第32記 RANK ZERO
陽は、青い空高く。雲は、青い空切り裂き。
「今日の修行はここまでだ」
「おうっ!」
汗が滲む手で握った竹刀を肩に乗せ、アズウェルは風の当たる縁側へと足を運んだ。
道場に北側の壁はない。いくつもの障子を左右に押しやれば、細長い板の間が姿を現す。その板から伝わるやんわりとした温かさを素足で感じ取りながら、空を仰いだ。
仄かに白色 を帯びた金色の光が、開け放たれた道場に降り注ぐ。
夏も真っ盛りだ。
竹刀でぽんぽんと肩を叩きながら、アズウェルは瞳を細めて太陽を眺める。
「今日もあっちぃーなぁ」
「夏は暑い。当たり前のことをほざくな」
アズウェルに戦闘のいろはを教えている眼帯男、ルーティングが呆れたように嘆息した。
「暑いからあっちぃーって言うんだよ。暑いときに言わないでいつ言うんだよ」
「くだらん屁理屈だな」
そう切り捨てると、ルーティングは道場を出て行く。
「なっ! おい、待てよ!」
慌てて縁側から飛び降り、脱ぎ散らかした草履に足を入れる。足早に歩く師を追って、雑草が覆い茂った草原[ を駆ける。
やはり草履というものは履き慣れない。
何度も足を草に取られそうになりながら、漸[ く追いついたその肩に手を伸ばす。
「待てって!」
と、その時。
「うぉ!?」
慌てて後を追ったアズウェルは、前触れもなく足を止めたルーティングに勢いよく鼻をぶつけた。予想外の不意打ちに思わず涙目になる。
「~ってぇ……何だよ。いきなり止まったりして……」
赤みを帯びた鼻を摩りながら、背後からひょっこりと顔を出し、立ち尽くす師を見上げる。
普段なら二言三言怒号が降ってくるのだが、ルーティングは何一つ言わず佇んでいる。
ルーティングの右手には、くしゃりと握り締められた黒紙があった。
「それって確か、アキラやユウが使ってるヤツじゃ?」
今朝方、ユウがマツザワに飛ばしていた白い鳥の正体 符術の一つ、式鳥[ だ。呪[ いが織り込まれた和紙に、ワツキの民は宛名と報せを綴る。それを鳥の形に折って、空へ飛ばすのだ。
「黒って、白より上だっけ?」
確か、和紙の色は緊急性を示していたはず。急ぎの報せだったということなのだろうか。
しかしアズウェルの問には答えず、ルーティングは用件のみを低い声音で告げた。
「小僧、族長が呼んでいる。すぐに、行け」
「え、おれ宛だったのか、それ!」
アズウェルが聞き返した時には、既にその背は数歩先を歩いていた。
「ちょ……待てって!」
呼びかけに振り返ることもなく、がっしりとした背が洞窟の中へと姿を消す。
相変わらず、伝えることは最低限だ。
「返事くらいしてくれたっていーじゃねーかよ……」
それともまだ、打ち解けたわけではないのだろうか。数日前の戦を経て、幾分通じ合えたと思っていたのに。
「そんなもん、か……」
大きな溜息と共に肩を竦めて、アズウェルもとぼとぼと歩き出す。
洞窟に入ると、水音と暗闇に包まれる。人一人が通れる幅の洞窟は、湿った石と石を繋ぐように苔が生えていて、気を抜くと足を滑らせてしまう。
この細道が、村を見守る神社と修行を積む道場の架け橋。本来ならば、村外の者であるアズウェルが知る由もない秘密の通路。
「ディオウは通れないよなぁ。まぁあいつは飛べるからいっか……っと」
出口だ。
背後から差し込む光が途切れると同時に、白く光る暖簾[ が現れた。
それは修業の場への道を覆い隠すようにかかる水の暖簾。洞窟中に水の音が反響しているのは、滝の裏側に隠れているためだった。
「現れやがったな……」
一人毒づくと、アズウェルは眉間に皺を刻み、光と水で織られた暖簾をくぐる。
滝の門を通ったのはほんの一瞬だったが、金髪がぺっとりと額に張り付いていた。
乱暴に髪を掻き上げ、不服そうに呟く。
「はぁ~、ここ通るのだけは嫌なんだよなぁ。……濡れるし」
でも仕方ないか、と溜息一つ。
気を取り直し、小鳥のさえずりが響く境内をぐるりと見渡す。
アズウェルが立っている池の畔から左に、守り神が祀られている木造の社殿。
その右手。古びた社を見下ろすように、池の向かい側に佇むのは、青々と葉を茂らせた桜の樹。
更に右。村へ降り立つ階[ を守る朱色の鳥居は、石畳を社と挟んでいる。
穏やかな風が吹き抜け、神木である葉桜がさわさわと囁く。
たった数日前は戦地だったことが嘘のようだ。
大木を眩しげに見上げているルーティングに歩み寄り、アズウェルは不満を吐き出した。
「返事っくらいしてくれたっていいじゃねぇか。何でそんな怒ってるんだよ」
睨み上げてくる弟子に渋面を作り、決まりの悪そうにルーティングは視線を逸らす。
「……悪い。聞いていなかった。別に、お前に怒っているわけではない」
「え、じゃぁどうして」
「俺は、別件だ」
アズウェルの言葉を掻き消すように、ルーティングは語気を強める。
「別件?」
「お前はお前で何とかするんだな。次の稽古までに鍛えておけ」
「え? 何、どういうことだよ、それ」
その問いには答えず、ルーティングは携える相方の鞘を握り締める。
主から言い渡されている任務は、アズウェル・クランスティの監視。
だが。
右手の紙を見つめて、呟いた言葉は。
「後悔は、するな」
己に対してか、あるいは教え子に対してか。
「え、ちょ、ルーティング!?」
どちらに伝えたのかわからぬまま、ルーティングは石段を駆け下りていった。
◇ ◇ ◇
この空気には覚えがある。
何とも言えぬ緊張感が漂う畳の間。
紫色の座布団に正座をしていたアズウェルは、張り詰めた空気に固唾を飲んだ。乾いた喉にとって、それは単なる気休めでしかない。
意を決して、固く瞑っていた瞼を上げると、蒼い両眼に眼光の険しい男が映った。スワロウ族族長コウキだ。
族長の背後に片膝をついている、黒装束に身を包んだ男。アズウェルの記憶に彼はいなかった。
「先日の一件、誠に世話になった。改めて礼を言う」
厳かな族長の言葉で、真っ直ぐだったアズウェルの背筋が、より一層ぴんと伸びる。
「い、いえ。元々おれが勝手に首突っ込んじゃったんで……」
族長を前にすると、どうも言葉がぎこちない。
やはり、この人は苦手なのかもしれない。
ディオウたちが共にいるならまだしも、たった一人の呼び出しは初めてだ。
それもアズウェルの苦手意識に拍車をかけ、自然と目線が下がっていった。
「そなたがこの村に滞在している間、無礼を承知で、そなたの素性を調べさせていただいた」
「おれの……素性……」
「如何にも。この村に害をなす者か否か。一族を束ねる立場として、判断することは当然。例え、我らスワロウ族の恩人であろうとも、素性が知れぬ者を置いておくわけにはいかぬのでな」
アズウェルの首筋を冷たい雫が滑る。
暑さ故の汗ではない。族長が発する一言一言の重圧、そして険しい眼光が、アズウェルに冷や汗を生ませたのだ。
「タカト」
「はっ」
族長に呼ばれたのは男が、一歩前に出る。
アズウェルに軽く礼をすると、タカトは懐から一枚、紙を取り出した。
幾重にも折り重ねられた淡緑色の和紙を広げ、低く澄んだ声音で記されている文字を読み上げる。
「アズウェル・クランスティ。出生不明。エルジアでフォアロ族として育ち、フォアロ族族長フェルスに育てられる。後に、聖獣ギアディスと会い、生活を共にする。プロという資格は所持していないが、実力あるフレイテジアであり、エンプロイの……」
淡々と読み上げられるアズウェルの生い立ち。
誰であっても、根こそぎ調べ上げられるのは、正直気分が悪い。
当然、後ろめたいことなど何一つありはしないが、しかしそれにしても。
一体何処から仕入れてきたのか、身内しか知り得ないはずの内容まで含まれていた。
口元に苦笑を滲ませつつも、アズウェルはタカトがところどころで取る確認に応じる。
「現在、アキラ・リアイリドの家に滞在。旧スワロウ族次期族長であるリュウジ・コネクティードを師として、稽古をしている。以上です」
「うむ。あまり気分が良いものではないだろうが、これを調べてわかったことがある」
一度言葉を区切り、族長はアズウェルの双眸を見つめた。
これで出て行けと言われたら、アズウェルに宛はない。還る場所がないのだ。
首筋を、背筋を、ひやりとしたものが伝う。
紅い瞳は全てを見透かしているかのようで。
それから目を逸らすことも叶わないまま、アズウェルはただ次なる言葉を待った。
「そなたは」
どくん、と鼓動が跳ね上がる。
「ワツキにおいて」
どくん、どくん。
僅かな間が、重圧に変わる。
どうか、早く、答えを ……
「お、おれは……っ!」
はっとして、言葉を飲み込む。声が、出てしまった。
己の鼓動が全身を揺らし、顔が紅潮する。
「アズウェル? どうかしたのか?」
どう取り繕えば良いのか。
「お、おれは……」
必死に思考を巡らすが、言葉にならずに言い淀む。
ものの数秒。重い沈黙が流れた。
両手を握り締め、俯いたアズウェルは口を開く気配がない。
暫く様子を見つめていた族長が、すっと立ち上がった。アズウェルに歩み寄ると、片膝を折り、小刻みに震えるその両肩に手を置く。
怯える子供を諭すように、コウキは柔らかく微笑んだ。
「安心したまえ。何も、恐れることはない。そなたは善なる者、我らの同志だ」
一つ一つを丁寧に音にされたものは、決してアズウェルを否定するものではなく。
「え、それじゃ、おれ……」
「今後はワツキで暮らすと良いだろう。クロウ族との戦いが終わったわけではない。力を蓄えることもまた、必要になってくる。このワツキに滞在し、我々と同様の任務をこなし、次なる戦に備えていただきたい」
「は、はい! おれ、頑張ります!」
その言葉に、族長が力強く頷いた。
アズウェルの動悸が徐々に静けさを帯びてくる。
族長の背後へ視線を投じると、相変わらず片膝をついているタカトが、微笑みを浮かべていた。
歳は恐らくアキラたちより上だろう。
落ち着いた雰囲気の青年は、純粋に新たなる仲間を歓迎しているようだ。
嬉しさと気恥ずかしさを織り混ぜた笑顔を、アズウェルはタカトに返した。
「では、アズウェル」
「はいっ」
表情を和らげている族長は、アズウェルが思うほど怖い人ではなかった。
もしかしたら、今なら冗談を言えるかもしれない。
そんなことを考えて、アズウェルはこほんと一つ咳をした。
そう何度も話を中断するわけにはいかない。しっかりと聞かなくては。
再び族長へ視線を戻すと、茶色い木の板が差し出されていた。
「我ら一族の仲間である証として、この紋章を渡しておこう。任務を行う際、役に立つだろう」
正方形に切り抜かれた板の中央には、スワロウ族の象徴である燕が描かれている。
「あ、ありがとうございますっ」
それを受け取ると、アズウェルはほっと一息つく。
これで生活は安定するだろう。
エンプロイが燃えたことにより、アズウェルの生活は大きく変わった。
働き口を失い、クロウ族から命を狙われ、スワロウ族との戦に巻き込まれたのだ。
あの時に、スチリディーとマツザワの話に首を突っ込まなければ、今も変わらず、自然に囲まれたエルジアで生活を送っていたのかもしれない。
だが、後悔はしていない。知らない間に知人が傷付くより、遥かにましなのだから。
改めて、手の中にある証を見つめる。
クロウ族との戦いが終わったわけではない。
族長の声が耳奥で再生される。
これから、仕切り直しだ。
毎朝九時からルーティングに稽古を付けてもらってはいるものの、思うような成果は得られていなかった。
実践不足だ、と。
そう、ルーティングに言われていた。
もっと強くならねば。
「アズウェル」
また誰かが、アキラのようになってしまったら。
「アズウェル、聞いておるか」
「あ、は、はい!」
少し語気を強くした族長の言葉に、アズウェルの背筋は直立する。
気が付くと、族長は既に元の座椅子へ戻っていた。
「よく、聞いてほしい。早速で悪いが、任務に赴いてもらう」
冒頭で念を押し、族長は先刻までとは違う厳かな声音で語る。
真剣な面持ちで居住まいを正したアズウェルは、次の言葉を無言で待った。
「我々スワロウ族がこなす任務は、必要とする実力ごとに階級が付けられている」
「それは、知ってます」
「うむ。その階級がどのように付いているか、知っておるか」
「いや、そこまでは……」
首を傾げたアズウェルに悠然と頷いて、族長は部屋の外にも聞こえるような声を張り上げた。
「入れ」
その一声に応じるように、部屋の襖[ が開かれる。
長い黒髪を靡[ かせ、一礼すると、襖の外にいた女はアズウェルを見つめた。
「マツザワ、どうし」
「今回の任務は」
驚くアズウェルの言葉を遮り、マツザワは凛とした声で言い放つ。
「階級零番。つまり」
「ランク、ゼロ」
マツザワの言葉を族長が引き継ぎ、タカトが静かに目を伏せる。
「ランク、ゼロって……? ど、どういうことだよ?」
「我々の任務階級は、必要な実力が判断基準である。数字が小さくなればなるほど、より優秀な者を送り出すことが求められるのだ」
即ち、階級零番とは。
「最上級任務だ」
平然と告げるマツザワに、アズウェルは目を剥いた。
「最……上級ぅ!?」
いきなり最上級などできるものなのだろうか。
実力に比例した階級とはいえ、零番となる任務は滅多に存在しない。
未だに目を白黒させているアズウェルに、マツザワが両手を畳につけ、深々と叩頭する。
「私と共に任務を引き受けて欲しい。頼む、アズウェル」
「え、えっと……」
否、と言える状況ではないことは確かだ。
頭を過[ る不安はただ一つ。
また怒鳴られるだろう。
己の金髪をわしゃわしゃと掻き回しながら、アズウェルは牙を剥き出しにして吠える聖獣を思い浮かべるのであった。
「今日の修行はここまでだ」
「おうっ!」
汗が滲む手で握った竹刀を肩に乗せ、アズウェルは風の当たる縁側へと足を運んだ。
道場に北側の壁はない。いくつもの障子を左右に押しやれば、細長い板の間が姿を現す。その板から伝わるやんわりとした温かさを素足で感じ取りながら、空を仰いだ。
仄かに
夏も真っ盛りだ。
竹刀でぽんぽんと肩を叩きながら、アズウェルは瞳を細めて太陽を眺める。
「今日もあっちぃーなぁ」
「夏は暑い。当たり前のことをほざくな」
アズウェルに戦闘のいろはを教えている眼帯男、ルーティングが呆れたように嘆息した。
「暑いからあっちぃーって言うんだよ。暑いときに言わないでいつ言うんだよ」
「くだらん屁理屈だな」
そう切り捨てると、ルーティングは道場を出て行く。
「なっ! おい、待てよ!」
慌てて縁側から飛び降り、脱ぎ散らかした草履に足を入れる。足早に歩く師を追って、雑草が覆い茂った
やはり草履というものは履き慣れない。
何度も足を草に取られそうになりながら、
「待てって!」
と、その時。
「うぉ!?」
慌てて後を追ったアズウェルは、前触れもなく足を止めたルーティングに勢いよく鼻をぶつけた。予想外の不意打ちに思わず涙目になる。
「~ってぇ……何だよ。いきなり止まったりして……」
赤みを帯びた鼻を摩りながら、背後からひょっこりと顔を出し、立ち尽くす師を見上げる。
普段なら二言三言怒号が降ってくるのだが、ルーティングは何一つ言わず佇んでいる。
ルーティングの右手には、くしゃりと握り締められた黒紙があった。
「それって確か、アキラやユウが使ってるヤツじゃ?」
今朝方、ユウがマツザワに飛ばしていた白い鳥の正体
「黒って、白より上だっけ?」
確か、和紙の色は緊急性を示していたはず。急ぎの報せだったということなのだろうか。
しかしアズウェルの問には答えず、ルーティングは用件のみを低い声音で告げた。
「小僧、族長が呼んでいる。すぐに、行け」
「え、おれ宛だったのか、それ!」
アズウェルが聞き返した時には、既にその背は数歩先を歩いていた。
「ちょ……待てって!」
呼びかけに振り返ることもなく、がっしりとした背が洞窟の中へと姿を消す。
相変わらず、伝えることは最低限だ。
「返事くらいしてくれたっていーじゃねーかよ……」
それともまだ、打ち解けたわけではないのだろうか。数日前の戦を経て、幾分通じ合えたと思っていたのに。
「そんなもん、か……」
大きな溜息と共に肩を竦めて、アズウェルもとぼとぼと歩き出す。
洞窟に入ると、水音と暗闇に包まれる。人一人が通れる幅の洞窟は、湿った石と石を繋ぐように苔が生えていて、気を抜くと足を滑らせてしまう。
この細道が、村を見守る神社と修行を積む道場の架け橋。本来ならば、村外の者であるアズウェルが知る由もない秘密の通路。
「ディオウは通れないよなぁ。まぁあいつは飛べるからいっか……っと」
出口だ。
背後から差し込む光が途切れると同時に、白く光る
それは修業の場への道を覆い隠すようにかかる水の暖簾。洞窟中に水の音が反響しているのは、滝の裏側に隠れているためだった。
「現れやがったな……」
一人毒づくと、アズウェルは眉間に皺を刻み、光と水で織られた暖簾をくぐる。
滝の門を通ったのはほんの一瞬だったが、金髪がぺっとりと額に張り付いていた。
乱暴に髪を掻き上げ、不服そうに呟く。
「はぁ~、ここ通るのだけは嫌なんだよなぁ。……濡れるし」
でも仕方ないか、と溜息一つ。
気を取り直し、小鳥のさえずりが響く境内をぐるりと見渡す。
アズウェルが立っている池の畔から左に、守り神が祀られている木造の社殿。
その右手。古びた社を見下ろすように、池の向かい側に佇むのは、青々と葉を茂らせた桜の樹。
更に右。村へ降り立つ
穏やかな風が吹き抜け、神木である葉桜がさわさわと囁く。
たった数日前は戦地だったことが嘘のようだ。
大木を眩しげに見上げているルーティングに歩み寄り、アズウェルは不満を吐き出した。
「返事っくらいしてくれたっていいじゃねぇか。何でそんな怒ってるんだよ」
睨み上げてくる弟子に渋面を作り、決まりの悪そうにルーティングは視線を逸らす。
「……悪い。聞いていなかった。別に、お前に怒っているわけではない」
「え、じゃぁどうして」
「俺は、別件だ」
アズウェルの言葉を掻き消すように、ルーティングは語気を強める。
「別件?」
「お前はお前で何とかするんだな。次の稽古までに鍛えておけ」
「え? 何、どういうことだよ、それ」
その問いには答えず、ルーティングは携える相方の鞘を握り締める。
主から言い渡されている任務は、アズウェル・クランスティの監視。
だが。
右手の紙を見つめて、呟いた言葉は。
「後悔は、するな」
己に対してか、あるいは教え子に対してか。
「え、ちょ、ルーティング!?」
どちらに伝えたのかわからぬまま、ルーティングは石段を駆け下りていった。
◇ ◇ ◇
この空気には覚えがある。
何とも言えぬ緊張感が漂う畳の間。
紫色の座布団に正座をしていたアズウェルは、張り詰めた空気に固唾を飲んだ。乾いた喉にとって、それは単なる気休めでしかない。
意を決して、固く瞑っていた瞼を上げると、蒼い両眼に眼光の険しい男が映った。スワロウ族族長コウキだ。
族長の背後に片膝をついている、黒装束に身を包んだ男。アズウェルの記憶に彼はいなかった。
「先日の一件、誠に世話になった。改めて礼を言う」
厳かな族長の言葉で、真っ直ぐだったアズウェルの背筋が、より一層ぴんと伸びる。
「い、いえ。元々おれが勝手に首突っ込んじゃったんで……」
族長を前にすると、どうも言葉がぎこちない。
やはり、この人は苦手なのかもしれない。
ディオウたちが共にいるならまだしも、たった一人の呼び出しは初めてだ。
それもアズウェルの苦手意識に拍車をかけ、自然と目線が下がっていった。
「そなたがこの村に滞在している間、無礼を承知で、そなたの素性を調べさせていただいた」
「おれの……素性……」
「如何にも。この村に害をなす者か否か。一族を束ねる立場として、判断することは当然。例え、我らスワロウ族の恩人であろうとも、素性が知れぬ者を置いておくわけにはいかぬのでな」
アズウェルの首筋を冷たい雫が滑る。
暑さ故の汗ではない。族長が発する一言一言の重圧、そして険しい眼光が、アズウェルに冷や汗を生ませたのだ。
「タカト」
「はっ」
族長に呼ばれたのは男が、一歩前に出る。
アズウェルに軽く礼をすると、タカトは懐から一枚、紙を取り出した。
幾重にも折り重ねられた淡緑色の和紙を広げ、低く澄んだ声音で記されている文字を読み上げる。
「アズウェル・クランスティ。出生不明。エルジアでフォアロ族として育ち、フォアロ族族長フェルスに育てられる。後に、聖獣ギアディスと会い、生活を共にする。プロという資格は所持していないが、実力あるフレイテジアであり、エンプロイの……」
淡々と読み上げられるアズウェルの生い立ち。
誰であっても、根こそぎ調べ上げられるのは、正直気分が悪い。
当然、後ろめたいことなど何一つありはしないが、しかしそれにしても。
一体何処から仕入れてきたのか、身内しか知り得ないはずの内容まで含まれていた。
口元に苦笑を滲ませつつも、アズウェルはタカトがところどころで取る確認に応じる。
「現在、アキラ・リアイリドの家に滞在。旧スワロウ族次期族長であるリュウジ・コネクティードを師として、稽古をしている。以上です」
「うむ。あまり気分が良いものではないだろうが、これを調べてわかったことがある」
一度言葉を区切り、族長はアズウェルの双眸を見つめた。
これで出て行けと言われたら、アズウェルに宛はない。還る場所がないのだ。
首筋を、背筋を、ひやりとしたものが伝う。
紅い瞳は全てを見透かしているかのようで。
それから目を逸らすことも叶わないまま、アズウェルはただ次なる言葉を待った。
「そなたは」
どくん、と鼓動が跳ね上がる。
「ワツキにおいて」
どくん、どくん。
僅かな間が、重圧に変わる。
どうか、早く、答えを
「お、おれは……っ!」
はっとして、言葉を飲み込む。声が、出てしまった。
己の鼓動が全身を揺らし、顔が紅潮する。
「アズウェル? どうかしたのか?」
どう取り繕えば良いのか。
「お、おれは……」
必死に思考を巡らすが、言葉にならずに言い淀む。
ものの数秒。重い沈黙が流れた。
両手を握り締め、俯いたアズウェルは口を開く気配がない。
暫く様子を見つめていた族長が、すっと立ち上がった。アズウェルに歩み寄ると、片膝を折り、小刻みに震えるその両肩に手を置く。
怯える子供を諭すように、コウキは柔らかく微笑んだ。
「安心したまえ。何も、恐れることはない。そなたは善なる者、我らの同志だ」
一つ一つを丁寧に音にされたものは、決してアズウェルを否定するものではなく。
「え、それじゃ、おれ……」
「今後はワツキで暮らすと良いだろう。クロウ族との戦いが終わったわけではない。力を蓄えることもまた、必要になってくる。このワツキに滞在し、我々と同様の任務をこなし、次なる戦に備えていただきたい」
「は、はい! おれ、頑張ります!」
その言葉に、族長が力強く頷いた。
アズウェルの動悸が徐々に静けさを帯びてくる。
族長の背後へ視線を投じると、相変わらず片膝をついているタカトが、微笑みを浮かべていた。
歳は恐らくアキラたちより上だろう。
落ち着いた雰囲気の青年は、純粋に新たなる仲間を歓迎しているようだ。
嬉しさと気恥ずかしさを織り混ぜた笑顔を、アズウェルはタカトに返した。
「では、アズウェル」
「はいっ」
表情を和らげている族長は、アズウェルが思うほど怖い人ではなかった。
もしかしたら、今なら冗談を言えるかもしれない。
そんなことを考えて、アズウェルはこほんと一つ咳をした。
そう何度も話を中断するわけにはいかない。しっかりと聞かなくては。
再び族長へ視線を戻すと、茶色い木の板が差し出されていた。
「我ら一族の仲間である証として、この紋章を渡しておこう。任務を行う際、役に立つだろう」
正方形に切り抜かれた板の中央には、スワロウ族の象徴である燕が描かれている。
「あ、ありがとうございますっ」
それを受け取ると、アズウェルはほっと一息つく。
これで生活は安定するだろう。
エンプロイが燃えたことにより、アズウェルの生活は大きく変わった。
働き口を失い、クロウ族から命を狙われ、スワロウ族との戦に巻き込まれたのだ。
あの時に、スチリディーとマツザワの話に首を突っ込まなければ、今も変わらず、自然に囲まれたエルジアで生活を送っていたのかもしれない。
だが、後悔はしていない。知らない間に知人が傷付くより、遥かにましなのだから。
改めて、手の中にある証を見つめる。
族長の声が耳奥で再生される。
これから、仕切り直しだ。
毎朝九時からルーティングに稽古を付けてもらってはいるものの、思うような成果は得られていなかった。
実践不足だ、と。
そう、ルーティングに言われていた。
もっと強くならねば。
「アズウェル」
また誰かが、アキラのようになってしまったら。
「アズウェル、聞いておるか」
「あ、は、はい!」
少し語気を強くした族長の言葉に、アズウェルの背筋は直立する。
気が付くと、族長は既に元の座椅子へ戻っていた。
「よく、聞いてほしい。早速で悪いが、任務に赴いてもらう」
冒頭で念を押し、族長は先刻までとは違う厳かな声音で語る。
真剣な面持ちで居住まいを正したアズウェルは、次の言葉を無言で待った。
「我々スワロウ族がこなす任務は、必要とする実力ごとに階級が付けられている」
「それは、知ってます」
「うむ。その階級がどのように付いているか、知っておるか」
「いや、そこまでは……」
首を傾げたアズウェルに悠然と頷いて、族長は部屋の外にも聞こえるような声を張り上げた。
「入れ」
その一声に応じるように、部屋の
長い黒髪を
「マツザワ、どうし」
「今回の任務は」
驚くアズウェルの言葉を遮り、マツザワは凛とした声で言い放つ。
「階級零番。つまり」
「ランク、ゼロ」
マツザワの言葉を族長が引き継ぎ、タカトが静かに目を伏せる。
「ランク、ゼロって……? ど、どういうことだよ?」
「我々の任務階級は、必要な実力が判断基準である。数字が小さくなればなるほど、より優秀な者を送り出すことが求められるのだ」
即ち、階級零番とは。
「最上級任務だ」
平然と告げるマツザワに、アズウェルは目を剥いた。
「最……上級ぅ!?」
いきなり最上級などできるものなのだろうか。
実力に比例した階級とはいえ、零番となる任務は滅多に存在しない。
未だに目を白黒させているアズウェルに、マツザワが両手を畳につけ、深々と叩頭する。
「私と共に任務を引き受けて欲しい。頼む、アズウェル」
「え、えっと……」
否、と言える状況ではないことは確かだ。
頭を
また怒鳴られるだろう。
己の金髪をわしゃわしゃと掻き回しながら、アズウェルは牙を剥き出しにして吠える聖獣を思い浮かべるのであった。
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第33記 征く者と待つ者
「族長を喰い殺してきてもいいか?」
早朝から、リアイリド家は険悪な雰囲気に包まれていた。
「ダメに決まってるだろ。折角認めてもらえたのに、牙剥いてどうするんだよ。おれだって、そろそろちゃんと稼がねぇといけねぇし、ディオウも肉喰えなくなるぞ?」
「……それとこれとは別問題だ」
横目で飼い主を睨むと、純白の聖獣はぴしりと尾を一振りする。
最上級任務などという危険なものをほいほいと受けてくるな、と昨晩からアズウェルと睨み合いを繰り広げているディオウを宙から見下ろし、ラキィは本日何度目かわからない溜息をついた。ちなみに、彼らはまだ朝食すら取っていない。
「ディオウ、いつまでそうしてるの! もう行くって決まったんだから、いい加減受け入れなさいよ!」
自身の数倍以上もの巨体に怯むこともなく、甲高い声でラキィは頑固者を叱りつける。
「戦明けだぞ? いくら外傷がないからとはいえ、いきなり零番任務を押しつけるか、普通?」
「すまない、ディオウ殿。本来は三番程度のものを私も受けるつもりだったのだが、昨日になって急に零番任務の依頼が入ったのだ」
申し訳なさそうに部屋に入ってきたのは、アズウェルと共に任務を受けたマツザワだ。
「お、マツザワ、おはよっ」
「おはよう、アズウェル」
荷造りの手を止め、笑顔で挨拶を投げかけたアズウェルに、マツザワも微笑んで応えた。だが、二人の笑顔は、一瞬の後に堅さを帯びる。
眉根を寄せて腕を組み、ゆっくりと窓際に歩きながら、彼女は言った。
「既に一族でも被害者が出ている。早急な対応が求められているな。本来、零番任務では、ショウゴさんや兄さまが出向くのだが、今二人とも村を出ている。実力順なら、恐らく私より、アキラだろうが……」
言い差して、マツザワは視線を落とす。
朝日が畳を照らし、部屋は明るい朝を迎えていた。その明るさとは裏腹に、皆、深刻な面持ちで口をつぐむ。
普段なら、彼女がアキラを褒めるようなことは言わない。そう、アキラが普段通りであれば。
「私が不甲斐なかったばかりにっ……!」
ぎりっと下唇を噛みしめ、マツザワは爪が食い込むほど、拳を強く握り締めた。
震える拳が語るのは、己の無力さに他ならない。
滲み出る後悔の念に、彼女は右手を壁に叩きつけた。
「マツザワ……」
こんな時になんて声をかければいいのだろうか。
アキラが破れた瞬間を視[ ていたのは、彼女以外に二人だけ。
一人はアキラを死の窮地まで追いつめた張本人であるピエール。
そしてもう一人は。
アズウェルの顔がくしゃりと歪み、蒼い瞳が苦しげに揺れた。
あの惨状を予め知っていたはずなのに。
マツザワとアキラが初めて共にアズウェルの前に揃った時、それは視えていた。例え断片的であろうと、戦が始まる前に視えていたのだ。
わかっていても、何もできなかった。結局、二人を窮地から救ったのも自分ではない。
アズウェルが視ることのできる未来は、あくまで未来の欠片に過ぎない。その欠片は、人の気まぐれ一つで容易く崩壊することもあれば、どんなに受け入れがたい現実だろうと、真[ のものになることもある。
真のものになり、初めて、人は後悔する。
「後から悔いるから、後悔と言うんだ。繰り返したくなければ、成長しろ。お前たち二人がいくらそうして悔いていても、現状が変わるわけではないぞ」
押し黙る二人に、ディオウが悠々と告げる。
黄金の双眸は、真っ直ぐに二人を射抜き、導[ を示していた。
「うん。そうだな。おれたちも前進すればいいんだ。な、マツザワ?」
「……ああ」
凍てついていた空気が、少しずつ温かさを取り戻していく。
前を向かなければ、何も始まらない。
「それでいい」
口元に淡い笑みを浮かべたディオウの言葉に、アズウェルとマツザワが顔を見合わせて頷く。
三人のやり取りを無言で見つめていたラキィが、ディオウの頭に乗り、両耳で一つ柏手を打った。
「さぁ、任務に行く前にはしっかり食べなきゃ! ユウも待ってるわ。いきましょっ!」
「今日はマツザワも一緒だろ?」
「あぁ、そうだな」
アズウェルの問いに頷いて、マツザワは強張った頬を和らげる。
申し合わせたわけではないが、皆同時に頭[ を一つ振った。
丸い食卓を囲み、ユウが丹誠込めて作った朝餉を口に運ぶ。
卓上に並んでいるのは、やっと食べ慣れてきた白米に味噌汁。そして、その間に割り込み、白目を剥いている焼き魚。
その白目を見据え、アズウェルは意気込んでいた。
「今日こそは、骨まで食ってやるぞ!」
「あんたも懲りないわねぇ、ホント」
呆れ顔で言ったラキィに、アズウェル初黒星の一戦に居合わせなかったマツザワが問う。
「アズウェルは一体何に気合いを入れているのだ?」
やれやれと言わんばかりに肩を竦めてみせ、ラキィは飼い主を見やった。
「なぁんかね。ディオウやアキラが骨までバリバリいっちゃってるのを見て、自分もやるってかじりついたはいいんだけど」
「喉に刺さったんだ」
やはり呆れ顔でラキィの言葉を継いだディオウが、魚の尻尾を銜[ え、それを宙に軽く投げ上げる。
重力に引かれ落下してきた骨だけの魚を、ディオウは一口で噛み砕いた。
「それで、アズウェルは魚が出る度にリベンジをしているんだ」
「な、なるほど」
流石聖獣。いや、この場合は獣[ と言うべきだろうか。
骨をものともせずに粉砕したディオウに横目で驚きつつ、マツザワは味噌汁を一口啜[ った。
「無理はなさらぬように」
朗らかな笑顔のユウが、アズウェルにやんわりと警告する。
大丈夫、大丈夫、と頷きながら、アズウェルはばりばりと骨を噛み砕いていく。
「あら、今回は勝てそう?」
そう茶化すようにラキィが微笑んだ途端。
「いでっ!」
再び黒星を重ねることになったアズウェルの声が上がった。
「ほら見ろ。だから止めておけと言ったんだ」
「うるせーよ。おれは諦めねぇぞ」
学習したのか、既に白米を飲み込んだアズウェルは、溜息混じりに言うディオウに舌を出した。
「これで九戦全敗ね、アズウェル」
「黒星も次で二桁台か」
「何言ってんだ。次こそおれが勝ってやる!」
呆れ半分、興味半分といった調子で笑う家族に、最後の味噌汁を掻き込みながら、自信満々に勝利宣言をするアズウェル。
そんな彼らのやり取りを見ていると、自然と笑みが零れてくる。
重症の兄を看病するユウにとっては、彼らが唯一の救いだった。
アズウェルの横顔を見つめているユウに、マツザワがそっと話しかける。
「アキラの容態は?」
「外傷は……ほとんど。でも、まだ起きていられるのはせいぜい三時間です」
「そう、か」
湯飲みの茶に映る自分を見つめながら、マツザワは隣の間で伏せっているであろう幼馴染みを思い浮かべた。
ピエールとの一戦で、生死の境を彷徨ったアキラ。
数多の切り傷を含め、ユウの治療で見た目は大方回復した。
だが、問題は精神だ。
一番触れられたくないものを、玩具のように弄ばれた。その影響は凄まじかった。
起きている時のアキラは、いつも通りの明るさを保っているが、限界は一日三時間程度。
話をしていたと思えば、突然意識を失い、丸一日目が覚めない。そんなことはもはや、珍しくはなくなっていた。
「回復は見込めそうか?」
「できる限り、力を尽くします」
あえて曖昧な答えを返したユウからは、一筋縄ではいかないという表情が読み取れる。
マツザワは湯飲みに視線を戻すと、現状を否定するかのように、一気飲みした。
空になった湯飲みを静かに置き、ふぅっと息を吐き出す。向かい側ではアズウェルたちが相変わらず盛り上がっていた。
「ほんっと、懲りないのね、アズウェル」
「負けたまま引き下がれるかよ」
「普通は一度痛い目にあえば諦めるんだがな」
「なぁんや、みなはん楽しそうやなぁ~」
「な……!? お、おまえ……寝てなくていいのかよ!?」
驚きの声を上げたアズウェル以外は、皆意外な人物の登場に絶句していた。
自然に降ってきた声は、するはずもないもので。
声の主、寝間着の上に紺色の羽織りを着ているアキラは、蒼白の顔で微笑んだ。
「昨日ユウからアズウェルはんたちが任務に行くって聞いたんや。せめて見送りでもしよ思うて……」
「アキラ!」
ぐらりと傾[ いだアキラを、慌てて立ち上がったアズウェルが受け止める。
「アキラさんっ……!」
駆け寄ってきた妹に微笑みかけ、アキラは言った。
「ユウ、水を一杯頼むで」
「は、はいっ」
身を翻し、ユウは台所へ向かう。
それを見送ると、アズウェルは小声で尋ねた。
「本当に寝てなくていいのか? 見送りなんていいから、休んでいた方が……」
「アズウェルはん」
荒い呼吸を繰り返しながら、アキラはアズウェルの右肩を掴む。
掠れた声を出すのが精一杯。
崩れ落ちそうになる意識を懸命に繋ぎ止め、アズウェルの耳元で囁く。
「ミズナを、頼んます」
「あき、ら……?」
目を見開いているアズウェルに、アキラはただ笑顔を向けた。
そして、アズウェルの後ろで佇む幼馴染みに語りかける。
「野宿して……風邪、ひかんように……な……」
名は呼ばずとも、届いただろう。
一瞬目を瞠った彼女を最後に、アキラの意識は暗い闇の中へ引きずり込まれた。
「アキラ、アキラ……!?」
アズウェルが、己にぐったりと寄りかかるアキラの両肩を揺する。
しかし、いくら呼びかけても、再び彼が微笑みを浮かべることはなかった。
頼まれた水を持ってきたユウは、瞳を閉じた兄を見つめる。
また、手の届かないところへ行ってしまった。
どうか、戻ってきて。
そう、祈ることしかできない彼女は、漆黒の瞳を揺らし、顔を伏せた。
「アズウェル、迎えが来たぞ」
一瞬、動きという自由を奪われた彼らは、ディオウの発言で現実に引き戻される。
窓の外へ視線を送れば、アキラの家に向かって来る族長とタカトが見えた。
「うん、行こう。……よろしく、ユウ」
「はい」
アキラの身体をユウに預け、アズウェルが立ち上がる。
ディオウ、ラキィも、表へ出て行く飼い主に続く。
最後まで居間に留まったマツザワは、親友に想いを託した。
「アキラを、頼む」
水華を握りしめ、身を翻す。窓から吹き抜けた風に、一束に結わえた長い黒髪が踊った。
戦地へと赴く友の背を見つめ、ユウは眠る兄を抱き締める。
「……はい」
待つことしかできない。
兄も、親友も、皆。
己など声も届かないところへ行ってしまう。
「どうか、お気をつけて……」
ユウは遠のいていく仲間の無事を、切に願っていた。
早朝から、リアイリド家は険悪な雰囲気に包まれていた。
「ダメに決まってるだろ。折角認めてもらえたのに、牙剥いてどうするんだよ。おれだって、そろそろちゃんと稼がねぇといけねぇし、ディオウも肉喰えなくなるぞ?」
「……それとこれとは別問題だ」
横目で飼い主を睨むと、純白の聖獣はぴしりと尾を一振りする。
最上級任務などという危険なものをほいほいと受けてくるな、と昨晩からアズウェルと睨み合いを繰り広げているディオウを宙から見下ろし、ラキィは本日何度目かわからない溜息をついた。ちなみに、彼らはまだ朝食すら取っていない。
「ディオウ、いつまでそうしてるの! もう行くって決まったんだから、いい加減受け入れなさいよ!」
自身の数倍以上もの巨体に怯むこともなく、甲高い声でラキィは頑固者を叱りつける。
「戦明けだぞ? いくら外傷がないからとはいえ、いきなり零番任務を押しつけるか、普通?」
「すまない、ディオウ殿。本来は三番程度のものを私も受けるつもりだったのだが、昨日になって急に零番任務の依頼が入ったのだ」
申し訳なさそうに部屋に入ってきたのは、アズウェルと共に任務を受けたマツザワだ。
「お、マツザワ、おはよっ」
「おはよう、アズウェル」
荷造りの手を止め、笑顔で挨拶を投げかけたアズウェルに、マツザワも微笑んで応えた。だが、二人の笑顔は、一瞬の後に堅さを帯びる。
眉根を寄せて腕を組み、ゆっくりと窓際に歩きながら、彼女は言った。
「既に一族でも被害者が出ている。早急な対応が求められているな。本来、零番任務では、ショウゴさんや兄さまが出向くのだが、今二人とも村を出ている。実力順なら、恐らく私より、アキラだろうが……」
言い差して、マツザワは視線を落とす。
朝日が畳を照らし、部屋は明るい朝を迎えていた。その明るさとは裏腹に、皆、深刻な面持ちで口をつぐむ。
普段なら、彼女がアキラを褒めるようなことは言わない。そう、アキラが普段通りであれば。
「私が不甲斐なかったばかりにっ……!」
ぎりっと下唇を噛みしめ、マツザワは爪が食い込むほど、拳を強く握り締めた。
震える拳が語るのは、己の無力さに他ならない。
滲み出る後悔の念に、彼女は右手を壁に叩きつけた。
「マツザワ……」
こんな時になんて声をかければいいのだろうか。
アキラが破れた瞬間を
一人はアキラを死の窮地まで追いつめた張本人であるピエール。
そしてもう一人は。
アズウェルの顔がくしゃりと歪み、蒼い瞳が苦しげに揺れた。
あの惨状を予め知っていたはずなのに。
マツザワとアキラが初めて共にアズウェルの前に揃った時、それは視えていた。例え断片的であろうと、戦が始まる前に視えていたのだ。
わかっていても、何もできなかった。結局、二人を窮地から救ったのも自分ではない。
アズウェルが視ることのできる未来は、あくまで未来の欠片に過ぎない。その欠片は、人の気まぐれ一つで容易く崩壊することもあれば、どんなに受け入れがたい現実だろうと、
真のものになり、初めて、人は後悔する。
「後から悔いるから、後悔と言うんだ。繰り返したくなければ、成長しろ。お前たち二人がいくらそうして悔いていても、現状が変わるわけではないぞ」
押し黙る二人に、ディオウが悠々と告げる。
黄金の双眸は、真っ直ぐに二人を射抜き、
「うん。そうだな。おれたちも前進すればいいんだ。な、マツザワ?」
「……ああ」
凍てついていた空気が、少しずつ温かさを取り戻していく。
前を向かなければ、何も始まらない。
「それでいい」
口元に淡い笑みを浮かべたディオウの言葉に、アズウェルとマツザワが顔を見合わせて頷く。
三人のやり取りを無言で見つめていたラキィが、ディオウの頭に乗り、両耳で一つ柏手を打った。
「さぁ、任務に行く前にはしっかり食べなきゃ! ユウも待ってるわ。いきましょっ!」
「今日はマツザワも一緒だろ?」
「あぁ、そうだな」
アズウェルの問いに頷いて、マツザワは強張った頬を和らげる。
申し合わせたわけではないが、皆同時に
丸い食卓を囲み、ユウが丹誠込めて作った朝餉を口に運ぶ。
卓上に並んでいるのは、やっと食べ慣れてきた白米に味噌汁。そして、その間に割り込み、白目を剥いている焼き魚。
その白目を見据え、アズウェルは意気込んでいた。
「今日こそは、骨まで食ってやるぞ!」
「あんたも懲りないわねぇ、ホント」
呆れ顔で言ったラキィに、アズウェル初黒星の一戦に居合わせなかったマツザワが問う。
「アズウェルは一体何に気合いを入れているのだ?」
やれやれと言わんばかりに肩を竦めてみせ、ラキィは飼い主を見やった。
「なぁんかね。ディオウやアキラが骨までバリバリいっちゃってるのを見て、自分もやるってかじりついたはいいんだけど」
「喉に刺さったんだ」
やはり呆れ顔でラキィの言葉を継いだディオウが、魚の尻尾を
重力に引かれ落下してきた骨だけの魚を、ディオウは一口で噛み砕いた。
「それで、アズウェルは魚が出る度にリベンジをしているんだ」
「な、なるほど」
流石聖獣。いや、この場合は
骨をものともせずに粉砕したディオウに横目で驚きつつ、マツザワは味噌汁を一口
「無理はなさらぬように」
朗らかな笑顔のユウが、アズウェルにやんわりと警告する。
大丈夫、大丈夫、と頷きながら、アズウェルはばりばりと骨を噛み砕いていく。
「あら、今回は勝てそう?」
そう茶化すようにラキィが微笑んだ途端。
「いでっ!」
再び黒星を重ねることになったアズウェルの声が上がった。
「ほら見ろ。だから止めておけと言ったんだ」
「うるせーよ。おれは諦めねぇぞ」
学習したのか、既に白米を飲み込んだアズウェルは、溜息混じりに言うディオウに舌を出した。
「これで九戦全敗ね、アズウェル」
「黒星も次で二桁台か」
「何言ってんだ。次こそおれが勝ってやる!」
呆れ半分、興味半分といった調子で笑う家族に、最後の味噌汁を掻き込みながら、自信満々に勝利宣言をするアズウェル。
そんな彼らのやり取りを見ていると、自然と笑みが零れてくる。
重症の兄を看病するユウにとっては、彼らが唯一の救いだった。
アズウェルの横顔を見つめているユウに、マツザワがそっと話しかける。
「アキラの容態は?」
「外傷は……ほとんど。でも、まだ起きていられるのはせいぜい三時間です」
「そう、か」
湯飲みの茶に映る自分を見つめながら、マツザワは隣の間で伏せっているであろう幼馴染みを思い浮かべた。
ピエールとの一戦で、生死の境を彷徨ったアキラ。
数多の切り傷を含め、ユウの治療で見た目は大方回復した。
だが、問題は精神だ。
一番触れられたくないものを、玩具のように弄ばれた。その影響は凄まじかった。
起きている時のアキラは、いつも通りの明るさを保っているが、限界は一日三時間程度。
話をしていたと思えば、突然意識を失い、丸一日目が覚めない。そんなことはもはや、珍しくはなくなっていた。
「回復は見込めそうか?」
「できる限り、力を尽くします」
あえて曖昧な答えを返したユウからは、一筋縄ではいかないという表情が読み取れる。
マツザワは湯飲みに視線を戻すと、現状を否定するかのように、一気飲みした。
空になった湯飲みを静かに置き、ふぅっと息を吐き出す。向かい側ではアズウェルたちが相変わらず盛り上がっていた。
「ほんっと、懲りないのね、アズウェル」
「負けたまま引き下がれるかよ」
「普通は一度痛い目にあえば諦めるんだがな」
「なぁんや、みなはん楽しそうやなぁ~」
「な……!? お、おまえ……寝てなくていいのかよ!?」
驚きの声を上げたアズウェル以外は、皆意外な人物の登場に絶句していた。
自然に降ってきた声は、するはずもないもので。
声の主、寝間着の上に紺色の羽織りを着ているアキラは、蒼白の顔で微笑んだ。
「昨日ユウからアズウェルはんたちが任務に行くって聞いたんや。せめて見送りでもしよ思うて……」
「アキラ!」
ぐらりと
「アキラさんっ……!」
駆け寄ってきた妹に微笑みかけ、アキラは言った。
「ユウ、水を一杯頼むで」
「は、はいっ」
身を翻し、ユウは台所へ向かう。
それを見送ると、アズウェルは小声で尋ねた。
「本当に寝てなくていいのか? 見送りなんていいから、休んでいた方が……」
「アズウェルはん」
荒い呼吸を繰り返しながら、アキラはアズウェルの右肩を掴む。
掠れた声を出すのが精一杯。
崩れ落ちそうになる意識を懸命に繋ぎ止め、アズウェルの耳元で囁く。
「ミズナを、頼んます」
「あき、ら……?」
目を見開いているアズウェルに、アキラはただ笑顔を向けた。
そして、アズウェルの後ろで佇む幼馴染みに語りかける。
「野宿して……風邪、ひかんように……な……」
名は呼ばずとも、届いただろう。
一瞬目を瞠った彼女を最後に、アキラの意識は暗い闇の中へ引きずり込まれた。
「アキラ、アキラ……!?」
アズウェルが、己にぐったりと寄りかかるアキラの両肩を揺する。
しかし、いくら呼びかけても、再び彼が微笑みを浮かべることはなかった。
頼まれた水を持ってきたユウは、瞳を閉じた兄を見つめる。
また、手の届かないところへ行ってしまった。
どうか、戻ってきて。
そう、祈ることしかできない彼女は、漆黒の瞳を揺らし、顔を伏せた。
「アズウェル、迎えが来たぞ」
一瞬、動きという自由を奪われた彼らは、ディオウの発言で現実に引き戻される。
窓の外へ視線を送れば、アキラの家に向かって来る族長とタカトが見えた。
「うん、行こう。……よろしく、ユウ」
「はい」
アキラの身体をユウに預け、アズウェルが立ち上がる。
ディオウ、ラキィも、表へ出て行く飼い主に続く。
最後まで居間に留まったマツザワは、親友に想いを託した。
「アキラを、頼む」
水華を握りしめ、身を翻す。窓から吹き抜けた風に、一束に結わえた長い黒髪が踊った。
戦地へと赴く友の背を見つめ、ユウは眠る兄を抱き締める。
「……はい」
待つことしかできない。
兄も、親友も、皆。
己など声も届かないところへ行ってしまう。
「どうか、お気をつけて……」
ユウは遠のいていく仲間の無事を、切に願っていた。
第34記 東へ!
