅かに遅かったな、ネビセよ」
「遅いのは、あんたさ……!」
捉えた。
そう思った時。
「っ……!?」
大地が振動すると共に、地鳴りが響く。
矛先が、定まらない。
身体を支えるのがやっとのネビセに、コウキは眉一つ動かさず技を繰り出す。
「
彼らの視界に落ちる巨大な影。
それに気付いたネビセが上を振り仰いだところで、既に手遅れだ。影の外に出ることは叶わない。
月にも似た巨岩が、全てを圧し潰した。
◇ ◇ ◇
「来るぞ、アズウェル!」
ディオウの怒鳴り声に応じ、アズウェルとラキィは左右に散る。
ぶん、と何かが素早く空を斬る音がした。
先刻まで踏みしめていた場所には、巨大な鎌を持った骸骨が立っている。
「うわぁ、これって死神ってヤツ?」
「精霊だな。だがエクストラを唱える気配など……」
ディオウが疑問を口にした時。
骸骨の
『はーずれ~! オイラは
青ざめるとは、このことを言うのかもしれない。
容姿にそぐわない陽気な声は、骸骨の不気味さを更に引き立てる。
悪寒が背筋を駆け上ったディオウに対し、アズウェルは興味津々に呟いた。
「え、もしかして、闇の聖霊……?」
『金髪のダンナ、いい目してるぜぃ! その通り、オイラは世界でも珍しい闇の
先程感じた不気味さを訂正し、ディオウは骸骨に
「ふん、聖霊ごときが何を言う」
「ディオウ。張り合う所じゃないわ……」
嘆息したラキィが、額を右耳で抑え首を振る。
決戦の最中だというのに、全く
「スカロウ、それは、敵」
被っていたフードを取り、アズウェルたちを指差す。
「え、おまえって!」
「道理で……聖の霊が出てくるわけだ」
「ちょっと、アズウェル大丈夫なの!?」
口々に言葉を並べる彼らを、めんどくさそうに見つめる少年の名は、キセル。
彼の耳は横に長く、先端が尖っていた。
『ダンナァ。戦中に
「まずい、アズウェルッ!」
ディオウが叫ぶ。
予め予知能力を起動していたアズウェルは、難なくスカロウの太刀を避けた。
「大丈夫! 油断するといてぇ目に遭うってのは、しこたま教えられたから!」
強大な敵を前にしても、怯まない。
何故なら己の力を信じているから。
そしてどのような状況であろうと、戦いの場面では気を抜かない。
ルーティングに骨の
キセルの背後に紅い炎の塔を見とめて、アズウェルは小刀を構えた。
◇ ◇ ◇
高楼から人影が消える。
クエンの業火はピエールを確実に捉えた。
しかし、薄らいでゆく炎の向こうに、あのシルクハットが見えたのだ。
『変わり身か』
忌々しそうにクエンは舌打ちする。
ピエールが冷酷な笑みを浮かべ、仰々しく会釈をした。
「助かりマシタよ。お陰でセロ君の火葬ができマシタ」
自慢の口髭をいじりながら、燃え尽きた黒い塊をステッキで指し示す。
その灰は吹き抜ける風に運ばれていく。
「私の魔術、ご存じデスよね?」
沈黙をもって返答したルーティングの目が、突如見開かれた。
『まさか……!』
クエンも気付き、二人同時に背後を顧みる。
「兄……さ、ま……」
掠れた妹の声が、彼らの予想を裏付けた。
『くそ!』
炎のラインを掻き消して、クエンが二人の元へ駆け寄る。
幼馴染の首を絞めていたアキラを、クエンは容赦なく蹴り飛ばした。
「大丈夫か、ミズナ」
片膝をつき傍らで囁く兄に、マツザワはそれよりも、とアキラを見やる。
アキラの瞳はあの時のセロと同じ、闇の色。
眼光を一層険しくして、ルーティングはアキラを見据える。
ルーティングが駆けつける前に、既に手は打たれていた。
アキラを止めるには身体を殺すか、ピエールを倒すかの二択。
下手にピエールを狙えば、アキラが盾にされる可能性もある。
「サテ、リュウジ・コネクティード。どう出マスか?」
パチン、と竹林に音が木霊する。
目を
「確か……ゲンチョウと言いマシタか。風神、デシタよね?」
意志を持たないアキラとゲンチョウが、三人に斬撃を飛ばす。
ミズナを突き飛ばし、ルーティングは右に身体を捻る。
大地を
ゲンチョウが羽ばたく度に、その爪が彼らを襲った。
「クエン!」
相棒の名を呼び、紅い刃をアキラに向ける。
「兄さま!?」
驚愕の声を上げるマツザワを黙殺し、彼は身体にクエンの炎を
ここで負ければ、ミズナを庇ったアキラの意に
心を、感情を殺し、込み上げてくるものを胸の奥に押し込める。
『リュウ、ゲンチョウのじーさんが相手じゃ俺も手を抜けねぇ』
重圧を含んだ声音が、事態の深刻さを物語る。
「わかっている」
短く応えて、右目を細めた。
せめて、ソウエンが近くにいれば。
ソウエンとショウゴの気を辿ることは可能だ。
破壊力ではワツキの中でも水龍様と肩を並べる双子の鬼。片方の力だけでも、ゲンチョウやガンゲツに渡り合うことはできる。
だが、あくまで渡り合うだけだ。操られている二人を、丸め込むほどの力はない。
首筋を汗が滑る。
紅焔を正眼に据え、風と炎が猛る間合いに飛び込んだ。
◇ ◇ ◇
カウンターの上で
「じぃちゃが……くえんの咆哮が聞こえるにょ」
ガラスが割れる音がバーに響く。
グラスを握り潰した右手は、流れる鮮血も気にせずに、より強く破片を握り締める。
苛立を、痛覚で鎮めるように。
「勘弁してくれよ、アヤさん。それ五十七個目だよ」
またかと言わんばかりに、亭主は肩を落とす。
懐から出した金貨をカウンターに叩きつけ、アヤはぶっきらぼうに言い放った。
「金はあんだ。次に来る時までに作っておけ」
五十八個目のグラスを注文すると、リンの首根っこを掴み上げ、席を立つ。
その腕を伝い、リンはアヤの肩へ移動した。
「どうしゅるにょ?」
「加勢はしない。折角尻尾を掴みかけたんだ。……まだ、戻れない」
扉を押し開けると、不気味な空が広がっていた。
不吉を告げるように、