石化の呪縛を気力で解く。
一呼吸置いて、アズウェルは同じように隣で石化しているマツザワに問いかけた。
「今の、誰……?」
「私、では、ない……」
半石像状態の彼らから絞り出された言葉もまた、ぎこちないものであった。
◇ ◇ ◇
少し時を遡る。
早朝、ワツキを発った零番任務隊一行は、ロサリド南部の遺跡を目指して、砂埃が舞う荒野を南下している。
先程まで晴れていた青空は白い雲に身を隠し、立ち入り禁止区域に足を踏み入れている彼らを、僅かな隙間から覗いていた。
「なぁ、マツザワ。ロサリド南部って確か入っちゃいけねぇとこじゃね?」
「うむ。確かに常人の立ち入りは禁止されているが、我々は任務を受けている。特別許可は、昨日のうちにロサリド市長から下りているから問題ない」
「そっかー」
頭の後ろで両手を組みながら、アズウェルはちらりと背後に視線を送る。
見渡す限り、砂の大地が広がっているだけで、アズウェルたちの他に人はいない。
相変わらず機嫌の悪いディオウ。彼の頭上に乗り、延々と説教を繰り広げているラキィ。その右隣を無言で歩いているのが、案内人兼サポート役として同行しているタカトだ。
アズウェルは肩越しに長身の青年を観察した。
鼻から爪先まで真っ黒な出で立ちをしたタカトは、何処かぼんやりと一点を見つめながら、ディオウの歩調に合わせている。
何も考えていないような気もするが、ディオウが足を止めれば彼も止まるところを見ると、一応周りは見ているらしい。
きょろきょろと周囲を見回し、他人がいないことを再度確認してから、振り返ってタカトを見上げる。
この辺りまで移動すれば、もう尋ねてみてもいいだろう。
アズウェルは、任務内容を聞いてからずっと疑問に思っていたことを、タカトに投げかけた。
「タカトさん、禁断って何なんですか?」
「……タカト」
「え?」
己の名を呟いたきり、黙り込んでしまった黒尽くめの青年を見上げて、アズウェルは溜息をついた。
ワツキを出てからというもの、タカトと会話が成立した例しはない。自分で言葉を作るのが苦手なのか、とにかく会話にならないのだ。決められた文を読み上げることなら、淀みのない水の流れのようだったというのに。
「だから、禁断って具体的にどんなヤツなんですか?」
「アズウェル、具体的にどういうものなのかわからないから、我々が正体解明の命を受けたわけで……」
「そりゃそうだけどよ。だって零番任務だぜ? それ相応の理由ってのがあるんじゃねぇの?」
「確かに……言われてみればそうだが……」
アズウェルの素直な疑問に、マツザワは腕を組んで考え込む。
禁断の正体解明、及び討伐。
これが、彼らが受けた任務内容だ。
経験豊富な族長が零番を付けるということは、それ相応の理由があって然るべき。しかし、族長の娘であるマツザワですら、その理由がわからなかった。
「タカトさんはどこまで知ってるんですかー?」
「……タカト」
「じゃなくて、だから」
「……タカト、でいい」
漸[ く名前の先まで音にしたタカトは、目をぱちくりさせているアズウェルに、赤褐色[ の瞳を向けて口をつぐむ。
「えっと、呼び捨てでいいってこと?」
「そうらしいな」
確認するアズウェルと応じたマツザワに、タカトはこくりと頷いた。
なるほど。ずっと、それが言いたかったのか。静寂を人の形にするとこうなるのだろうか。
アズウェルは片手で己の金髪を掻き回しながら、完全に雲に覆われた空を仰ぐ。
「あ~、わかりました。さん付けしないんで、禁断のこと何か知ってるなら教えてください」
「……すまない」
「え?」
聞き返すが、やはり返ってくるものは沈黙のみ。
「ひょっとして、タカトも知らない、とか?」
「……すまない」
「こりゃダメだ」
苦笑を滲ませ、アズウェルは進行方向へ身体を向ける。
「ってことは、マスターのところに行くまでわっかんねぇってことだな」
「もうじき遺跡が見えるはずだ。遺跡から東に進めば森が見えてくる。……で合っていますか、タカト殿?」
話を振ったマツザワに対し、タカトは頭[ を一つ振るのみだった。
「確か、ロサリド南東に位置する森は……」
「フェイラーの森。別名妖精の森だ」
不機嫌オーラを放ちつつ、ディオウがマツザワの呟きを繋ぐ。
「えっ、妖精の森に入るの!?」
「何だよ、ラキィ。どうかした?」
きょとんと見つめてくる飼い主に対し、ラキィは大袈裟なほど首を左右に振る。
否定はしたものの、ディオウからアズウェルの肩に飛び移り、くぐもった声でラキィは囁いた。
「ね、ねぇ。目的地は妖精の森なの?」
聞かれてもわからないアズウェルは、タカトに視線を送り、応答を促[ す。
が。
「……すまない」
投げ返されたものは、謝罪の一言。
「えっ、待てよ。タカト、マスターの居場所知ってんだろ?」
「……すまない」
やはり返ってきたのは決まり文句だった。
つまり、現時点でわかっていることは。
「任務内容は禁断の正体暴くことと、倒すこと。んで、マスターの名前がシェイ・ラーファンで、ノウティス大陸東部にいるらしいってことだけか」
がくりと両肩を落としたアズウェルに、マツザワが前方を指し示す。
「まずはフェイラーを目指してみよう。……遺跡が、見えてきた」
砂塵が駆け抜けると、巨大な石が姿を現した。
「うわ~……なんかすっげぇたくさんあるぜ」
無造作に点在する石は、黄ばんだ白。
恐らく、建てられた当初は純白だったのだろう。
「ここは、かつて神殿があった場所だとされている。推定、およそ二千年前」
「に、二千年って、まだリウォード族がいた時代ってことか?」
「学者の見解だから、定かではない。だが、最近その学説も有力になってきてはいるな」
もはや砂の廃墟と化した神殿跡を、アズウェルは興味深そうに探索していく。
転がる巨石には、所々で文字のような刻みが見受けられた。その文字を指でなぞりながら、アズウェルは眉間に皺[ を寄せた。
流石に二千年前ともなると風化が激しい。亀裂や細かい傷のせいで、形がはっきりとしていないのだ。何処かで見たことがあるような気もするが、確証は持てなかった。
「これ、読める?」
アズウェルは言語に長けているラキィに尋ねるが、彼女は目を伏せて首を振る。
「ダメだわ。掠れていてわからない。もうちょっとはっきりしているものがあればいいんだけど……」
「そっか。ラキィにも読めないか」
「うん、残念だけど。それにしても変だわ、この遺跡」
アズウェルの頭によじ登りながら、ラキィがくりくりとした紅い眼[ で巨石を見つめる。
「二千年も前のものが残っているってことは、それくらい丈夫だったってことでしょ?」
「そういうことになるな」
頷いて応じたマツザワは、続くラキィの言葉に頬を引きつらせることになった。
「そんなに丈夫なのに、何でこんなに不自然な形をしているのかしら。崩れたとかいうレベルじゃないわ」
「言われてみればそうだなぁ。これって、どっかで見たような……あ、そうだ、ルーティングが石斬った時、こんな感じになってたぜ?」
「太刀筋はいいが、無駄に斬ってあるようだな」
「ね、変でしょ?」
アズウェル、ディオウもラキィの言葉に賛同し、何故遺跡が斬られているのかと議論を進めていく。
「特にほら、あそこ。崩れているけど、誰か入ってたんじゃねぇかな?」
「ホントだわ。ここなら人一人入れるわね」
二人が覗いている場所には、不自然な空洞があり、その周りには無惨に斬られた石がごろごろと横たわっていた。
「おれ、思ったんだけど……誰か閉じ込められて、そんで石斬って出たんじゃない?」
「随分間抜けなやつだな」
「でも、アズウェルの言う通りだったら、斬られている石がここだけに固まっていることも、納得できるわ」
「な、マツザワはどう思う?」
空洞を覗いていたアズウェルが振り返り、タカトと共に棒立ちしているマツザワに尋ねる。
「え、ど、どうって……」
「これやったヤツってかなりのアホだと思わない?」
確か、何故こんな形の石があるのかという話だったはず。
アズウェルの焦点がずれた問いに、思わずマツザワは苦笑した。
「かなりのアホというより、ただのばかだな」
「そっか、ばかか~」
「閉じこめられるなんてどれだけマヌケなのかしらね」
論点のすり替わり。以前、アズウェルの家でも体験した気がする。
こめかみを押さえ、マツザワは一つ溜息を漏らす。
どう答えればいいのだろうか。
アズウェルたちの推理は、ほぼ満点に近かった。
三年前、確かに遺跡で生き埋めになった者がいたのだ。そして彼は、己が外へ出るために、遺跡を斬り崩した。 貴重な研究対象だということを無視して。
「ドジの方が似合ってるんじゃね?」
「戯けだな」
「ホント、どうしたらこんなところに閉じ込められちゃうのかしら」
閉じ込められた張本人が、尊敬する先輩だ。
アズウェルたちからいくら同意を求められても、マツザワは苦笑するばかりだった。
「……そろそろ」
彼らの議論を、低い声が中断させる。
「……そろそろ、東に」
「そ、そうだな。アズウェル、先を急ごう」
助け船を出してくれたタカトに内心感謝しながら、マツザワは足を踏み出した。
「おう、そーだなっ! 行こうぜ」
話題転換されても見事に順応するアズウェルは、東を目指して意気揚々と駆け出す。
しかし次の瞬間、二人は遺跡のように石化することになった。
「ま、待て! そっちじゃない、逆だっ!」
その原因は、突如響いた少年の声だった。
◇ ◇ ◇
「おれ、じゃない。ディオウのでも、ない。ラキィの声じゃねぇし……」
一人一人確認をしていくアズウェルの視線は、黒装束に身を包んだ青年で止まった。
「い、いや、アズウェル。タカト殿はもっと低い声だぞ」
「違うな、マツザワ。今のがこいつの地声だ」
ディオウが長い尾で傍らに立つ長身の青年を指す。
「え、だって、タカトの声は……うっそ……」
反論したアズウェルは、覆面を剥[ いだタカトの顔を凝視する。
黒い布で隠されていた素顔は、アズウェルより幼い少年のそれ。
「まさか、私より下だとは思わなかったな……」
「ひょっとして、おれより下……?」
頭一つ分高いタカトを見上げて、アズウェルは上目遣いで問うた。
頬を真っ赤に染め上げている青年は、微かに首を横に振る。
「お……俺は……二十四……だ……」
間。
「嘘ぉ!?」
「私より五つも年上じゃないか!」
「あら、可愛いじゃない?」
「アンバランスとはこういう時に使うんだな」
四人が口々に言う中、タカトは黒い布で頬骨から下を覆い隠す。
そして呟かれた言葉は。
「……東は、向こうだ」
抑揚の乏しい、低い声音だった。
一呼吸置いて、アズウェルは同じように隣で石化しているマツザワに問いかけた。
「今の、誰……?」
「私、では、ない……」
半石像状態の彼らから絞り出された言葉もまた、ぎこちないものであった。
◇ ◇ ◇
少し時を遡る。
早朝、ワツキを発った零番任務隊一行は、ロサリド南部の遺跡を目指して、砂埃が舞う荒野を南下している。
先程まで晴れていた青空は白い雲に身を隠し、立ち入り禁止区域に足を踏み入れている彼らを、僅かな隙間から覗いていた。
「なぁ、マツザワ。ロサリド南部って確か入っちゃいけねぇとこじゃね?」
「うむ。確かに常人の立ち入りは禁止されているが、我々は任務を受けている。特別許可は、昨日のうちにロサリド市長から下りているから問題ない」
「そっかー」
頭の後ろで両手を組みながら、アズウェルはちらりと背後に視線を送る。
見渡す限り、砂の大地が広がっているだけで、アズウェルたちの他に人はいない。
相変わらず機嫌の悪いディオウ。彼の頭上に乗り、延々と説教を繰り広げているラキィ。その右隣を無言で歩いているのが、案内人兼サポート役として同行しているタカトだ。
アズウェルは肩越しに長身の青年を観察した。
鼻から爪先まで真っ黒な出で立ちをしたタカトは、何処かぼんやりと一点を見つめながら、ディオウの歩調に合わせている。
何も考えていないような気もするが、ディオウが足を止めれば彼も止まるところを見ると、一応周りは見ているらしい。
きょろきょろと周囲を見回し、他人がいないことを再度確認してから、振り返ってタカトを見上げる。
この辺りまで移動すれば、もう尋ねてみてもいいだろう。
アズウェルは、任務内容を聞いてからずっと疑問に思っていたことを、タカトに投げかけた。
「タカトさん、禁断って何なんですか?」
「……タカト」
「え?」
己の名を呟いたきり、黙り込んでしまった黒尽くめの青年を見上げて、アズウェルは溜息をついた。
ワツキを出てからというもの、タカトと会話が成立した例しはない。自分で言葉を作るのが苦手なのか、とにかく会話にならないのだ。決められた文を読み上げることなら、淀みのない水の流れのようだったというのに。
「だから、禁断って具体的にどんなヤツなんですか?」
「アズウェル、具体的にどういうものなのかわからないから、我々が正体解明の命を受けたわけで……」
「そりゃそうだけどよ。だって零番任務だぜ? それ相応の理由ってのがあるんじゃねぇの?」
「確かに……言われてみればそうだが……」
アズウェルの素直な疑問に、マツザワは腕を組んで考え込む。
禁断の正体解明、及び討伐。
これが、彼らが受けた任務内容だ。
経験豊富な族長が零番を付けるということは、それ相応の理由があって然るべき。しかし、族長の娘であるマツザワですら、その理由がわからなかった。
「タカトさんはどこまで知ってるんですかー?」
「……タカト」
「じゃなくて、だから」
「……タカト、でいい」
「えっと、呼び捨てでいいってこと?」
「そうらしいな」
確認するアズウェルと応じたマツザワに、タカトはこくりと頷いた。
なるほど。ずっと、それが言いたかったのか。静寂を人の形にするとこうなるのだろうか。
アズウェルは片手で己の金髪を掻き回しながら、完全に雲に覆われた空を仰ぐ。
「あ~、わかりました。さん付けしないんで、禁断のこと何か知ってるなら教えてください」
「……すまない」
「え?」
聞き返すが、やはり返ってくるものは沈黙のみ。
「ひょっとして、タカトも知らない、とか?」
「……すまない」
「こりゃダメだ」
苦笑を滲ませ、アズウェルは進行方向へ身体を向ける。
「ってことは、マスターのところに行くまでわっかんねぇってことだな」
「もうじき遺跡が見えるはずだ。遺跡から東に進めば森が見えてくる。……で合っていますか、タカト殿?」
話を振ったマツザワに対し、タカトは
「確か、ロサリド南東に位置する森は……」
「フェイラーの森。別名妖精の森だ」
不機嫌オーラを放ちつつ、ディオウがマツザワの呟きを繋ぐ。
「えっ、妖精の森に入るの!?」
「何だよ、ラキィ。どうかした?」
きょとんと見つめてくる飼い主に対し、ラキィは大袈裟なほど首を左右に振る。
否定はしたものの、ディオウからアズウェルの肩に飛び移り、くぐもった声でラキィは囁いた。
「ね、ねぇ。目的地は妖精の森なの?」
聞かれてもわからないアズウェルは、タカトに視線を送り、応答を
が。
「……すまない」
投げ返されたものは、謝罪の一言。
「えっ、待てよ。タカト、マスターの居場所知ってんだろ?」
「……すまない」
やはり返ってきたのは決まり文句だった。
つまり、現時点でわかっていることは。
「任務内容は禁断の正体暴くことと、倒すこと。んで、マスターの名前がシェイ・ラーファンで、ノウティス大陸東部にいるらしいってことだけか」
がくりと両肩を落としたアズウェルに、マツザワが前方を指し示す。
「まずはフェイラーを目指してみよう。……遺跡が、見えてきた」
砂塵が駆け抜けると、巨大な石が姿を現した。
「うわ~……なんかすっげぇたくさんあるぜ」
無造作に点在する石は、黄ばんだ白。
恐らく、建てられた当初は純白だったのだろう。
「ここは、かつて神殿があった場所だとされている。推定、およそ二千年前」
「に、二千年って、まだリウォード族がいた時代ってことか?」
「学者の見解だから、定かではない。だが、最近その学説も有力になってきてはいるな」
もはや砂の廃墟と化した神殿跡を、アズウェルは興味深そうに探索していく。
転がる巨石には、所々で文字のような刻みが見受けられた。その文字を指でなぞりながら、アズウェルは眉間に
流石に二千年前ともなると風化が激しい。亀裂や細かい傷のせいで、形がはっきりとしていないのだ。何処かで見たことがあるような気もするが、確証は持てなかった。
「これ、読める?」
アズウェルは言語に長けているラキィに尋ねるが、彼女は目を伏せて首を振る。
「ダメだわ。掠れていてわからない。もうちょっとはっきりしているものがあればいいんだけど……」
「そっか。ラキィにも読めないか」
「うん、残念だけど。それにしても変だわ、この遺跡」
アズウェルの頭によじ登りながら、ラキィがくりくりとした紅い
「二千年も前のものが残っているってことは、それくらい丈夫だったってことでしょ?」
「そういうことになるな」
頷いて応じたマツザワは、続くラキィの言葉に頬を引きつらせることになった。
「そんなに丈夫なのに、何でこんなに不自然な形をしているのかしら。崩れたとかいうレベルじゃないわ」
「言われてみればそうだなぁ。これって、どっかで見たような……あ、そうだ、ルーティングが石斬った時、こんな感じになってたぜ?」
「太刀筋はいいが、無駄に斬ってあるようだな」
「ね、変でしょ?」
アズウェル、ディオウもラキィの言葉に賛同し、何故遺跡が斬られているのかと議論を進めていく。
「特にほら、あそこ。崩れているけど、誰か入ってたんじゃねぇかな?」
「ホントだわ。ここなら人一人入れるわね」
二人が覗いている場所には、不自然な空洞があり、その周りには無惨に斬られた石がごろごろと横たわっていた。
「おれ、思ったんだけど……誰か閉じ込められて、そんで石斬って出たんじゃない?」
「随分間抜けなやつだな」
「でも、アズウェルの言う通りだったら、斬られている石がここだけに固まっていることも、納得できるわ」
「な、マツザワはどう思う?」
空洞を覗いていたアズウェルが振り返り、タカトと共に棒立ちしているマツザワに尋ねる。
「え、ど、どうって……」
「これやったヤツってかなりのアホだと思わない?」
確か、何故こんな形の石があるのかという話だったはず。
アズウェルの焦点がずれた問いに、思わずマツザワは苦笑した。
「かなりのアホというより、ただのばかだな」
「そっか、ばかか~」
「閉じこめられるなんてどれだけマヌケなのかしらね」
論点のすり替わり。以前、アズウェルの家でも体験した気がする。
こめかみを押さえ、マツザワは一つ溜息を漏らす。
どう答えればいいのだろうか。
アズウェルたちの推理は、ほぼ満点に近かった。
三年前、確かに遺跡で生き埋めになった者がいたのだ。そして彼は、己が外へ出るために、遺跡を斬り崩した。
「ドジの方が似合ってるんじゃね?」
「戯けだな」
「ホント、どうしたらこんなところに閉じ込められちゃうのかしら」
閉じ込められた張本人が、尊敬する先輩だ。
アズウェルたちからいくら同意を求められても、マツザワは苦笑するばかりだった。
「……そろそろ」
彼らの議論を、低い声が中断させる。
「……そろそろ、東に」
「そ、そうだな。アズウェル、先を急ごう」
助け船を出してくれたタカトに内心感謝しながら、マツザワは足を踏み出した。
「おう、そーだなっ! 行こうぜ」
話題転換されても見事に順応するアズウェルは、東を目指して意気揚々と駆け出す。
しかし次の瞬間、二人は遺跡のように石化することになった。
「ま、待て! そっちじゃない、逆だっ!」
その原因は、突如響いた少年の声だった。
◇ ◇ ◇
「おれ、じゃない。ディオウのでも、ない。ラキィの声じゃねぇし……」
一人一人確認をしていくアズウェルの視線は、黒装束に身を包んだ青年で止まった。
「い、いや、アズウェル。タカト殿はもっと低い声だぞ」
「違うな、マツザワ。今のがこいつの地声だ」
ディオウが長い尾で傍らに立つ長身の青年を指す。
「え、だって、タカトの声は……うっそ……」
反論したアズウェルは、覆面を
黒い布で隠されていた素顔は、アズウェルより幼い少年のそれ。
「まさか、私より下だとは思わなかったな……」
「ひょっとして、おれより下……?」
頭一つ分高いタカトを見上げて、アズウェルは上目遣いで問うた。
頬を真っ赤に染め上げている青年は、微かに首を横に振る。
「お……俺は……二十四……だ……」
間。
「嘘ぉ!?」
「私より五つも年上じゃないか!」
「あら、可愛いじゃない?」
「アンバランスとはこういう時に使うんだな」
四人が口々に言う中、タカトは黒い布で頬骨から下を覆い隠す。
そして呟かれた言葉は。
「……東は、向こうだ」
抑揚の乏しい、低い声音だった。
第35記 妖精の森
一面に広がる白詰草を踏みしめ、丘の上から前方を見やる。
視界には、白い帽子を被った山々と、入道雲が流れる青い空。
漆黒の短髪を風に流し、男は紅い右目をすっと細めた。
俺の声が、聞こえるか?
◇ ◇ ◇
「……東は、向こうだ」
ゆっくりとタカトが腕を上げる。
その指が示す方向は。
「タカト殿、そっちは……」
「タカト、西だぜ?」
目を瞬[ かせる二人に、タカトは背負っている布を降ろし、中から方位磁針を取り出す。
「……東は、向こうだ」
先ほどと全く同じ声音で繰り返したタカトは、方位磁針をアズウェルに手渡した。
青く澄んだガラス玉。
玉の中で回転している細い金の針は、本来なら北を指すものだった。
定まらない針を見つめて、アズウェルが首を傾げる。
「これ壊れてる?」
「まさか。出発前に私が確認したが、そんなことはなかった」
否定したマツザワもアズウェルの手中を覗き込む。
しかし、針は止まることを知らず、回転を続けていた。
「……本当に止まらないな」
「うーん、目が回る……」
「それくらいにしておけ、アズウェル。酔うぞ」
「う、うん」
ディオウの注意を受けて、アズウェルは釘付けになっている視線を無理矢理剥がす。
「どういうことなんだ?」
自分たちが行こうとしていた〝東〟と、正反対を指したタカトを顧みる。
ディオウよりも更に低い声で、タカトは言った。
「……ここは、磁場が、歪んでいる」
「そうなの、ラキィ?」
「え、えぇ。東は、あの子が指す方向よ」
ディオウの頭上にいるラキィも、タカトが示した方角を翼のような形をした耳で指し示す。
「何故、タカト殿はこちらが東だとわかったのだ?」
マツザワもアズウェルも迷わず〝東〟に進んだ。直後に地声を張り上げ、タカトは二人を制止させたのだ。
体内に磁石を宿している、と言われているトゥルーメンズのラキィなら、話はわかる。
だが、タカトはマツザワと同じスワロウ族のはず。
「……そう、言っている」
「一体誰が」
言葉を返す変わりにしゃがみ込み、タカトは黄土色[ の砂を片手で掬[ い上げた。
「砂がしゃべった、とかいうわけ……じゃねぇよな?」
「……そう、言っている」
「マジかよ……」
砂は風に乗り、アズウェルたちの視界を流れていく。
己の手元から旅立っていく砂たちを、タカトは無言で見つめていた。
「おまえ、スワロウ族ではないな」
瞳に光を灯らせ、ディオウがタカトを見据える。
「自然界と会話が出来る種族が、二十年前までいたはずだ」
黒装束で身を包んだ青年は、赤褐色の瞳を僅かに細めた。
「……俺が、生き残りだ」
その呟きは、意識していなければ聞き取れなかっただろう。
風に掻き消されそうなほど、小さな声。
感情が押し込められた言葉を聞き、ラキィが目を丸くした。
「じゃあ、あんたはスワロウ族じゃなくて、ホントはヴァルト族ってこと?」
「ラキィ、ヴァルト族って何?」
「アズウェルには教えてないわね。お姉さんは知ってる?」
同族と思っていた者の正体に瞠目していたマツザワは、左右に首を振った。
ラキィの瞳が、哀しげに揺れる。
「ヴァルトはね。エルフとは違うんだけど、自然と仲が良い種族なの。土や風、木々や草花。あたしたち動物と同じように、彼らと会話が出来るのよ。でも、二十年前に……」
「絶滅した、と聞いている」
言葉に詰まったラキィの後を継いで、ディオウが静かに告げた。
絶滅した理由は、各地で噂になったが、どれも不確かなものばかり。
自然を愛するリウォード族に、最も近いとされていたヴァルト族。
しかし、絶滅から二十年経った今、彼らは語り部たちのみによって伝えられるおとぎ話になっていた。
「……すまない」
「え、何で謝るんだよ、いきな」
「足を、止めた」
アズウェルの言葉を遮り、タカトは足早に東へ向かって歩いていく。
話すことさえできないマツザワと、立ち尽くすアズウェルを残し、ディオウも大地を蹴った。
感情を押し殺している若者の傍らにふわりと降り立ち、低く呟く。
「悪い。聞くべきではなかったな」
その声にタカトは目だけを向けた。
自分に向けられているものは、凛とした黄金の双眸と揺らぐ紅い瞳。
今にも泣き出しそうなラキィの頭をそっと撫で、淡い微笑みを目元に浮かべる。
「……いや」
一族の、消滅。
それは形だけでなく、人々の記憶からも消えてゆくものだ。
疾[ うに忘れ去られたと思っていた。
「……名を、覚えていてくれて、ありがとう」
今は、自分しかいないけれど。
それでも、確かに。
此処に、いるのだから。
ふと、アズウェルは我に返る。
既に三人は、遙か先を歩いていた。
「やっべぇ、おれたち置いてかれるっ! マツザワ、走るぜ!」
呆然としているマツザワをせっつくと、アズウェルは駈け出した。
「え……あ、あぁ……!」
棒と化していた足を動かし、マツザワも砂の丘を駆け下りていく。
刹那、景色が歪んだ。
「な、なんだ?」
マツザワの声に振り返ったアズウェルが、眉根を寄せた。
「今、なんかぐらってなんなかった?」
「アズウェルにも見えたのか?」
「うん……一瞬だけだけど」
無言で見つめ合った二人は、同時に東へ目を向ける。
「馬鹿な……」
「さっきは、なかったよな?」
アズウェルが目を眇めて訊くと、マツザワは頷いて肯定の意を示す。
二人は突如姿を現した緑をじっと見据えた。
「あれが、ディオウが言ってた妖精の森……?」
地平線に沿って、緑が続いている。その果ては、見えない。
黄ばんだ風が徐々に透き通り、森の入口を明確にする。
「ああ。恐らくあれが、フェイラーの森だ」
悠然と構える緑に瞳を細め、アズウェルは記憶にある地図を引き出す。
確か、この先には。
「……行こう、マツザワ。ディオウたちが待ってる」
「あぁ、そうだな」
そう言って再び走り出した二人の背を、生暖かい風が押した。
ちらりとアズウェルは肩越しに視線を投じる。
もう、遺跡は見えない。タカトやラキィ無しでは同じ場所に戻ることはできないだろう。先刻までいたとは思えないほど、色が歪んでいる。
左隣で靡[ いているマツザワの黒髪を見ながら、アズウェルは床に伏せるアキラを思い起こした。
ミズナのこと、頼んます。
進めば進むほど黄土色に濁りゆく景色を背に、心の中で強く頷く。
ちゃんと、連れて帰る。
そう誓って、アズウェルは暇そうにひょんひょんと尻尾を動かしている聖獣に片手を振った。
「おーい、ディオーウ!」
呼びかけに応じるように、一瞬動きを止めた尾が左右に揺れる。
タカトの横に辿り着くと、アズウェルは息を長く吐き出した。
「やぁーっと追いついた!」
「遅いぞ、アズウェル」
「ディオウたちが歩くのはえーんだよ」
両膝に手を当てて深呼吸をしながら、アズウェルがディオウを一瞥する。
「待たせてすまない」
「どうってことないわ」
頭を下げるマツザワに笑いかけて、ラキィは乗っていたディオウの頭から飛び立った。
「それより、ねぇ、お兄さん。ホントにここに入るの?」
目の前で両耳を羽ばたかせて浮いているラキィに、タカトは無言のまま首を縦に振る。
ディオウたちが待っていた場所は森の入り口。
地は草で覆われ、天の光は木の葉で遮られている。中は薄暗い。
「それにしても、大きな森だな」
マツザワは巨木の一つに手を当てた。
樹齢数百年は越えているだろう。ワツキの神社にある神木でも、ここまで太く、背の高い樹ではなかった。見上げても、とても高さなど測れない。
「とにかく、マスターを探すんだろ? タカトの能力があれば、樹から聞けるんじゃねぇかな?」
「……やって、みる」
頭[ を振ったタカトを見つめ、マツザワがアズウェルの提案に同意する。
「それが今のところ最良だろう」
「よっしゃ! そんじゃ、行くぜっ!」
アズウェルは右手で拳を作ると、左の手の平に勢い良く叩きつける。
「妖精の森!!」
その声を合図に、一同森の中へと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
木々がざわめく。
大樹の枝に身を委ねている青年が、面倒臭そうに呟いた。
「侵入者、発見。報告。塵[ が四匹。捕獲対象、一匹」
ノイズ混じりの返答を聞いて、にやりと嗤[ う。
「俺一人で十分だ」
賛同するかのように、風が鳴き、木の葉が唸る。
彼には、木々が味方してくれる。
「塵の掃除だな」
森中に、一つの言霊が響き渡った。
招かれざる者を、始末せよ。
視界には、白い帽子を被った山々と、入道雲が流れる青い空。
漆黒の短髪を風に流し、男は紅い右目をすっと細めた。
◇ ◇ ◇
「……東は、向こうだ」
ゆっくりとタカトが腕を上げる。
その指が示す方向は。
「タカト殿、そっちは……」
「タカト、西だぜ?」
目を
「……東は、向こうだ」
先ほどと全く同じ声音で繰り返したタカトは、方位磁針をアズウェルに手渡した。
青く澄んだガラス玉。
玉の中で回転している細い金の針は、本来なら北を指すものだった。
定まらない針を見つめて、アズウェルが首を傾げる。
「これ壊れてる?」
「まさか。出発前に私が確認したが、そんなことはなかった」
否定したマツザワもアズウェルの手中を覗き込む。
しかし、針は止まることを知らず、回転を続けていた。
「……本当に止まらないな」
「うーん、目が回る……」
「それくらいにしておけ、アズウェル。酔うぞ」
「う、うん」
ディオウの注意を受けて、アズウェルは釘付けになっている視線を無理矢理剥がす。
「どういうことなんだ?」
自分たちが行こうとしていた〝東〟と、正反対を指したタカトを顧みる。
ディオウよりも更に低い声で、タカトは言った。
「……ここは、磁場が、歪んでいる」
「そうなの、ラキィ?」
「え、えぇ。東は、あの子が指す方向よ」
ディオウの頭上にいるラキィも、タカトが示した方角を翼のような形をした耳で指し示す。
「何故、タカト殿はこちらが東だとわかったのだ?」
マツザワもアズウェルも迷わず〝東〟に進んだ。直後に地声を張り上げ、タカトは二人を制止させたのだ。
体内に磁石を宿している、と言われているトゥルーメンズのラキィなら、話はわかる。
だが、タカトはマツザワと同じスワロウ族のはず。
「……そう、言っている」
「一体誰が」
言葉を返す変わりにしゃがみ込み、タカトは
「砂がしゃべった、とかいうわけ……じゃねぇよな?」
「……そう、言っている」
「マジかよ……」
砂は風に乗り、アズウェルたちの視界を流れていく。
己の手元から旅立っていく砂たちを、タカトは無言で見つめていた。
「おまえ、スワロウ族ではないな」
瞳に光を灯らせ、ディオウがタカトを見据える。
「自然界と会話が出来る種族が、二十年前までいたはずだ」
黒装束で身を包んだ青年は、赤褐色の瞳を僅かに細めた。
「……俺が、生き残りだ」
その呟きは、意識していなければ聞き取れなかっただろう。
風に掻き消されそうなほど、小さな声。
感情が押し込められた言葉を聞き、ラキィが目を丸くした。
「じゃあ、あんたはスワロウ族じゃなくて、ホントはヴァルト族ってこと?」
「ラキィ、ヴァルト族って何?」
「アズウェルには教えてないわね。お姉さんは知ってる?」
同族と思っていた者の正体に瞠目していたマツザワは、左右に首を振った。
ラキィの瞳が、哀しげに揺れる。
「ヴァルトはね。エルフとは違うんだけど、自然と仲が良い種族なの。土や風、木々や草花。あたしたち動物と同じように、彼らと会話が出来るのよ。でも、二十年前に……」
「絶滅した、と聞いている」
言葉に詰まったラキィの後を継いで、ディオウが静かに告げた。
絶滅した理由は、各地で噂になったが、どれも不確かなものばかり。
自然を愛するリウォード族に、最も近いとされていたヴァルト族。
しかし、絶滅から二十年経った今、彼らは語り部たちのみによって伝えられるおとぎ話になっていた。
「……すまない」
「え、何で謝るんだよ、いきな」
「足を、止めた」
アズウェルの言葉を遮り、タカトは足早に東へ向かって歩いていく。
話すことさえできないマツザワと、立ち尽くすアズウェルを残し、ディオウも大地を蹴った。
感情を押し殺している若者の傍らにふわりと降り立ち、低く呟く。
「悪い。聞くべきではなかったな」
その声にタカトは目だけを向けた。
自分に向けられているものは、凛とした黄金の双眸と揺らぐ紅い瞳。
今にも泣き出しそうなラキィの頭をそっと撫で、淡い微笑みを目元に浮かべる。
「……いや」
一族の、消滅。
それは形だけでなく、人々の記憶からも消えてゆくものだ。
「……名を、覚えていてくれて、ありがとう」
今は、自分しかいないけれど。
それでも、確かに。
此処に、いるのだから。
ふと、アズウェルは我に返る。
既に三人は、遙か先を歩いていた。
「やっべぇ、おれたち置いてかれるっ! マツザワ、走るぜ!」
呆然としているマツザワをせっつくと、アズウェルは駈け出した。
「え……あ、あぁ……!」
棒と化していた足を動かし、マツザワも砂の丘を駆け下りていく。
刹那、景色が歪んだ。
「な、なんだ?」
マツザワの声に振り返ったアズウェルが、眉根を寄せた。
「今、なんかぐらってなんなかった?」
「アズウェルにも見えたのか?」
「うん……一瞬だけだけど」
無言で見つめ合った二人は、同時に東へ目を向ける。
「馬鹿な……」
「さっきは、なかったよな?」
アズウェルが目を眇めて訊くと、マツザワは頷いて肯定の意を示す。
二人は突如姿を現した緑をじっと見据えた。
「あれが、ディオウが言ってた妖精の森……?」
地平線に沿って、緑が続いている。その果ては、見えない。
黄ばんだ風が徐々に透き通り、森の入口を明確にする。
「ああ。恐らくあれが、フェイラーの森だ」
悠然と構える緑に瞳を細め、アズウェルは記憶にある地図を引き出す。
確か、この先には。
「……行こう、マツザワ。ディオウたちが待ってる」
「あぁ、そうだな」
そう言って再び走り出した二人の背を、生暖かい風が押した。
ちらりとアズウェルは肩越しに視線を投じる。
もう、遺跡は見えない。タカトやラキィ無しでは同じ場所に戻ることはできないだろう。先刻までいたとは思えないほど、色が歪んでいる。
左隣で
進めば進むほど黄土色に濁りゆく景色を背に、心の中で強く頷く。
ちゃんと、連れて帰る。
そう誓って、アズウェルは暇そうにひょんひょんと尻尾を動かしている聖獣に片手を振った。
「おーい、ディオーウ!」
呼びかけに応じるように、一瞬動きを止めた尾が左右に揺れる。
タカトの横に辿り着くと、アズウェルは息を長く吐き出した。
「やぁーっと追いついた!」
「遅いぞ、アズウェル」
「ディオウたちが歩くのはえーんだよ」
両膝に手を当てて深呼吸をしながら、アズウェルがディオウを一瞥する。
「待たせてすまない」
「どうってことないわ」
頭を下げるマツザワに笑いかけて、ラキィは乗っていたディオウの頭から飛び立った。
「それより、ねぇ、お兄さん。ホントにここに入るの?」
目の前で両耳を羽ばたかせて浮いているラキィに、タカトは無言のまま首を縦に振る。
ディオウたちが待っていた場所は森の入り口。
地は草で覆われ、天の光は木の葉で遮られている。中は薄暗い。
「それにしても、大きな森だな」
マツザワは巨木の一つに手を当てた。
樹齢数百年は越えているだろう。ワツキの神社にある神木でも、ここまで太く、背の高い樹ではなかった。見上げても、とても高さなど測れない。
「とにかく、マスターを探すんだろ? タカトの能力があれば、樹から聞けるんじゃねぇかな?」
「……やって、みる」
「それが今のところ最良だろう」
「よっしゃ! そんじゃ、行くぜっ!」
アズウェルは右手で拳を作ると、左の手の平に勢い良く叩きつける。
「妖精の森!!」
その声を合図に、一同森の中へと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
木々がざわめく。
大樹の枝に身を委ねている青年が、面倒臭そうに呟いた。
「侵入者、発見。報告。
ノイズ混じりの返答を聞いて、にやりと
「俺一人で十分だ」
賛同するかのように、風が鳴き、木の葉が唸る。
彼には、木々が味方してくれる。
「塵の掃除だな」
森中に、一つの言霊が響き渡った。
第36記 森の声
てちてちと短い足を懸命に動かし、小さな影は森の中を疾走する。
「急げっ! まずいっ!」
この森に来た者は、ほぼ例外なく抹殺される。
何故なら、森の存在を、間抜けな人間共に知られては困るから。
抹殺命令は執行された。ただ走っていては、間に合わない。
「急げっ! まずいっ!」
目の前に佇む巨木の幹を、怒涛の勢いで駆け上る。
「もぉー、何であんなのと一緒にいるんだよっ!」
半泣きで叫びながら、枝から枝へと飛び渡る。
踏み切る度に枝が上下に揺れて、木の葉が不吉な音を立てた。その行いは間違いだと、糾弾するように。
長い両耳を手で押さえ、心中で何も聞こえないと繰り返す。
会えることは素直に嬉しい。だが、よりにもよってこんな時に来て欲しくはなかった。
早く、早く、此処から逃がさねば。
「急げっ! まずいっ! 急げっ! まずい っ!!」
甲高い叫び声は、風に呑み込まれていった。
◇ ◇ ◇
ふと、アズウェルが足を止める。
腕を組むと、眉間に皺を寄せて低く唸った。
「おれ、この樹前にも見た気がする……」
捻れたような幹。それに絡まる蔦[ 。そして、一際目立つ深紅の葉。
アズウェルの問いかけに、マツザワも頷く。
「あぁ、先ほども見たな」
「やだ、迷ったって言うの?」
「そうとは限らないぞ。同じ種類の樹があっても不思議はない」
確かに、これだけ広い森ならば、似たような樹はいくつもあるだろう。
「どうなんだ、タカト」
その答えを確かめるべく、ディオウはタカトを見上げた。
目で応じたタカトがその樹に右手を当てる。
ゆっくりと瞼を閉じ、深く息を吐く。幹の鼓動を感じ取るには、まず自分自身の鼓動を落ち着かせる必要があるのだ。
樹と鼓動が一体化した時、言葉が通い合う。
返ってきた答えを聞くと、タカトは僅かに目を細めた。
そうか。すまない。
「……もう、お前たちは見飽きた。……そう、言ってる」
低く呟かれた言葉に、皆溜息を漏らした。
「参ったなぁ~。これじゃぐるぐる回ってるだけだぜ?」
「でも変よ。あたしちゃんと見てたけど、同じところなんて通ってないわ」
「けどさぁ~。なんつーか、歩かされてる感じがすんだよなぁ」
頭を掻き回しながら顔を上げたアズウェルの目に、一瞬影が映る。
「おい、今っ!」
「何、どうかしたの?」
再度目をこらしてみるが、既にその影は跡形もない。
不気味なほど静まり返った森は、木の葉の掠れる音さえしなかった。
「影が……動いた気がしたんだけど……」
「何もいないみたいだけど……鳥とかじゃないの?」
「いや、なんていうか枝から枝に飛んでたような……」
ラキィとアズウェルのやり取りを見ていたマツザワが、ディオウに尋ねる。
「ディオウ殿。この森に関して、何か知らないか?」
「おれの記憶だと、ここには動物が多く住んでいるはずだ。人はいないな。もし何かいるとすれば、人以外のものだろう」
「なるほど」
腕を組み、マツザワは辺りを見渡した。
ディオウの言う通りならば、動物の二、三匹は見ているはず。
しかし、それらしきものは何一つ見ていない。
「ディオウ、おれ、誰かに見られてる気がする」
くぐもった声で呟き、アズウェルはディオウの頭をぽんぽんと叩いた。
「ねぇ、ディオウは感じない?」
「視線なら、森に入った直後からずっとだな」
「……監視、されている」
タカトが言い切るか否かという時。
今まで沈黙していた木々たちが、突如ざわめきだした。
「馬鹿なっ!」
まるで生きているかのように、枝という枝がうねり、アズウェルたちに襲いかかる。
「ちょっと、何よこれ!」
「散れ!」
ディオウのかけ声と共に、全員四方八方に飛び退く。
一拍置いて、彼らが立っていた場所に枝が喰らいついた。反射的に身体が動いてなかったら、今頃串刺しだ。
「おい、やべぇぞ、これ!」
「全員、はぐれるな!」
怒号を上げ、ディオウは後方から迫り来る枝々を睨む。
「おれに喧嘩を売るとは、いい度胸だな」
四本の足に力を込めて飛び上がり、空中を縦横無隅に飛び回る。
「自滅しろ」
ディオウの動きを追っていた枝たちが、宙で球状になっていく。
木々の腕は互いに絡み合い、遂に動きを封じられた。枝先を震わせるが、ディオウには届かない。
「よっしゃ、ディオウナイス!」
パチン、とアズウェルが指を弾く。
「全員無事か?」
「はーい、アズウェルいまーす」
「私も無事だ」
「……平気だ」
ディオウの点呼に返ってきた声は、三つ。
真っ先に響くと思われた、高い声が聞こえない。
「あれ? ラキィは?」
「馬鹿め。はぐれるなと言ったのに」
苦々しげに舌打ちをする。
こうやって、一人ずつ消していくつもりか。
内心でそう毒突いた時、森に高笑いが響いた。
「ディオウ、あれ!」
アズウェルの指先を追った先。
枝の上に腰を下ろしているのは、横に尖った耳を持つ青年。
「あの耳は……エルフか!」
出現した敵に、マツザワは反射的に水華を握り締める。
「気をつけろ。エルフは魔力が高い。迂闊に手を出すと返り討ちに遭うぞ」
一頻[ り笑った後[ 、青年は柳色の前髪を掻き上げた。
その顔に、先刻の笑みは欠片もない。
「おいおい。まだ随分塵[ が残ってるじゃねぇか。お前ら何してる? 聖獣如きに遊ばれてるんじゃねぇぞ」
エルフの言霊は、呪文。
瞬く間に絡み合っていた枝が解き放たれた。
「一瞬かよ!?」
「とにかく散れっ! 捕まったら終わりだ!」
先程より速さと精度を増して、木々は獲物を襲う。
じわじわと掠り傷が、腕に、頬に、足に、刻まれてゆく。
「くそっ、キリがねぇ! ホントはやりたかねぇけど……っ!」
アズウェルが腰に下げていた小刀を抜く。
「致し方、ないな!」
木々を避けながら、マツザワも抜刀した。
アズウェルが小刀を、マツザワが水華を、枝々に振り下ろす。
「ま、待てっ……!」
響いた悲痛な叫びは、少年の声音。
しかし、叫びが二人の耳に届くよりも先に、枝は両断された。
森が地響きを立てて振動する。
「く……うぁっ……!」
「タカト!」
ディオウの声に、二人が振り返る。
枝に四肢を拘束されたタカトは、空中という十字架に張り付けられていた。
「タカト!?」
「タカト殿!?」
覆面がはらりと落ち、頬を一線の雫が伝った。
赤褐色[ の瞳を細め、全身に走る衝撃を堪[ える。
「……やめろ。俺に、話かけるなっ!」
切実な少年の声が、森に響く。
「俺は、もう違う! やめろ、やめろっ!」
「あはははは! いい様[ だなぁ、ヴァルト。おい、塵共。お前らが今何したかわかるか?」
枝の上で嘲笑するエルフを、三対の目が射抜く。
「斬ったんだよ、枝を。樹を。森を! ヴァルトは、自然の声が聞こえるんだよなぁ?」
「まさか、タカト殿はっ!」
瞠目したマツザワは、視線をエルフからタカトへ移す。
「く……う……や……めろっ!」
悲鳴は上げない。
だが、タカトの目は揺れていた。
また雫が一つ、大地に零れ落ちる。
「やめろ……俺は、俺は……っ!」
「今、タカトに何が起こってるんだよ!?」
「森中の樹が、泣き叫んでいる……ということか」
怒りを込めた眼差しを、ディオウがエルフに叩きつける。
「外道が」
「ヴァルトはあれで最後だからな。お前ら塵処分の最中に、死んでもらっちゃ困るんだよ」
「タカトをどうするつもりだ!?」
怒声を張り上げたアズウェルは、宙に張り巡らされた枝を足場として駆け上り、冷酷な笑みを浮かべるエルフに斬りかかった。
「金髪蒼眼ねぇ」
アズウェルの小刀を易々と片手で受け止め、青年は印を描く。
「お前も興味深いけど、生憎上はいらないって言うんでね。お前も塵だ」
印の色は、若緑。
「セントリック・ブルーム」
「げ、詠唱無しかよ!?」
印[ 破りの時間はない。
アズウェルは、宙に出現した枝に払い飛ばされた。
「うぁああっ!」
「アズウェル!!」
ディオウとマツザワ、二つの声が重なり、名を叫ぶ。
このまま行けば、大木に激突だ。
舌打ちすると同時に、ディオウは枝を飛び越える。
大樹の前に身体を滑り込ませ、間一髪アズウェルを受け止めると、牙を剥いて吠えた。
「いきなり無茶をするなっ! 馬鹿!」
「わりぃ、ちょっと油断した。ディオウ、サンキュ~」
「ったく……」
「聖獣め。邪魔ばかりしやがる」
忌々しげに吐き捨て、エルフは眼下のディオウとアズウェルを鋭利な目付きで睨みつけた。
その様子を確認しながら、そろそろとマツザワがタカトに近づいていく。
エルフがアズウェルたちに気を取られている今ならば。
再び刀を振れば、また悲鳴と憎悪がタカトにのしかかるだろう。
だが、拘束されていては逃げることもできない。
斬るべきは最小限。
大地を強く蹴る。
飛び上がったマツザワは、抱えた水華を左手で抜く。
「あの女っ! 余計な真似を!」
「居合い、蓮の舞!」
四肢を縛り付けている枝を断つと、支えを失ったタカトの身体が崩れ落ちた。
「っ……!」
「タカト殿、しっかりしてください!」
解放されたタカトを抱き止め、マツザワはディオウを顧みる。
「ディオウ殿!」
「ディオウ、早く二人を!」
背に乗る飼い主に、聖獣は声を張り上げた。
「アズウェル、チャンスは一度だぞ!」
「おう!」
「お前ら、何してる!? ヴァルトを逃がすな!!」
エルフの怒声に応じ、枝が一斉にマツザワとタカトに襲いかかる。
「マツザワ、飛び乗れ!」
枝をかいくぐりながら、ディオウが二人に叫ぶ。
意識が朦朧としているタカトの手をアズウェルが取り、マツザワがディオウに飛び乗る。
「逃がすか。ここは俺たちのテリトリーだ」
森全域に呪を込めた言霊が放たれる。
ヴァルトを捉えろ!
耳朶を貫いた声にアズウェルは舌を出し、タカトを抱える腕に力を入れた。
「やだね! 誰が渡すかよっ!」
「全員、しっかり掴まっていろ!」
無数の枝が迫り来る中、ディオウは天高く飛翔した。
「急げっ! まずいっ!」
この森に来た者は、ほぼ例外なく抹殺される。
何故なら、森の存在を、間抜けな人間共に知られては困るから。
抹殺命令は執行された。ただ走っていては、間に合わない。
「急げっ! まずいっ!」
目の前に佇む巨木の幹を、怒涛の勢いで駆け上る。
「もぉー、何であんなのと一緒にいるんだよっ!」
半泣きで叫びながら、枝から枝へと飛び渡る。
踏み切る度に枝が上下に揺れて、木の葉が不吉な音を立てた。その行いは間違いだと、糾弾するように。
長い両耳を手で押さえ、心中で何も聞こえないと繰り返す。
会えることは素直に嬉しい。だが、よりにもよってこんな時に来て欲しくはなかった。
早く、早く、此処から逃がさねば。
「急げっ! まずいっ! 急げっ! まずい
甲高い叫び声は、風に呑み込まれていった。
◇ ◇ ◇
ふと、アズウェルが足を止める。
腕を組むと、眉間に皺を寄せて低く唸った。
「おれ、この樹前にも見た気がする……」
捻れたような幹。それに絡まる
アズウェルの問いかけに、マツザワも頷く。
「あぁ、先ほども見たな」
「やだ、迷ったって言うの?」
「そうとは限らないぞ。同じ種類の樹があっても不思議はない」
確かに、これだけ広い森ならば、似たような樹はいくつもあるだろう。
「どうなんだ、タカト」
その答えを確かめるべく、ディオウはタカトを見上げた。
目で応じたタカトがその樹に右手を当てる。
ゆっくりと瞼を閉じ、深く息を吐く。幹の鼓動を感じ取るには、まず自分自身の鼓動を落ち着かせる必要があるのだ。
樹と鼓動が一体化した時、言葉が通い合う。
返ってきた答えを聞くと、タカトは僅かに目を細めた。
そうか。すまない。
「……もう、お前たちは見飽きた。……そう、言ってる」
低く呟かれた言葉に、皆溜息を漏らした。
「参ったなぁ~。これじゃぐるぐる回ってるだけだぜ?」
「でも変よ。あたしちゃんと見てたけど、同じところなんて通ってないわ」
「けどさぁ~。なんつーか、歩かされてる感じがすんだよなぁ」
頭を掻き回しながら顔を上げたアズウェルの目に、一瞬影が映る。
「おい、今っ!」
「何、どうかしたの?」
再度目をこらしてみるが、既にその影は跡形もない。
不気味なほど静まり返った森は、木の葉の掠れる音さえしなかった。
「影が……動いた気がしたんだけど……」
「何もいないみたいだけど……鳥とかじゃないの?」
「いや、なんていうか枝から枝に飛んでたような……」
ラキィとアズウェルのやり取りを見ていたマツザワが、ディオウに尋ねる。
「ディオウ殿。この森に関して、何か知らないか?」
「おれの記憶だと、ここには動物が多く住んでいるはずだ。人はいないな。もし何かいるとすれば、人以外のものだろう」
「なるほど」
腕を組み、マツザワは辺りを見渡した。
ディオウの言う通りならば、動物の二、三匹は見ているはず。
しかし、それらしきものは何一つ見ていない。
「ディオウ、おれ、誰かに見られてる気がする」
くぐもった声で呟き、アズウェルはディオウの頭をぽんぽんと叩いた。
「ねぇ、ディオウは感じない?」
「視線なら、森に入った直後からずっとだな」
「……監視、されている」
タカトが言い切るか否かという時。
今まで沈黙していた木々たちが、突如ざわめきだした。
「馬鹿なっ!」
まるで生きているかのように、枝という枝がうねり、アズウェルたちに襲いかかる。
「ちょっと、何よこれ!」
「散れ!」
ディオウのかけ声と共に、全員四方八方に飛び退く。
一拍置いて、彼らが立っていた場所に枝が喰らいついた。反射的に身体が動いてなかったら、今頃串刺しだ。
「おい、やべぇぞ、これ!」
「全員、はぐれるな!」
怒号を上げ、ディオウは後方から迫り来る枝々を睨む。
「おれに喧嘩を売るとは、いい度胸だな」
四本の足に力を込めて飛び上がり、空中を縦横無隅に飛び回る。
「自滅しろ」
ディオウの動きを追っていた枝たちが、宙で球状になっていく。
木々の腕は互いに絡み合い、遂に動きを封じられた。枝先を震わせるが、ディオウには届かない。
「よっしゃ、ディオウナイス!」
パチン、とアズウェルが指を弾く。
「全員無事か?」
「はーい、アズウェルいまーす」
「私も無事だ」
「……平気だ」
ディオウの点呼に返ってきた声は、三つ。
真っ先に響くと思われた、高い声が聞こえない。
「あれ? ラキィは?」
「馬鹿め。はぐれるなと言ったのに」
苦々しげに舌打ちをする。
こうやって、一人ずつ消していくつもりか。
内心でそう毒突いた時、森に高笑いが響いた。
「ディオウ、あれ!」
アズウェルの指先を追った先。
枝の上に腰を下ろしているのは、横に尖った耳を持つ青年。
「あの耳は……エルフか!」
出現した敵に、マツザワは反射的に水華を握り締める。
「気をつけろ。エルフは魔力が高い。迂闊に手を出すと返り討ちに遭うぞ」
その顔に、先刻の笑みは欠片もない。
「おいおい。まだ随分
エルフの言霊は、呪文。
瞬く間に絡み合っていた枝が解き放たれた。
「一瞬かよ!?」
「とにかく散れっ! 捕まったら終わりだ!」
先程より速さと精度を増して、木々は獲物を襲う。
じわじわと掠り傷が、腕に、頬に、足に、刻まれてゆく。
「くそっ、キリがねぇ! ホントはやりたかねぇけど……っ!」
アズウェルが腰に下げていた小刀を抜く。
「致し方、ないな!」
木々を避けながら、マツザワも抜刀した。
アズウェルが小刀を、マツザワが水華を、枝々に振り下ろす。
「ま、待てっ……!」
響いた悲痛な叫びは、少年の声音。
しかし、叫びが二人の耳に届くよりも先に、枝は両断された。
森が地響きを立てて振動する。
「く……うぁっ……!」
「タカト!」
ディオウの声に、二人が振り返る。
枝に四肢を拘束されたタカトは、空中という十字架に張り付けられていた。
「タカト!?」
「タカト殿!?」
覆面がはらりと落ち、頬を一線の雫が伝った。
「……やめろ。俺に、話かけるなっ!」
切実な少年の声が、森に響く。
「俺は、もう違う! やめろ、やめろっ!」
「あはははは! いい
枝の上で嘲笑するエルフを、三対の目が射抜く。
「斬ったんだよ、枝を。樹を。森を! ヴァルトは、自然の声が聞こえるんだよなぁ?」
「まさか、タカト殿はっ!」
瞠目したマツザワは、視線をエルフからタカトへ移す。
「く……う……や……めろっ!」
悲鳴は上げない。
だが、タカトの目は揺れていた。
また雫が一つ、大地に零れ落ちる。
「やめろ……俺は、俺は……っ!」
「今、タカトに何が起こってるんだよ!?」
「森中の樹が、泣き叫んでいる……ということか」
怒りを込めた眼差しを、ディオウがエルフに叩きつける。
「外道が」
「ヴァルトはあれで最後だからな。お前ら塵処分の最中に、死んでもらっちゃ困るんだよ」
「タカトをどうするつもりだ!?」
怒声を張り上げたアズウェルは、宙に張り巡らされた枝を足場として駆け上り、冷酷な笑みを浮かべるエルフに斬りかかった。
「金髪蒼眼ねぇ」
アズウェルの小刀を易々と片手で受け止め、青年は印を描く。
「お前も興味深いけど、生憎上はいらないって言うんでね。お前も塵だ」
印の色は、若緑。
「セントリック・ブルーム」
「げ、詠唱無しかよ!?」
アズウェルは、宙に出現した枝に払い飛ばされた。
「うぁああっ!」
「アズウェル!!」
ディオウとマツザワ、二つの声が重なり、名を叫ぶ。
このまま行けば、大木に激突だ。
舌打ちすると同時に、ディオウは枝を飛び越える。
大樹の前に身体を滑り込ませ、間一髪アズウェルを受け止めると、牙を剥いて吠えた。
「いきなり無茶をするなっ! 馬鹿!」
「わりぃ、ちょっと油断した。ディオウ、サンキュ~」
「ったく……」
「聖獣め。邪魔ばかりしやがる」
忌々しげに吐き捨て、エルフは眼下のディオウとアズウェルを鋭利な目付きで睨みつけた。
その様子を確認しながら、そろそろとマツザワがタカトに近づいていく。
エルフがアズウェルたちに気を取られている今ならば。
再び刀を振れば、また悲鳴と憎悪がタカトにのしかかるだろう。
だが、拘束されていては逃げることもできない。
斬るべきは最小限。
大地を強く蹴る。
飛び上がったマツザワは、抱えた水華を左手で抜く。
「あの女っ! 余計な真似を!」
「居合い、蓮の舞!」
四肢を縛り付けている枝を断つと、支えを失ったタカトの身体が崩れ落ちた。
「っ……!」
「タカト殿、しっかりしてください!」
解放されたタカトを抱き止め、マツザワはディオウを顧みる。
「ディオウ殿!」
「ディオウ、早く二人を!」
背に乗る飼い主に、聖獣は声を張り上げた。
「アズウェル、チャンスは一度だぞ!」
「おう!」
「お前ら、何してる!? ヴァルトを逃がすな!!」
エルフの怒声に応じ、枝が一斉にマツザワとタカトに襲いかかる。
「マツザワ、飛び乗れ!」
枝をかいくぐりながら、ディオウが二人に叫ぶ。
意識が朦朧としているタカトの手をアズウェルが取り、マツザワがディオウに飛び乗る。
「逃がすか。ここは俺たちのテリトリーだ」
森全域に呪を込めた言霊が放たれる。
耳朶を貫いた声にアズウェルは舌を出し、タカトを抱える腕に力を入れた。
「やだね! 誰が渡すかよっ!」
「全員、しっかり掴まっていろ!」
無数の枝が迫り来る中、ディオウは天高く飛翔した。
第37記 時は移ろい
テンポの良い声が、樹海に響く。
「急げっ! 逃げるっ! 急げっ! 逃げるっ!」
長い耳を左右に揺らし、彼は必死に走っていた。
淡い緑色の小動物を抱きかかえて。
「ちょっとあんた、放しなさいよ!」
「ダメっ! 放したら人間のとこに行くんだろ?」
「そうよ。今みんな襲われているじゃない!」
甲高い声の応酬が続く。
「ダメダメダメ! リードが本気出してるんだから、行ったら殺されちゃうっ!」
「アズウェルたちが殺されちゃうじゃない!」
「とにかくダメッ! ラキィはおいらがちゃんと守るから!」
「放しなさいったら、放しなさい!」
「だぁーめぇーっ!」
彼は大声を張り上げ、首を力いっぱい振った。
「リードはエルフなんだぞっ! おいらたちじゃ敵わないって!」
奇襲の最中[ 、ラキィは彼に連れ出されたのだ。
ラキィより一回り大きいとはいえ、彼も小動物。
力量は、己自身で把握している。
「とにかく、結界の外まで連れて行くからっ! ラキィは大人しくしててっ!」
「ちょっと、やだ。結界張ってあるの!?」
「うん、侵入者を逃がさないようにするために、森中に結界が張られて、永遠にループするようになって……」
最後まで言葉を紡ぐことなく、彼はくりくりとした双眸を見開いた。
確かに、大地を蹴っていたはず。
ところが、今は。
「あの、ラキィ。おいら足が浮いてる気する……」
「放さないあんたが悪いのよ! 落ちたくなければしっかり掴まっていなさい!」
「ちょっと、ラキィ、ダメだってっ!」
しかし、激昂したラキィが彼の言葉に耳を貸すわけもなく。
翼のような両耳を羽ばたかせ、森を駆け抜ける。
「飛ばすわよ っ!」
「ラキィ、ダメ っ!!」
半泣きの叫びが、空へ飛び立った。
◇ ◇ ◇
三人の人間を背に乗せ、聖獣は天へ駆け上がる。
森に入る前は、白雲に覆われていた空から暖かい陽の光が降り注いでいた。
光を受けて煌く金髪を靡かせながら、アズウェルはぐるりと首を回す。
視界は悪くない。この明るさと高さならば、かなり遠くまで見渡せるだろう。
「あのさ、ディオウ」
「何だ?」
「妖精の森ってこんな広いの?」
ディオウから身を乗り出し、アズウェルは一面の緑を見つめた。
「確かに広い森だが、ロサリドより少し大きい程度だぞ」
「でも、森以外何も見えないぜ?」
「何だと?」
上を目指していたディオウは、一回り旋回[ し、地上を見渡す。
西を見ても、東を見ても。北を見ても、南を見ても。
どの方角を見ても、瞳に映るは緑のみ。
大陸東南部なら必ず見えるであろうハウル山脈すら、影も形もなかった。
「厄介だな」
「どういうこと?」
「恐らく結界だ。どこかで繋ぎ目を見つけられれば……いや、見つけたとして破る術[ はないな……」
完全に捉えられた。逃げ場は何処にもない。
追っ手など出さずとも、ディオウの体力が切れるのを待てばいいのだ。
「くそ……回りくどい連中め」
苛立ちを隠さず毒突いたディオウに、マツザワが遠慮がちに話しかけた。
「ディオウ殿……言いにくいのだが……」
「何だ? 言ってみろ」
「その……気のせいか、木が近づいてきているような……」
その言葉に、アズウェルとディオウが揃って視線を地上へ向ける。
やはり見えるものは緑だけ。目を擦り、瞬[ きを何度もしてみたが、やはり緑だけだ。だけなのだが。
徐々に鮮明さを増していくその緑に、二人は頬を引きつらせた。
「嘘ぉ、マジかよ!?」
「エルフ共めっ!」
「ディオウ、来たっ!」
「くっそ!」
舌打ちをすると、ディオウは更に上空を目指して飛翔した。
◇ ◇ ◇
瞳に大粒の涙を浮かべながら、背後のラキィを庇うようにして、しずしずと後退[ る。
「だ、だからダメだって言ったんだよ……」
怒気を露わに、青年は呟いた。
「チャイ。お前、一緒にいるのは塵[ の仲間じゃねぇか?」
「ら、ラキィはゴミじゃないっ! おいらたち森の仲間じゃないか!」
「それは昔の話だ。人間の元に行った裏切り者は、塵に等しい」
長い耳で頭を抱え、両耳の僅かな隙間から、チャイは眼前に立つエルフを見上げた。
「もちろん、裏切り者を引っ捕らえて来たんだよなぁ? チャイ?」
今此処で首を縦に振れば、チャイは怪我することなく逃げることができるだろう。
正直、怖い。元々怖いリードだが、今はどうしようもなく怖過ぎる。
耳と手で顔を覆っても、肌に突き刺さる怒気に、チャイは畏縮した。
どうせなら気を失ってしまいたい。
そんな考えが脳裏で過[ る。
だが、チャイは首を激しく横に振り、リードを睨み上げた。
「違うっ! おいらはラキィを結界の外に逃がすために、連れて行ったんだっ!」
「チャイ……あんた、馬鹿正直過ぎよ」
一部始終のやり取りを半眼で見つめていたラキィが、呆れ顔で溜息をつく。
「どうやら、チャイ。お前も処分されたいようだな?」
「ら、ラキィ、走って っ!」
ラキィの片耳を掴み、チャイは全速力でその場を離れようとした。
が、しかし。
「あんただけ逃げなさい」
「え、ちょっと、らき……ふげぇっ!」
もう片方の耳でチャイを張り飛ばし、ラキィはリードを見据える。
「あんた、変わったわね。昔は誰の言うことだって聞かなかったのに」
「あの頃とは違うんだ。俺は、ヴァルトを捕らえる」
「ヴァルトをどうするつもりなの?」
ラキィの紅い双眸に剣呑さが宿る。
「お前に答える義理はねぇな」
「そう。……あんた、いつも一緒にいたピュアはどうしたのよ」
静かに放たれた問いに、リードは答えなかった。 否、答えられなかった。
答えの代わりに、微かに呟く。
木々たちに、聞こえないように。ラキィだけに、届くように。
「あのままじゃ、ヴァルトは死ぬぞ」
「わかってるわ。森の呪縛があったもの。それで、今あんたの父親は何してるわけ?」
この森を統治しているのは、リードの父親であるラスのはず。侵入者抹殺など、彼がするとは到底思えない。陽気な性格のラスは、人に対しても友好的な木の聖霊だったのだ。
聖霊。聖[ の霊は、神の末席に位置するとされる存在だ。
その彼に、一体何が起こったというのか。
『お前の記憶は、古いんだよ。親父は……封印されてる。俺たちは、もうこの森の統治者じゃねぇんだ』
耳を通してではなく、直接頭に語りかけてくる声に、ラキィは下唇を噛む。
それは、柔らかいリードの声。彼女の記憶にある不器用な優しさを秘めた声だった。
リードは顔を歪めて、空を仰ぐ。
『俺は、ヴァルトを捕らえる。ピュアを解放するために』
はっと顔を上げ、揺れる深紅の眼差しをリードに向けた。
ピュアの名を聞いて、今痛いほど彼の気持ちがわかった。
共に長い年月を過ごしたからこそ、ラキィはその想いを受け止めることができる。
だからこそ。
「タカトは渡さない。アズウェルたちも殺させないわ」
その手は汚れてはいけない。リードの手は、血で染まるべきものではないのだから。
「あんたの手は、ピュアやチャイを撫でるためにあるんじゃないの?」
瞠目するリードに彼女は続けた。
「やることは最初っから決まっているわ。本当の敵を、倒すまでよ!」
そう堂々と宣言するラキィを見て、チャイはぶるっと身震いした。
もし今の会話が〝上〟に少しでも伝われば、確実に打ち首だ。
「おいらたちの森も、随分変わっちゃった……」
耳と手だけでは足りず、ハート型の尾も頭の上に乗せ、震え上がる。
時は移ろい、権力は奪われ、森に平穏はなくなった。
だが、変わらないものもある。
ラキィもリードも、怖いのは昔と全然変わらない。むしろ、気迫が増しているように思う。
チャイは深く嘆息した。
怖いのは変わらない。でも、変わらないでいてくれたことが嬉しかった。
大好きな二人が危険な目に遭うのは嫌だ。傷ついたら嫌だ。
だから、どうか聞こえませんように。
身体を丸めたチャイは、心中で何度も何度も二人の無事を願っていた。
◇ ◇ ◇
いくら上空に駆け上がろうが、木々はディオウたちを捕らえんと枝を伸ばしてくる。
びりびりと大気が振動し、ディオウの顔に苦痛の色が浮かび始めた。
遂に、自分にも聞こえてきたか。
森の悲鳴と憎悪。そして哀愁。
意識しなければ聞こえないはずの自然の声。
それがディオウまで聞こえるようになったということは、ヴァルトであるタカトがどれだけの重みに耐えているのか。
想像は容易にできた。
「このままじゃ、タカトが内側から壊されるぞ……」
「そんなっ……!」
ディオウの呟きに絶句したアズウェルは、腕の中で荒い呼吸を繰り返すタカトを見つめた。
顔色は蒼白になり、額からは汗が滲んでいる。時々、呻き声と共に、瞳から雫が零れ落ちていた。
ただ逃げているだけでは、タカトを救うことはできない。
何とかしなければ。
拳を握りしめ、アズウェルはごくりと息を飲み込む。
迷っている暇はない。
「マツザワ、タカトをよろしく」
「あ、あぁ」
アズウェルは、抱きかかえていたタカトをマツザワに預けた。
「おい、アズウェル何してる。しっかり掴まっていろ」
「ディオウ、二人を頼んだぜっ!」
ディオウの頭をぽんと一つ叩く。
「アズウェル、一体どうするつも 」
かけられたマツザワの言葉は、最後まで届かない。
風が吹き抜ける大空に、アズウェルは身を躍らせた。
「急げっ! 逃げるっ! 急げっ! 逃げるっ!」
長い耳を左右に揺らし、彼は必死に走っていた。
淡い緑色の小動物を抱きかかえて。
「ちょっとあんた、放しなさいよ!」
「ダメっ! 放したら人間のとこに行くんだろ?」
「そうよ。今みんな襲われているじゃない!」
甲高い声の応酬が続く。
「ダメダメダメ! リードが本気出してるんだから、行ったら殺されちゃうっ!」
「アズウェルたちが殺されちゃうじゃない!」
「とにかくダメッ! ラキィはおいらがちゃんと守るから!」
「放しなさいったら、放しなさい!」
「だぁーめぇーっ!」
彼は大声を張り上げ、首を力いっぱい振った。
「リードはエルフなんだぞっ! おいらたちじゃ敵わないって!」
奇襲の
ラキィより一回り大きいとはいえ、彼も小動物。
力量は、己自身で把握している。
「とにかく、結界の外まで連れて行くからっ! ラキィは大人しくしててっ!」
「ちょっと、やだ。結界張ってあるの!?」
「うん、侵入者を逃がさないようにするために、森中に結界が張られて、永遠にループするようになって……」
最後まで言葉を紡ぐことなく、彼はくりくりとした双眸を見開いた。
確かに、大地を蹴っていたはず。
ところが、今は。
「あの、ラキィ。おいら足が浮いてる気する……」
「放さないあんたが悪いのよ! 落ちたくなければしっかり掴まっていなさい!」
「ちょっと、ラキィ、ダメだってっ!」
しかし、激昂したラキィが彼の言葉に耳を貸すわけもなく。
翼のような両耳を羽ばたかせ、森を駆け抜ける。
「飛ばすわよ
「ラキィ、ダメ
半泣きの叫びが、空へ飛び立った。
◇ ◇ ◇
三人の人間を背に乗せ、聖獣は天へ駆け上がる。
森に入る前は、白雲に覆われていた空から暖かい陽の光が降り注いでいた。
光を受けて煌く金髪を靡かせながら、アズウェルはぐるりと首を回す。
視界は悪くない。この明るさと高さならば、かなり遠くまで見渡せるだろう。
「あのさ、ディオウ」
「何だ?」
「妖精の森ってこんな広いの?」
ディオウから身を乗り出し、アズウェルは一面の緑を見つめた。
「確かに広い森だが、ロサリドより少し大きい程度だぞ」
「でも、森以外何も見えないぜ?」
「何だと?」
上を目指していたディオウは、一回り
西を見ても、東を見ても。北を見ても、南を見ても。
どの方角を見ても、瞳に映るは緑のみ。
大陸東南部なら必ず見えるであろうハウル山脈すら、影も形もなかった。
「厄介だな」
「どういうこと?」
「恐らく結界だ。どこかで繋ぎ目を見つけられれば……いや、見つけたとして破る
完全に捉えられた。逃げ場は何処にもない。
追っ手など出さずとも、ディオウの体力が切れるのを待てばいいのだ。
「くそ……回りくどい連中め」
苛立ちを隠さず毒突いたディオウに、マツザワが遠慮がちに話しかけた。
「ディオウ殿……言いにくいのだが……」
「何だ? 言ってみろ」
「その……気のせいか、木が近づいてきているような……」
その言葉に、アズウェルとディオウが揃って視線を地上へ向ける。
やはり見えるものは緑だけ。目を擦り、
徐々に鮮明さを増していくその緑に、二人は頬を引きつらせた。
「嘘ぉ、マジかよ!?」
「エルフ共めっ!」
「ディオウ、来たっ!」
「くっそ!」
舌打ちをすると、ディオウは更に上空を目指して飛翔した。
◇ ◇ ◇
瞳に大粒の涙を浮かべながら、背後のラキィを庇うようにして、しずしずと
「だ、だからダメだって言ったんだよ……」
怒気を露わに、青年は呟いた。
「チャイ。お前、一緒にいるのは
「ら、ラキィはゴミじゃないっ! おいらたち森の仲間じゃないか!」
「それは昔の話だ。人間の元に行った裏切り者は、塵に等しい」
長い耳で頭を抱え、両耳の僅かな隙間から、チャイは眼前に立つエルフを見上げた。
「もちろん、裏切り者を引っ捕らえて来たんだよなぁ? チャイ?」
今此処で首を縦に振れば、チャイは怪我することなく逃げることができるだろう。
正直、怖い。元々怖いリードだが、今はどうしようもなく怖過ぎる。
耳と手で顔を覆っても、肌に突き刺さる怒気に、チャイは畏縮した。
どうせなら気を失ってしまいたい。
そんな考えが脳裏で
だが、チャイは首を激しく横に振り、リードを睨み上げた。
「違うっ! おいらはラキィを結界の外に逃がすために、連れて行ったんだっ!」
「チャイ……あんた、馬鹿正直過ぎよ」
一部始終のやり取りを半眼で見つめていたラキィが、呆れ顔で溜息をつく。
「どうやら、チャイ。お前も処分されたいようだな?」
「ら、ラキィ、走って
ラキィの片耳を掴み、チャイは全速力でその場を離れようとした。
が、しかし。
「あんただけ逃げなさい」
「え、ちょっと、らき……ふげぇっ!」
もう片方の耳でチャイを張り飛ばし、ラキィはリードを見据える。
「あんた、変わったわね。昔は誰の言うことだって聞かなかったのに」
「あの頃とは違うんだ。俺は、ヴァルトを捕らえる」
「ヴァルトをどうするつもりなの?」
ラキィの紅い双眸に剣呑さが宿る。
「お前に答える義理はねぇな」
「そう。……あんた、いつも一緒にいたピュアはどうしたのよ」
静かに放たれた問いに、リードは答えなかった。
答えの代わりに、微かに呟く。
木々たちに、聞こえないように。ラキィだけに、届くように。
「あのままじゃ、ヴァルトは死ぬぞ」
「わかってるわ。森の呪縛があったもの。それで、今あんたの父親は何してるわけ?」
この森を統治しているのは、リードの父親であるラスのはず。侵入者抹殺など、彼がするとは到底思えない。陽気な性格のラスは、人に対しても友好的な木の聖霊だったのだ。
聖霊。
その彼に、一体何が起こったというのか。
『お前の記憶は、古いんだよ。親父は……封印されてる。俺たちは、もうこの森の統治者じゃねぇんだ』
耳を通してではなく、直接頭に語りかけてくる声に、ラキィは下唇を噛む。
それは、柔らかいリードの声。彼女の記憶にある不器用な優しさを秘めた声だった。
リードは顔を歪めて、空を仰ぐ。
『俺は、ヴァルトを捕らえる。ピュアを解放するために』
はっと顔を上げ、揺れる深紅の眼差しをリードに向けた。
ピュアの名を聞いて、今痛いほど彼の気持ちがわかった。
共に長い年月を過ごしたからこそ、ラキィはその想いを受け止めることができる。
だからこそ。
「タカトは渡さない。アズウェルたちも殺させないわ」
その手は汚れてはいけない。リードの手は、血で染まるべきものではないのだから。
「あんたの手は、ピュアやチャイを撫でるためにあるんじゃないの?」
瞠目するリードに彼女は続けた。
「やることは最初っから決まっているわ。本当の敵を、倒すまでよ!」
そう堂々と宣言するラキィを見て、チャイはぶるっと身震いした。
もし今の会話が〝上〟に少しでも伝われば、確実に打ち首だ。
「おいらたちの森も、随分変わっちゃった……」
耳と手だけでは足りず、ハート型の尾も頭の上に乗せ、震え上がる。
時は移ろい、権力は奪われ、森に平穏はなくなった。
だが、変わらないものもある。
ラキィもリードも、怖いのは昔と全然変わらない。むしろ、気迫が増しているように思う。
チャイは深く嘆息した。
怖いのは変わらない。でも、変わらないでいてくれたことが嬉しかった。
大好きな二人が危険な目に遭うのは嫌だ。傷ついたら嫌だ。
だから、どうか聞こえませんように。
身体を丸めたチャイは、心中で何度も何度も二人の無事を願っていた。
◇ ◇ ◇
いくら上空に駆け上がろうが、木々はディオウたちを捕らえんと枝を伸ばしてくる。
びりびりと大気が振動し、ディオウの顔に苦痛の色が浮かび始めた。
遂に、自分にも聞こえてきたか。
森の悲鳴と憎悪。そして哀愁。
意識しなければ聞こえないはずの自然の声。
それがディオウまで聞こえるようになったということは、ヴァルトであるタカトがどれだけの重みに耐えているのか。
想像は容易にできた。
「このままじゃ、タカトが内側から壊されるぞ……」
「そんなっ……!」
ディオウの呟きに絶句したアズウェルは、腕の中で荒い呼吸を繰り返すタカトを見つめた。
顔色は蒼白になり、額からは汗が滲んでいる。時々、呻き声と共に、瞳から雫が零れ落ちていた。
ただ逃げているだけでは、タカトを救うことはできない。
何とかしなければ。
拳を握りしめ、アズウェルはごくりと息を飲み込む。
迷っている暇はない。
「マツザワ、タカトをよろしく」
「あ、あぁ」
アズウェルは、抱きかかえていたタカトをマツザワに預けた。
「おい、アズウェル何してる。しっかり掴まっていろ」
「ディオウ、二人を頼んだぜっ!」
ディオウの頭をぽんと一つ叩く。
「アズウェル、一体どうするつも
かけられたマツザワの言葉は、最後まで届かない。
風が吹き抜ける大空に、アズウェルは身を躍らせた。
第38記 眠れ
上空から放たれる声。
それらは異口同音に重なり、一人の青年を呼び続けた。
しかし、本人に届くはずもない。
アズウェルの耳に聞こえてくるのは、風の咆哮だけ。
刻一刻と木々の輪郭が浮かび上がり、大地が近づいてくる。
一発勝負だ。
アズウェルは鞘に戻してあった小刀を、左手で抜く。
顔の前で小刀を一文字に掲げ、地上を見据えた。
「おまえら、いい加減にしろよ……!」
タカトをどれだけ苦しめれば気が済むというのか。
森を睨むアズウェルの両眼は、透き通った黄金色。
地上から小刀へ視線を移し、右手で刃に古代文字を描いていく。
別に扉じゃなくてもいい。イメージできればそれでいいんだ
幼き頃に聞いた言葉が、耳の奥で甦る。
ただ文字の順番は間違えるな。それが呪文のようなものだからな
一面雪で覆われた銀世界の中、聖獣はそう教えてくれた。
刃の根本から鋒[ まで、金色[ の文字で彩られる。
小刀を右手に持ち替え、アズウェルは空を斬った。
「妖精の扉[ !」
言霊と呪文が一つになり、空が割れる。
切り裂かれた空間から、白い風が吹き抜けた。
空に身を投じたアズウェルを追い、ディオウは急降下していた。
「馬鹿野郎、何考えて……っ!?」
冷たい。辺りの空気が一変した。
「ディオウ殿? 早くしないとアズウェルが……!」
気持ちが焦るマツザワが、ぴたりと動きを止めた聖獣を急かす。
渋面を作り、怒りと安堵が綯[ い交ぜになった声音で、ディオウは呟いた。
「今行ったら、邪魔になる」
吹雪と共に森の上空へ吹き込んだ風は、アズウェルの頬を撫で、彼の金髪を流した。
太陽に照らされた粉雪が、きらきらと煌きながら森に降り注ぐ。
「ラート!!」
名という呪文を叫ぶと、純白の雪うさぎが割れた空から飛び出した。
アズウェルの頭上に着地すると、ラートは裂け目を振り返る。
オーロラが空で弾け、アズウェルの瞳に美しい銀糸が映った。
陽の光に反射し、銀糸に見えたそれは、真っ白な長髪。
久方振りの再会に、アズウェルは落下中であることを忘れて、天から降りてきた彼女の名を呼んだ。
「す……スニィ!」
『お久しぶりです』
柔らかく微笑んだスニィは、ふわりとアズウェルの首に両腕を回した。背中に覆い被さるようにして、アズウェルに抱きつく。
仄かに青みがかった白銀のドレスで包まれた身体は、とても華奢で軽い。僅かに増えた重みを感じながら、アズウェルは首だけ後ろに回し、雪のプリンセスを見つめた。
「ホント、久々だよな」
『ちょうどラートと一緒だったから』
そう笑ったスニィは、耳をつんざく悲鳴に思わず顔を歪めた。
『これは一体……森が、泣いています……っ!』
耳元で囁かれた言葉を聞き、アズウェルは我に返った。
「ラート、スニィ。頼みがあるんだ」
今、此処で再会を喜んでいる暇はない。
木々の葉が、一枚一枚見分けられるほど近づいてきている。
「おれたちの仲間にヴァルトがいるんだ」
『ヴァルト!? そんな、これじゃその人死んでしまいます……!』
「だから、お願い。森を眠らせて!」
アズウェルの意図を正確に読み取ったスニィは、真剣な面持ちで頷く。
『わかりました。ラートだけじゃ間に合いません。私も力になります!』
「頼むぜ、二人とも!」
それが合図だったかのように、ラートがアズウェルの頭から飛び立つ。小さな体躯で空を旋回し、白いベールを森にかけていく。
ラートの動きを目で追いながら、スニィは言霊を放った。
『眠りなさい、森たちよ!』
エルフのそれよりも遙かに強大な言霊が、白きベールを七色に輝かせる。
アズウェルたちを捕らえんと迫ってきていた枝たちは、ベールに触れると一瞬で凍り付いていった。
「よっしゃっ! これで少しは静かになるだろ!」
拳をぐっと握りしめたアズウェルに、スニィが不安そうに尋ねた。
『ねぇ、アズウェル……着地はどうするの……?』
「えっ……」
考えていなかったなど、誰が言えようか。
だが、言い訳を考えている時間は、生憎与えられてなかった。
霜で覆われた大地が、肉眼で確認できる位置まで迫っている。
すれ違う氷の柱を横目で見ると、アズウェルは右腕を振り上げた。
「とにかく、スピードを落とす!」
今ある力を、小刀に叩き込む。
中心を僅かに外し、アズウェルは小刀を氷柱に突き刺した。
「止まれっ!」
『だめ、アズウェル! 氷が割れてしまいます!』
凍結されている木に刺さらないように。
その良心が仇になった。
真っ直ぐな亀裂が、氷柱に走る。
氷柱を縦に斬りながら、アズウェルとスニィは地上へと落ちていった。
「くっそ、止まれよっ!」
『大地が……っ!』
スニィの息を飲む声が耳元で響き、アズウェルは反射的に両目を瞑った。
キキィーンッ!
響いたのは衝撃でもなければ、痛みでもなく。
高く響いた音に、ゆっくりと瞼を上げる。
小刀は木々と同じように、澄んだ氷の鎧で包まれている。
「と……止まってる……」
氷漬けにされた小刀の上で飛び跳ねているのは。
「ら、ラート! サンキュー、助かったぜ!」
召喚者の声に微笑んで応じた雪うさぎは、ふわりと地上に舞い降りた。
この高さなら、飛び降りても怪我はしないだろう。
地上との距離を確認し、アズウェルはほっと一つ息を吐いた。
「ぎりぎりだったな……。スニィ、降りられる?」
『ここからなら大丈夫です』
頷いたスニィは、アズウェルから手を放し、重さを感じさせない動きで大地に降りる。
アズウェルは両手で小刀を握り直すと、氷柱に両足を付けた。一度身体の動きを止めてから、僅かに足を離す。
「せーのっ!」
揃えられた両足は、氷柱を強く蹴り、小刀とアズウェルを宙へ飛ばした。くるりと一回転し、白銀の地面に着地する。
何とかなったようだ。
ほっと一息ついた時、空から怒号が降ってきた。
「アズウェル!!」
見事なまでに重なった声を聞いて、アズウェルは苦笑を滲ませる。
「笑い事じゃないぞ!」
その言葉と共に、ディオウが眼前に降り立った。
「ま、まぁ……おれ怪我しなかったし……」
「危機一髪だったじゃないか!」
「スニィとラートを呼び出すなら、先に言え! 馬鹿!」
声を張り上げるマツザワと、吠えるディオウに軽く応じ、アズウェルはタカトの元へ駆け寄る。
「タカト、大丈夫か?」
呼吸は大分穏やかになってはいるが、顔色の悪さは相変わらずだ。
「……もう、平気だ」
命がけで助けてくれたアズウェルに、タカトはうっすらと微笑みを浮かべる。
「ありがとう」
少年の声は震えていた。
それに気付かない振りをして、アズウェルも微笑む。
「うん。少し、休んでいていいから」
「……すまない」
何も謝らなくていいのに。
目を瞑った仲間を見つめ、アズウェルは小さく呟いた。
「無理、すんなよな……」
◇ ◇ ◇
突如現れた冷気に包まれ、森は沈黙している。
眠らされていない木々たちも、身を縮こまらせ、枝一つ動かさない。
「今の冷気は多分……!」
目に映る景色が、緑の空間から氷の空間へと徐々に変化していく。
大樹を包む氷柱の間を縫って、ラキィはアズウェルたちを探した。
「近くにはいるはずなのに……」
一刻も早く追いつかなければ、報せなければ、タカトの命が危ない。
「どこよ、どこにいるのよ……!」
紅い瞳で周囲を見回す。
これだけの木々を眠らせたのだ。ただの魔法ではない。思い当たる節はただ一つ。アズウェルの妖精の扉[ だ。
早く合流しなければならないのに。
気持ちがいくら警鐘を鳴らしていても、何処を目指せば良いのかわからない。
眠った木々は、ラキィに何も教えてくれなかった。
「アズウェル……」
ラキィが途方に暮れていると、氷柱からひょこりと白い影が現れた。
「あれは、ラート!」
ぴょこぴょこと跳ねる雪うさぎを追って、ラキィは冷え冷えとした空気の中で両翼を羽ばたかせる。
突然足を止めたラートはラキィを振り返り、その場で飛び跳ねていた。
きっと、その先にいる。
自然と速度を上げて、ラートの横を一気に駆け抜けた。
「アズウェル !!」
「え、うぁ、ラキィ!?」
ちょうどタカトに己の上着をかけていたアズウェルは、ラキィに突進され尻もちをつく。
「ラキィ、怪我はない?」
「えぇ、あたしは平気よ」
「ったく、どこに行ってたんだ」
半眼で睨んできた聖獣を黙殺し、ラキィはタカトに歩み寄った。
顔の右半分を覆い隠している長い前髪を、耳でそっと払い除ける。
「このタトゥー。何だかわかる?」
『それはっ……!』
「森の呪縛だ」
口元を手で覆ったスニィの後を継いだのは、先刻アズウェルたちを襲ったエルフだった。
「おまえっ! タカトは渡さねぇぞ!」
「俺が捕らえなくても、このまま森にいたら、ヴァルトは間違いなく死ぬ」
「なっ……!? おい、どういう意味だよ、それ!?」
アズウェルに詰め寄られたエルフは、腕を組んで眉根を寄せる。
「俺に協力するなら、ヴァルトを救ってやってもいい」
「協力って」
「ただし」
凛とした声音でアズウェルの言葉を遮り、リードは告げた。
「刻限は、日没だ」
それらは異口同音に重なり、一人の青年を呼び続けた。
しかし、本人に届くはずもない。
アズウェルの耳に聞こえてくるのは、風の咆哮だけ。
刻一刻と木々の輪郭が浮かび上がり、大地が近づいてくる。
一発勝負だ。
アズウェルは鞘に戻してあった小刀を、左手で抜く。
顔の前で小刀を一文字に掲げ、地上を見据えた。
「おまえら、いい加減にしろよ……!」
タカトをどれだけ苦しめれば気が済むというのか。
森を睨むアズウェルの両眼は、透き通った黄金色。
地上から小刀へ視線を移し、右手で刃に古代文字を描いていく。
幼き頃に聞いた言葉が、耳の奥で甦る。
一面雪で覆われた銀世界の中、聖獣はそう教えてくれた。
刃の根本から
小刀を右手に持ち替え、アズウェルは空を斬った。
「
言霊と呪文が一つになり、空が割れる。
切り裂かれた空間から、白い風が吹き抜けた。
空に身を投じたアズウェルを追い、ディオウは急降下していた。
「馬鹿野郎、何考えて……っ!?」
冷たい。辺りの空気が一変した。
「ディオウ殿? 早くしないとアズウェルが……!」
気持ちが焦るマツザワが、ぴたりと動きを止めた聖獣を急かす。
渋面を作り、怒りと安堵が
「今行ったら、邪魔になる」
吹雪と共に森の上空へ吹き込んだ風は、アズウェルの頬を撫で、彼の金髪を流した。
太陽に照らされた粉雪が、きらきらと煌きながら森に降り注ぐ。
「ラート!!」
名という呪文を叫ぶと、純白の雪うさぎが割れた空から飛び出した。
アズウェルの頭上に着地すると、ラートは裂け目を振り返る。
オーロラが空で弾け、アズウェルの瞳に美しい銀糸が映った。
陽の光に反射し、銀糸に見えたそれは、真っ白な長髪。
久方振りの再会に、アズウェルは落下中であることを忘れて、天から降りてきた彼女の名を呼んだ。
「す……スニィ!」
『お久しぶりです』
柔らかく微笑んだスニィは、ふわりとアズウェルの首に両腕を回した。背中に覆い被さるようにして、アズウェルに抱きつく。
仄かに青みがかった白銀のドレスで包まれた身体は、とても華奢で軽い。僅かに増えた重みを感じながら、アズウェルは首だけ後ろに回し、雪のプリンセスを見つめた。
「ホント、久々だよな」
『ちょうどラートと一緒だったから』
そう笑ったスニィは、耳をつんざく悲鳴に思わず顔を歪めた。
『これは一体……森が、泣いています……っ!』
耳元で囁かれた言葉を聞き、アズウェルは我に返った。
「ラート、スニィ。頼みがあるんだ」
今、此処で再会を喜んでいる暇はない。
木々の葉が、一枚一枚見分けられるほど近づいてきている。
「おれたちの仲間にヴァルトがいるんだ」
『ヴァルト!? そんな、これじゃその人死んでしまいます……!』
「だから、お願い。森を眠らせて!」
アズウェルの意図を正確に読み取ったスニィは、真剣な面持ちで頷く。
『わかりました。ラートだけじゃ間に合いません。私も力になります!』
「頼むぜ、二人とも!」
それが合図だったかのように、ラートがアズウェルの頭から飛び立つ。小さな体躯で空を旋回し、白いベールを森にかけていく。
ラートの動きを目で追いながら、スニィは言霊を放った。
『眠りなさい、森たちよ!』
エルフのそれよりも遙かに強大な言霊が、白きベールを七色に輝かせる。
アズウェルたちを捕らえんと迫ってきていた枝たちは、ベールに触れると一瞬で凍り付いていった。
「よっしゃっ! これで少しは静かになるだろ!」
拳をぐっと握りしめたアズウェルに、スニィが不安そうに尋ねた。
『ねぇ、アズウェル……着地はどうするの……?』
「えっ……」
考えていなかったなど、誰が言えようか。
だが、言い訳を考えている時間は、生憎与えられてなかった。
霜で覆われた大地が、肉眼で確認できる位置まで迫っている。
すれ違う氷の柱を横目で見ると、アズウェルは右腕を振り上げた。
「とにかく、スピードを落とす!」
今ある力を、小刀に叩き込む。
中心を僅かに外し、アズウェルは小刀を氷柱に突き刺した。
「止まれっ!」
『だめ、アズウェル! 氷が割れてしまいます!』
凍結されている木に刺さらないように。
その良心が仇になった。
真っ直ぐな亀裂が、氷柱に走る。
氷柱を縦に斬りながら、アズウェルとスニィは地上へと落ちていった。
「くっそ、止まれよっ!」
『大地が……っ!』
スニィの息を飲む声が耳元で響き、アズウェルは反射的に両目を瞑った。
響いたのは衝撃でもなければ、痛みでもなく。
高く響いた音に、ゆっくりと瞼を上げる。
小刀は木々と同じように、澄んだ氷の鎧で包まれている。
「と……止まってる……」
氷漬けにされた小刀の上で飛び跳ねているのは。
「ら、ラート! サンキュー、助かったぜ!」
召喚者の声に微笑んで応じた雪うさぎは、ふわりと地上に舞い降りた。
この高さなら、飛び降りても怪我はしないだろう。
地上との距離を確認し、アズウェルはほっと一つ息を吐いた。
「ぎりぎりだったな……。スニィ、降りられる?」
『ここからなら大丈夫です』
頷いたスニィは、アズウェルから手を放し、重さを感じさせない動きで大地に降りる。
アズウェルは両手で小刀を握り直すと、氷柱に両足を付けた。一度身体の動きを止めてから、僅かに足を離す。
「せーのっ!」
揃えられた両足は、氷柱を強く蹴り、小刀とアズウェルを宙へ飛ばした。くるりと一回転し、白銀の地面に着地する。
何とかなったようだ。
ほっと一息ついた時、空から怒号が降ってきた。
「アズウェル!!」
見事なまでに重なった声を聞いて、アズウェルは苦笑を滲ませる。
「笑い事じゃないぞ!」
その言葉と共に、ディオウが眼前に降り立った。
「ま、まぁ……おれ怪我しなかったし……」
「危機一髪だったじゃないか!」
「スニィとラートを呼び出すなら、先に言え! 馬鹿!」
声を張り上げるマツザワと、吠えるディオウに軽く応じ、アズウェルはタカトの元へ駆け寄る。
「タカト、大丈夫か?」
呼吸は大分穏やかになってはいるが、顔色の悪さは相変わらずだ。
「……もう、平気だ」
命がけで助けてくれたアズウェルに、タカトはうっすらと微笑みを浮かべる。
「ありがとう」
少年の声は震えていた。
それに気付かない振りをして、アズウェルも微笑む。
「うん。少し、休んでいていいから」
「……すまない」
何も謝らなくていいのに。
目を瞑った仲間を見つめ、アズウェルは小さく呟いた。
「無理、すんなよな……」
◇ ◇ ◇
突如現れた冷気に包まれ、森は沈黙している。
眠らされていない木々たちも、身を縮こまらせ、枝一つ動かさない。
「今の冷気は多分……!」
目に映る景色が、緑の空間から氷の空間へと徐々に変化していく。
大樹を包む氷柱の間を縫って、ラキィはアズウェルたちを探した。
「近くにはいるはずなのに……」
一刻も早く追いつかなければ、報せなければ、タカトの命が危ない。
「どこよ、どこにいるのよ……!」
紅い瞳で周囲を見回す。
これだけの木々を眠らせたのだ。ただの魔法ではない。思い当たる節はただ一つ。アズウェルの
早く合流しなければならないのに。
気持ちがいくら警鐘を鳴らしていても、何処を目指せば良いのかわからない。
眠った木々は、ラキィに何も教えてくれなかった。
「アズウェル……」
ラキィが途方に暮れていると、氷柱からひょこりと白い影が現れた。
「あれは、ラート!」
ぴょこぴょこと跳ねる雪うさぎを追って、ラキィは冷え冷えとした空気の中で両翼を羽ばたかせる。
突然足を止めたラートはラキィを振り返り、その場で飛び跳ねていた。
きっと、その先にいる。
自然と速度を上げて、ラートの横を一気に駆け抜けた。
「アズウェル
「え、うぁ、ラキィ!?」
ちょうどタカトに己の上着をかけていたアズウェルは、ラキィに突進され尻もちをつく。
「ラキィ、怪我はない?」
「えぇ、あたしは平気よ」
「ったく、どこに行ってたんだ」
半眼で睨んできた聖獣を黙殺し、ラキィはタカトに歩み寄った。
顔の右半分を覆い隠している長い前髪を、耳でそっと払い除ける。
「このタトゥー。何だかわかる?」
『それはっ……!』
「森の呪縛だ」
口元を手で覆ったスニィの後を継いだのは、先刻アズウェルたちを襲ったエルフだった。
「おまえっ! タカトは渡さねぇぞ!」
「俺が捕らえなくても、このまま森にいたら、ヴァルトは間違いなく死ぬ」
「なっ……!? おい、どういう意味だよ、それ!?」
アズウェルに詰め寄られたエルフは、腕を組んで眉根を寄せる。
「俺に協力するなら、ヴァルトを救ってやってもいい」
「協力って」
「ただし」
凛とした声音でアズウェルの言葉を遮り、リードは告げた。
「刻限は、日没だ」
第39記 アレノス
刻限は、日没。
突如告げられた彼らは、その意図を読み取るのに些か時間がかかった。
「わかりやすく言い直してやろう。日没までに現行の森の主[ を倒して、俺の親父を解放できなければ、ヴァルトは死ぬ」
砕かれた台詞に、マツザワが目を剥く。
「日没って……もう昼時を過ぎたぞ!?」
彼女の言う通り、陽は既に西に傾いている。
斜陽を一瞥したアズウェルは、リードを見据えて念を押した。
「それしか、タカトを助ける方法はねぇんだな?」
「そうだ。森の呪縛は、ヴァルト族長の直系にのみ押される烙印。それがある限り、木々が受けた痛みや哀しみが、全てそいつに降りかかる。……烙印を無効化できるのは、木の聖霊だけだ」
きっぱりと言い切ったリードに鋭利な眼差しを向け、ディオウが訊く。
「お前の言い方だと、現行の主は聖霊ではないな?」
「そうだな。今、この森を牛耳ってるのはアレノスだ。聖霊である俺の親父は、そいつに封じられている」
『アレノス……!』
小さく悲鳴を上げたスニィを見て、アズウェルは首を傾げた。
「アレノスって誰……?」
『セイランが、スワロウ族に討伐依頼した化け物……です』
一瞬、水を打ったような静けさが場を呑み込む。
やや置いて、マツザワが瞠目したまま口を開いた。
「それは……いつ、依頼されたものだ……?」
『昨日です。昨日、ホルマウンテンでも、禁断……アレノスと読むのですが、その確認がされました』
昨日スワロウ族に依頼された禁断討伐。
それはアズウェルたちが引き受けた零番任務ではないのか。
「セイランさんが? マスターの名前は確か、シェイ・ラーファンって……」
目をぱちくりさせるアズウェルの言葉を聞き、スニィは口元を両手で覆った。
『そんな……あんな化け物討伐をアズウェルが受けていたなんて……!』
「おい、金髪。シェイ・ラーファンって言ったな? それはホルマウンテンに住んでる水系エルフのことじゃねぇか」
不快そうに眉根を寄せたリードが、スニィのことを上から下まで眺める。
「……お前、水の聖霊だな。何でここにいるんだ」
「スニィはおれが呼んだラートについてきたんだよ」
アズウェルに名を呼ばれ、ひょこりと雪うさぎがリードの前に躍り出た。
「水系の精霊……金髪、お前は魔術師か?」
問うてから、若草色の瞳に疑念が宿る。
精霊と聖霊を呼び出したと言っている青年は、全くと言っていいほど魔力を持ち合わせていない。
精霊には二種類いる。術が済んでも召喚者から許可を得るまで傍にいる者と、最低限しかこなさずに消えてしまう者。
前者は、神の末席に座する聖霊に忠誠を誓い、主人の目となり、手となり、足となる、自然の魂。聖霊に創られた精霊だ。其処らにいる歳月を経て自然と形になった後者の精霊とは勝手が違う。
スニィが共に来たというラートは、明らかに前者だ。
もしその精霊を呼び出せるほどの魔術師ならば、どんなに自己で抑制していても、多少なりとも魔力の片鱗が見えるはず。
それがアズウェルには見えない。
「いや、おれは」
「愚問だったな……くそ、金髪にゴールドアイならアレノスと渡り合えるのに」
答えようとしたアズウェルを遮るように吐き捨てて、ぎりっと奥歯を噛む。
とにかく急がなければ、タカトだけでなく、封印されているラスたちの命も危ないのだ。
彼らは協力者として妥当か否か。
腕を組み、アズウェルたちを見つめる。
しかし、直後にリードの思考は断たれた。
「追ってきたと思ったんだけど……チャイどうしたのかしら……?」
ラキィが呟いた一言によって。
◇ ◇ ◇
どうして二人はあんなに足が速いのだろうか。
己の出せる限界の速さで、チャイは走っていた。
あんなのに盾突くなど、命がいくつあっても足りやしない。
とにかく二人を止めなければ。
視界が急に明るくなる。
それは鬱蒼と茂った樹海から、美しい氷に包まれた銀世界へと景色が変わったからだ。
「ひぁ、寒いっ! 何で凍ってるんだよっ! んもー、ラキィどこぉーっ!」
半ば投げやりに叫んだ時。
「ん~? 君って確かリードの連れのチビっこだよなぁ?」
最も聞きたくない声が全身を貫いた。
震えながら声の主を確認し、小声で訂正するのだった。
「ごめん、リード、ラキィ。おいらの方がまずいみたい……」
◇ ◇ ◇
「おい、ラキィ! どこ行くんだよ!」
「アズウェル、ちょっと放してよ! リードを追わなきゃ!」
アズウェルに掴まれたラキィは、必死に耳で抵抗する。
珍しく焦るラキィを見て、ディオウが低く唸った。
「何言ってる。アレノスを探さないとタカトが手遅れになるぞ」
「だったら尚更リードを追わなきゃ! アレノスの居所はリードが知ってるのよ!?」
「わかったって。でも、ちょっと落ち着いてよ、ラキィ」
流石に不審に思ったアズウェルも、ラキィを宥める。
だが、今のラキィには飼い主の声すら届かない。
「落ち着いている暇なんてないわ! 放して、チャイがっ……!」
「チャイって……」
「あたしの、幼馴染みよ!」
くるりと振り返ったラキィの両眼には、今にも零れ落ちそうなほどの涙が浮かべられている。
滅多に見せないその涙が、アズウェルを絶句させた。
「アズウェル、ラキィと共に行ってくれ」
そう促したのはマツザワだった。
「マツザワ……」
「ラキィの幼馴染みを早く……! タカト殿は私とディオウ殿に任せてくれ!」
自分の名まで上げられたディオウは反論しようと口を開くが、マツザワの真摯な眼差しを受け、言葉を飲み込む。
恐らく、彼女はラキィに己を重ねているのだ。
「行け、アズウェル。だが、決して無茶はするなよ」
アズウェルに背を向け、ディオウは長い尾を一振りする。
「アズウェル、ねぇお願い! 早く!」
「わかった……ディオウ、マツザワ、タカトをよろしく!」
「ああ、アズウェルも気をつけて」
マツザワの言葉にこくりと頷いたアズウェルは、ラキィを抱えて駆け出した。
白いうさぎがその後を追っていく。
アズウェルとラートを見送って、スニィはディオウたちを顧みた。
『アレノスの狙いは、聖霊やヴァルトのように力を持った者です。今母も狙われています……』
「お前はどうするんだ」
『ここは私たちの領域ではありません。だから、ここを統治しているのが誰であれ、独自の結界を成せます』
もしスニィが木の聖霊だったら、本来の主が封じられている今、力を発揮することはできない。
だが、彼女の領域はホルマウンテン。此処の事情など、関係なかった。
マツザワに抱かれているタカトを見つめて、凛と言い放つ。
『アレノスにこれ以上好きにはさせない。ヴァルトを、私の魔力で封じます』
「封じる、だと?」
『これから森は戦場になります。今以上に呪縛が暴走するはず……。ヴァルトを仮死状態にすれば、呪縛も一時的に眠りにつくはずです』
封じるというのは、ただ凍らせることではない。
聖霊の持つ魔力を凝結させ、水晶の中に閉じこめるのだ。
それは、例え封じた聖霊が死のうが、同属性を持つ聖霊以外に解かれることはあり得ない。
『アレノスを倒すには、一人でも多くの力を必要とします』
タカトを抱えていては、あの化け物とまともに戦うことは不可能だろう。
一刻も早く、二人を戦えるようにしなければ。
スニィが心で呟いた時、空からしゃがれた声が降ってきた。
「イヒヒッ! ヴァルトも聖霊もイル! イヒッ、最高ッ!」
戦慄するマツザワの左手が、水華を強く握り締める。
「何だ貴様は!?」
宙で赤い翼を羽ばたかせる少年は、とても人の形を成しているとは言えない。
氷の矢を少年に放ち、スニィが叫んだ。
『あれが、アレノスです……!』
◇ ◇ ◇
失念していた。
〝あの場〟にもう一人仲間がいたことを。
「ちっ、だから大人しく隠れ家にいろっつったんだ!」
森を疾走するリードは、苛立たしげに舌打ちをする。
人質にされていようものなら、奇襲を仕掛けることも叶わない。
「ざ~んねんでした。一足遅かったね、リード」
耳障りな声に振り返ると、満身創痍のチャイを毬のように弄んでいる女がいた。
「こいつったらさぁー。大人しく聞いたこと洗いざらい話せば、痛いことしないっていったのに、ばっかだよねー」
くすくすと笑いながら、女はリードにチャイを放り投げる。
「でも、リードが来たからもうこいつはいーらないっ。ま、息があるかはわからないけどねぇ」
「てめぇ……っ!」
投げ出されたチャイを抱き止め、リードは女を睨み上げた。
チャイの耳は不自然に折れ曲がり、茶色い毛は鮮やかな赤に染まっている。
腫れ上がった顔など、とても直視できなかった。
「チャイがてめぇに何をしたって言うんだ!?」
何もしていない。
この純粋な小動物が、誰かを傷つけるはずがない。
「だってぇ~。裏切り者の情報吐かないんだもん、そのチビっこ」
裏切ったのは他でもない自分で。
チャイはただ、其処に居合わせただけなのに。
「り……りーど……?」
震える声が名を呼ぶ。
「チャイ!? しっかりしろ!」
「りー……ど、にげる……っ! らきぃも、みんなにげ……」
懸命に逃げてと懇願した声は、最後まで言葉を紡げなかった。
何故なら。
「あぁ~あ。そのまま意識なくしちゃっていれば楽だったのにぃ~」
女 アレノスの長い爪が、その小さな身体を貫いていたから。
「その根性に免じて、お友達と一緒に逝かせてあげるよ。アタシってやーさし~いっ!」
抱えていたリード諸共突き刺されたチャイは、揺れていた紫の瞳をゆっくりと閉じた。
リードの胸に、深紅の飛沫が舞う。
「ちゃ……い……っ!」
「裏切り者はすぐ処分するようにってパパが言ってたから」
にやりと口端を吊り上げたアレノスが、二人の血で濁った爪を再び振り上げた。
己の血で紅く染まりゆくチャイを呆然と見つめたまま、リードは両膝をつく。
「チャイが……何をしたって……!? 何で、チャイが……!!」
「これで、後は侵入者だけっ!」
森に、高い音が響いた。
突如告げられた彼らは、その意図を読み取るのに些か時間がかかった。
「わかりやすく言い直してやろう。日没までに現行の森の
砕かれた台詞に、マツザワが目を剥く。
「日没って……もう昼時を過ぎたぞ!?」
彼女の言う通り、陽は既に西に傾いている。
斜陽を一瞥したアズウェルは、リードを見据えて念を押した。
「それしか、タカトを助ける方法はねぇんだな?」
「そうだ。森の呪縛は、ヴァルト族長の直系にのみ押される烙印。それがある限り、木々が受けた痛みや哀しみが、全てそいつに降りかかる。……烙印を無効化できるのは、木の聖霊だけだ」
きっぱりと言い切ったリードに鋭利な眼差しを向け、ディオウが訊く。
「お前の言い方だと、現行の主は聖霊ではないな?」
「そうだな。今、この森を牛耳ってるのはアレノスだ。聖霊である俺の親父は、そいつに封じられている」
『アレノス……!』
小さく悲鳴を上げたスニィを見て、アズウェルは首を傾げた。
「アレノスって誰……?」
『セイランが、スワロウ族に討伐依頼した化け物……です』
一瞬、水を打ったような静けさが場を呑み込む。
やや置いて、マツザワが瞠目したまま口を開いた。
「それは……いつ、依頼されたものだ……?」
『昨日です。昨日、ホルマウンテンでも、禁断……アレノスと読むのですが、その確認がされました』
昨日スワロウ族に依頼された禁断討伐。
それはアズウェルたちが引き受けた零番任務ではないのか。
「セイランさんが? マスターの名前は確か、シェイ・ラーファンって……」
目をぱちくりさせるアズウェルの言葉を聞き、スニィは口元を両手で覆った。
『そんな……あんな化け物討伐をアズウェルが受けていたなんて……!』
「おい、金髪。シェイ・ラーファンって言ったな? それはホルマウンテンに住んでる水系エルフのことじゃねぇか」
不快そうに眉根を寄せたリードが、スニィのことを上から下まで眺める。
「……お前、水の聖霊だな。何でここにいるんだ」
「スニィはおれが呼んだラートについてきたんだよ」
アズウェルに名を呼ばれ、ひょこりと雪うさぎがリードの前に躍り出た。
「水系の精霊……金髪、お前は魔術師か?」
問うてから、若草色の瞳に疑念が宿る。
精霊と聖霊を呼び出したと言っている青年は、全くと言っていいほど魔力を持ち合わせていない。
精霊には二種類いる。術が済んでも召喚者から許可を得るまで傍にいる者と、最低限しかこなさずに消えてしまう者。
前者は、神の末席に座する聖霊に忠誠を誓い、主人の目となり、手となり、足となる、自然の魂。聖霊に創られた精霊だ。其処らにいる歳月を経て自然と形になった後者の精霊とは勝手が違う。
スニィが共に来たというラートは、明らかに前者だ。
もしその精霊を呼び出せるほどの魔術師ならば、どんなに自己で抑制していても、多少なりとも魔力の片鱗が見えるはず。
それがアズウェルには見えない。
「いや、おれは」
「愚問だったな……くそ、金髪にゴールドアイならアレノスと渡り合えるのに」
答えようとしたアズウェルを遮るように吐き捨てて、ぎりっと奥歯を噛む。
とにかく急がなければ、タカトだけでなく、封印されているラスたちの命も危ないのだ。
彼らは協力者として妥当か否か。
腕を組み、アズウェルたちを見つめる。
しかし、直後にリードの思考は断たれた。
「追ってきたと思ったんだけど……チャイどうしたのかしら……?」
ラキィが呟いた一言によって。
◇ ◇ ◇
どうして二人はあんなに足が速いのだろうか。
己の出せる限界の速さで、チャイは走っていた。
あんなのに盾突くなど、命がいくつあっても足りやしない。
とにかく二人を止めなければ。
視界が急に明るくなる。
それは鬱蒼と茂った樹海から、美しい氷に包まれた銀世界へと景色が変わったからだ。
「ひぁ、寒いっ! 何で凍ってるんだよっ! んもー、ラキィどこぉーっ!」
半ば投げやりに叫んだ時。
「ん~? 君って確かリードの連れのチビっこだよなぁ?」
最も聞きたくない声が全身を貫いた。
震えながら声の主を確認し、小声で訂正するのだった。
「ごめん、リード、ラキィ。おいらの方がまずいみたい……」
◇ ◇ ◇
「おい、ラキィ! どこ行くんだよ!」
「アズウェル、ちょっと放してよ! リードを追わなきゃ!」
アズウェルに掴まれたラキィは、必死に耳で抵抗する。
珍しく焦るラキィを見て、ディオウが低く唸った。
「何言ってる。アレノスを探さないとタカトが手遅れになるぞ」
「だったら尚更リードを追わなきゃ! アレノスの居所はリードが知ってるのよ!?」
「わかったって。でも、ちょっと落ち着いてよ、ラキィ」
流石に不審に思ったアズウェルも、ラキィを宥める。
だが、今のラキィには飼い主の声すら届かない。
「落ち着いている暇なんてないわ! 放して、チャイがっ……!」
「チャイって……」
「あたしの、幼馴染みよ!」
くるりと振り返ったラキィの両眼には、今にも零れ落ちそうなほどの涙が浮かべられている。
滅多に見せないその涙が、アズウェルを絶句させた。
「アズウェル、ラキィと共に行ってくれ」
そう促したのはマツザワだった。
「マツザワ……」
「ラキィの幼馴染みを早く……! タカト殿は私とディオウ殿に任せてくれ!」
自分の名まで上げられたディオウは反論しようと口を開くが、マツザワの真摯な眼差しを受け、言葉を飲み込む。
恐らく、彼女はラキィに己を重ねているのだ。
「行け、アズウェル。だが、決して無茶はするなよ」
アズウェルに背を向け、ディオウは長い尾を一振りする。
「アズウェル、ねぇお願い! 早く!」
「わかった……ディオウ、マツザワ、タカトをよろしく!」
「ああ、アズウェルも気をつけて」
マツザワの言葉にこくりと頷いたアズウェルは、ラキィを抱えて駆け出した。
白いうさぎがその後を追っていく。
アズウェルとラートを見送って、スニィはディオウたちを顧みた。
『アレノスの狙いは、聖霊やヴァルトのように力を持った者です。今母も狙われています……』
「お前はどうするんだ」
『ここは私たちの領域ではありません。だから、ここを統治しているのが誰であれ、独自の結界を成せます』
もしスニィが木の聖霊だったら、本来の主が封じられている今、力を発揮することはできない。
だが、彼女の領域はホルマウンテン。此処の事情など、関係なかった。
マツザワに抱かれているタカトを見つめて、凛と言い放つ。
『アレノスにこれ以上好きにはさせない。ヴァルトを、私の魔力で封じます』
「封じる、だと?」
『これから森は戦場になります。今以上に呪縛が暴走するはず……。ヴァルトを仮死状態にすれば、呪縛も一時的に眠りにつくはずです』
封じるというのは、ただ凍らせることではない。
聖霊の持つ魔力を凝結させ、水晶の中に閉じこめるのだ。
それは、例え封じた聖霊が死のうが、同属性を持つ聖霊以外に解かれることはあり得ない。
『アレノスを倒すには、一人でも多くの力を必要とします』
タカトを抱えていては、あの化け物とまともに戦うことは不可能だろう。
一刻も早く、二人を戦えるようにしなければ。
スニィが心で呟いた時、空からしゃがれた声が降ってきた。
「イヒヒッ! ヴァルトも聖霊もイル! イヒッ、最高ッ!」
戦慄するマツザワの左手が、水華を強く握り締める。
「何だ貴様は!?」
宙で赤い翼を羽ばたかせる少年は、とても人の形を成しているとは言えない。
氷の矢を少年に放ち、スニィが叫んだ。
『あれが、アレノスです……!』
◇ ◇ ◇
失念していた。
〝あの場〟にもう一人仲間がいたことを。
「ちっ、だから大人しく隠れ家にいろっつったんだ!」
森を疾走するリードは、苛立たしげに舌打ちをする。
人質にされていようものなら、奇襲を仕掛けることも叶わない。
「ざ~んねんでした。一足遅かったね、リード」
耳障りな声に振り返ると、満身創痍のチャイを毬のように弄んでいる女がいた。
「こいつったらさぁー。大人しく聞いたこと洗いざらい話せば、痛いことしないっていったのに、ばっかだよねー」
くすくすと笑いながら、女はリードにチャイを放り投げる。
「でも、リードが来たからもうこいつはいーらないっ。ま、息があるかはわからないけどねぇ」
「てめぇ……っ!」
投げ出されたチャイを抱き止め、リードは女を睨み上げた。
チャイの耳は不自然に折れ曲がり、茶色い毛は鮮やかな赤に染まっている。
腫れ上がった顔など、とても直視できなかった。
「チャイがてめぇに何をしたって言うんだ!?」
何もしていない。
この純粋な小動物が、誰かを傷つけるはずがない。
「だってぇ~。裏切り者の情報吐かないんだもん、そのチビっこ」
裏切ったのは他でもない自分で。
チャイはただ、其処に居合わせただけなのに。
「り……りーど……?」
震える声が名を呼ぶ。
「チャイ!? しっかりしろ!」
「りー……ど、にげる……っ! らきぃも、みんなにげ……」
懸命に逃げてと懇願した声は、最後まで言葉を紡げなかった。
何故なら。
「あぁ~あ。そのまま意識なくしちゃっていれば楽だったのにぃ~」
女
「その根性に免じて、お友達と一緒に逝かせてあげるよ。アタシってやーさし~いっ!」
抱えていたリード諸共突き刺されたチャイは、揺れていた紫の瞳をゆっくりと閉じた。
リードの胸に、深紅の飛沫が舞う。
「ちゃ……い……っ!」
「裏切り者はすぐ処分するようにってパパが言ってたから」
にやりと口端を吊り上げたアレノスが、二人の血で濁った爪を再び振り上げた。
己の血で紅く染まりゆくチャイを呆然と見つめたまま、リードは両膝をつく。
「チャイが……何をしたって……!? 何で、チャイが……!!」
「これで、後は侵入者だけっ!」
森に、高い音が響いた。
第40記 微笑みは思い出に
青々とした葉の髪飾りで、柳色の毛を結い上げる。
「下の毛は少し残して~……はい、でっきあがり~! これでリードもボクとお揃いの髪型だよっ!」
にっこりと微笑みを浮かべた小さな妖精は、エルフの青年を覗き込んだ。
淡い緑のトゥルーメンズも、彼の顔を見つめる。
「あら、可愛いじゃない」
「ホントだ、リード女の子みた……ふげぇっ!」
中世的な顔つきのエルフは、何もしなくても性別の区別が難しい。髪を結っていれば尚更、彼の性別は曖昧なものになる。
自然と溢れた感想に、エルフの青年、リードは不機嫌そうに顔を顰[ めた。
「チャイ、もう一回言ってみろ」
「ぐぇ……踏まれてちゃ、おいら何も言えないよー」
リードに足蹴にされたクルースは、ハート型の尾を揺らし、しょんぼりと呟く。
「髪を結ったのはピュアだし、ラキィだって可愛いって言ったのに、何でおいらだけ……」
「何か文句でもあるのか、チャイ?」
反論を許さないという気迫を醸し出し、リードはクルースの子供、チャイを睨みつけた。
額に青筋を浮かべているリードに、チャイはごくりと息を飲み込む。
「な、何でもないよー……」
リードの足に踏まれたまま、「怖いなぁ」と小さく溜息を一つ落とした時。
「お、楽しそうじゃん。俺も混ぜて、混ぜてーっ!」
陽気な声を上げ駆けてきたのは、この森の主人であるラスだった。
父親の登場に、一瞬リードの力が弱まる。
チャイはチャンスとばかりに、その束縛から逃げ出すと、ラスの肩に飛び乗った。
「ラスーっ!」
「おうおう、チャイ、どーした?」
小麦色の肌に、若葉色の髪。
木の聖霊であるラスは、動物たちにとって癒しの象徴。動物たちは、彼に触れると心が温かくなるのだ。
「やっぱり、おいらラスの髪が好きだ」
よいしょ、とラスの頭によじ登る。
半眼で見据えてくるリードに、チャイは頬を膨らませた。
「だって、リードはおいらだけ頭に乗せてくんないんだもん。ピュアやラキィが乗っても怒らないのにさっ」
「ん、そーなのかー、リード?」
目を瞬かせ、ラスが首を傾げる。
相変わらずゆるい父親を睨みながら、リードは低い声で呟いた。
「チャイは重いんだよ……」
その発言を聞き、チャイが奇声を発する。
「ひぅげぇ!? おいら、太ったぁ!?」
あまりのショックに、これでもかというほど瞳を見開くと、ふらりとラスの頭から転げ落ちた。
「おっと。いや、そうでもねぇと思うけどー?」
ラスの両手に受け止められたチャイは、耳を垂れたまま俯く。
「おいら……おいら、フルーツ食べるの、我慢する」
すっかり本気にしているチャイを見て、リードが嘆息した。
「馬鹿……冗談だ」
「リードもチャイをからかうの、ほどほどにしたら?」
「チャイは素直だから、みーんな信じちゃうよっ」
右肩に乗っているラキィに、左肩に座っているピュアに言われ、リードは眉根を寄せて唸る。
チャイは紫の瞳いっぱいに涙を浮かべて、彼を見つめている。
ちょっと言い過ぎたのかもしれない。
仕方なく謝ろうとした時、間の抜けた笑い声が響いた。
「あはは。あーぁ、なんだ。リード、チャイをからかってたのかー。ほら、チャイ泣くなって。まったく、チャイは純粋だよなぁ~。そりゃ、からかいたくもなるってか、リード?」
「……馬鹿親父」
謝罪の機会を父親に奪われたリードは、木に登り、リンゴを一つもぎ取る。
それをチャイに放り投げ、ぶっきらぼうに言った。
「ったく、真に受けてるんじゃねぇよ」
「り、リード……これ食べていいの?」
恐る恐る尋ねてくるチャイに、リードは頬を緩ませる。
「それくらい食っても、太らねぇよ」
木漏れ日が、大樹の森を温かく照らしていた。
◇ ◇ ◇
高い音が、響いた。その音が、駆け抜けた思い出にしがみついていたリードを、現実へと引き戻す。
音源は、目の前。
のろのろと首を上げると、黒いシャツを着た青年が、化け物の爪を受け止めていた。
金髪を靡[ かせ、彼は問う。
「リード、こいつがアレノス?」
「お前は……」
平穏が消えた森に、旧友を連れてやって来た侵入者。
冷たくなったチャイは美しき氷に包まれて、穏やかな表情をしていた。
リードの傍らでチャイを覗き込んでいるのは、侵入者が召喚した水の精霊。
「凍らせておけば、まだ助かる見込みはあるはずよっ……!」
震えながら、氷の中で眠るチャイを撫でているのは、かつて時を共にした旧[ き友。
いや、きっと今も。
「ラキィ……」
「ごめんなさいっ、あたしがちゃんと連れて来てれば……! そしたら、チャイはこんなことにはっ……!」
通わした心は変わらない。
紅い瞳から輝く雫を溢すラキィを見つめ、リードは首を横に振った。
「お前のせいじゃない。俺の」
「違う」
俺のせいだから。
そう言おうとしたリードの声を、青年が遮る。
「悪いのは、こいつだ! リード、こいつがアレノスなんだろ!?」
先ほどより強い声音で、同じ問いを投げかけた。
「そうだ。……それが、アレノスだ」
傷ついたリードとチャイを背に、己のことのように彼は激昂する。
「許さねぇ。ラキィを泣かせて、リードたちを傷つけて……!」
「なぁんだ、アタシの突きを止めたから、どぉんなヤツかと思えば。リードに苦戦してた侵入者じゃん?」
さして興味もなさそうに目を眇めたアレノスは、突き出していた右手を引き、左の爪を振り下ろす。
再び高い音が、森に響き渡った。
白刃と交わった爪は、濁った赤。血を吸った色だ。
「せっかく裏切り者の処分してたのに、邪魔しないでよねっ!」
「リード、ラキィとチャイを連れて下がって!」
小刀で受け止めていた左の爪を流し、アズウェルは前方に駆け抜ける。
右の爪が、直前までアズウェルがいた場所を抉った。
「ちっ、すばしっこいじゃん、アンタ!」
素早くアレノスの背後を取ったアズウェルは、横一線に小刀を振り払う。
だが、斬り裂いた其処に、アレノスの姿はない。
アズウェルを嘲笑する不気味な声が、上空から降ってきた。
「あははははっ! 無理無理っ! アンタにはアタシを斬りつけることなんてできないってーのっ!」
「無理かどうかなんて、やってみなけりゃわからねぇだろっ!」
アズウェルの双眸が、澄んだ蒼から輝く金へ変貌を遂げる。
「ラート!」
名という呪文が与えられた精霊は、アレノスを目指し飛翔した。
「はん、精霊なんてアタシの敵じゃないね。叩き落としてあげるよっ!」
腕の下に生える赤き翼を羽ばたかせ、アレノスは長い左右の爪でラートを追う。
大振りな斬撃の合間を縫い、ラートが空を舞った。
精霊の軌跡は白きベールとなり、アレノスに降り注ぐ。
「何だよ、これっ!」
両爪を振り回し、ベールを払おうとするが、叶わない。
「落ちてこい」
冷たい声音が耳朶に突き刺さると同時に、アレノスの片翼に衝撃が走った。
背筋に悪寒が駆け上がる。
「ちょ、やだ、落ちるっ……!」
ラートのベールに捕らわれた片翼は氷に呑まれ、全身がぐらりと傾[ いだ。
バランスを崩し落下してきたアレノスに、アズウェルは容赦なく小刀を振り下ろす。
「おれが、おまえを斬れないだって……?」
刃は凍り付いた片翼を砕き、輝く氷の粒が宙を舞った。
「アタシの、アタシの翼がっ……!」
「やってみなけりゃわからねぇっつただろ?」
抑揚の乏しい声で、アズウェルは呟いた。
背後に立つ侵入者を肩越しに見据え、アレノスが口端を吊り上げる。
「アンタ、なかなかやるじゃん。こりゃ、本気を出しても良さそうだねぇ?」
「まずい! 金髪、そいつから離れろ!」
リードが叫ぶ。
その声が届くか否かという時、禍々しい魔力が風を伴い、爆発した。
アレノスの魔力に吹き飛ばされたアズウェルは、静かに佇む大樹に背を強打する。
「っ……!」
「アズウェル!」
飼い主の元へ向かおうとするラキィを、リードが抑える。
「だめだ。行けば足手まといになるぞ!」
「でも、アズウェルがっ!」
「あぁ~、ごめ~ん。アタシの魔力に当てられちゃったぁ?」
小刀を支えに立ち上がったアズウェルの頭を、アレノスは上から蹴りつけた。
ただの蹴りではない。アレノスを支えるその一本足には、カギ針のような爪が五本付いていた。
「ぐ……っ……!」
アズウェルの頬を、紅い雫が流れ落ちる。
「アタシのお気に入りの翼。壊してくれたお礼はでかいよ?」
目が霞んで、敵が見えない。
揺らぐ焦点を気力で合わせた時、声も出ない痛みが全身を駆け抜けた。
ぽたりと、鮮血が大地に染みていく。
「何だ、もう終わりぃ~?」
両肩を赤き爪に貫かれたアズウェルは、朱色の息を吐き、がくりと頭[ を垂れる。
「ねぇー、死んじゃったのー? もっと遊べると思ったのにぃ」
残酷な笑みを浮かべて、アレノスはアズウェルの頬を舐めた。
「やっぱ、血の味って最高だねぇ」
ぴくりとも動かないアズウェルを見て、ラキィが叫ぶ。
「アズウェル、アズウェル!」
「ラキィ、だめだ! 行ったら殺されるぞ!」
どれだけ名を呼ぼうとも、アズウェルが顔を上げることはなかった。
「やだ、アズウェル、返事して !!」
叫びは、哀しく森に木霊した。
「下の毛は少し残して~……はい、でっきあがり~! これでリードもボクとお揃いの髪型だよっ!」
にっこりと微笑みを浮かべた小さな妖精は、エルフの青年を覗き込んだ。
淡い緑のトゥルーメンズも、彼の顔を見つめる。
「あら、可愛いじゃない」
「ホントだ、リード女の子みた……ふげぇっ!」
中世的な顔つきのエルフは、何もしなくても性別の区別が難しい。髪を結っていれば尚更、彼の性別は曖昧なものになる。
自然と溢れた感想に、エルフの青年、リードは不機嫌そうに顔を
「チャイ、もう一回言ってみろ」
「ぐぇ……踏まれてちゃ、おいら何も言えないよー」
リードに足蹴にされたクルースは、ハート型の尾を揺らし、しょんぼりと呟く。
「髪を結ったのはピュアだし、ラキィだって可愛いって言ったのに、何でおいらだけ……」
「何か文句でもあるのか、チャイ?」
反論を許さないという気迫を醸し出し、リードはクルースの子供、チャイを睨みつけた。
額に青筋を浮かべているリードに、チャイはごくりと息を飲み込む。
「な、何でもないよー……」
リードの足に踏まれたまま、「怖いなぁ」と小さく溜息を一つ落とした時。
「お、楽しそうじゃん。俺も混ぜて、混ぜてーっ!」
陽気な声を上げ駆けてきたのは、この森の主人であるラスだった。
父親の登場に、一瞬リードの力が弱まる。
チャイはチャンスとばかりに、その束縛から逃げ出すと、ラスの肩に飛び乗った。
「ラスーっ!」
「おうおう、チャイ、どーした?」
小麦色の肌に、若葉色の髪。
木の聖霊であるラスは、動物たちにとって癒しの象徴。動物たちは、彼に触れると心が温かくなるのだ。
「やっぱり、おいらラスの髪が好きだ」
よいしょ、とラスの頭によじ登る。
半眼で見据えてくるリードに、チャイは頬を膨らませた。
「だって、リードはおいらだけ頭に乗せてくんないんだもん。ピュアやラキィが乗っても怒らないのにさっ」
「ん、そーなのかー、リード?」
目を瞬かせ、ラスが首を傾げる。
相変わらずゆるい父親を睨みながら、リードは低い声で呟いた。
「チャイは重いんだよ……」
その発言を聞き、チャイが奇声を発する。
「ひぅげぇ!? おいら、太ったぁ!?」
あまりのショックに、これでもかというほど瞳を見開くと、ふらりとラスの頭から転げ落ちた。
「おっと。いや、そうでもねぇと思うけどー?」
ラスの両手に受け止められたチャイは、耳を垂れたまま俯く。
「おいら……おいら、フルーツ食べるの、我慢する」
すっかり本気にしているチャイを見て、リードが嘆息した。
「馬鹿……冗談だ」
「リードもチャイをからかうの、ほどほどにしたら?」
「チャイは素直だから、みーんな信じちゃうよっ」
右肩に乗っているラキィに、左肩に座っているピュアに言われ、リードは眉根を寄せて唸る。
チャイは紫の瞳いっぱいに涙を浮かべて、彼を見つめている。
ちょっと言い過ぎたのかもしれない。
仕方なく謝ろうとした時、間の抜けた笑い声が響いた。
「あはは。あーぁ、なんだ。リード、チャイをからかってたのかー。ほら、チャイ泣くなって。まったく、チャイは純粋だよなぁ~。そりゃ、からかいたくもなるってか、リード?」
「……馬鹿親父」
謝罪の機会を父親に奪われたリードは、木に登り、リンゴを一つもぎ取る。
それをチャイに放り投げ、ぶっきらぼうに言った。
「ったく、真に受けてるんじゃねぇよ」
「り、リード……これ食べていいの?」
恐る恐る尋ねてくるチャイに、リードは頬を緩ませる。
「それくらい食っても、太らねぇよ」
木漏れ日が、大樹の森を温かく照らしていた。
◇ ◇ ◇
高い音が、響いた。その音が、駆け抜けた思い出にしがみついていたリードを、現実へと引き戻す。
音源は、目の前。
のろのろと首を上げると、黒いシャツを着た青年が、化け物の爪を受け止めていた。
金髪を
「リード、こいつがアレノス?」
「お前は……」
平穏が消えた森に、旧友を連れてやって来た侵入者。
冷たくなったチャイは美しき氷に包まれて、穏やかな表情をしていた。
リードの傍らでチャイを覗き込んでいるのは、侵入者が召喚した水の精霊。
「凍らせておけば、まだ助かる見込みはあるはずよっ……!」
震えながら、氷の中で眠るチャイを撫でているのは、かつて時を共にした
いや、きっと今も。
「ラキィ……」
「ごめんなさいっ、あたしがちゃんと連れて来てれば……! そしたら、チャイはこんなことにはっ……!」
通わした心は変わらない。
紅い瞳から輝く雫を溢すラキィを見つめ、リードは首を横に振った。
「お前のせいじゃない。俺の」
「違う」
そう言おうとしたリードの声を、青年が遮る。
「悪いのは、こいつだ! リード、こいつがアレノスなんだろ!?」
先ほどより強い声音で、同じ問いを投げかけた。
「そうだ。……それが、アレノスだ」
傷ついたリードとチャイを背に、己のことのように彼は激昂する。
「許さねぇ。ラキィを泣かせて、リードたちを傷つけて……!」
「なぁんだ、アタシの突きを止めたから、どぉんなヤツかと思えば。リードに苦戦してた侵入者じゃん?」
さして興味もなさそうに目を眇めたアレノスは、突き出していた右手を引き、左の爪を振り下ろす。
再び高い音が、森に響き渡った。
白刃と交わった爪は、濁った赤。血を吸った色だ。
「せっかく裏切り者の処分してたのに、邪魔しないでよねっ!」
「リード、ラキィとチャイを連れて下がって!」
小刀で受け止めていた左の爪を流し、アズウェルは前方に駆け抜ける。
右の爪が、直前までアズウェルがいた場所を抉った。
「ちっ、すばしっこいじゃん、アンタ!」
素早くアレノスの背後を取ったアズウェルは、横一線に小刀を振り払う。
だが、斬り裂いた其処に、アレノスの姿はない。
アズウェルを嘲笑する不気味な声が、上空から降ってきた。
「あははははっ! 無理無理っ! アンタにはアタシを斬りつけることなんてできないってーのっ!」
「無理かどうかなんて、やってみなけりゃわからねぇだろっ!」
アズウェルの双眸が、澄んだ蒼から輝く金へ変貌を遂げる。
「ラート!」
名という呪文が与えられた精霊は、アレノスを目指し飛翔した。
「はん、精霊なんてアタシの敵じゃないね。叩き落としてあげるよっ!」
腕の下に生える赤き翼を羽ばたかせ、アレノスは長い左右の爪でラートを追う。
大振りな斬撃の合間を縫い、ラートが空を舞った。
精霊の軌跡は白きベールとなり、アレノスに降り注ぐ。
「何だよ、これっ!」
両爪を振り回し、ベールを払おうとするが、叶わない。
「落ちてこい」
冷たい声音が耳朶に突き刺さると同時に、アレノスの片翼に衝撃が走った。
背筋に悪寒が駆け上がる。
「ちょ、やだ、落ちるっ……!」
ラートのベールに捕らわれた片翼は氷に呑まれ、全身がぐらりと
バランスを崩し落下してきたアレノスに、アズウェルは容赦なく小刀を振り下ろす。
「おれが、おまえを斬れないだって……?」
刃は凍り付いた片翼を砕き、輝く氷の粒が宙を舞った。
「アタシの、アタシの翼がっ……!」
「やってみなけりゃわからねぇっつただろ?」
抑揚の乏しい声で、アズウェルは呟いた。
背後に立つ侵入者を肩越しに見据え、アレノスが口端を吊り上げる。
「アンタ、なかなかやるじゃん。こりゃ、本気を出しても良さそうだねぇ?」
「まずい! 金髪、そいつから離れろ!」
リードが叫ぶ。
その声が届くか否かという時、禍々しい魔力が風を伴い、爆発した。
アレノスの魔力に吹き飛ばされたアズウェルは、静かに佇む大樹に背を強打する。
「っ……!」
「アズウェル!」
飼い主の元へ向かおうとするラキィを、リードが抑える。
「だめだ。行けば足手まといになるぞ!」
「でも、アズウェルがっ!」
「あぁ~、ごめ~ん。アタシの魔力に当てられちゃったぁ?」
小刀を支えに立ち上がったアズウェルの頭を、アレノスは上から蹴りつけた。
ただの蹴りではない。アレノスを支えるその一本足には、カギ針のような爪が五本付いていた。
「ぐ……っ……!」
アズウェルの頬を、紅い雫が流れ落ちる。
「アタシのお気に入りの翼。壊してくれたお礼はでかいよ?」
目が霞んで、敵が見えない。
揺らぐ焦点を気力で合わせた時、声も出ない痛みが全身を駆け抜けた。
ぽたりと、鮮血が大地に染みていく。
「何だ、もう終わりぃ~?」
両肩を赤き爪に貫かれたアズウェルは、朱色の息を吐き、がくりと
「ねぇー、死んじゃったのー? もっと遊べると思ったのにぃ」
残酷な笑みを浮かべて、アレノスはアズウェルの頬を舐めた。
「やっぱ、血の味って最高だねぇ」
ぴくりとも動かないアズウェルを見て、ラキィが叫ぶ。
「アズウェル、アズウェル!」
「ラキィ、だめだ! 行ったら殺されるぞ!」
どれだけ名を呼ぼうとも、アズウェルが顔を上げることはなかった。
「やだ、アズウェル、返事して
叫びは、哀しく森に木霊した。
第41記 守るために
一つ深呼吸をして、黒装束を身に纏った男は眼前に佇む襖[ を開ける。
畳の間に悠然と腰を下ろしているのは、一族の長。
「よく、来てくれた」
威厳のこもった声音に、思わず背筋が伸びる。
跪座[ をすると、男は両の拳を畳につけた。
「お久しぶりッス、族長」
腰から身体を折り、深々と頭を下げる。
頭に巻かれた太く黒い鉢巻きが、畳にひれ伏した。
◇ ◇ ◇
轟音が大地を揺るがす。
輝く氷の破片が、大気を漂っていた。
「聖霊って、イヒッ! なかなかしぶとい、ヒヒヒッ!」
「スニィ、しっかりしろ!」
アレノスが生み出した風に、氷の盾ごと吹き飛ばされたスニィを、ディオウが呼ぶ。
『わ……私は、平気です。ヴァルトさんは……?』
「スニィ殿のお陰で、私もタカト殿も無事だ」
タカトを抱きかかえたまま答え、マツザワは上空で赤い両翼を羽ばたかせている敵を見据えた。
長い爪は赤黒く、一本のみの足には鋭利な爪が五つ付いている。
彼女の記憶が正しければ、アレノスの正体は。
「ハーピーか……」
人面を持つという怪鳥。
だがハーピーならば、人を襲うことはしない。
マツザワの呟きを聞き取ったスニィが、首を横に振る。
『違います。ハーピーを土台にしているとは思いますが、あれはハーピーじゃない……!』
「土台だと? どういう意味だ」
上空を旋回するアレノスを警戒しながら、ディオウが問う。
『ホルマウンテンに出現したアレノスは、ホルベアが土台です。アレノスは、自然の生命ではないのです……!』
「聖霊、ボクラのコト、知りすぎだね。消去、消去、ヒヒヒッ!」
不愉快な笑い声が耳に届くと同時に、スニィの頬を冷たい風が撫でた。
「スニィ、避けろ!」
アレノスの異変に気づいたディオウが怒鳴るが、時既に遅し。
爆風を伴い、風の爪が大地を抉った。
マツザワの頬に生暖かい雫がかかる。驚いて頬をそっと触れた指先が、鮮やかな朱に染まった。
「スニィ殿!?」
振り返った先には、宙を舞うスニィの体躯。
にやりと嗤[ ったアレノスは、容赦なく次の攻撃を叩き込む。
「聖霊、消去! イヒヒ、ウィンド・クロウ!」
エメラルドグリーンの印と共に、鋭利な風刃が聖霊を切り裂こうと牙を剥く。
「くそ、あの化け物魔法詠唱ができるのか!」
舌打ちしたディオウが飛翔するが、聖獣といえども風に勝ることはできない。
無防備なスニィを、風刃が捉えんとした時。
キキキキィーン!
鳴り響いたのは、高い金属音。
風が止み、徐々に視界が晴れていく。
「これ以上、貴様の好きにはさせん!」
スニィとタカトを背にし、マツザワは水華の鋒[ を敵に定める。
「ディオウ殿、二人を安全圏へ!」
「お前一人では苦戦するぞ!」
聖霊であるスニィすら、赤子同然に蹴散らしたのだ。近接を得意とする刀技のみで、太刀打ちできるとは思えない。
「このまま二人を守りながらの戦闘は危険です。ディオウ殿、二人を頼みます」
彼女の言う通り、この状況が続けば、全滅もあり得る。
今は、動けない二人を逃がすことが先決だ。
「無理は、するな」
眉間に皺[ を刻み、ディオウは低く唸った。
二人をディオウの背に乗せながら、マツザワが頷く。
「敵が一体とは限らない。ディオウ殿もお気をつけて」
「ああ」
ぴしりと尾を一振りすると、ディオウは大地を蹴った。
白目まで深紅に染まった眼[ が、獲物を見定めるようにぎょろぎょろと蠢[ く。
「イヒヒッ、逃がすと思ってるの?」
飛び立ったディオウを追おうとしたアレノスに、細かい斬撃が突き刺さった。
突如両翼を駆け抜けた痛みに、瞳を見開く。
「ヒヒ!?」
「……雹[ の舞。貴様の相手は、私だ」
正眼に据えられた水華は、陽の光を受け白い煌めきを放っていた。
◇ ◇ ◇
「調べごとッスか……」
族長の家を後にしたカツナリは、一人心地で呟いた。
本家に召還されるのは久方振りだ。
いつもの如く、相方を連れてワツキに訪れたわけだが。
「せんぱーい、遊んでないで行くッスよー」
青年と蹴鞠[ で遊んでいた少女に呼びかけると、返事の代わりに痛みが返ってきた。
「いっ!? だから先輩、俺の頭は蹴鞠じゃねーッス!」
「はげぴょん、こーちゃんからちゃんと聞いてきたの?」
「禿じゃねぇッス、坊主ッス!!」
蹴られた頭をさすりながら、カツナリは反論する。
しかし、彼女はそんな叫びを黙殺し、蹴鞠相手をしてくれていた青年、アキラに微笑みかけた。
「まちちゃんなら大丈夫、なの。あきちゃんは休むのが大事、なの!」
「せやけど、村全体で何や動いとりまっせ? そないにでかい任務なんやろか……」
誰に聞こうとも、返ってくる答えは休めの二文字。
己だけ取り残されているような気がして、アキラは落ち着かなかった。
彼にとって、起きていられる時間は日中の三時間足らず。だが、その僅かな時間でさえ、村の緊迫感を感じ取るには充分過ぎる長さだった。
「やぁな予感がするんや……ミズナはホンマに三番任務なんやろか……」
「あきちゃん」
直感的に危機を感じているアキラに、一族ぐるみで零番任務を隠していることがばれるのは、もはや時間の問題だ。
もし零番任務と知れば、無理にでも彼女らの後を追うだろう。
「あのね、信じてあげるのも大切なの。あきちゃんはまちちゃんのこと信じてないの?」
「そないなわけあらへん。ミズナの強さは、わい自身よう知っとります」
「だったら」
「せやけど」
ヤヨイの台詞を遮って、アキラは足元に視線を落とす。
「わいは、わいだけ何もできへん。何度呼びかけても、ゲンチョウの声も聞こえへんのや。ホンマに寝てばっかでええんやろか」
好きで寝ているわけではない。
目覚めた時に、己の無力さを嫌でも味わうのだ。
もっと己が強かったなら、こんな歯がゆい思いはしなかったのに。
「アキラ、ゲンチョウから声が聞こえねぇってことは、休めってことッスよ」
「それは……」
「昔リュウジもクエンの声が聞こえなくなった時があったんス。任務先で大怪我して、入院してろって医者に言われてるのに、なーんども病院抜け出してたんスよ。したらクエンの声が聞こえなくなって」
肩を竦めたカツナリは、やれやれと言わんばかりに苦笑する。
「クエンがいなくても、アキラの初任務ついてく言って」
「それで、くーちゃんがいきなり出てきて、りゅーちゃん殴ったの。『いい加減休みやがれ、馬鹿!』って」
最後のオチを相方に取られたカツナリは、些か不服そうに顔を顰[ めた。
しかし、そんなことを彼女が気にするはずもなく。
ヤヨイは驚きで絶句しているアキラに告げる。
「ゲンチョウもあきちゃんにちゃんと身体治してほしいの。まちちゃんも、ヤヨイも、こーちゃんも、みーんなそう思ってるの」
「あのー、先輩、俺もッスよ」
再びカツナリの言葉を黙殺し、ヤヨイは蹴鞠をアキラに渡した。
「約束、なの。まちちゃんと、ヤヨイが帰ってきたら、一緒に蹴鞠やるの」
「わいが……ミズナと……?」
「まちちゃんにはヤヨイが言っておくの。約束、いい?」
約束。
その言霊は、何よりも守り抜くべきもの。
一緒に……成人式挙げるって約束したじゃんか……
窮地で呟かれた切なる想い。
それに応えるためには。
「……約束、もろときますわ。わいはヤヨイはんとミズナが戻ってくる前に」
「うん、元気になってて、なの」
「おおきに」
一番大切な約束。アキラにとっての生きる意味。
それを守り抜くためにも、今は我慢して。
微笑みを浮かべ、アキラはヤヨイと指切りをする。
「絶対、約束なの!」
「わかっとりまっせ」
和やかな雰囲気の中で、一人だけ除外されているカツナリが、地を這うような声を上げた。
「先輩、俺は……」
「はげぴょん、任務行くの!」
「……う、ウーッス」
予想通りの反応にがくりと両肩を落とし、溜息をつく。
「カツナリはんも、帰還待っとりまっせ」
「お心遣いどーもッス」
背中によじ登ってきたヤヨイを片手で支えながら、苦笑をアキラに向け、カツナリは身を翻す。
アキラは〝待つ意味〟を与えてくれた二人の背が見えなくなるまで、その場を動かなかった。
畳の間に悠然と腰を下ろしているのは、一族の長。
「よく、来てくれた」
威厳のこもった声音に、思わず背筋が伸びる。
「お久しぶりッス、族長」
腰から身体を折り、深々と頭を下げる。
頭に巻かれた太く黒い鉢巻きが、畳にひれ伏した。
◇ ◇ ◇
轟音が大地を揺るがす。
輝く氷の破片が、大気を漂っていた。
「聖霊って、イヒッ! なかなかしぶとい、ヒヒヒッ!」
「スニィ、しっかりしろ!」
アレノスが生み出した風に、氷の盾ごと吹き飛ばされたスニィを、ディオウが呼ぶ。
『わ……私は、平気です。ヴァルトさんは……?』
「スニィ殿のお陰で、私もタカト殿も無事だ」
タカトを抱きかかえたまま答え、マツザワは上空で赤い両翼を羽ばたかせている敵を見据えた。
長い爪は赤黒く、一本のみの足には鋭利な爪が五つ付いている。
彼女の記憶が正しければ、アレノスの正体は。
「ハーピーか……」
人面を持つという怪鳥。
だがハーピーならば、人を襲うことはしない。
マツザワの呟きを聞き取ったスニィが、首を横に振る。
『違います。ハーピーを土台にしているとは思いますが、あれはハーピーじゃない……!』
「土台だと? どういう意味だ」
上空を旋回するアレノスを警戒しながら、ディオウが問う。
『ホルマウンテンに出現したアレノスは、ホルベアが土台です。アレノスは、自然の生命ではないのです……!』
「聖霊、ボクラのコト、知りすぎだね。消去、消去、ヒヒヒッ!」
不愉快な笑い声が耳に届くと同時に、スニィの頬を冷たい風が撫でた。
「スニィ、避けろ!」
アレノスの異変に気づいたディオウが怒鳴るが、時既に遅し。
爆風を伴い、風の爪が大地を抉った。
マツザワの頬に生暖かい雫がかかる。驚いて頬をそっと触れた指先が、鮮やかな朱に染まった。
「スニィ殿!?」
振り返った先には、宙を舞うスニィの体躯。
にやりと
「聖霊、消去! イヒヒ、ウィンド・クロウ!」
エメラルドグリーンの印と共に、鋭利な風刃が聖霊を切り裂こうと牙を剥く。
「くそ、あの化け物魔法詠唱ができるのか!」
舌打ちしたディオウが飛翔するが、聖獣といえども風に勝ることはできない。
無防備なスニィを、風刃が捉えんとした時。
鳴り響いたのは、高い金属音。
風が止み、徐々に視界が晴れていく。
「これ以上、貴様の好きにはさせん!」
スニィとタカトを背にし、マツザワは水華の
「ディオウ殿、二人を安全圏へ!」
「お前一人では苦戦するぞ!」
聖霊であるスニィすら、赤子同然に蹴散らしたのだ。近接を得意とする刀技のみで、太刀打ちできるとは思えない。
「このまま二人を守りながらの戦闘は危険です。ディオウ殿、二人を頼みます」
彼女の言う通り、この状況が続けば、全滅もあり得る。
今は、動けない二人を逃がすことが先決だ。
「無理は、するな」
眉間に
二人をディオウの背に乗せながら、マツザワが頷く。
「敵が一体とは限らない。ディオウ殿もお気をつけて」
「ああ」
ぴしりと尾を一振りすると、ディオウは大地を蹴った。
白目まで深紅に染まった
「イヒヒッ、逃がすと思ってるの?」
飛び立ったディオウを追おうとしたアレノスに、細かい斬撃が突き刺さった。
突如両翼を駆け抜けた痛みに、瞳を見開く。
「ヒヒ!?」
「……
正眼に据えられた水華は、陽の光を受け白い煌めきを放っていた。
◇ ◇ ◇
「調べごとッスか……」
族長の家を後にしたカツナリは、一人心地で呟いた。
本家に召還されるのは久方振りだ。
いつもの如く、相方を連れてワツキに訪れたわけだが。
「せんぱーい、遊んでないで行くッスよー」
青年と
「いっ!? だから先輩、俺の頭は蹴鞠じゃねーッス!」
「はげぴょん、こーちゃんからちゃんと聞いてきたの?」
「禿じゃねぇッス、坊主ッス!!」
蹴られた頭をさすりながら、カツナリは反論する。
しかし、彼女はそんな叫びを黙殺し、蹴鞠相手をしてくれていた青年、アキラに微笑みかけた。
「まちちゃんなら大丈夫、なの。あきちゃんは休むのが大事、なの!」
「せやけど、村全体で何や動いとりまっせ? そないにでかい任務なんやろか……」
誰に聞こうとも、返ってくる答えは休めの二文字。
己だけ取り残されているような気がして、アキラは落ち着かなかった。
彼にとって、起きていられる時間は日中の三時間足らず。だが、その僅かな時間でさえ、村の緊迫感を感じ取るには充分過ぎる長さだった。
「やぁな予感がするんや……ミズナはホンマに三番任務なんやろか……」
「あきちゃん」
直感的に危機を感じているアキラに、一族ぐるみで零番任務を隠していることがばれるのは、もはや時間の問題だ。
もし零番任務と知れば、無理にでも彼女らの後を追うだろう。
「あのね、信じてあげるのも大切なの。あきちゃんはまちちゃんのこと信じてないの?」
「そないなわけあらへん。ミズナの強さは、わい自身よう知っとります」
「だったら」
「せやけど」
ヤヨイの台詞を遮って、アキラは足元に視線を落とす。
「わいは、わいだけ何もできへん。何度呼びかけても、ゲンチョウの声も聞こえへんのや。ホンマに寝てばっかでええんやろか」
好きで寝ているわけではない。
目覚めた時に、己の無力さを嫌でも味わうのだ。
もっと己が強かったなら、こんな歯がゆい思いはしなかったのに。
「アキラ、ゲンチョウから声が聞こえねぇってことは、休めってことッスよ」
「それは……」
「昔リュウジもクエンの声が聞こえなくなった時があったんス。任務先で大怪我して、入院してろって医者に言われてるのに、なーんども病院抜け出してたんスよ。したらクエンの声が聞こえなくなって」
肩を竦めたカツナリは、やれやれと言わんばかりに苦笑する。
「クエンがいなくても、アキラの初任務ついてく言って」
「それで、くーちゃんがいきなり出てきて、りゅーちゃん殴ったの。『いい加減休みやがれ、馬鹿!』って」
最後のオチを相方に取られたカツナリは、些か不服そうに顔を
しかし、そんなことを彼女が気にするはずもなく。
ヤヨイは驚きで絶句しているアキラに告げる。
「ゲンチョウもあきちゃんにちゃんと身体治してほしいの。まちちゃんも、ヤヨイも、こーちゃんも、みーんなそう思ってるの」
「あのー、先輩、俺もッスよ」
再びカツナリの言葉を黙殺し、ヤヨイは蹴鞠をアキラに渡した。
「約束、なの。まちちゃんと、ヤヨイが帰ってきたら、一緒に蹴鞠やるの」
「わいが……ミズナと……?」
「まちちゃんにはヤヨイが言っておくの。約束、いい?」
約束。
その言霊は、何よりも守り抜くべきもの。
窮地で呟かれた切なる想い。
それに応えるためには。
「……約束、もろときますわ。わいはヤヨイはんとミズナが戻ってくる前に」
「うん、元気になってて、なの」
「おおきに」
一番大切な約束。アキラにとっての生きる意味。
それを守り抜くためにも、今は我慢して。
微笑みを浮かべ、アキラはヤヨイと指切りをする。
「絶対、約束なの!」
「わかっとりまっせ」
和やかな雰囲気の中で、一人だけ除外されているカツナリが、地を這うような声を上げた。
「先輩、俺は……」
「はげぴょん、任務行くの!」
「……う、ウーッス」
予想通りの反応にがくりと両肩を落とし、溜息をつく。
「カツナリはんも、帰還待っとりまっせ」
「お心遣いどーもッス」
背中によじ登ってきたヤヨイを片手で支えながら、苦笑をアキラに向け、カツナリは身を翻す。
アキラは〝待つ意味〟を与えてくれた二人の背が見えなくなるまで、その場を動かなかった。
第42記 それだけが真実
「馬鹿野郎、何で予知していなかったんだ!」
黒髪の男が、眉間に皺[ を寄せて声を荒げた。
それに同意するかのように、純白の聖獣が溜息をつく。
「何のための能力だ……。予知していれば避けれた怪我だろう?」
「まぁまぁ。二人ともそんな怖い顔しないで~」
鋭利な二対[ の瞳に苦笑して、青年は長い金髪を掻き上げた。
「死ななきゃいいじゃん」
「いい訳無いだろう!?」
ぺろりと舌を出した時、異口同音に重なった怒鳴り声が耳朶[ を貫いた。
やれやれとばかりに肩を竦めて、青年は己の出で立ちを見下ろす。
白い服は所々破れ、赤黒く染まっていた。
相手の動きを予知していれば、確かに受けることのない傷ばかりだ。
「予知したら、スリルが無くなるじゃん」
「そんなもの戦闘に求めるな!」
「怪我をしないことを第一に考えろ!」
間髪入れず切り返してくる男と聖獣に、青年は能天気に言い放つのだった。
それにさぁ……
◇ ◇ ◇
耳鳴りがうるさい。
遠くで何かが木霊している。
でも、そんなのはどうでもいいことだ。
描かれた未来は、もう変わることはないのだから。
ぴくりとも動かなかったアズウェルの口元が、微かに緩む。
「何だ、まだ息あるんじゃん? 笑っているなんて余裕なんだねっ」
アズウェルの両肩を貫いていた両爪を勢いよく引き抜き、アレノスは滴る鮮血の味を堪能する。
ふらりふらりと揺れながらも、倒れることのないアズウェルを見据え、歪んだ笑みを浮かべた。
「今度は止め刺してあげるよ」
しかし、その宣言はアズウェルに届くことはなかった。
アズウェルの耳に聞こえている声は。
何で予知していなかったんだ!
懐かしいそれに笑みが溢れる。
突進してくる相手が、誰であろうと、何であろうと関係ない。
「スリルがないとつまらないだろ?」
一歩右足を前に出す。
「死に損ないが何言ってんの!? キャハハハ……っ!?」
アレノスとすれ違った刹那、赤い風が吹いた。
ぽたり、ぽたりと、雫が頬に降ちてくる。
それは雨のように冷たいものではなく。
僅かに残るその生暖かさが、現状をよく知らせてくれた。
「それにさ」
耳をつんざく断末魔の叫びが、樹海に響き渡る。
台詞は遠き過去に紡いだそれ。
誰に宛てたものなのか、今では思い出せないけれど。
空を仰ぎ、一人心地で呟いた。
「二度も返り血浴びた自分、見たくないからな」
◇ ◇ ◇
『ダメだ。ここでもねぇ』
頭に響いた悲しげな声音に、眼帯をした男は溜息をついた。
風の移動魔法を用いてはいるものの、無駄足ばかりで捜しものは見つからない。
渦巻いている焦燥の念を押さえ込み、再び宙に印を描く。
「次に行くぞ、クエン」
エメラルドの風が、広い草原を吹き抜けた。
◇ ◇ ◇
両翼を羽ばたかせ、血走った眼[ で獲物への照準を合わせる。
「ヒヒッ、吹き飛んじゃえ!」
長い爪で描いた印[ が、赤い光を帯びて回転した。
水華を握る力を強め、マツザワは天へ向かって一振りする。
「フレイム・アロウ!」
「雹[ の甲矢[ !」
炎を纏った矢と、冷気を帯びた矢が空中で衝突した。
炎は冷気を、冷気は炎を呑み込む。
「ボクの上位魔法が相殺!?」
「本体までは達しなかったか……」
だが、手応えはある。
上空でぎゃあぎゃあと喚いているアレノスを睨みつけ、再び刀を振った。
「当たるもんか、ヒヒヒ!」
放たれた斬撃の矢は、アレノスの翼を掠る。予想より速い攻撃に、アレノスは奇声を上げた。
「ヒヒヒッ!?」
「数打てば当たる」
休む暇など与えず、一振り、また一振りと空を斬る。
避けることが難しくなれば、敵は直接本人を叩くしか術[ はないのだ。宙で印を描くことなど、できるわけがない。
アレノスは舌打ちしつつも、厄介な斬撃を飛ばしてくるマツザワに向かって急降下する。
「ソレ、鬱陶しいんだよ!」
再び振り切ろうとした水華の白刃[ を、赤黒い爪が遮った。
ぎりぎりと金属が擦[ れる。
降りてきた化け物を見据え、マツザワは口端を吊り上げた。
「……かかったな」
呟くと同時に、水華を斜め下に振り下ろす。
「ヒヒッ!?」
「零距離刀技[ 」
右足を踏み込み、刃を天へ突き上げる。
「零[ の舞!」
甲高い悲鳴と共に、赤い羽根が弾け飛んだ。
◇ ◇ ◇
一瞬の出来事だった。
アズウェルとアレノスがすれ違った直後、赤い飛沫が舞い上がり、アレノスは金切り声を上げて消えていった。
姿形そのものが、視界から消えたのだ。
「今の、何……? アズウェル、どうしちゃったの……?」
何一つ視[ ることが叶わなかったラキィが、呆然と呟く。
其処に佇む青年は、先刻激昂していた彼のはずなのに。
寂しげに微笑んでいる様は、別人のようで。
陽の光を受けて輝いた瞳を認めて、リードは息を飲み込んだ。
「金髪に……ゴールド、アイ……」
美しく輝く金糸に、黄金の双眸。それは、ごく一部の聖霊の間に伝わる古[ の風貌。
もし彼が〝伝承〟だとしたら、あれは……。
聖霊の、神の血を引く者のみが視ることを許される神具。
何処までも白に彩られた長い杖を握り締め、青年は金髪を風に靡[ かせている。
「おい、金髪」
予想を確信に変えるために。
「その杖でアレノスを消したんだろ?」
静かに問う。
「おまえ、エルフだな。これが見えんのか」
青年はリードだけに見える得物を、陽の光に翳[ した。
張りつめた空気が辺りを包み込み、ラキィは二人のやりとりを見つめていることしかできない。
「見える。俺の親父は〝伝承〟を知ってる。お前、何者だ?」
今まで僅かな片鱗すら見せなかった魔力が、アレノスとすれ違った瞬間に爆発した。
だが、その魔力はリードが知るどの魔力とも異なる属性だ。
「普通、それだけの魔力が一度に跳ね上がれば、周囲に少なからず衝撃波を生む。お前の魔力が跳ね上がった時、強風一つ吹かなかった」
努めて平静を装った口調で尋ねてきたリードに、青年は首を傾げる。
「おまえ、名前は?」
「リード・クウィンツェル。木の聖霊、ラスの血を引いている」
「そっかー。木の聖霊かぁ」
頬に張り付いた返り血を拭いながら、いたずらっぽく微笑む。
「さっきの答えな? おれはおれ。リードはリード」
「どういう……意味だ?」
さわさわと木の葉が身体を揺らす。
青年は己の左胸に片手を当て、〝質問の答え〟を繰り返した。
「おれはおれ。それが答えで」
一度言葉を句切り、身を翻す。
降り注ぐ陽の光に瞳を細めて、彼は呟いた。
それだけが、真実[ なんだ
黒髪の男が、眉間に
それに同意するかのように、純白の聖獣が溜息をつく。
「何のための能力だ……。予知していれば避けれた怪我だろう?」
「まぁまぁ。二人ともそんな怖い顔しないで~」
鋭利な
「死ななきゃいいじゃん」
「いい訳無いだろう!?」
ぺろりと舌を出した時、異口同音に重なった怒鳴り声が
やれやれとばかりに肩を竦めて、青年は己の出で立ちを見下ろす。
白い服は所々破れ、赤黒く染まっていた。
相手の動きを予知していれば、確かに受けることのない傷ばかりだ。
「予知したら、スリルが無くなるじゃん」
「そんなもの戦闘に求めるな!」
「怪我をしないことを第一に考えろ!」
間髪入れず切り返してくる男と聖獣に、青年は能天気に言い放つのだった。
◇ ◇ ◇
耳鳴りがうるさい。
遠くで何かが木霊している。
でも、そんなのはどうでもいいことだ。
描かれた未来は、もう変わることはないのだから。
ぴくりとも動かなかったアズウェルの口元が、微かに緩む。
「何だ、まだ息あるんじゃん? 笑っているなんて余裕なんだねっ」
アズウェルの両肩を貫いていた両爪を勢いよく引き抜き、アレノスは滴る鮮血の味を堪能する。
ふらりふらりと揺れながらも、倒れることのないアズウェルを見据え、歪んだ笑みを浮かべた。
「今度は止め刺してあげるよ」
しかし、その宣言はアズウェルに届くことはなかった。
アズウェルの耳に聞こえている声は。
懐かしいそれに笑みが溢れる。
突進してくる相手が、誰であろうと、何であろうと関係ない。
「スリルがないとつまらないだろ?」
一歩右足を前に出す。
「死に損ないが何言ってんの!? キャハハハ……っ!?」
アレノスとすれ違った刹那、赤い風が吹いた。
ぽたり、ぽたりと、雫が頬に降ちてくる。
それは雨のように冷たいものではなく。
僅かに残るその生暖かさが、現状をよく知らせてくれた。
「それにさ」
耳をつんざく断末魔の叫びが、樹海に響き渡る。
台詞は遠き過去に紡いだそれ。
誰に宛てたものなのか、今では思い出せないけれど。
空を仰ぎ、一人心地で呟いた。
「二度も返り血浴びた自分、見たくないからな」
◇ ◇ ◇
『ダメだ。ここでもねぇ』
頭に響いた悲しげな声音に、眼帯をした男は溜息をついた。
風の移動魔法を用いてはいるものの、無駄足ばかりで捜しものは見つからない。
渦巻いている焦燥の念を押さえ込み、再び宙に印を描く。
「次に行くぞ、クエン」
エメラルドの風が、広い草原を吹き抜けた。
◇ ◇ ◇
両翼を羽ばたかせ、血走った
「ヒヒッ、吹き飛んじゃえ!」
長い爪で描いた
水華を握る力を強め、マツザワは天へ向かって一振りする。
「フレイム・アロウ!」
「
炎を纏った矢と、冷気を帯びた矢が空中で衝突した。
炎は冷気を、冷気は炎を呑み込む。
「ボクの上位魔法が相殺!?」
「本体までは達しなかったか……」
だが、手応えはある。
上空でぎゃあぎゃあと喚いているアレノスを睨みつけ、再び刀を振った。
「当たるもんか、ヒヒヒ!」
放たれた斬撃の矢は、アレノスの翼を掠る。予想より速い攻撃に、アレノスは奇声を上げた。
「ヒヒヒッ!?」
「数打てば当たる」
休む暇など与えず、一振り、また一振りと空を斬る。
避けることが難しくなれば、敵は直接本人を叩くしか
アレノスは舌打ちしつつも、厄介な斬撃を飛ばしてくるマツザワに向かって急降下する。
「ソレ、鬱陶しいんだよ!」
再び振り切ろうとした水華の
ぎりぎりと金属が
降りてきた化け物を見据え、マツザワは口端を吊り上げた。
「……かかったな」
呟くと同時に、水華を斜め下に振り下ろす。
「ヒヒッ!?」
「
右足を踏み込み、刃を天へ突き上げる。
「
甲高い悲鳴と共に、赤い羽根が弾け飛んだ。
◇ ◇ ◇
一瞬の出来事だった。
アズウェルとアレノスがすれ違った直後、赤い飛沫が舞い上がり、アレノスは金切り声を上げて消えていった。
姿形そのものが、視界から消えたのだ。
「今の、何……? アズウェル、どうしちゃったの……?」
何一つ
其処に佇む青年は、先刻激昂していた彼のはずなのに。
寂しげに微笑んでいる様は、別人のようで。
陽の光を受けて輝いた瞳を認めて、リードは息を飲み込んだ。
「金髪に……ゴールド、アイ……」
美しく輝く金糸に、黄金の双眸。それは、ごく一部の聖霊の間に伝わる
もし彼が〝伝承〟だとしたら、あれは……。
聖霊の、神の血を引く者のみが視ることを許される神具。
何処までも白に彩られた長い杖を握り締め、青年は金髪を風に
「おい、金髪」
予想を確信に変えるために。
「その杖でアレノスを消したんだろ?」
静かに問う。
「おまえ、エルフだな。これが見えんのか」
青年はリードだけに見える得物を、陽の光に
張りつめた空気が辺りを包み込み、ラキィは二人のやりとりを見つめていることしかできない。
「見える。俺の親父は〝伝承〟を知ってる。お前、何者だ?」
今まで僅かな片鱗すら見せなかった魔力が、アレノスとすれ違った瞬間に爆発した。
だが、その魔力はリードが知るどの魔力とも異なる属性だ。
「普通、それだけの魔力が一度に跳ね上がれば、周囲に少なからず衝撃波を生む。お前の魔力が跳ね上がった時、強風一つ吹かなかった」
努めて平静を装った口調で尋ねてきたリードに、青年は首を傾げる。
「おまえ、名前は?」
「リード・クウィンツェル。木の聖霊、ラスの血を引いている」
「そっかー。木の聖霊かぁ」
頬に張り付いた返り血を拭いながら、いたずらっぽく微笑む。
「さっきの答えな? おれはおれ。リードはリード」
「どういう……意味だ?」
さわさわと木の葉が身体を揺らす。
青年は己の左胸に片手を当て、〝質問の答え〟を繰り返した。
「おれはおれ。それが答えで」
一度言葉を句切り、身を翻す。
降り注ぐ陽の光に瞳を細めて、彼は呟いた。
第43記 サガシモノ
視界という名の彼の世界は、黒一色に染まっていた。
「せーんぱぁ~い……前、見えねぇッス……」
「あ、おっきい岩があるの」
返答とは思えない不吉な発言が聞こえた直後、右肩の重さが無くなった。
一拍置いて、重さの代わりに激痛が右膝に走る。
「いっ……!」
膝を押さえ、うずくまる。
視界を漆黒に染め上げていた黒手拭いをたくし上げ、涙目で眼前を見ると、ごつごつとした巨大な岩が佇んでいた。
目隠し状態で歩かされていたカツナリに、鋭い牙を剥いた岩石。
それを睨みつけながら、溜息混じりに両肩を落とす。
「先輩、自分だけ逃げたッスよね……」
「だから岩があるって言ったの」
確かに不吉は届いていたが。
「そうッスね……」
これ以上どう皮肉を言おうが批難をしようが、無駄な抵抗。
長年連んでいるヤヨイの性格を知り尽くしているカツナリは、こめかみを押さえて再度嘆息したのだった。
「はげぴょん、いつまで休んでるの。急がないと、りゅーちゃんが」
「わかってるッス。お松さんは何も知らねぇ。衝突したらまずいことになるッス」
普段なら、ヤヨイの言葉を遮れば、蹴りの一つや二つ飛んでくる。
しかし、彼女は無言で頷くと、再びカツナリの肩によじ登った。
時間が、惜しい。
それはカツナリもヤヨイも、よくわかっていた。
「もっかいやるッスよ、風旋[ 。先輩、今度は手拭い以外に掴まってくれッス」
「わかった、なの」
ヤヨイから返ってきた素直な言葉。
事態の深刻さを表す相方の台詞を噛み締め、カツナリは呪符を一枚、懐から取り出す。
「風旋!」
上空から、白い風が降りてきた。
両足に白風を纏うと、カツナリは大地を蹴った。
二人が見据えるのは、高い二枚の岩壁が向かい合うようにして切り立つ、双渓谷[ 。
◇ ◇ ◇
「あー、だめだ」
常人には視[ えない白き杖を支えにして、金髪の青年はぐったりと項垂[ れた。
二対の視線を背後から感じてはいるが、形[ 振り構っている余裕はない。
「血ぃー、足りねぇー。貧血だ、ひーんーけーつー」
何とも情けない声に、彼の背を眺めていた一人、リードは頬を引きつらせた。
本当にこの青年が〝伝承〟なのだろうか。
リードがラスから聞いた〝伝承〟は、もっと高貴な存在だったはず。
立っているのも辛くなったのか、青年は大の字に寝ころんでいた。
「あー、力でねぇ……まぁ、死んでねぇからいっかー?」
「呑気だな」
「生きてりゃいいんだよ。何とか繋ぎ止めていれば、どうとでもなるさ。そいつみたいに」
ぐるりと首を回して、青年は冷凍されている小動物へ温かい眼差しを向けた。
精霊の氷は、そう簡単に溶けることはない。
誰かが治療を施せば、助かるだろう。
「しっかし、久しぶりにコレ使うと、やっぱ疲れるなぁ」
傍らに横たわる得物を眺め、苦笑した。
軟らかな表情を浮かべている青年に、リードが問う。
「まだ動けるのか」
「敵倒したじゃん。おれにまだ働けっつぅんか、おまえは」
「いや……アレノスは一体だけじゃない。お前が倒した奴と同格のが一体。それと俺の親父を封じた別格の強さの奴が一体いる」
「マジ?」
一瞬目を瞠った青年は、すぐに渋い顔になる。
「それ、おれじゃないとだめなのか?」
「少なくとも、森の中心にいる現森の主[ は、俺たちじゃ倒せない。並のアレノス……いや、さっきの奴らは出来損ないのアレノスだ。それに殺されかけていた俺たちじゃ……」
敵うのなら、故郷を奪われたりはしないのだ。
爪が掌に食い込むほど強く、拳を握り締める。
押し黙ったリードを見上げ、青年は瞳を細めた。
「〝ロスト〟が今に気付いてくれたら、おれももう少し手伝えるんだけどな……」
微かに呟かれた言葉は、誰の耳にも届かなかった。
◇ ◇ ◇
エメラルドの風が、まだ雪が残る山頂に吹き抜けた。
大地を雪が覆う中、一角だけ土が剥き出しになっている。
その一角を取り囲む白い絨毯の上には、点々と赤い花びらのような血が散っていた。
「また後手を引いたか……」
『ダメだな。随分前にここを離れちまってる』
落胆の色を隠せない言葉が、頭に直接響く。
同時に、赤褐色の肌をした少年が、男の隣に顕現した。
『族長からもらった情報はそれで終わりか、相棒?』
「手元にあったものは、使い尽くした」
眉間に深く皺[ を刻み込み、男は足下へ視線を落とす。
剥き出しの大地を見据える眼差しは、険しさと共に、憂いが垣間見えた。
「どこにいるんだ……」
何故、聞こえないのだろうか。
そう彼らが苦渋を滲ませた時、白い旋風が降り立った。
「りゅーちゃん、くーちゃん!」
「久しぶりッス、リュウジ、クエン」
ほぼ重なって聞こえた懐かしき声。
白風が吹き抜けると、久しい顔が瞳に映った。
「お前たち……」
しかし、再会を喜んでいる暇[ はない。
できることなら、こんな時に再会を果たしたくなかったというのに。
『おい、まさか隠密まで動いてんのか?』
「久し振りに族長直々に呼ばれたんス」
「まちちゃんたちが引き受けた、零番任務のことで、なの」
薄々感じてはいたものの、改めて実の妹が零番任務を任されたことを聞き、リュウジこと、ルアルティド・レジアは紅い右目を見開いた。
『やっぱミズナが受けてんのか……くそっ!』
ルーティングの相棒であるクエンも、思わず舌打ちをする。
そんな二人の反応を複雑な表情で受け止めたヤヨイは、静かに問うた。
「りゅーちゃん、会えたの?」
沈黙をもって返ってきた答えに、裏付けたくなかった予想が確信に変わる。
間に合わなかったのだ。
重い沈黙を切り開いたのは、火を司[ る名刀〝紅焔[ 〟の化身、クエンだった。
『すまねぇ……俺の力不足だ』
「俺たちは完全に後手だった。もう、手元にアレノスの情報もない」
ここ二日捜し回っていたものは、いつもルーティングたちの上を行っていた。
「衝突は避けられないッスな。恐らく、既に動いているッス」
「まちちゃんたちが、妖精の森でアレノスに遭遇したみたいなの」
アレノスという言葉に、クエンとルーティングが顔を上げる。
『それいつだよ!?』
「タカトか」
スワロウ族直属の隠密。そのトップを担うのが頭領ヨシタダ。
そして、ヨシタダの娘であるヤヨイと、養子のカツナリ、ヴァルト族の生き残りであるタカト。
彼らが隠密の中枢だ。
此処にその内の二人がいるということは、零番任務に同行しているのは残りの一人。
「そうなの。ついさっき、はげぴょんに〝報せ〟が来たの」
「急いだ方がいいッス。妖精の森っていやぁ、木の聖霊ラスの管轄。それがアレノスに乗っ取られているらしいッスから」
「きっと、来るの。まちちゃんたちとぶつかっちゃう前に、急いで!」
悠然と首肯して、ルーティングは宙に印[ を描く。
ほんの僅かな欠片でもいい。
例えそれが目的に辿り着かない道であっても。
『動かねぇよりはずっとマシだぜ』
「行くぞ、クエン」
『おう!』
エメラルドの光を帯びた印から、風が沸き起こる。
風越しに〝報せ〟を届けてくれた二人を見つめ、ルーティングは呟いた。
「カツナリ、ヤヨイ。……礼を言う」
風は術者と相方を乗せて、天を駆けていった。
北東の空。夕闇に染まりゆくその下には、大樹が茂る妖精の森がある。
「時間、ねぇッスな……」
「たかちゃんとまちちゃんなら、大丈夫……なの……」
きっと、きっと。
「そうッスね」
きっと、大丈夫。
そう、信じている。
◇ ◇ ◇
森の主は、一人でいい。
「そう、オレ様だけでいいのよ」
侵入者と反逆者。
どちらであろうが、構わない。
「殺されに来たヤツがいる。ククク……」
静かに佇む男を見据えて、アレノスは不気味な微笑みを浮かべた。
どろどろとした魔力が、垂れ流しにされている。
だが、そんなアレノスの魔力に当てられることもなく、男は残念そうに呟いた。
「ここも、ハズレだねぇ」
「ククク……お前はここで死ぬんだ。よくわかってるな、ハズレだ」
にやりと口端を吊り上げ、アレノスは赤黒い爪を振り上げる。
「死ね!」
赤い飛沫が、舞った。
先刻までアレノスの両眼に捉えられていた男の姿は、何処にもない。
衝撃と共に、耳元で哀しい声が響いた。
「キミはハズレ。用はないよ」
けれども。
「生かしておく、意味もないね」
「せーんぱぁ~い……前、見えねぇッス……」
「あ、おっきい岩があるの」
返答とは思えない不吉な発言が聞こえた直後、右肩の重さが無くなった。
一拍置いて、重さの代わりに激痛が右膝に走る。
「いっ……!」
膝を押さえ、うずくまる。
視界を漆黒に染め上げていた黒手拭いをたくし上げ、涙目で眼前を見ると、ごつごつとした巨大な岩が佇んでいた。
目隠し状態で歩かされていたカツナリに、鋭い牙を剥いた岩石。
それを睨みつけながら、溜息混じりに両肩を落とす。
「先輩、自分だけ逃げたッスよね……」
「だから岩があるって言ったの」
確かに不吉は届いていたが。
「そうッスね……」
これ以上どう皮肉を言おうが批難をしようが、無駄な抵抗。
長年連んでいるヤヨイの性格を知り尽くしているカツナリは、こめかみを押さえて再度嘆息したのだった。
「はげぴょん、いつまで休んでるの。急がないと、りゅーちゃんが」
「わかってるッス。お松さんは何も知らねぇ。衝突したらまずいことになるッス」
普段なら、ヤヨイの言葉を遮れば、蹴りの一つや二つ飛んでくる。
しかし、彼女は無言で頷くと、再びカツナリの肩によじ登った。
時間が、惜しい。
それはカツナリもヤヨイも、よくわかっていた。
「もっかいやるッスよ、
「わかった、なの」
ヤヨイから返ってきた素直な言葉。
事態の深刻さを表す相方の台詞を噛み締め、カツナリは呪符を一枚、懐から取り出す。
「風旋!」
上空から、白い風が降りてきた。
両足に白風を纏うと、カツナリは大地を蹴った。
二人が見据えるのは、高い二枚の岩壁が向かい合うようにして切り立つ、
◇ ◇ ◇
「あー、だめだ」
常人には
二対の視線を背後から感じてはいるが、
「血ぃー、足りねぇー。貧血だ、ひーんーけーつー」
何とも情けない声に、彼の背を眺めていた一人、リードは頬を引きつらせた。
本当にこの青年が〝伝承〟なのだろうか。
リードがラスから聞いた〝伝承〟は、もっと高貴な存在だったはず。
立っているのも辛くなったのか、青年は大の字に寝ころんでいた。
「あー、力でねぇ……まぁ、死んでねぇからいっかー?」
「呑気だな」
「生きてりゃいいんだよ。何とか繋ぎ止めていれば、どうとでもなるさ。そいつみたいに」
ぐるりと首を回して、青年は冷凍されている小動物へ温かい眼差しを向けた。
精霊の氷は、そう簡単に溶けることはない。
誰かが治療を施せば、助かるだろう。
「しっかし、久しぶりにコレ使うと、やっぱ疲れるなぁ」
傍らに横たわる得物を眺め、苦笑した。
軟らかな表情を浮かべている青年に、リードが問う。
「まだ動けるのか」
「敵倒したじゃん。おれにまだ働けっつぅんか、おまえは」
「いや……アレノスは一体だけじゃない。お前が倒した奴と同格のが一体。それと俺の親父を封じた別格の強さの奴が一体いる」
「マジ?」
一瞬目を瞠った青年は、すぐに渋い顔になる。
「それ、おれじゃないとだめなのか?」
「少なくとも、森の中心にいる現森の
敵うのなら、故郷を奪われたりはしないのだ。
爪が掌に食い込むほど強く、拳を握り締める。
押し黙ったリードを見上げ、青年は瞳を細めた。
「〝ロスト〟が今に気付いてくれたら、おれももう少し手伝えるんだけどな……」
微かに呟かれた言葉は、誰の耳にも届かなかった。
◇ ◇ ◇
エメラルドの風が、まだ雪が残る山頂に吹き抜けた。
大地を雪が覆う中、一角だけ土が剥き出しになっている。
その一角を取り囲む白い絨毯の上には、点々と赤い花びらのような血が散っていた。
「また後手を引いたか……」
『ダメだな。随分前にここを離れちまってる』
落胆の色を隠せない言葉が、頭に直接響く。
同時に、赤褐色の肌をした少年が、男の隣に顕現した。
『族長からもらった情報はそれで終わりか、相棒?』
「手元にあったものは、使い尽くした」
眉間に深く
剥き出しの大地を見据える眼差しは、険しさと共に、憂いが垣間見えた。
「どこにいるんだ……」
何故、聞こえないのだろうか。
そう彼らが苦渋を滲ませた時、白い旋風が降り立った。
「りゅーちゃん、くーちゃん!」
「久しぶりッス、リュウジ、クエン」
ほぼ重なって聞こえた懐かしき声。
白風が吹き抜けると、久しい顔が瞳に映った。
「お前たち……」
しかし、再会を喜んでいる
できることなら、こんな時に再会を果たしたくなかったというのに。
『おい、まさか隠密まで動いてんのか?』
「久し振りに族長直々に呼ばれたんス」
「まちちゃんたちが引き受けた、零番任務のことで、なの」
薄々感じてはいたものの、改めて実の妹が零番任務を任されたことを聞き、リュウジこと、ルアルティド・レジアは紅い右目を見開いた。
『やっぱミズナが受けてんのか……くそっ!』
ルーティングの相棒であるクエンも、思わず舌打ちをする。
そんな二人の反応を複雑な表情で受け止めたヤヨイは、静かに問うた。
「りゅーちゃん、会えたの?」
沈黙をもって返ってきた答えに、裏付けたくなかった予想が確信に変わる。
間に合わなかったのだ。
重い沈黙を切り開いたのは、火を
『すまねぇ……俺の力不足だ』
「俺たちは完全に後手だった。もう、手元にアレノスの情報もない」
ここ二日捜し回っていたものは、いつもルーティングたちの上を行っていた。
「衝突は避けられないッスな。恐らく、既に動いているッス」
「まちちゃんたちが、妖精の森でアレノスに遭遇したみたいなの」
アレノスという言葉に、クエンとルーティングが顔を上げる。
『それいつだよ!?』
「タカトか」
スワロウ族直属の隠密。そのトップを担うのが頭領ヨシタダ。
そして、ヨシタダの娘であるヤヨイと、養子のカツナリ、ヴァルト族の生き残りであるタカト。
彼らが隠密の中枢だ。
此処にその内の二人がいるということは、零番任務に同行しているのは残りの一人。
「そうなの。ついさっき、はげぴょんに〝報せ〟が来たの」
「急いだ方がいいッス。妖精の森っていやぁ、木の聖霊ラスの管轄。それがアレノスに乗っ取られているらしいッスから」
「きっと、来るの。まちちゃんたちとぶつかっちゃう前に、急いで!」
悠然と首肯して、ルーティングは宙に
ほんの僅かな欠片でもいい。
例えそれが目的に辿り着かない道であっても。
『動かねぇよりはずっとマシだぜ』
「行くぞ、クエン」
『おう!』
エメラルドの光を帯びた印から、風が沸き起こる。
風越しに〝報せ〟を届けてくれた二人を見つめ、ルーティングは呟いた。
「カツナリ、ヤヨイ。……礼を言う」
風は術者と相方を乗せて、天を駆けていった。
北東の空。夕闇に染まりゆくその下には、大樹が茂る妖精の森がある。
「時間、ねぇッスな……」
「たかちゃんとまちちゃんなら、大丈夫……なの……」
きっと、きっと。
「そうッスね」
きっと、大丈夫。
そう、信じている。
◇ ◇ ◇
森の主は、一人でいい。
「そう、オレ様だけでいいのよ」
侵入者と反逆者。
どちらであろうが、構わない。
「殺されに来たヤツがいる。ククク……」
静かに佇む男を見据えて、アレノスは不気味な微笑みを浮かべた。
どろどろとした魔力が、垂れ流しにされている。
だが、そんなアレノスの魔力に当てられることもなく、男は残念そうに呟いた。
「ここも、ハズレだねぇ」
「ククク……お前はここで死ぬんだ。よくわかってるな、ハズレだ」
にやりと口端を吊り上げ、アレノスは赤黒い爪を振り上げる。
「死ね!」
赤い飛沫が、舞った。
先刻までアレノスの両眼に捉えられていた男の姿は、何処にもない。
衝撃と共に、耳元で哀しい声が響いた。
「キミはハズレ。用はないよ」
けれども。
「生かしておく、意味もないね」
第44記 戦慄の狼煙
パリィンッ!
ガラスと共に、茶色いウイスキーがカウンターに飛び散った。
酒場の亭主は、既に新しい特注グラスにウイスキーを注ぎ直している。
だが、そのウイスキーが常連客に渡されるのは、ほとぼりが冷めてからだ。今渡せば、再びガラスの破片が飛び散る羽目になる。
「何だ、お前は」
敵意を剥き出しにして、グラスを握り潰した張本人アヤは、眼前の少年を睨みつけた。
大の大人でも畏縮するほど強い殺気を放たれているというのに、少年は全く気にかけていない。
爽やかな微笑みを浮かべ、彼はぺこりとお辞儀をした。
「初めまして。アヤさん、ライリンさん。ボク、シルードっていいます」
「りんたちのにゃまえ、知ってるにょ?」
カウンター上で小首を傾げた小動物に満面の笑みを向け、シルードは一枚の板を示す。
「教えていただきましたから」
掲げられた板に描かれている紋様。
それを認めたアヤの双眸が、敵意とは別の剣呑さを帯びて吊り上がった。
「あたしらに何の用だい?」
「少し、ボクとお話ししませんか?」
「くだらねぇ内容なら死ぬ覚悟しな」
アヤの逆鱗に触れまいと、酒場の客たちは皆口を閉ざす。
一方、当人は臆することなど欠片もない。
「わかりました。肝に銘じておきます」
笑顔を崩すことなく、シルードはアヤの隣に腰を下ろした。
◇ ◇ ◇
森が、揺れた。
地響きに怯えた鳥たちが、一斉に飛び立つ。
木の葉がざわめき、空へ狼煙が上がった。
「森が……」
瞳に映るそれは、森中に輝く粉をまき散らす。
「俺たちの森が……!」
「待て」
「放せ、金髪! 森が、故郷が燃えてんだぞ!?」
駆け出そうとしたエルフの腕を掴み、制止させた青年は、溜息混じりに言った。
「らしくないな。随分取り乱しているぞ、おまえ」
「う、うるさい! 放せ!」
「あー、はいはい」
降参するかのように両の手を上げ、青年はエルフを一瞥する。
「行ってどうする? おまえが行ったところで、あれは消せないぞ」
「どうって……」
「行ったところで、おまえが言ってた敵ももういねぇ。火に囲まれるのがオチだ」
足下に横たわる白き杖を拾う。
それを軽く斜め下に薙ぎ払い、彼は夕闇を照らしている狼煙を見上げた。
「今あれを消せんのは、おれと……」
あと、一人。
肩越しに顧みて、エルフに告げる。
「もうじき、ここに来る奴がいる。おまえの役目はそいつの足止めと、そこにいる奴らを見てることだ。……動くなよ」
異論を許さぬ威圧を放ち、青年は森の中心へと駆けていった。
頷くことすらできなかったエルフに、甲高い声が語りかける。
「ねぇ、リード。アズウェルはどこに行っちゃったの……?」
小刻みに震えながらも、彼女はじっとエルフを見つめた。
問うているのは、青年が駆けていった場所のことではないだろう。
恐らく、彼女が知りたい答えは。
「お前にわからねぇのに、今日会ったばかりの俺がわかるか」
「……そう、よね……」
掠れた声が哀しげに響く。
沈黙する二人に、降り注ぐ光の粉。
茜色に煌めく火の粉は、風に乗って森中を飛び交っていた。
◇ ◇ ◇
突如、背後に立ち上った火柱を見つめ、マツザワは息を飲んだ。
「馬鹿なっ! 誰が森を燃やすなど……!」
胸の奥に、暗い影が落ちる。
無意識に駆け出した彼女の背を、血走った眼が捉えた。
「ヒヒヒッ! 死ね!!」
鋭利な爪が、肩を擦る。
「っ!? 貴様、生きて……!」
「あれくらいでくたばるか、ヒヒッ!」
振り下ろされる爪を、防ぐ時間はない。
「く……!」
「死ね死ね死ね!!」
キィンッ!
痛みを覚悟した時、響いた金属音。
水華は、マツザワの右手に握られたままだ。
彼女を切り裂こうとしたアレノスの爪を受けたのは、水華ではない。
動けるはずもない人物の後ろ姿を見上げ、マツザワは声を荒げた。
「タカト殿!? 何故貴方がここに!?」
「……話す時間は、ない」
低く応えたタカトは、振り向くこともせずに言い放つ。
「この火を、見極めてこい。……一族の担い手として」
「しかし、タカト殿……!」
太い爪を制止している白刃は微動だにしない。
「ヒヒヒッ。ヴァルトが戻ってきた、ヒヒ!」
化け物の両眼を睨みつけ、タカトは細い筆架叉[ を振り切った。
力負けしたアレノスが、数歩後退する。
「……こいつは、俺がやる。早く、行け!」
再び得物を構えたタカトに、マツザワは背を向ける。
「すまない、タカト殿。ここは頼む!」
大地を蹴った彼女の胸には、警鐘が鳴り響いていた。
◇ ◇ ◇
疾風が駆け抜ける。
エメラルドの風は、草を殴り、砂塵を巻き上げ疾走する。
「クエン、わかるか?」
『ああ、間違いねぇぜ!』
やっと、見つけた。
欠片も痕跡を残さなかった者が、ようやく尻尾を出したのだ。
「飛ばすぞ!」
『おう!』
彼らの想いはただ一つ。
どうか、どうか。
どうか、間に合ってくれ
◇ ◇ ◇
もし、この炎がただの炎だったのなら。
彼女は獲物を明け渡したりはしなかっただろう。
森を容赦なく焼き払う炎に、彼女の知る温かさは微塵もなかった。
己の知るそれとは全く異なるというのに。
「何だ、この焦りは……!」
だが、違うと叫ぶ心の一方で、確信が彼女を焦らせた。
水華を強く握り締める。
脈打つ警鐘は、相方からも伝ってきた。
「いや、きっと何か! 何かあるはず……!」
会えば、言葉を交わせば、この渦巻く不安は無くなるだろう。
故に走るのだ。真相を確かめるべく。
この火を、見極めてこい。……一族の担い手として
タカトの言霊が、焦りに拍車をかける。
「一族の、担い手……」
それは彼女一人ではないはず。
床に伏せてはいるものの、彼女の幼馴染みもまた、次代の担い手だ。
そして、〝彼〟も。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
肩で息をしながら、火の海を見渡す。
まだ、〝彼〟は此処いる。
揺らぐ炎は紛れもなく〝あの炎〟だった。
大樹を蝕む灼熱の炎。
その色は、夕焼けのような紅ではなく。
「蒼い……」
呟いた彼女の耳元で、聞き慣れた声が響く。
「来てたんだね」
「その声は…… っ!?」
振り返った彼女の全身を、衝撃が貫いた。
身も心も、一瞬のうちに崩れ落ちる。
勢いよく彼女の脇腹から引き抜かれた刃。血糊の隙間からは、蒼い刀身が煌めきを放つ。
霞む視界を、瞳に浮かんだ雫がより朧気にした。
心を埋め尽くすのは、切なる想い。
「しょ……うご……さ……? ど……うし、て……」
それを言葉に紡ぎきることもできず、瞼が落ちる。
動かなくなった同族を、冷え切った眼差しが射抜いていた。
ガラスと共に、茶色いウイスキーがカウンターに飛び散った。
酒場の亭主は、既に新しい特注グラスにウイスキーを注ぎ直している。
だが、そのウイスキーが常連客に渡されるのは、ほとぼりが冷めてからだ。今渡せば、再びガラスの破片が飛び散る羽目になる。
「何だ、お前は」
敵意を剥き出しにして、グラスを握り潰した張本人アヤは、眼前の少年を睨みつけた。
大の大人でも畏縮するほど強い殺気を放たれているというのに、少年は全く気にかけていない。
爽やかな微笑みを浮かべ、彼はぺこりとお辞儀をした。
「初めまして。アヤさん、ライリンさん。ボク、シルードっていいます」
「りんたちのにゃまえ、知ってるにょ?」
カウンター上で小首を傾げた小動物に満面の笑みを向け、シルードは一枚の板を示す。
「教えていただきましたから」
掲げられた板に描かれている紋様。
それを認めたアヤの双眸が、敵意とは別の剣呑さを帯びて吊り上がった。
「あたしらに何の用だい?」
「少し、ボクとお話ししませんか?」
「くだらねぇ内容なら死ぬ覚悟しな」
アヤの逆鱗に触れまいと、酒場の客たちは皆口を閉ざす。
一方、当人は臆することなど欠片もない。
「わかりました。肝に銘じておきます」
笑顔を崩すことなく、シルードはアヤの隣に腰を下ろした。
◇ ◇ ◇
森が、揺れた。
地響きに怯えた鳥たちが、一斉に飛び立つ。
木の葉がざわめき、空へ狼煙が上がった。
「森が……」
瞳に映るそれは、森中に輝く粉をまき散らす。
「俺たちの森が……!」
「待て」
「放せ、金髪! 森が、故郷が燃えてんだぞ!?」
駆け出そうとしたエルフの腕を掴み、制止させた青年は、溜息混じりに言った。
「らしくないな。随分取り乱しているぞ、おまえ」
「う、うるさい! 放せ!」
「あー、はいはい」
降参するかのように両の手を上げ、青年はエルフを一瞥する。
「行ってどうする? おまえが行ったところで、あれは消せないぞ」
「どうって……」
「行ったところで、おまえが言ってた敵ももういねぇ。火に囲まれるのがオチだ」
足下に横たわる白き杖を拾う。
それを軽く斜め下に薙ぎ払い、彼は夕闇を照らしている狼煙を見上げた。
「今あれを消せんのは、おれと……」
あと、一人。
肩越しに顧みて、エルフに告げる。
「もうじき、ここに来る奴がいる。おまえの役目はそいつの足止めと、そこにいる奴らを見てることだ。……動くなよ」
異論を許さぬ威圧を放ち、青年は森の中心へと駆けていった。
頷くことすらできなかったエルフに、甲高い声が語りかける。
「ねぇ、リード。アズウェルはどこに行っちゃったの……?」
小刻みに震えながらも、彼女はじっとエルフを見つめた。
問うているのは、青年が駆けていった場所のことではないだろう。
恐らく、彼女が知りたい答えは。
「お前にわからねぇのに、今日会ったばかりの俺がわかるか」
「……そう、よね……」
掠れた声が哀しげに響く。
沈黙する二人に、降り注ぐ光の粉。
茜色に煌めく火の粉は、風に乗って森中を飛び交っていた。
◇ ◇ ◇
突如、背後に立ち上った火柱を見つめ、マツザワは息を飲んだ。
「馬鹿なっ! 誰が森を燃やすなど……!」
胸の奥に、暗い影が落ちる。
無意識に駆け出した彼女の背を、血走った眼が捉えた。
「ヒヒヒッ! 死ね!!」
鋭利な爪が、肩を擦る。
「っ!? 貴様、生きて……!」
「あれくらいでくたばるか、ヒヒッ!」
振り下ろされる爪を、防ぐ時間はない。
「く……!」
「死ね死ね死ね!!」
痛みを覚悟した時、響いた金属音。
水華は、マツザワの右手に握られたままだ。
彼女を切り裂こうとしたアレノスの爪を受けたのは、水華ではない。
動けるはずもない人物の後ろ姿を見上げ、マツザワは声を荒げた。
「タカト殿!? 何故貴方がここに!?」
「……話す時間は、ない」
低く応えたタカトは、振り向くこともせずに言い放つ。
「この火を、見極めてこい。……一族の担い手として」
「しかし、タカト殿……!」
太い爪を制止している白刃は微動だにしない。
「ヒヒヒッ。ヴァルトが戻ってきた、ヒヒ!」
化け物の両眼を睨みつけ、タカトは細い
力負けしたアレノスが、数歩後退する。
「……こいつは、俺がやる。早く、行け!」
再び得物を構えたタカトに、マツザワは背を向ける。
「すまない、タカト殿。ここは頼む!」
大地を蹴った彼女の胸には、警鐘が鳴り響いていた。
◇ ◇ ◇
疾風が駆け抜ける。
エメラルドの風は、草を殴り、砂塵を巻き上げ疾走する。
「クエン、わかるか?」
『ああ、間違いねぇぜ!』
やっと、見つけた。
欠片も痕跡を残さなかった者が、ようやく尻尾を出したのだ。
「飛ばすぞ!」
『おう!』
彼らの想いはただ一つ。
どうか、どうか。
◇ ◇ ◇
もし、この炎がただの炎だったのなら。
彼女は獲物を明け渡したりはしなかっただろう。
森を容赦なく焼き払う炎に、彼女の知る温かさは微塵もなかった。
己の知るそれとは全く異なるというのに。
「何だ、この焦りは……!」
だが、違うと叫ぶ心の一方で、確信が彼女を焦らせた。
水華を強く握り締める。
脈打つ警鐘は、相方からも伝ってきた。
「いや、きっと何か! 何かあるはず……!」
会えば、言葉を交わせば、この渦巻く不安は無くなるだろう。
故に走るのだ。真相を確かめるべく。
タカトの言霊が、焦りに拍車をかける。
「一族の、担い手……」
それは彼女一人ではないはず。
床に伏せてはいるものの、彼女の幼馴染みもまた、次代の担い手だ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
肩で息をしながら、火の海を見渡す。
まだ、〝彼〟は此処いる。
揺らぐ炎は紛れもなく〝あの炎〟だった。
大樹を蝕む灼熱の炎。
その色は、夕焼けのような紅ではなく。
「蒼い……」
呟いた彼女の耳元で、聞き慣れた声が響く。
「来てたんだね」
「その声は……
振り返った彼女の全身を、衝撃が貫いた。
身も心も、一瞬のうちに崩れ落ちる。
勢いよく彼女の脇腹から引き抜かれた刃。血糊の隙間からは、蒼い刀身が煌めきを放つ。
霞む視界を、瞳に浮かんだ雫がより朧気にした。
心を埋め尽くすのは、切なる想い。
「しょ……うご……さ……? ど……うし、て……」
それを言葉に紡ぎきることもできず、瞼が落ちる。
動かなくなった同族を、冷え切った眼差しが射抜いていた。
第45記 錯交する想い
純白の毛並みを逆立て、聖獣は唸る。
鼻先に舞い降りてきた火の粉を睨みつける黄金の双眸には、抑えようのない怒気が満ちていた。
「たかが聖霊とヴァルトの分際で……」
ようやく自由を取り戻し始めた首を回しながら、文句を羅列する聖獣には、もはや威厳など欠片もない。
「ガキ共が。スニィめ……よくも氷漬けに……。おれ様の美貌がびしょ濡れだ」
大きな体躯を震わせ、毛にまとわりついている雫を払う。
憤懣[ やる方ないといった体[ で尾を一振りしたディオウは、藍色の空を見上げた。
日没まで、そう時間はないだろう。
己の制止を聞かず、一族の若頭を助けに戻ったタカト。
彼の呪縛を抑制するために、その後を追ったスニィ。
無謀極まりない若者二人を思い浮かべ、忌々しげに舌打ちする。
「完全に溶けたか……」
聖霊か、それを凌ぐ力を持ってしなければ、スニィの足止めが溶けるはずはないのだ。
ディオウが自由になれたということは、即ち。
「誰だ、森に火を放った戯けは」
タカトに烙印されている呪縛が暴走するのは、明白だ。
聖霊であるスニィがどれだけ魔力が高いと言えど、抑制することは叶わないだろう。
元を絶たなければ、根本の解決にはならない。
「おれは何故いつも……くそっ!」
一体何度味わえば気が済む。この、無力だと突きつけられる現実を。
聖獣としてできることは何か。
一瞬の自問自答。
それがはじき出した答えを実現するために。
「中心は、向こうだな」
迫り来る夜を一瞥し、ディオウは飛翔した。
◇ ◇ ◇
揺らめく炎は全てを拒絶する。
立ちはだかる者は、善悪問わず焼き尽くす。
ただ、一重の想いをその手に。
『ショウゴ、構えろ』
脳裏で響いた静かな声音に、男は瞳を細めた。
さんばらな銀髪から覗く両眼は、何処か憂いを滲ませ、現れた敵を見据える。
「キミも来てたんだね」
『構えろ、ショウゴ!』
微かに、だが確かに焦りを帯びた声が耳朶に突き刺さった。
刹那、頬を何かが掠める。
直感で後退していなければ、掠り傷では済まなかっただろう。
金髪の青年は左手を腰に当て、不敵に微笑んだ。
「そんな驚いた顔しなくていいぜ。おれは、おれだから」
「キミは、一体……」
頬に流れた朱の糸を拭い、己を切り裂こうと振り下ろされたであろう得物を探す。
しかし、青年の両手にそれは見当たらない。
『引け、ショウゴ。奴はあいつじゃない』
「ソウ……?」
『じきにクエンも来る』
相方の刀から伝わる鼓動。
不規則に脈打つ音は、正確に敵を示していた。
「おれが一体何者かって? お互い様だろ。おまえこそ、何で同族を手にかけた?」
「キミが……彼じゃないなら、答える必要もないね」
今ここで、己の存在を他者に悟られるわけにはいかない。
蒼焔を正眼に据え直し、ショウゴは間合いへ飛び込む。
『馬鹿、引け!』
「逃がさねぇよ!」
突如爆発した魔力は周囲の炎を一瞬で呑み込み、白煙を生む。
白い蒸気が立ち込める中で、金属音が響き渡った。
「大丈夫、オレは逃げる気ないよ」
「上等だぜ」
敵の得物は視[ えない。
だが確かに、刀を受け止めている〝何か〟が在[ る。
再びショウゴが蒼焔を振り下ろした時。
『馬鹿野郎っ……!』
蒼い子鬼が顕現した。
白髪蒼肌[ の少年は、ショウゴには視えない得物を握り止め、青年ごと投げ飛ばす。
「ソウ、何で」
『引くぞ』
「ソウ!」
『早くしろ、リュウジが来る!』
鬼神の気迫に呑まれたショウゴは、肩越しに横たわる同族を振り返った。
この場で追っ手に捕まるわけにはいかない。
「……っ!」
身を翻したショウゴの背を見つめながら、青年は髪に食いつく蒼白の炎を払い落とした。
左手で目元を覆い、大きく息を吐き出す。
「あー、血ぃー、たりねぇー……」
『何故、逃がした』
落ち着いた女の声が、背後から投げかけられた。
また一つ、大袈裟に溜息をついた青年は、巨木に背を預け、のろのろと地べたに座り込む。
「おまえさー、ずっと隠れてたくせに文句言うなよ」
『文句なぞ私は言っていない。何故かと問うただけだ』
「……おまえだって逃がしたじゃねぇか」
不服そうに返ってきた返事に、女は沈黙する。
「火ぃ、消さねぇのかよ」
『……私が、か?』
「おれ、もう動けません」
『ふん、相変わらず脆い奴だ』
呆れ口調で言い放つと、女はその姿を現した。
巨木の影から現れた彼女は、白藍[ の髪を風に流し、大樹を蝕む炎に目を向ける。
『放っておけばいいだろう』
「火も、あっちもか?」
視線だけ隣に立つ女に向け、青年は顎[ で倒れている女を指した。
言葉は、返ってこない。
答える気がない相手を見上げたまま、青年は苦笑を滲ませる。
「おまえも、相変わらずいい性格してるぜ……」
『何のことだ』
「使い手、重症なんじゃねぇのかよ?」
何故力を貸してやらなかったのかと、青年の眼差しは言っていた。
助けてやれば、傷を負うこともなかったはずだ、と。
『あの程度の不意打ち防ぎきれぬようでは、まだ私を使う資格など無い。仮に助けたとて、あれは戦意喪失している。無駄な労力だ』
「ホント、いい性格してるな……」
呟かれた皮肉を黙殺し、女は静かに目を伏せる。
『心は、力では救えぬ』
凛とした彼女の声を掻き消すように、蒼い炎が木々を呑み込んでいった。
◇ ◇ ◇
日は陰り、木の葉が創り出す闇が浮かび上がる。
その闇を煌めく粉たちが切り裂いていく。
森の中心に立ち上った蒼き狼煙は、何処からでも確認できた。
「俺は何ができるんだ……」
故郷が、燃えている。
動く理由はあるのに、足が動かない。
大地に根を張ったとでもいうのか。
「違う……」
動けないのは、何をしていいかわからないからではなくて。
胸に過ぎる悪夢が、現実になるのが怖いから。
失うことが怖いから ……
「ラキィ!」
己の内から現実へ引き戻されたリードは、その引き金を引いた声を顧みた。
凄まじい勢いで向かってくる声の主は、白い獣。
「聖獣……」
「ディオウ! お姉さんたちはどうしたの!?」
リードの前で立ち止まったディオウに、ラキィが問いかける。
僅かに瞳を眇め、ディオウは低く唸った。
「その話は後だ。聖霊を解放しなければ、呪縛が暴走する。そうなればタカトだけでなく、スニィも危なくなる」
「お姉さんは一緒じゃないの?」
「マツザワは恐らく……」
言い淀んだディオウは、森を照らす蒼い火柱を見上げた。
突如狼煙のように立ち上った火柱が示す、位置は。
「おい、中心に誰か行ったのか?」
「行ったらどうだというんだ」
敵意を剥き出しに眼光を鋭くしたディオウに、リードは火柱を見つめながら答える。
「金髪が、誰も行かせるなと言ったんだ。中心にいるアレノスはいないから、火が消えるまで来るなってな」
「金髪? アズウェルが?」
「そうなのよ、ディオウ。アズウェル……なんか……アズウェルじゃないみたいで……」
言いながら俯くラキィを見て、ディオウは舌打ちしたい気分になった。
何故、自分がその場に居合わせなかったのかと。
「……そうか。ラキィ、お前はラートとここにいろ」
「え、ディオウはどこに行くのよ?」
「おれはアズウェルとマツザワのところに行く」
悠然と言い切ったディオウを、リードが一瞥する。
「俺の話を聞いていなかったのか?」
「アズウェルが何を考えていたのか知らんが、これ以上リスクを上げるわけにはいかん。貴様も来い」
「俺は」
「貴様の父親を解放できなければ意味がない。案内しろ」
反論しようとしたリードの言葉を遮り、ディオウは身を翻す。
「俺は……」
何を反論しようとしたのか。
金髪の青年に動くなと言われたから、此処に留まっていたのか。
行ったところで、おまえが言ってた敵ももういねぇ
そう聞いてから、棒のように動きを止めた両足。
抱く悪夢が現[ にならぬよう、止まってしまった自分自身。
「早くしろ!」
聖獣の怒声が四肢を奮い立たせる。
まだ、見てないのだから。
現実は逃げない。自身の目で見て初めて、それは己の現実になる。
震える膝を叱咤し、リードは駆け出した。
◇ ◇ ◇
ぽたりと。
心地良い雫が頬を伝った。
「降ってきたな」
一人心地でぼんやりと呟く。
意識を保つのも、そろそろ限界だ。
『知っていたな……』
「まぁ、な」
微笑みを浮かべ、青年はそっと瞼を閉じた。
隣に佇む女からは批難の言葉が降ってくる。
だが彼の耳に届いているのは、空から降り注ぐ雨滴の音のみ。
「来るの遅いんだよ……」
もっと早くに来てくれたなら、壊れることのないものもあったのに。
けれども。
早かったら、おれが困るんだけどな……
『力尽きたか』
隣にあった魔力の消失を感じ、女は呟いた。
青年が抱えていた白き杖が、瞬[ く間に霧散する。
その様を横目で見取った彼女は、片膝を付くと青年の金髪を静かに撫でた。
髪の隙間から覗く流血の痕。髪を伝って落ちる水滴。
満身創痍の青年を見つめ、瞳を細める。
『濡れるのは嫌いだろう』
問いかけた彼女の髪が、吹き抜けた風に流された。
視線を青年から離すことなく、現れた二つの影に言伝を告げる。
『遅いと、言っていたぞ』
それは全てを、物語っていた。
鼻先に舞い降りてきた火の粉を睨みつける黄金の双眸には、抑えようのない怒気が満ちていた。
「たかが聖霊とヴァルトの分際で……」
ようやく自由を取り戻し始めた首を回しながら、文句を羅列する聖獣には、もはや威厳など欠片もない。
「ガキ共が。スニィめ……よくも氷漬けに……。おれ様の美貌がびしょ濡れだ」
大きな体躯を震わせ、毛にまとわりついている雫を払う。
日没まで、そう時間はないだろう。
己の制止を聞かず、一族の若頭を助けに戻ったタカト。
彼の呪縛を抑制するために、その後を追ったスニィ。
無謀極まりない若者二人を思い浮かべ、忌々しげに舌打ちする。
「完全に溶けたか……」
聖霊か、それを凌ぐ力を持ってしなければ、スニィの足止めが溶けるはずはないのだ。
ディオウが自由になれたということは、即ち。
「誰だ、森に火を放った戯けは」
タカトに烙印されている呪縛が暴走するのは、明白だ。
聖霊であるスニィがどれだけ魔力が高いと言えど、抑制することは叶わないだろう。
元を絶たなければ、根本の解決にはならない。
「おれは何故いつも……くそっ!」
一体何度味わえば気が済む。この、無力だと突きつけられる現実を。
聖獣としてできることは何か。
一瞬の自問自答。
それがはじき出した答えを実現するために。
「中心は、向こうだな」
迫り来る夜を一瞥し、ディオウは飛翔した。
◇ ◇ ◇
揺らめく炎は全てを拒絶する。
立ちはだかる者は、善悪問わず焼き尽くす。
ただ、一重の想いをその手に。
『ショウゴ、構えろ』
脳裏で響いた静かな声音に、男は瞳を細めた。
さんばらな銀髪から覗く両眼は、何処か憂いを滲ませ、現れた敵を見据える。
「キミも来てたんだね」
『構えろ、ショウゴ!』
微かに、だが確かに焦りを帯びた声が耳朶に突き刺さった。
刹那、頬を何かが掠める。
直感で後退していなければ、掠り傷では済まなかっただろう。
金髪の青年は左手を腰に当て、不敵に微笑んだ。
「そんな驚いた顔しなくていいぜ。おれは、おれだから」
「キミは、一体……」
頬に流れた朱の糸を拭い、己を切り裂こうと振り下ろされたであろう得物を探す。
しかし、青年の両手にそれは見当たらない。
『引け、ショウゴ。奴はあいつじゃない』
「ソウ……?」
『じきにクエンも来る』
相方の刀から伝わる鼓動。
不規則に脈打つ音は、正確に敵を示していた。
「おれが一体何者かって? お互い様だろ。おまえこそ、何で同族を手にかけた?」
「キミが……彼じゃないなら、答える必要もないね」
今ここで、己の存在を他者に悟られるわけにはいかない。
蒼焔を正眼に据え直し、ショウゴは間合いへ飛び込む。
『馬鹿、引け!』
「逃がさねぇよ!」
突如爆発した魔力は周囲の炎を一瞬で呑み込み、白煙を生む。
白い蒸気が立ち込める中で、金属音が響き渡った。
「大丈夫、オレは逃げる気ないよ」
「上等だぜ」
敵の得物は
だが確かに、刀を受け止めている〝何か〟が
再びショウゴが蒼焔を振り下ろした時。
『馬鹿野郎っ……!』
蒼い子鬼が顕現した。
白髪
「ソウ、何で」
『引くぞ』
「ソウ!」
『早くしろ、リュウジが来る!』
鬼神の気迫に呑まれたショウゴは、肩越しに横たわる同族を振り返った。
この場で追っ手に捕まるわけにはいかない。
「……っ!」
身を翻したショウゴの背を見つめながら、青年は髪に食いつく蒼白の炎を払い落とした。
左手で目元を覆い、大きく息を吐き出す。
「あー、血ぃー、たりねぇー……」
『何故、逃がした』
落ち着いた女の声が、背後から投げかけられた。
また一つ、大袈裟に溜息をついた青年は、巨木に背を預け、のろのろと地べたに座り込む。
「おまえさー、ずっと隠れてたくせに文句言うなよ」
『文句なぞ私は言っていない。何故かと問うただけだ』
「……おまえだって逃がしたじゃねぇか」
不服そうに返ってきた返事に、女は沈黙する。
「火ぃ、消さねぇのかよ」
『……私が、か?』
「おれ、もう動けません」
『ふん、相変わらず脆い奴だ』
呆れ口調で言い放つと、女はその姿を現した。
巨木の影から現れた彼女は、
『放っておけばいいだろう』
「火も、あっちもか?」
視線だけ隣に立つ女に向け、青年は
言葉は、返ってこない。
答える気がない相手を見上げたまま、青年は苦笑を滲ませる。
「おまえも、相変わらずいい性格してるぜ……」
『何のことだ』
「使い手、重症なんじゃねぇのかよ?」
何故力を貸してやらなかったのかと、青年の眼差しは言っていた。
助けてやれば、傷を負うこともなかったはずだ、と。
『あの程度の不意打ち防ぎきれぬようでは、まだ私を使う資格など無い。仮に助けたとて、あれは戦意喪失している。無駄な労力だ』
「ホント、いい性格してるな……」
呟かれた皮肉を黙殺し、女は静かに目を伏せる。
『心は、力では救えぬ』
凛とした彼女の声を掻き消すように、蒼い炎が木々を呑み込んでいった。
◇ ◇ ◇
日は陰り、木の葉が創り出す闇が浮かび上がる。
その闇を煌めく粉たちが切り裂いていく。
森の中心に立ち上った蒼き狼煙は、何処からでも確認できた。
「俺は何ができるんだ……」
故郷が、燃えている。
動く理由はあるのに、足が動かない。
大地に根を張ったとでもいうのか。
「違う……」
動けないのは、何をしていいかわからないからではなくて。
胸に過ぎる悪夢が、現実になるのが怖いから。
失うことが怖いから
「ラキィ!」
己の内から現実へ引き戻されたリードは、その引き金を引いた声を顧みた。
凄まじい勢いで向かってくる声の主は、白い獣。
「聖獣……」
「ディオウ! お姉さんたちはどうしたの!?」
リードの前で立ち止まったディオウに、ラキィが問いかける。
僅かに瞳を眇め、ディオウは低く唸った。
「その話は後だ。聖霊を解放しなければ、呪縛が暴走する。そうなればタカトだけでなく、スニィも危なくなる」
「お姉さんは一緒じゃないの?」
「マツザワは恐らく……」
言い淀んだディオウは、森を照らす蒼い火柱を見上げた。
突如狼煙のように立ち上った火柱が示す、位置は。
「おい、中心に誰か行ったのか?」
「行ったらどうだというんだ」
敵意を剥き出しに眼光を鋭くしたディオウに、リードは火柱を見つめながら答える。
「金髪が、誰も行かせるなと言ったんだ。中心にいるアレノスはいないから、火が消えるまで来るなってな」
「金髪? アズウェルが?」
「そうなのよ、ディオウ。アズウェル……なんか……アズウェルじゃないみたいで……」
言いながら俯くラキィを見て、ディオウは舌打ちしたい気分になった。
何故、自分がその場に居合わせなかったのかと。
「……そうか。ラキィ、お前はラートとここにいろ」
「え、ディオウはどこに行くのよ?」
「おれはアズウェルとマツザワのところに行く」
悠然と言い切ったディオウを、リードが一瞥する。
「俺の話を聞いていなかったのか?」
「アズウェルが何を考えていたのか知らんが、これ以上リスクを上げるわけにはいかん。貴様も来い」
「俺は」
「貴様の父親を解放できなければ意味がない。案内しろ」
反論しようとしたリードの言葉を遮り、ディオウは身を翻す。
「俺は……」
何を反論しようとしたのか。
金髪の青年に動くなと言われたから、此処に留まっていたのか。
そう聞いてから、棒のように動きを止めた両足。
抱く悪夢が
「早くしろ!」
聖獣の怒声が四肢を奮い立たせる。
まだ、見てないのだから。
現実は逃げない。自身の目で見て初めて、それは己の現実になる。
震える膝を叱咤し、リードは駆け出した。
◇ ◇ ◇
ぽたりと。
心地良い雫が頬を伝った。
「降ってきたな」
一人心地でぼんやりと呟く。
意識を保つのも、そろそろ限界だ。
『知っていたな……』
「まぁ、な」
微笑みを浮かべ、青年はそっと瞼を閉じた。
隣に佇む女からは批難の言葉が降ってくる。
だが彼の耳に届いているのは、空から降り注ぐ雨滴の音のみ。
「来るの遅いんだよ……」
もっと早くに来てくれたなら、壊れることのないものもあったのに。
けれども。
『力尽きたか』
隣にあった魔力の消失を感じ、女は呟いた。
青年が抱えていた白き杖が、
その様を横目で見取った彼女は、片膝を付くと青年の金髪を静かに撫でた。
髪の隙間から覗く流血の痕。髪を伝って落ちる水滴。
満身創痍の青年を見つめ、瞳を細める。
『濡れるのは嫌いだろう』
問いかけた彼女の髪が、吹き抜けた風に流された。
視線を青年から離すことなく、現れた二つの影に言伝を告げる。
『遅いと、言っていたぞ』
それは全てを、物語っていた。
第46記 罪人たちは憂う
日が、沈んだ。
赤い両翼を羽ばたかせ、アレノスは口端を吊り上げた。
「ヒヒヒ、ヴァルトは終わりダ!」
『タカトさん!』
名を呼んだスニィの声が、森の悲鳴に掻き消される。
木々を眠らせていた氷は完全に溶け、もはや森の声を抑える者はいない。
タカトの震える右手から、朱銀の筆架叉が零れ落ちる。
胸元を左手で鷲掴み、タカトは苦痛に顔を歪めた。
……テタ
「違う、俺は……違うっ……!」
『タカトさん、声を聞いたらだめです!』
懸命にスニィが叫ぶが、タカトに届く声は別のそれ。
見捨テタ
木の葉が不気味な音を立て、賛同する。
「ち……が……っ! それは、ちが……うっ!」
『答えちゃだめですっ!』
「ヴァルトにいくら呼びかけても無駄ダ。イヒヒ、届かナイ、終わりダ!!」
無防備なタカトに向かって、アレノスが急降下する。
『もう戦う術が……!』
スニィの魔力は、もう底をついている。
呪縛を抑えるために、彼女は持てる力の全てを注いでいた。
だが、それも保って日没まで。
夜が来れば、負の感情はまやかしでは抑えられなくなるのだ。
「やめろ、俺は、俺は……違う!!」
『タカトさん、私の声を聞いてください!』
「ヒヒ、二人とも死ね!」
アレノスがその両爪を振り上げた時。
オ前ガ、見捨テタ
「やめろ……」
『お願い、タカトさん気付いて!』
オ前ガ、殺シタ!
「 !!」
声にならない悲鳴が、凄まじい魔力を伴い迸った。
◇ ◇ ◇
『遅いと、言っていたぞ』
静かに告げられた言伝に、男は険しい顔つきになる。
結局間に合わなかったのだ。
漸[ く掴んだ気配も、今は塵[ ほどもなかった。
『くっそ……俺が、もっと早くにソウに気付いていれば……!』
項垂[ れている相方の背を、男がそっと叩く。
「クエン、お前のせいではない。己を責めるな」
『……弟の異変に気付かないなんて、兄失格だ』
顔を上げようとしないクエンを一瞥し、言伝を告げた女が口を開いた。
『依頼が来るまで知らぬ振りをしていた、一族の責任だろう。まったく、厄介なものだな。人の子は』
彼女なりの激励は、しかしクエンにとって耳に痛いものでしかない。
何故ならクエン自身もまた、彼女の言う〝一族〟に入るからだ。
「スイカ、お前も俺も、誰もクエンを責めることはできない」
『私とて、あくまで共犯か。責める資格がある者は……』
スイカは眼前で意識を失っている青年と、男の足下で横たわる女を見つめる。
〝あの日〟から、守ると決めた唯一無二の命 。
それを知らずに戦った二人は、自分たちを責めることができるだろう。
「すまない、ミズナ……」
己の妹を抱き上げ、左目に眼帯をした男は呟いた。
覆い茂っていた木の葉たちは炎によって焼失し、雨を遮るものは何一つ残っていない。降り注ぐ雨が、意識のない二人の体温を奪っていく。
「お前は……お前たちは…… 」
冷たくなった彼女の頬に手を当て、呪を唱えた。
「ケア・ダスト」
兄として、師として。
妹を、弟子を、巻き込みたくなかった。
この古傷を、背負わせたくなかった
◇ ◇ ◇
今駆け抜けている此処は、自身の故郷に他ならない。
だというのに、リードは違和感を拭い去れなかった。
「おかしい」
森の中心に近付けば近付くほど、記憶のそれと異なる情景が瞳に映る。
リードたちが森に張り巡らせた結界は、既に解かれている。しかし別の何かが、彼らの行く手を阻んでいた。
「おい、エルフ。本当にこっちで合っているのか?」
苛立ちを募らせているディオウが、リードを睨む。
「道は間違いない。だが、どうやら俺たちは中心に行けないようだな」
「何だと?」
微かに漂う魔力は、エルフでも聖霊のものでもない。
それ以外の何者かの手によって、空間が歪められている。
内からの結界は、術者に許されない限り侵入不可能だ。
確かに、中心にいるであろう二人の安否も気になるが。
「親父の所に行ければ文句ないだろう」
「どういう意味だ」
「来ればわかる」
ディオウの問いに短く応え、リードは一度止めた足を進めた。
◇ ◇ ◇
小雨が降りしきる中、妹と弟子を治療しているルーティングを一瞥し、スイカは身を翻した。
使い手であるミズナから離れていくスイカに、クエンが問いかける。
『どこに行くんだよ』
『人払いは済ませてある』
求めていた答えと違う言葉が投げ返され、クエンは怪訝そうに顔を顰[ めた。
彼女が言う通り、クエンたちが来てからというもの、小鳥一羽すら見かけない。
空から降る雨滴を利用すれば、空間の一つや二つ、隠すことができる。それが、水神であるスイカの力。
『其奴らに訊くのだろう』
ここで何が起きたのか。
暗躍しているショウゴとソウエンを見つけるためには、どんな些細なことでも訊く必要があった。
『お前が話した方が早いだろ』
この場にいた中で、一部始終見ていたのはスイカだけ。
何も知らずにショウゴと遇ってしまったミズナたちに訊くより、彼女に問うた方が。
ミズナには、できれば訊きたくない。これ以上、巻き込みたくないから。
『零番任務を受けた使い手たちに、逃げ場はない。……じきに目を覚ますだろう』
『おい待てよ、スイカ!』
彼女の腕を掴もうとしたクエンの右手は、雨を握り締めただけだった。
『何で……』
また、消えてしまった。
姿も気配も。
『何でお前は、ミズナに会おうとしないんだよ……』
彼女を降ろせないということで、ミズナが負い目を感じているというのに。
守り神は、使い手の傍から離れることはできない。
使い手の意識が途切れていれば、この世に姿を現すことはできない。
しかしスイカだけは例外で。
『あいつ、まさか……』
いや、例外など有りはしない。
守り神が自由に動ける唯一の術[ は。
『まだ、好きなのか。あいつのこと……』
ぽつりと呟いたクエンの頬を雫が滑る。
それは雨滴なのか、それとも。
『俺だって、忘れたわけじゃねぇよ……』
絞り出された震える声は、ルーティングの耳にも届いていた。
◇ ◇ ◇
「これか」
「そうだ」
一際巨大な樹木に、深紅の結晶が埋め込まれている。
リードの身丈ほどもある結晶の中には、眠るようにして目を閉じるラスの姿があった。
「下がっていろ、エルフ」
体勢を低くし、ディオウは結晶を見据える。
この力を使うのは何百年振りだろうか。
「何をするつもりだ?」
問いかけてきたリードに対し、ディオウは言葉ではなく眼差しを返した。
開かれた瞳を認め、絶句する。
第三の目と謳われる瞳の色は、金ではなかった。
人々が知らないもう一つの色。
それは。
神に伝わる〝伝承〟の……
赤い両翼を羽ばたかせ、アレノスは口端を吊り上げた。
「ヒヒヒ、ヴァルトは終わりダ!」
『タカトさん!』
名を呼んだスニィの声が、森の悲鳴に掻き消される。
木々を眠らせていた氷は完全に溶け、もはや森の声を抑える者はいない。
タカトの震える右手から、朱銀の筆架叉が零れ落ちる。
胸元を左手で鷲掴み、タカトは苦痛に顔を歪めた。
「違う、俺は……違うっ……!」
『タカトさん、声を聞いたらだめです!』
懸命にスニィが叫ぶが、タカトに届く声は別のそれ。
木の葉が不気味な音を立て、賛同する。
「ち……が……っ! それは、ちが……うっ!」
『答えちゃだめですっ!』
「ヴァルトにいくら呼びかけても無駄ダ。イヒヒ、届かナイ、終わりダ!!」
無防備なタカトに向かって、アレノスが急降下する。
『もう戦う術が……!』
スニィの魔力は、もう底をついている。
呪縛を抑えるために、彼女は持てる力の全てを注いでいた。
だが、それも保って日没まで。
夜が来れば、負の感情はまやかしでは抑えられなくなるのだ。
「やめろ、俺は、俺は……違う!!」
『タカトさん、私の声を聞いてください!』
「ヒヒ、二人とも死ね!」
アレノスがその両爪を振り上げた時。
「やめろ……」
『お願い、タカトさん気付いて!』
「
声にならない悲鳴が、凄まじい魔力を伴い迸った。
◇ ◇ ◇
『遅いと、言っていたぞ』
静かに告げられた言伝に、男は険しい顔つきになる。
結局間に合わなかったのだ。
『くっそ……俺が、もっと早くにソウに気付いていれば……!』
「クエン、お前のせいではない。己を責めるな」
『……弟の異変に気付かないなんて、兄失格だ』
顔を上げようとしないクエンを一瞥し、言伝を告げた女が口を開いた。
『依頼が来るまで知らぬ振りをしていた、一族の責任だろう。まったく、厄介なものだな。人の子は』
彼女なりの激励は、しかしクエンにとって耳に痛いものでしかない。
何故ならクエン自身もまた、彼女の言う〝一族〟に入るからだ。
「スイカ、お前も俺も、誰もクエンを責めることはできない」
『私とて、あくまで共犯か。責める資格がある者は……』
スイカは眼前で意識を失っている青年と、男の足下で横たわる女を見つめる。
〝あの日〟から、守ると決めた唯一無二の
それを知らずに戦った二人は、自分たちを責めることができるだろう。
「すまない、ミズナ……」
己の妹を抱き上げ、左目に眼帯をした男は呟いた。
覆い茂っていた木の葉たちは炎によって焼失し、雨を遮るものは何一つ残っていない。降り注ぐ雨が、意識のない二人の体温を奪っていく。
「お前は……お前たちは……
冷たくなった彼女の頬に手を当て、呪を唱えた。
「ケア・ダスト」
兄として、師として。
妹を、弟子を、巻き込みたくなかった。
◇ ◇ ◇
今駆け抜けている此処は、自身の故郷に他ならない。
だというのに、リードは違和感を拭い去れなかった。
「おかしい」
森の中心に近付けば近付くほど、記憶のそれと異なる情景が瞳に映る。
リードたちが森に張り巡らせた結界は、既に解かれている。しかし別の何かが、彼らの行く手を阻んでいた。
「おい、エルフ。本当にこっちで合っているのか?」
苛立ちを募らせているディオウが、リードを睨む。
「道は間違いない。だが、どうやら俺たちは中心に行けないようだな」
「何だと?」
微かに漂う魔力は、エルフでも聖霊のものでもない。
それ以外の何者かの手によって、空間が歪められている。
内からの結界は、術者に許されない限り侵入不可能だ。
確かに、中心にいるであろう二人の安否も気になるが。
「親父の所に行ければ文句ないだろう」
「どういう意味だ」
「来ればわかる」
ディオウの問いに短く応え、リードは一度止めた足を進めた。
◇ ◇ ◇
小雨が降りしきる中、妹と弟子を治療しているルーティングを一瞥し、スイカは身を翻した。
使い手であるミズナから離れていくスイカに、クエンが問いかける。
『どこに行くんだよ』
『人払いは済ませてある』
求めていた答えと違う言葉が投げ返され、クエンは怪訝そうに顔を
彼女が言う通り、クエンたちが来てからというもの、小鳥一羽すら見かけない。
空から降る雨滴を利用すれば、空間の一つや二つ、隠すことができる。それが、水神であるスイカの力。
『其奴らに訊くのだろう』
ここで何が起きたのか。
暗躍しているショウゴとソウエンを見つけるためには、どんな些細なことでも訊く必要があった。
『お前が話した方が早いだろ』
この場にいた中で、一部始終見ていたのはスイカだけ。
何も知らずにショウゴと遇ってしまったミズナたちに訊くより、彼女に問うた方が。
ミズナには、できれば訊きたくない。これ以上、巻き込みたくないから。
『零番任務を受けた使い手たちに、逃げ場はない。……じきに目を覚ますだろう』
『おい待てよ、スイカ!』
彼女の腕を掴もうとしたクエンの右手は、雨を握り締めただけだった。
『何で……』
また、消えてしまった。
姿も気配も。
『何でお前は、ミズナに会おうとしないんだよ……』
彼女を降ろせないということで、ミズナが負い目を感じているというのに。
守り神は、使い手の傍から離れることはできない。
使い手の意識が途切れていれば、この世に姿を現すことはできない。
しかしスイカだけは例外で。
『あいつ、まさか……』
いや、例外など有りはしない。
守り神が自由に動ける唯一の
『まだ、好きなのか。あいつのこと……』
ぽつりと呟いたクエンの頬を雫が滑る。
それは雨滴なのか、それとも。
『俺だって、忘れたわけじゃねぇよ……』
絞り出された震える声は、ルーティングの耳にも届いていた。
◇ ◇ ◇
「これか」
「そうだ」
一際巨大な樹木に、深紅の結晶が埋め込まれている。
リードの身丈ほどもある結晶の中には、眠るようにして目を閉じるラスの姿があった。
「下がっていろ、エルフ」
体勢を低くし、ディオウは結晶を見据える。
この力を使うのは何百年振りだろうか。
「何をするつもりだ?」
問いかけてきたリードに対し、ディオウは言葉ではなく眼差しを返した。
開かれた瞳を認め、絶句する。
第三の目と謳われる瞳の色は、金ではなかった。
人々が知らないもう一つの色。
それは。
第47記 目覚めと眠り
聖獣は、三つの目が全て黄金だ。
それが常識であり、人々はそれを真[ だと信じている。
だが。
瞼が覆い隠す黄金の双眸。
その代わりに開いたものは、白銀の眼[ 。
「〝伝承〟……」
神話に等しい〝伝承〟は、ある古の民たちを語り継ぐものだ。
先刻、〝伝承〟の一つを視たばかりだというのに。一カ所に複数の伝承が集まるなんて。
言葉を失っているリードを余所に、ディオウは深紅の結晶を見上げた。
禍々しい魔力の結晶体に封じられている聖霊を見据え、嘲笑する。
「不甲斐ない姿だな」
仮にも神の末裔ともあろう聖霊が、いとも簡単に封じられているようでは、同位に席を置く聖獣まで見下されるではないか。
白銀の眼は真っ直ぐラスの額を見据え、一つ瞬きをする。
「レ・ディーレ」
唱えた直後、紅い閃光が迸った。
右手を目元に翳[ し、リードは目を凝らす。
徐々に光が霧散していき、長身の影が浮かび上がった。
影は伸びをすると、第一声を放つ。
「あー、よく寝た」
久方振りに間の抜けた声を聞いた途端、リードの中で何かが切れた。
「ふざけたことを言ってんじゃねぇ、馬鹿親父!」
「あ、リード。おはよー」
「おはよーじゃねぇ! 森が大変な時に何言って……」
感情のままに怒鳴り散らしていたリードは、言いかけて変化に気付く。
「解放と同時に、静まったぞ」
白銀から黄金に戻った眼差しを向け、ディオウが言った。
そう、ほんの数秒前までざわめいていた森が、今は静けさに包まれているのだ。
「声が、消えた……」
「今日は雨が降ってるなぁ」
呑気に呟いて空を仰ぐ父親を見上げ、リードは拳を握り締めた。
何故そんなに力があるのに、捕まったりしたのだ。
ラスが、押し黙ったリードの頭にぽんと手を置く。
「ピュアとチャイを迎えに行くか」
覗き込んで来るこの笑顔を見たのは、何年振りだろうか。
熱くなった目頭を右手で隠し、リードは父親の言葉に頷いた。
◇ ◇ ◇
「気がついたか」
一番初めに届いた声は、数日前に戻ってきた懐かしき兄のもの。
ぼんやりとした視界の中で、兄の姿を探す。
「兄さ、ま……?」
『ほら探してるぞ、相棒』
クエンに促され、ルーティングはミズナの右手を握った。
「ここに、いる」
手を通して伝わる温もりに安心した彼女は、再び瞼を閉じる。
寝息を立て始めた妹を横目に見ながら、ルーティングは眉根を寄せた。
彼の傍らに立つクエンもまた、険しい色を浮かべている。
『重症だな……』
「仕方ないだろう」
治療術で怪我は既に塞がっているが、所詮魔術でできることはその程度だ。
起きたことを訊くには、些か時間を要するかもしれない。
しかし彼らに、彼女の傷が癒えるまで待つ時間はなかった。
より彼女を傷つける結果になったとしても、問わなければならない。
二人を止めなければ、哀しみの波紋は広がるばかりなのだから。
『ソウエン……お前、どうしたいんだよ……』
力なく俯き、クエンは瞳を揺らす。
何故いつも一人で行ってしまうのか。
〝あの日〟までは、どんな時でも共に在ったのに。
『〝あの日〟も一緒にいたじゃねぇかよ……』
袂[ を連ねた双子の声が、聞こえない。
呼びかけても返ってこないという不安は、こんなにも大きいものなのだろうか。
『俺たち、双子なんだよな。ずっと一緒だったよな……?』
クエンは、色褪[ せていく記憶にそっと問いかけた。
◇ ◇ ◇
吹き荒れていた風が、突如として止んだ。
顔にかかる白髪を払い除[ け、スニィは倒れている人影へ足を運ぶ。
『タカトさん、しっかりしてください!』
荒い呼吸を繰り返すタカトから、少しずつ生気が薄れていく。
見つめていることしかできないスニィは、悔しそうに唇を噛み締めた。
ふいに消えた森の声。
魔力を暴発させ、昏倒したタカト。
声が消えたというのに、森の呪縛は不規則に脈を打っていた。
『私は、どうしたらいいのですか……セイラン……』
故郷にいる友人を思い浮かべ、スニィは涙を堪える。
無事だろうか。
彼女の心に不安が過[ ぎった時。
「スニィ!」
聖獣の声が名を呼んだ。
振り返ると、足止めをしたはずのディオウと、リードがいた。
そして、もう一人。
「おー、可愛い子がいるじゃん」
小麦色の肌をした男が、スニィの元へ歩み寄る。
「親父、問題はヴァルトの方だ。水の聖霊じゃない」
あからさまに顔を顰[ め、リードは父親の背中を叩いた。
ひらひらと手を振りながら、ラスが苦笑する。
「わかってるって。この子だろ?」
『あ、あの……』
タカトを指差す男に、スニィが怪訝そうな眼差しを向けた。
戸惑いを隠せないスニィを見て、ラスは陽気に言い放つ。
「俺、ラス。木の聖霊なんだ、一応っ!」
「一応じゃねぇ! さっさと呪縛を消せ、馬鹿親父!」
「……懲りないな」
ラスを解放してからずっと怒鳴っているリードを、ディオウが半眼で見つめた。
聖霊には癖がある。
それをよく知っているディオウは、能天気なラスへ逐一怒鳴り返しているリードに呆れていた。
己の父親だからこそ、無視できないのかもしれないが。
リードに怒鳴られながら、ラスはタカトの呪縛を指でなぞっていく。
「……これ、俺じゃ消せない」
急に真剣な面持ちになったラスが放った言葉は、その場を凍り付かせた。
鋭くディオウが切り返す。
「面白くない冗談だな」
「悪いけど、今のは冗談じゃない。暴走している力を封じることはできたけど、俺では消せないな」
ラスは首を振ると、その場に胡座[ をかいた。
驚き硬直しているリードとスニィに頭を下げ、彼は辛そうな笑みを浮かべる。
「俺は、純聖霊じゃないんでね。できないんだ」
「親父、それも冗談じゃねぇのか?」
「そんな冗談言えるわけねぇだろー……」
息子であるリードですら知らなかった事実は、予想を大きく外れたものだった。
『それじゃ……タカトさんは……』
「早急に森を出るべきだな。今はラスに統括されて大人しくなっているが、いつまた騒ぎ出すかわかったもんじゃない」
「聖獣さーん、言葉にトゲがあるよ、トゲがー」
参ったと言わんばかりに頭を掻いて、ラスは立ち上がる。
「……さて、いい加減出てきたらどうだ、侵入者くん」
「いきなりどうしたんだ…… !?」
問いながら、ラスの視線を追ったリードは、驚愕のあまり瞳を見開いた。
巨木の影から現れたのは、三角のとんがり帽子を被った少女。
彼女が持つ瓶の中にいる少女は。
「ピュア!?」
ガラスの壁に両手を当て、ピュアはラスたちに叫ぶ。
「リード、ラス、助けてー!」
その様を面白そうに見つめながら、少女はにやりと嗤[ った。
「やっぱばれてましたぁー?」
「えぇ、ばれてましたぁー。……うちの子返せよ」
笑顔で応えたラスの声が、突然低くなる。
少女の足を、大地から現れた木の根が拘束した。
「やーだぁー、この子は次の実験材料ですよぉー。返すわけ、ないじゃん」
しかし少女は、気にする素振りも見せずに舌を出す。
四対[ の目が、敵意を帯びた。
◇ ◇ ◇
丸刈りの頭に黒い布を巻いた青年は、屈んで蒼い飛礫[ を拾い上げる。
「あったッスよ、先輩」
「見つけちゃったの……?」
先輩と言われた少女が、哀しそうに瞳を揺らした。
見つけて、しまった。
「そうッスね……」
わだかまっていた疑念は確信に変わり、一縷[ の望みは哀愁へ変わってしまった。
動かぬ証拠を右手に握り締めながら、青年は空を仰ぐ。
黒雲が蠢[ く空は、渦巻く不安を表しているようだった。
それが常識であり、人々はそれを
だが。
瞼が覆い隠す黄金の双眸。
その代わりに開いたものは、白銀の
「〝伝承〟……」
神話に等しい〝伝承〟は、ある古の民たちを語り継ぐものだ。
先刻、〝伝承〟の一つを視たばかりだというのに。一カ所に複数の伝承が集まるなんて。
言葉を失っているリードを余所に、ディオウは深紅の結晶を見上げた。
禍々しい魔力の結晶体に封じられている聖霊を見据え、嘲笑する。
「不甲斐ない姿だな」
仮にも神の末裔ともあろう聖霊が、いとも簡単に封じられているようでは、同位に席を置く聖獣まで見下されるではないか。
白銀の眼は真っ直ぐラスの額を見据え、一つ瞬きをする。
「レ・ディーレ」
唱えた直後、紅い閃光が迸った。
右手を目元に
徐々に光が霧散していき、長身の影が浮かび上がった。
影は伸びをすると、第一声を放つ。
「あー、よく寝た」
久方振りに間の抜けた声を聞いた途端、リードの中で何かが切れた。
「ふざけたことを言ってんじゃねぇ、馬鹿親父!」
「あ、リード。おはよー」
「おはよーじゃねぇ! 森が大変な時に何言って……」
感情のままに怒鳴り散らしていたリードは、言いかけて変化に気付く。
「解放と同時に、静まったぞ」
白銀から黄金に戻った眼差しを向け、ディオウが言った。
そう、ほんの数秒前までざわめいていた森が、今は静けさに包まれているのだ。
「声が、消えた……」
「今日は雨が降ってるなぁ」
呑気に呟いて空を仰ぐ父親を見上げ、リードは拳を握り締めた。
何故そんなに力があるのに、捕まったりしたのだ。
ラスが、押し黙ったリードの頭にぽんと手を置く。
「ピュアとチャイを迎えに行くか」
覗き込んで来るこの笑顔を見たのは、何年振りだろうか。
熱くなった目頭を右手で隠し、リードは父親の言葉に頷いた。
◇ ◇ ◇
「気がついたか」
一番初めに届いた声は、数日前に戻ってきた懐かしき兄のもの。
ぼんやりとした視界の中で、兄の姿を探す。
「兄さ、ま……?」
『ほら探してるぞ、相棒』
クエンに促され、ルーティングはミズナの右手を握った。
「ここに、いる」
手を通して伝わる温もりに安心した彼女は、再び瞼を閉じる。
寝息を立て始めた妹を横目に見ながら、ルーティングは眉根を寄せた。
彼の傍らに立つクエンもまた、険しい色を浮かべている。
『重症だな……』
「仕方ないだろう」
治療術で怪我は既に塞がっているが、所詮魔術でできることはその程度だ。
起きたことを訊くには、些か時間を要するかもしれない。
しかし彼らに、彼女の傷が癒えるまで待つ時間はなかった。
より彼女を傷つける結果になったとしても、問わなければならない。
二人を止めなければ、哀しみの波紋は広がるばかりなのだから。
『ソウエン……お前、どうしたいんだよ……』
力なく俯き、クエンは瞳を揺らす。
何故いつも一人で行ってしまうのか。
〝あの日〟までは、どんな時でも共に在ったのに。
『〝あの日〟も一緒にいたじゃねぇかよ……』
呼びかけても返ってこないという不安は、こんなにも大きいものなのだろうか。
『俺たち、双子なんだよな。ずっと一緒だったよな……?』
クエンは、色
◇ ◇ ◇
吹き荒れていた風が、突如として止んだ。
顔にかかる白髪を払い
『タカトさん、しっかりしてください!』
荒い呼吸を繰り返すタカトから、少しずつ生気が薄れていく。
見つめていることしかできないスニィは、悔しそうに唇を噛み締めた。
ふいに消えた森の声。
魔力を暴発させ、昏倒したタカト。
声が消えたというのに、森の呪縛は不規則に脈を打っていた。
『私は、どうしたらいいのですか……セイラン……』
故郷にいる友人を思い浮かべ、スニィは涙を堪える。
無事だろうか。
彼女の心に不安が
「スニィ!」
聖獣の声が名を呼んだ。
振り返ると、足止めをしたはずのディオウと、リードがいた。
そして、もう一人。
「おー、可愛い子がいるじゃん」
小麦色の肌をした男が、スニィの元へ歩み寄る。
「親父、問題はヴァルトの方だ。水の聖霊じゃない」
あからさまに顔を
ひらひらと手を振りながら、ラスが苦笑する。
「わかってるって。この子だろ?」
『あ、あの……』
タカトを指差す男に、スニィが怪訝そうな眼差しを向けた。
戸惑いを隠せないスニィを見て、ラスは陽気に言い放つ。
「俺、ラス。木の聖霊なんだ、一応っ!」
「一応じゃねぇ! さっさと呪縛を消せ、馬鹿親父!」
「……懲りないな」
ラスを解放してからずっと怒鳴っているリードを、ディオウが半眼で見つめた。
聖霊には癖がある。
それをよく知っているディオウは、能天気なラスへ逐一怒鳴り返しているリードに呆れていた。
己の父親だからこそ、無視できないのかもしれないが。
リードに怒鳴られながら、ラスはタカトの呪縛を指でなぞっていく。
「……これ、俺じゃ消せない」
急に真剣な面持ちになったラスが放った言葉は、その場を凍り付かせた。
鋭くディオウが切り返す。
「面白くない冗談だな」
「悪いけど、今のは冗談じゃない。暴走している力を封じることはできたけど、俺では消せないな」
ラスは首を振ると、その場に
驚き硬直しているリードとスニィに頭を下げ、彼は辛そうな笑みを浮かべる。
「俺は、純聖霊じゃないんでね。できないんだ」
「親父、それも冗談じゃねぇのか?」
「そんな冗談言えるわけねぇだろー……」
息子であるリードですら知らなかった事実は、予想を大きく外れたものだった。
『それじゃ……タカトさんは……』
「早急に森を出るべきだな。今はラスに統括されて大人しくなっているが、いつまた騒ぎ出すかわかったもんじゃない」
「聖獣さーん、言葉にトゲがあるよ、トゲがー」
参ったと言わんばかりに頭を掻いて、ラスは立ち上がる。
「……さて、いい加減出てきたらどうだ、侵入者くん」
「いきなりどうしたんだ……
問いながら、ラスの視線を追ったリードは、驚愕のあまり瞳を見開いた。
巨木の影から現れたのは、三角のとんがり帽子を被った少女。
彼女が持つ瓶の中にいる少女は。
「ピュア!?」
ガラスの壁に両手を当て、ピュアはラスたちに叫ぶ。
「リード、ラス、助けてー!」
その様を面白そうに見つめながら、少女はにやりと
「やっぱばれてましたぁー?」
「えぇ、ばれてましたぁー。……うちの子返せよ」
笑顔で応えたラスの声が、突然低くなる。
少女の足を、大地から現れた木の根が拘束した。
「やーだぁー、この子は次の実験材料ですよぉー。返すわけ、ないじゃん」
しかし少女は、気にする素振りも見せずに舌を出す。
◇ ◇ ◇
丸刈りの頭に黒い布を巻いた青年は、屈んで蒼い
「あったッスよ、先輩」
「見つけちゃったの……?」
先輩と言われた少女が、哀しそうに瞳を揺らした。
見つけて、しまった。
「そうッスね……」
わだかまっていた疑念は確信に変わり、
動かぬ証拠を右手に握り締めながら、青年は空を仰ぐ。
黒雲が
第48記 足枷
真夏の宵に響く雨音。
瓦[ を叩くその音色に耳を傾けながら、ユウは伏せっている兄を見つめた。
昼過ぎには時折笑顔を零[ していたというのに。
生気のない表情を見る度に、ユウは拭い去れない不安を胸に抱く。
「私は……治療師です……」
そう何度自身を奮い立たせただろうか。
数多の薬草を扱え、幾多の傷を癒してきた治療師であっても、治すことができないものも、ある。
目の前には患者がいて、傷を抱えているのに何一つできない自分。
その無力さを突きつけられたのは、今回だけではない。
あの日も、あの時も。
悔しさに唇を噛み締めた時、扉が開かれる音がした。
顔を上げた彼女の前に現れた男は、紅い双眸を険しくさせる。
「ユウ、あの日の出来事を、覚えているか」
一つ一つ確かめるように問う男に、ユウは微かに頷く。
「始まって……しまったのですね……」
「いずれ訪れるものだった」
もはや、動き出した歯車を止めることはできない。
表情を変えることなく、男は眠るアキラを見つめた。
「アキラは…… 」
雨音に呑まれた言葉は、ユウの中で覚悟の二文字に変わる。
兄の枕元から立ち上がった彼女は、一族を束ねる男と共に、家を後にした。
ふわりと風にアキラの髪が揺れた。
ただ一人横たわる彼を眺め、現れた影は一つ伸びをした。
「こりゃまた重症で」
涙目になった影は、だるそうに頭を掻く。
「リハビリなしでいきなりこれかよー。ったくよぉ……」
闇に墜ちている青年の額に、影がそっと右手を当てた。
竹格子にはめられたガラスが、かたかたと身を揺らす。
「人使いあれぇんだよ、あのババァ」
静かな民家の一部屋で、影は不敵に微笑んだ。
◇ ◇ ◇
気を失っていた少年のアレノスは、重い瞼を開いた。
先刻身体を切り刻んだ、あの痛い魔力は何処にもない。
のろのろと首を動かすと、捕らえたはずの贄[ と捕らえるはずの贄が、一カ所に固まっていた。
しかし獲物を見据えようとした視線は、別の対象に囚われる。
歓喜のあまりに飛び起き、アレノスは両翼を羽ばたかせた。
「は、ハーネットサマ!!」
三角帽子を被った少女が、名を呼ばれ口端を吊り上げる。
少女の傍らに降り立ったアレノスは、声高らかに言い放った。
「ヒヒヒ、オマエラ終わりだ!! イヒヒ!」
「ご苦労さまぁ」
「ヒヒヒ……!?」
驚愕に凍り付くアレノスの両眼に映った麗しき主君は、温かく微笑んでいた。
前触れもなく、音もなく、羽 は飛び散った。
それの両翼を覆っていた赤い羽だけが、傍観者たちの頬を掠める。
嫌悪感を露[ わに、森の主ラスは言った。
「部下じゃねぇのか?」
「ぷっ、部下? ミーの部下ぁ? あは、あはははっ! 笑わせてくれるんだねー、半端モノのくせにさ」
「……」
ほんの一瞬。ラスの顔が陰る。
リードは、父親の僅かな動揺を見逃さなかった。
「お……や……」
親父、と。
たったそれだけの言葉が出ない。
らしくない。何故そんな顔をするんだ。
ラスの表情は怒りでも痛みでも辛さでも、どの色でもなく。
無色が表す感情は、ラス自身を縛り付けていた。
「あ……ひょっとして、気にしてたり、とかしましたぁ? ミーったら、正直者でごめぇん」
「てめ……! ピュアを返せよ!」
「エルフはさぁ……。役立たずなんですよねぇ」
すっと目を細め、ハーネットは右手の人差し指を唇に当てる。
「てめぇの役に立つ気なんかねぇよ。ピュアを返せ!」
「だからさぁー。これはぁー、次のアレノスの実験だ~いになるのでーす、ってさっきっからそう言ってんじゃん?」
「ふざけんな、ピュアを」
「リード」
冷え切った声が、リードの言葉を遮る。
「親父、何で……!?」
顧みた息子に対し、ラスはただ首を横に振った。
「そうそう、物わかりいいですねー、聖霊は。実験台にもならないエルフとは大違いっ」
「屈め! 当てられるぞ!」
純白の毛並みを逆立て、ディオウが怒鳴る。
刹那、黒光りを伴う魔力が爆発した。
不快な熱気を纏った風が、木々を吹き荒らす。
巻き上がった砂塵の向こうに、ハーネットの姿はない。
「ピュア!?」
「せっかく見つけた珍しい聖霊、返すわけあーりませ~ん」
声だけが、森に反響している。
姿を探そうと試みるも、気配の片鱗すら感じられない。
「じゃ、ご挨拶はこれくらいにして、ミーはラボに戻りますぅ~」
「やだ、リード! リード、りー…… 」
「ピュア!? 返事しろ、ピュア!!」
一度途絶えた声は、いくら呼びかけても応えない。
森に木霊するのは己の声のみで。
失ったという現実が突き刺さる。
「っ! ちっくしょぉお !!」
慟哭は、雨止まぬ空を切り裂いた。
◇ ◇ ◇
草を踏む足音に、ラキィは背後を振り返る。
その先にいたのは、右肩に黒い布を羽織った若い男。
緋色の長髪を風に流し、彼は鋭い目つきでラキィを見下ろす。
「おい、小動物」
「な、何よ……」
「銀髪の男、見なかったか?」
後退るラキィを気にも止めず、目的だけを訊く。
漂う魔力の冷たさに、ラキィは身震いをした。
「し……知らないわよ、そんな人っ」
「ちっ……」
舌打ちして男は身を翻し、会いたくない姿を思い浮かべて、毒突いた。
「何暴れてるんだよ、あの野郎……!」
二人が出会ってしまう前に、伝えなければならない。
彼が真実を知る前に、渡さなくてはならないものがある。
それを届けるために、生きてきたのだから。
◇ ◇ ◇
「何で! 何で親父何もしなかったんだよ!?」
「木々[ を犠牲にしてまで、捕らえることはできねぇよ……」
「ピュアだって家族だろ!?」
詰め寄る息子に、ラスは口をつぐんだ。
聖霊として、この地を預かってからできたものは、家族と足枷。
蠢[ く怒りは己の中に封じ込め、突き出した拳は腹の中で噛み砕く。
統治者である以上、私情に囚われ、森[ を危険にさらすわけにはいかないのだ。
その重みを、リードは知らない。
知らせる必要もないと、ラスは思っていた。
「何で、何で……!」
「殴りたかったら、殴れ」
それで気が済むのなら、いくら殴られようと構わない。
しかし、リードは俯いて首を振る。
「馬鹿親父を殴っても、ピュアは戻らねぇよ……」
涙を浮かべつつも、決して手を上げようとしないリードに、ラスの罪悪感は嵩を増した。
すまない。必ず、家族は助けるから。
自身の力だけでは確約できない想いを抱き、ラスは息子の頭をそっと撫でた。
親子のやりとりを尻目に、ディオウは空を仰いだ。
ハーネットが消える瞬間、何か空にいたような気がしたのだ。
「気のせいか……?」
落ちてくるのは雨滴のみ……ではなく。
舞い降りてきた一枚の羽を見て、両眼に剣呑さが宿った。
「この羽は……。まさか、な……」
「そのまさかだと思うぜ?」
独り言に返ってきた声に、ディオウは顔を上げる。
左手で緋色の前髪を掻き上げ、現れた男は嘆息した。
「相変わらず、小鳥サイドは情報力が乏しいんだな」
「貴様……この森に何をしに来た?」
常人が此処まで来れるはずがない。
鋭い眼光を向けるディオウに、彼は臆することなく答える。
「人捜しだよ。……ここにはもういねぇみてぇだけどな」
「こんな森に人捜しだと?」
「あぁ。銀髪の男を、な……」
男の胸元で髑髏の首飾りが揺れる。
まるで涙を流してるかのように。
髑髏は、雨に打たれていた。
昼過ぎには時折笑顔を
生気のない表情を見る度に、ユウは拭い去れない不安を胸に抱く。
「私は……治療師です……」
そう何度自身を奮い立たせただろうか。
数多の薬草を扱え、幾多の傷を癒してきた治療師であっても、治すことができないものも、ある。
目の前には患者がいて、傷を抱えているのに何一つできない自分。
その無力さを突きつけられたのは、今回だけではない。
あの日も、あの時も。
悔しさに唇を噛み締めた時、扉が開かれる音がした。
顔を上げた彼女の前に現れた男は、紅い双眸を険しくさせる。
「ユウ、あの日の出来事を、覚えているか」
一つ一つ確かめるように問う男に、ユウは微かに頷く。
「始まって……しまったのですね……」
「いずれ訪れるものだった」
もはや、動き出した歯車を止めることはできない。
表情を変えることなく、男は眠るアキラを見つめた。
「アキラは……
雨音に呑まれた言葉は、ユウの中で覚悟の二文字に変わる。
兄の枕元から立ち上がった彼女は、一族を束ねる男と共に、家を後にした。
ふわりと風にアキラの髪が揺れた。
ただ一人横たわる彼を眺め、現れた影は一つ伸びをした。
「こりゃまた重症で」
涙目になった影は、だるそうに頭を掻く。
「リハビリなしでいきなりこれかよー。ったくよぉ……」
闇に墜ちている青年の額に、影がそっと右手を当てた。
竹格子にはめられたガラスが、かたかたと身を揺らす。
「人使いあれぇんだよ、あのババァ」
静かな民家の一部屋で、影は不敵に微笑んだ。
◇ ◇ ◇
気を失っていた少年のアレノスは、重い瞼を開いた。
先刻身体を切り刻んだ、あの痛い魔力は何処にもない。
のろのろと首を動かすと、捕らえたはずの
しかし獲物を見据えようとした視線は、別の対象に囚われる。
歓喜のあまりに飛び起き、アレノスは両翼を羽ばたかせた。
「は、ハーネットサマ!!」
三角帽子を被った少女が、名を呼ばれ口端を吊り上げる。
少女の傍らに降り立ったアレノスは、声高らかに言い放った。
「ヒヒヒ、オマエラ終わりだ!! イヒヒ!」
「ご苦労さまぁ」
「ヒヒヒ……!?」
驚愕に凍り付くアレノスの両眼に映った麗しき主君は、温かく微笑んでいた。
前触れもなく、音もなく、
それの両翼を覆っていた赤い羽だけが、傍観者たちの頬を掠める。
嫌悪感を
「部下じゃねぇのか?」
「ぷっ、部下? ミーの部下ぁ? あは、あはははっ! 笑わせてくれるんだねー、半端モノのくせにさ」
「……」
ほんの一瞬。ラスの顔が陰る。
リードは、父親の僅かな動揺を見逃さなかった。
「お……や……」
親父、と。
たったそれだけの言葉が出ない。
らしくない。何故そんな顔をするんだ。
ラスの表情は怒りでも痛みでも辛さでも、どの色でもなく。
無色が表す感情は、ラス自身を縛り付けていた。
「あ……ひょっとして、気にしてたり、とかしましたぁ? ミーったら、正直者でごめぇん」
「てめ……! ピュアを返せよ!」
「エルフはさぁ……。役立たずなんですよねぇ」
すっと目を細め、ハーネットは右手の人差し指を唇に当てる。
「てめぇの役に立つ気なんかねぇよ。ピュアを返せ!」
「だからさぁー。これはぁー、次のアレノスの実験だ~いになるのでーす、ってさっきっからそう言ってんじゃん?」
「ふざけんな、ピュアを」
「リード」
冷え切った声が、リードの言葉を遮る。
「親父、何で……!?」
顧みた息子に対し、ラスはただ首を横に振った。
「そうそう、物わかりいいですねー、聖霊は。実験台にもならないエルフとは大違いっ」
「屈め! 当てられるぞ!」
純白の毛並みを逆立て、ディオウが怒鳴る。
刹那、黒光りを伴う魔力が爆発した。
不快な熱気を纏った風が、木々を吹き荒らす。
巻き上がった砂塵の向こうに、ハーネットの姿はない。
「ピュア!?」
「せっかく見つけた珍しい聖霊、返すわけあーりませ~ん」
声だけが、森に反響している。
姿を探そうと試みるも、気配の片鱗すら感じられない。
「じゃ、ご挨拶はこれくらいにして、ミーはラボに戻りますぅ~」
「やだ、リード! リード、りー……
「ピュア!? 返事しろ、ピュア!!」
一度途絶えた声は、いくら呼びかけても応えない。
森に木霊するのは己の声のみで。
失ったという現実が突き刺さる。
「っ! ちっくしょぉお
慟哭は、雨止まぬ空を切り裂いた。
◇ ◇ ◇
草を踏む足音に、ラキィは背後を振り返る。
その先にいたのは、右肩に黒い布を羽織った若い男。
緋色の長髪を風に流し、彼は鋭い目つきでラキィを見下ろす。
「おい、小動物」
「な、何よ……」
「銀髪の男、見なかったか?」
後退るラキィを気にも止めず、目的だけを訊く。
漂う魔力の冷たさに、ラキィは身震いをした。
「し……知らないわよ、そんな人っ」
「ちっ……」
舌打ちして男は身を翻し、会いたくない姿を思い浮かべて、毒突いた。
「何暴れてるんだよ、あの野郎……!」
二人が出会ってしまう前に、伝えなければならない。
彼が真実を知る前に、渡さなくてはならないものがある。
それを届けるために、生きてきたのだから。
◇ ◇ ◇
「何で! 何で親父何もしなかったんだよ!?」
「
「ピュアだって家族だろ!?」
詰め寄る息子に、ラスは口をつぐんだ。
聖霊として、この地を預かってからできたものは、家族と足枷。
統治者である以上、私情に囚われ、
その重みを、リードは知らない。
知らせる必要もないと、ラスは思っていた。
「何で、何で……!」
「殴りたかったら、殴れ」
それで気が済むのなら、いくら殴られようと構わない。
しかし、リードは俯いて首を振る。
「馬鹿親父を殴っても、ピュアは戻らねぇよ……」
涙を浮かべつつも、決して手を上げようとしないリードに、ラスの罪悪感は嵩を増した。
すまない。必ず、家族は助けるから。
自身の力だけでは確約できない想いを抱き、ラスは息子の頭をそっと撫でた。
親子のやりとりを尻目に、ディオウは空を仰いだ。
ハーネットが消える瞬間、何か空にいたような気がしたのだ。
「気のせいか……?」
落ちてくるのは雨滴のみ……ではなく。
舞い降りてきた一枚の羽を見て、両眼に剣呑さが宿った。
「この羽は……。まさか、な……」
「そのまさかだと思うぜ?」
独り言に返ってきた声に、ディオウは顔を上げる。
左手で緋色の前髪を掻き上げ、現れた男は嘆息した。
「相変わらず、小鳥サイドは情報力が乏しいんだな」
「貴様……この森に何をしに来た?」
常人が此処まで来れるはずがない。
鋭い眼光を向けるディオウに、彼は臆することなく答える。
「人捜しだよ。……ここにはもういねぇみてぇだけどな」
「こんな森に人捜しだと?」
「あぁ。銀髪の男を、な……」
男の胸元で髑髏の首飾りが揺れる。
まるで涙を流してるかのように。
髑髏は、雨に打たれていた。